尖閣諸島の領有権問題
尖閣列島探検記事(承前)
地學雑誌・第12輯頁第141巻01・明治33年09月(528頁〜543頁)
尖閣列島探險記事承前・黒岩恒
尖閣列島探檢記事 (承前)
黒岩 恒
地質は古火山岩なる閃?岩を土臺として、其の上に層畳せる砂岩より成り、沿岸處々珊
瑚石灰岩の?附けを見る閃?岩の露出は、閃?角に始り、南側に沿ふて大に發達し、一旦
跡を滅して再ひ安藤岬(アントウウサキ・沖縄県師範学校長安藤喜一郎氏に因む)に露出
す。岬以東は、沿岸處々に露頭し、以つて東岬(アガリサキ)附近に至る、要するに此の
閃?岩は各處箇々に噴出せしものにあらずして、一連共體のものなり、唯だ或る處は水
面下に隠れ、或る處は他岩に蔽はれ、其の結果かくの如くなりしのみ、東岬附近に露出
するものは、角閃石の結晶極めて美麗なり。
砂岩は本島地体の九割を占むるものにして、第三期に屬し、北に向つて十度乃至二十
度の傾斜を有す。此の層の下部に於て厚さ二三寸なる含炭層を見る。和平泊及び道安
溪附近の如き是なり。又此の砂石は下部に於ては、稍細粒なるも、上部に於ては疎粒と
なり、遂に蠻岩様に移推するを見る、屏風岳の如き是なり。
又此の砂岩は、堅實なるにも拘らず、裂割し易きを以つて、絶崖より崩壊墜落するも
の、年々絶へず。屏風岳下の沿岸の如きは、屋大の岩塊算を亂して散立せり、又和平泊
なる小舎の如き、本年三月岳頂より墜落せる岩塊の爲に、殆んど壓壊せられんとして僅
に免れ居れり、地震は云ふ迄もなし、霖雨の後は一層危險なれば、将來移民あるの暁、
宜く注意して、此の方面に家屋を構ふるか如きことなかるべきなり。
珊瑚礁は洪積期のものにして、其最発達せるは、島の東北岸、即東岬より北の岬に至る
の間に在り、此間に於ては、幅八十メートル内外を以て、平衍なる?附をなせり、初余等
の上陸せし點は島の東北部なる道安渓の西の方にして、?船は岸に接して進み來り、水
深十二三尋(底質稍佳)の位置に投錨せり、時正に五月十二日午後四時なりき、上陸者
は古賀辰四郎氏、八重山島司、野村道安氏、及余なり、本船は今夕再黄尾嶼へ向け出
帆の手筈なるを以て、兩氏は只暫時の上陸なりき、余は彌々島地の探檢に決心し、教導
(伊澤氏)一名人夫三名を以つて探檢隊を組織せり、?船は明後十四日を以て、余等収容
の爲、再回航し來るの豫約なり、余は惑へり、かヽる無人の一大島を目前に控へたるに
も拘はらす、探檢の日子は僅に一日なり、如何なる方針をとるべきや、植物を探らんか、
地質を見んか、動物を採集せんか、かヽる僅少の日子に於ては、地質を先にし、植物こ
れに次くの利あるを自認し、先沿岸を一周して地盤構造の大略を檢し、尚時間に餘裕あ
らば、中央を縦横に横断せんと覺悟せり、携ふ所の物品は、砕鑛鎚、植物採集器具の類
にして、食料は米及味噌、寝具は僅に一枚の毛布なり、先進路を西廻りと定め、彌結束
上途せしは午後五時過きなりき、前已に云へる如く、上睦點附近は、一面の珊瑚礁にし
て、常に水面に露出し表面は参差凹凸針山啻ならさるの勢を呈し、措足最も苦しむ、本
島は八重山列島と臺灣との間を通過する黒潮の激衝する所なれば、竹木其他の漂着物
礁上に散布せり、信天翁の雛亦稀ならず、北岬(キタサキ・新稱)は砂岩の高く海に迫れ
る所にして、本島北面の沿岸を中分するの位置に在リ、岬以東の沿岸には、平かなる珊
瑚礁の?付大に発達せるも、岬以西には殆どこれあるなく、加ふるに磊々たる大岩塊、
水?に密布し、通行極めて苦し、岬西少許にして、砂岩層の北十度の傾斜を以て、漸次海
中に消入する所あり、面砥の如く、時に高浪の濯ふ所となるを以て、一の草樹を着げず、
名けて千疊岩と云、土佐國龍串(タツクシ)の磯に於ける、第三期砂岩に千疊敷なるもの
あり、此地の景光大にこれに類するものあり、蓋し傾度少き第三期砂岩に通有の現象に
して、奇とするには足らさるなり。岬以西尾瀧溪に至る一帯には、水流と稱すベきもの稀
なれども、到る處清水の岩隙より滴出するを見る。 此海岸の山中には漂着者の白骨あ
りと云(人夫の供述による)。日?に西溟に没し、暮色蒼然、この無?の亡者を弔ふ能はさり
しは遺憾なりき。夜に入り教導・伊澤、岩崖より仰墜す。生命に別條なかりしは此行の幸
