尖閣諸島の領有権問題
「参考資料(1) 論文・書籍31」
世界の領土・境界紛争と国際裁判
外交交渉と司法的解決の採用を目指して
金子利喜男
_________________________________________− 目次 −________________________________________
はしがき…3
凡例と参考文献…13
序文に代えて−日ロ民間共同宣言について−…15
第1部日本の領土問題の沿革
はじめに 24
第1章 日ロ間の領土問題―北方領土をめぐって―…26
1 千島の先住民族と黎明期の交流 27
2 日露間の初期の領土関係条約 33
3 第2次世界大戦直後と北方領土問題 41
4 サンフランシスコ対日講和条約 43
5 日米安保条約と高まる北方の壁 46
6 80年代後半の一条の陽光 50
7 国際裁判に注目 51
8 アイヌ民族の動き 53
9 ゴルバチョフ大統領の訪日と領土問題 55
10新生ロシアと司法的解決案 57
11訪日準備委員会の司法的解決構想 59
12エリツィン訪日後の不透明感 62
13北方領土と諸外国との経済貿易関係 64
14クラスノヤルスク会談と川奈会談 66
15モスクワ会談まえの小渕首相への書簡 67
16アイヌ民族の先住権の要求 76
17司法的解決の賛同者の増加 78
18閉塞感から国際民間法廷設立準備に決起 82
19プーチン大統領と森首相仕切り直し 88
第2章日中間の領土問題―尖閣諸島をめぐって―…97
1 紛争の経過の概要
2 中国側の主張 98
3 日本側の主張 99
4 中華民国側の主張 101
5 その後の経過 102
第3章日韓間の領土問題―竹島問題をめぐって―…107
1 紛争の経過の概要 107
2 当事国の主張 108
3 日本の国際司法裁判所付託提案 110
4 国際司法裁判所付託提案の韓国による拒否 111
5 その後の経過 112
第2部 係争諸島の平和地帯化
第4章永世中立・平和地帯化構想の系譜…116
1 軍事的対立と絶壁の国境 116
2 非軍事・中立化から平和地帯へ 117
第5章平太地帯と積極的平和の樹立…120
1 平和地帯の内容 120
2 問題解決を促進する非軍事化 121
3 予備的アンケート調査では非軍事化を支持 122
44 係争諸島平和地帯化日本民間宣言 123
第3部 領土・境界紛争の解決方法
はじめに 126
第6章外交交渉の無果実の原因…128
1 紛争当事者の民族主義的施行 128
2 東アジア・ロシアの政治・地政学的風土 129
3 国際法治社会の軽視 131
4 一方的または双方の独善的判断 131
5 互譲の精神の欠如 133
6 一般市民と外交当事者の感覚のずれ 134
第7章紛争解決の義務…137
1 政治的ゲームに踊る外交交渉 137
2 合意達成の義務 139
3 問題解決に展望があるか 140
第8章司法的解決…142
1 錯綜する理論の複雑さ 142
2 国際司法裁判所の判決と勧告的意見 143
3 国境画定のさいの苦悩とその緩和借置 144
第9章司法的解決の友好的選択…146
1 より合理的な解決方法 146
2大いなる誤解 147
第4部 領土・境界紛争の判例研究
はじめに―国境問題の判例史 150
第10章 紛争の発生と要求の拡大…159
1 東部グリーンランドの法的地位事件 163
2 プライミ・オアシス事件 168
3 メイン湾境界画定事件 170
第11章 一方または双方の独善的判断…174
4 大陸棚境界画定事件 179
5 チュニジア・リビア大陸棚事件 183
6 リビア・マルタ大陸棚事件 187
7 グリーンランドとヤン・マイエン間海域境界事件 191
第12章 司法的立法と国際法の発展…191
8 南西アフリカの地位事件 195
9 南西アフリカ事件 197
10ナミビア事件 197
第13章 外交交渉と他の平和的解決手段…200
11トルコ・イラク境界事件 202
12アールー山事件 204
13北海大陸棚事件 206
14西サハラにかんする勧告的意見 210
15リビア・チャド領土紛争事件 212
第14章係争地からの軍隊の撤去…216
16ホンジュラス・ニカラグア国境事件 218
17カッチ事件 220
18マリ・ブルキナファン国境紛争事件 224
第15章外交交渉失敗の場合の国際裁判…228