なリ。午後七時過き尾瀧溪に着す、此地古賀氏の設けたる小舎一二あり。屋背屋壁皆
蒲葵葉を用ゐ、床は「譏P」の葉柄を編みたるものを下面に張り、其上に蒲葵席を敷く。
但し冬期信天翁捕獲の爲に設けたるもの、探檢隊觀迎用としては不足なし。素り弧島の
空屋に夜中突然の侵入なれば蛛網屋に満ち、黴臭鼻を衡き來る。燈火を點せんと欲す
るも油なく、飯を炊んとするに薪なし。只だ尾瀧溪の下流潺溪の響ありて、頗ぶる人意を
強ふせり、梶Xに人夫を山中に派して、暗中に薪柴を採らしめ、余亦沿岸に漂着せる竹
木を拾ひ來りて晩餐を了せり。余か今迄徑過し來りたる方面は、本島に於ける最水流に
富める所なり、かの海圖に、淡水ありとの記入あるは此方面を斥したるものならん、我永
康丸の如き、道安溪の下流を汲めり、艦船にして百メートルの布管 (Hose) を用意したら
んには、珊瑚礁に端艇を横付けし置きて、かの處々に溜れる小池の清水を汲取るを容易
なりとす、尾瀧溪は海岸に於て懸りて小瀑をなす、竹管を以て之を導き來り、かの小舎の
用水に充つ、頗る清冽なり、舎前一帯の白砂あり、主として珊瑚の破片より成る、沙丘に
蔓荊樹の繁延する状は、他の琉球列島に異ならず、此白砂は直ちに海水に接するにあ
らずして、尚一帯の珊瑚礁ありて此外面を囲めり、石澤兵吾の報告書に魚釣島の西南
濱、少しく白砂を吹寄云々は、蓋し此處を指したるものなり、何となれば、本島には此處
の他絶へて沙濱なければなり、冬期に在りては此邊一面に信天翁を見るといふ、 十三
日の朝に至り、信天翁三羽を生捕れり、かかる困難なる旅行、而も一刻千金の時日、剥
製に着手すべきにあらず、生ける儘、嘴と翅及脚を縛り、人夫をして負擔せしめて出發
す、西岬(イリサキ)の險崖には昇降に供する爲、長大なる梯子を上下二段に架設せる
も、半腐朽し極めて危險なり、岬を距る小許にして、始めて閃?岩の海岸に露出するを見
る、水成岩に厭き果てたる眼には頗ぶる愉快を感し、數箇の標本を?にせり、此處一の小
岬をなす、之を閃?角とす(新稱)内に一小曲灣を見る、断崖壁立、舟するにあらざれば訪
ふべからず、角の東亦一の棧道あり、梯して通すべし、梯下の海濱は閃?岩の亂散せる
險處なるも須臾にして再珊瑚石灰岩の?附地に入り、以て和平泊(ワヘイトマリ・新稱)に
達すべし
和平泊は本島南岸の中央に在る小灣にして、安藤岬其左方に斗出し、浪穏かなるとき
は、辛ふして一艘の伝馬船を出入し得べきも、安全の地にあらず、?船は沖の方二百メー
トルの地に繋れり、水深十四五尋なり。
和平泊は、余等か爲には第二の宿泊所にして、三ヶの小舎を存す、結構稍佳なり、仰て
蒼穹を望めは、奈良原岳峨々として空際に聳へ、洋流上を亘る濕風を凝縮して、時に雲
髪を着く、岳の左方なる小溪(水なし)に沿ふて攀つるときは、頂上に達し得べし、舎の東
の方、海に接して湧水あるも、水力強からず(永康丸は此の水をも汲取れり)、清冽の評
を下す能はさるなり、此夜八時過き、不意に?笛の響を聞く、本島に近き來るものヽ如
し、?船回航の約束日にあらさるを以つて之を訝りしも、先信號をなすに決し、烽火を挙け
んとするに燃料なし、乃ち窓扉の一部を取外して之に點火したり、此信火か意外の効を
奏したること、後にて明燎となれり、暫くして上時(間違い→陸)者あり(玉城氏)始めて永庚
丸が風波を避けて比島陰に航し來りしを知れり、和平泊は本島に於ける藻類の好採集
場にして、余か一時間を割愛してなしたる標品十六種に上れり)。
翌十四日は、彌本島引上げの當日なれば、島の東半部を巡らんと欲し、梶X刳舟を艤装
せり、蓋し和平泊は西廻り路の最終點にして、以東安藤岬の突出、和蘭曲(オランダマガ
リ)りの曲入は、陸上の通行を許さヽればなリ、安藤岬端には閃?岩の節理によりて生した
る一大岩洞あり、潮頭の去來する所白雲を吐呑し、景象甚た豪宕なり、之を尖閣列島中
の一奇景となす、和蘭曲りより東岬に至る沿岸一帯は、屏風岳より崩落し來れる岩塊を
以て埋め、行進の困難なる、實に南島無比と稱すベし、東岬の珊瑚礁上一軒の小舎あ
れ共、水流なきを以て、礁上に溜れる雨水を用ゐさるを得ず、岬の北方鑛泉の湧出地あ
り、砂岩の層間より出つるものにして鐵泉に屬す、湧出少きにあらず、空しく洋中に注潟
し去るは惜むべきの至りなりとす、余は沿岸一周の後、道安溪と大溪との中央より、奈良
原岳の東方に向ひて横斷の線路を取り、以て本島の探檢を梶Xの間に終了せり。
○尖閣諸嶼
尖閣諸嶼 (Pinnacle group)は釣魚嶼の東方に位する二小島と、数箇の拳石を総稱する
ものにして、釣魚嶼への最近距離は僅々三哩半斗、黄尾嶼へは十三哩を隔つ、二小島
中東南に在るを南小島と云ひ、西北にあるを北小島と云ふ、沖縄人の間には「シマグヮ
ー」を以て通す、蓋し小島の義なり、兩島の間に幅二百メートルの水道あり、これを「イソ
ナ」の瀬戸と云(新稱)、流潮は常に北に向ふて走るを以て、峡間を溯上するは容易の業
にあらず、南小島の西岸に伊澤泊(新稱)あリ、僅に小舟一二艘を容るる余地あるも、港
口は黒潮の激衝を受け浪高きの失あリ、探檢の?船は、兩島の陰にして潮勢の平穏なる
位置に繋れり、水深は五六尋なり。
此諸嶼の地質は如何、余は悉皆回査せしに非さるも、南北二小島の要部に就きて観察
する時は彼水路志に記載せる如き玄夫岩ならずして、實に近古代の砂岩なり、南小島の
西部に於ては、此砂岩は北四十度の傾斜を有し、緻密部と粗粒部と、交互相層畳するを
見る、北小島は地層の変位南の小島に比すれは逡に小に、北端なる三層岩(新稱)の如
き、船中よリ望見すれば殆水平の層なり、珊瑚礁は南小島の北岸に於て大に発達し、北
小島に少し伊澤泊なる小舎の後面に一大岩洞あり、砂岩の層間より摘出する水一種の
酸味を有す、北小島の南側にては仝種の水流れて小溪をなし、之を掬するも酸味多くし
て飲むに堪へず、帰來之を化学者に質すに多量の塩酸を有し硫酸亦反応中に在リと云
へり、暫く記して後の研究を待んのみ。
此兩島は全く岩骨より成リ、草木極めて少なく顕花植物の数僅に二十種に過きず、寰瀛
水路誌に、二三の項には長草を生す云々とあるは「ノビエ」を指したるものなること明な
り、此草、鳥糞の爲に非常に長育し、實に本島植物界の大半を占む、
尖閣或は尖頭なる名稱は本島の處々に見る所の突岩に基くものにして、南小島の東部
に屹立する者頗る大なり、余は之に新田(ニツタ)の立石(タテイシ)なる名稱を附せリ、(仝
僚教諭・新田義尊氏に因む)又北小島の西端なる三尊岩(サンソンイワ)(新稱)の如きも、
尖閣の名に負かさるなり、島の沿岸小岩洞多く、北小島の東岸に在るもの稍大、洞中時
に赤尾熱帯鳥を見ると云、南小島の洞中には蛇多くして鳥卵を食ふと云、共に行き見る
の期なかりき、本島と釣魚嶼との間の海面は水道岩(Channel Rock)によりて二分せらる
東の水道は水路誌に水深十二尋を以て記述せられたるもの西の水道は恐くは大船の通
航には危險多かるべく今回の探檢船永康丸の如き此水道の中央より少しく釣魚嶼に近
つきて航走せし爲船底微かに暗礁を摩せり余は紀念の爲、本礁を永康礁と名つけ此水
道を佐藤水道(船長佐藤和一郎氏に因む)と稱せリ。
本島に関する内外水路誌の記文を掲け本篇を読むものの参考に供すべし、
○日本水路誌第二巻の記文に日く
ピンナクル諸嶼(尖頭諸嶼)
此諸嶼は礁脈及百尋堆を以てホアピンスと連続し、是と水道岩との間に水深凡十二尋
の水道を存す、此諸嶼は元來堅實なる一塊の鼠色柱石より突起したる後、分裂破砕して
幾多の尖岩となるものの如し、而して此等の尖岩は一たひ暴風若くは地震に遇はゞ忽崩
壊せんとするの観あり
○英海軍水路誌支那海第四巻の記文に日く
The Pinnacle group consists of that rocks and needle-shaped pinnacles of gray
basalt, on which grass is the only vegetation. standing on the reef, which has deep
water on it in places, and extends 6 miles eastward and 4 miles northward from
Hoapinsu. The islands of this goup are frequented by great numbers of frigate birds,
boobies and tern.