19ボリビア・ペルー国境事件 232
20ウォルフィッシュ湾地区境界事件 234
21グアテマラ・ホンジュラス国境事件 238
22チャコ事件 241
第16章 外交交渉と国際裁判の同時進行 244
23カステロリゾ島とアナトリア海岸間領海画定事件 245
24エーゲ海大陸棚事件 247
25カタール・バーレーン間海洋画定と領土問題事件 251
26カメルーン・ナイジェリア間の陸地と海洋境界事件 255
第17章 決定的期日…258
27アラスカ国境事件 261
28バロッツェランド国境事件 261
29パルマス島事件 266
30アルゼンチン・チリ境界事件 270
31エジプト・イスラエル間タバ地区境界事件 272
第18章 放棄、錯誤と国境の安定性―千島列島との関連で―…274
32北大西洋沿岸漁業事件 276
33チモール島事件 280
34国境地区の主権にかんする事件 285
35プレア・ビヘア寺院事件 287
第19章 条約の履行義務―日ソ共同宣言との関連で―…289
36タクナ・アリカ事件 290
第20章 先占と実効的支配―竹島と尖閣諸島との関連で―…292
37ギアナ境界事件 294
38クリッパートン島事件 296
39マンキエ・エクレオ諸島事件 298
第21章 島にかんする判例…300
40グリスバダルナ事件 302
41クレタ島とサモス島の灯台の事件 306
42ビーグル海峡事件 308
43領土・島・海洋境界の紛争にかんする事件 310
第22章 判決の履行―不履行はわずか…314
44エル・チャミザル事件 318
45コスタリカ・パナマ国境事件 322
46コロンビア・ベネズエラ国境事件 325
47仲裁判決(1989年)事件 327
第5部 世界市民法廷の創建
第23章 世界市民法廷の構想と特徴…330
第24章 世界市民万民の簡易提訴事件…334
むすびに…345
資料編…351
凡例と参考文献
1.本書の文中の太字および〔 〕内の分は、すべて金子によるものです。
2.新聞については、中央紙であっても、北海道版のものもあります。
3.下記の左側太字が、右側の文献の略語として本書で使用されています。
年鑑=創刊号、金子利喜男編『日ソ・道ソ年鑑』1986年、金子ゼミ発行;第2号、1987
年;第3号、1988年;第5号、金子利喜男編『日ロ関係年鑑』1992年、金子ゼミ発行;第6
号、1993年;第7号、1995年;第8号、1996年;第9号、1997年;
長見=長見義三『色丹島記』1998年、新宿書房
木村=木村 汎『北方領土を考える』1981年、北海道新聞社
杉原=杉原高嶺『国際司法裁判制度』1996年、有斐閣
太壽堂=大壽堂 鼎『領土帰属の国際法』1998年、東信堂
高野=高野雄一『日本の領土』1970年2刷、東京大学出版会
高野判例=高野雄一編『判例研究 国際司法裁判所』1965年、東京大学出版会
外川=外川継男『北方領土の歴史』(これは前掲、木村編の中の論文である)
宮崎=無矢崎繁樹編、基本判例双書『国際法』1981年、同文館
宮島=宮島利光『アイヌ民族と日本の歴史』1996年、三一書房
横田=横田喜三郎『国際法判例研究U』1970年、有斐閣
和田=和田春樹『北方領土問題を考える』1990年、岩波書店
国外=国際法外交雑誌、国際法学会
領土=『日本の国際法事例研究(3)』1990年、国際法事例研究会、慶癒通信
北方領土問題(和田)=和田春樹『北方領土問題』1999年、朝日新聞社
領土紛争=波多野里望・筒井若水編『国際判例研究 領土・国境紛争』1979年、東京大
学出版会
資料=資料集成『日本の領土と日ソ関係』1986年、国際地域資料センター
ケース=田畑茂二郎 太壽堂 鼎編『ケースブック国際法〔新版〕』、有信堂高文社、1987
年
経済的側面=金子利喜男、『日ロ間の領土問題の法的および経済的側面』、(これは、
札
会議に参加するまえの国際民間法廷のことが述べられている。バートランド・ラッセル法廷
の応用である。
15)同年7月1日発行のHoppo Journal オランダから帰国後、なぜ常設かつ普遍的な世
界市民法廷の設立構想に大発展したかを説明している。
16)同年同月の「inter-C July」への投稿(いままでの活動のまとめ)
17)2000年12月2日、北海道新聞がわれわれの「世界市民法廷」のことを大きく報道す