釣魚嶼及尖閣諸嶼の生物界
此等の諸島に來れるものは、先鳥類の多きに驚くなるべし、鳥類の多きは箇数の多きに
在りて種屬の多様なるにはあらず、寒季に群集し來れるは信天翁屬にして「アホウドリ」
(Diomedea albatros)及ひ「クロアシアホウドリ」(D.urgripes)の二種なり、此鳥、釣魚嶼に
多く、東岬及尾瀧溪の近傍に集り來り、幾万を以て算するに至る、暖季には多数は去つ
て跡なきも、尚少許の遺留者なきにあらず、暖季最多きは「セグロアジサシ」(Sterna
fulginosa)及ひ「クロアジサシ」(Anous stolida)にして、後者には「イソナ」の方言あり、余
か着島の節は産卵の期節にして、南北の小島に群集するもの、幾十万を以て算すべし、
これ英語に所謂 Tern なるものにして、尖閣の諸嶼に限り、釣魚黄尾等の諸嶼に見ず、
其空中を飛翔するや、天日爲めに光を減するの観あり、寰瀛水路誌記して、其鳴声殆ん
と人をして聾せしむと云へるは、誠に吾人を欺かさるなり、若し夫れ閑を倫みて北小島の
南角に上らんか、幾万の Tern は驚起して巣を離れ、「キャー、キャー」てふ鳴声を発して
頭上を翻翔すべく吾人若岩頭に踞して憩はんか、空中にあるもの漸次下り來りて吾か周
辺に群集し、仝類以外復怪物あるを知らさるものの如く、人をして恍然自失、我の鳥なる
か、鳥の我なるかを疑はしむ、此景此情、此境遇に接するにあらされば、悟り易からさる
なり、「オサドリ」(Sula lencogastra)亦多く、前者の間に伍して産卵す、「ムカヒドリ」の方
言あるもの是なり、其他釣魚嶼の東岬には雀の棲息するを見、山申「ヒヨドリ」の声を聞
けり、標品なきを以て、妄りに種名を掲くるを欲せず、
又釣魚嶼に多くして、吾人を苦ましむる者は蚊及ひ一種の青蝿なり、(近時信天翁採獲
の爲この青蝿大に発生せるものの如し何となれは毎年投棄せる数万の屍体あればなり)
此蝿軍の來襲は實に五月蝿の極點にして、数万の大群其声耳を劈き昼間に於ては到底
安全に食事を了するの望なし(夜間は此大群去て跡なし)、余は食事前に於て鳥類を殺
し、其屍体を切断して数ケ所に散布し、蝿軍を此方面に進行せしめて始めて稍安穏なる
を得たり、後の渡島者警戒して可なり、植物には未特有と稱すべきものあるを知らす、左
れど其分布に就きては、多少調査の価値なくんばあらず、第一本列島に通有の事實にし
て、他の琉球諸島と大に異る所は本列島には松(沖縄松に限らすPinna屬すへて無し)蘇
鉄の皆無なることなり、阿且樹の如きも甚少く、植物帯に於ては、八重山列島と大に異る
所あり、今余か釣魚嶼及尖閣諸嶼に於いて採集せし植物を掲け、斯学に志あるものの
参考に資せんとす、
List of Plants collected in the Pinnacle Islands 1900
By H. Kuroiwa
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