る。
18)2001年2月10日の朝日新聞 再三司法的解決を訴える。
19)2001年3月31日の拙文「世界市民法廷設立準備にいたる奇跡 北方領土問題の司
法的解釈を求めて巡歴(2)」を発表(本書13頁)。
20)2001年4月3日のHBCのラジオ番組で、司法的解決をもふくむ妥協を力説した。
(WOCICのHPを参照:http://www.wocic.org)
21)2001年5月31日に本書「世界の領土・境界紛争と国際裁判」を出版。
________________________________________________(目次終わり)_______________________________________________
第2章日中間の領土問題
―尖閣諸島をめぐって―
1 紛争の経過の概要
中国側によれば、事件にかかわる事実は、16世紀にさかのぼる。しかし、日本側は、
19世紀の日本による先占を重視する。尖閣列島の地位も、第2次世界大戦の怒濤の影
響を受ける。1951年のサンフランシスコ対日講和条約の第2条は、日本国は、台湾、澎
湖諸島(参照)にたいするすべての権利、権原および請求権を放棄すると定めた。同条
が予定したのは、北緯29度以南の南西諸島、(琉球諸島を含む)を米国を唯一の施政権
者とする信託統治制度にすることであり、同制度の実施までには、同国が、これらの諸
島の領域と住民にたいし、行政、立法および司法権を行使するとした。沖縄返還協定が
発効した1972年の春まで、米国が施政権者となった。
ところで、1968年の秋、海底学術調査をおこなった結果、東シナ海の大陸棚に石油資源
が埋蔵されている可能性が指摘されるや、台湾の新聞なども、尖閣諸島が自国領である
との論を展開した。
2 中国側の主張
1971年12月30日の中国外交部清明と北京放送を合わせると、つぎのように要約できよ
う:(1)
魚釣島などの島嶼は、昔から中国領で、明代に、これらは、すでに中国の海上防衛区域
のなかにふくまれており、それは琉球に属するものではなく、中国の台湾の付属島嶼で
あった。中国の明朝は、倭寇の進入に対抗するため、1556年、胡宗憲を倭寇討伐の総
督に任命し、その軍事的責任をおわせた。尖閣諸島は、当時、中国の海上防衛範囲(以
下、太字は金子)にふくまれていた。明朝と清朝が琉球に派遣した使者の記録と地誌に
ついての史書のなかでは、これらの島嶼が中国に属し、中国と琉球間の境界は、赤尾嶼
と久米島のあいだにあったことが、いっそう具体的に明らかにされている。1879年、清の
は、日本と交渉したとき、中日双方は、琉球が36の島からなり、魚釣島などの島嶼はそ
のうちにふくまれていないことを認めている。中国の台湾の漁民は、従来から魚釣島など
で生産活動をおこない、日本政府は日清戦争で、これらの島をかすめとり、清朝政府に
圧力をかけて、1895年、下関条約により「台湾とのそのすべての付属島嶼」を割譲させ
た。中華人民共和国の設立後まもなく、1950年6月28日、周恩来外交部長は、米帝国主
義が台湾と台湾海峡を侵略したことを糾弾し、「台湾と中国に属するすべての領土の回
復」をめざす決意を表明した。第2次世界大戦後、日本は台湾と澎湖列島を中国に返還
したが、台湾に付属する魚釣島は、魚釣島は、米国の占領にゆだねられた。米国はこれ
らの島嶼にたいする「施政権」をもっていると一方的に宣言したが、これは不法である。
米国が、沖縄を無条件に日本に返還すべきは当然であるが、かれらが不法に占領して
いた中国領の魚釣島などの島嶼を「返還区域」のなかにいれる権利はない。佐藤政府
は、―と中国側が主張する。―さまざまな陰謀活動をおこなっており、1970年7月には、
一層の琉球沿岸巡視艇が魚釣島などの島嶼におもむき、この島嶼が琉球に属するとの
標識を不法にたてた。同11月、日本反動は、蒋介石一味とグルになって、これらの島嶼
の領有権をめぐる論争を一時「棚上げ」して、さきに「協力開発」なるものをおこなうという
陰謀をたくらみ、先手をうって、これらの島嶼付近の海底石油を略奪しようとした。
3 日本側の主張
日本領に編入された経緯 1971年6月17日、日米間で沖縄返還協定が署名された。こ
の前後に、とくに重要な論争が関係国間でおこなわれている。日本政府の立場は、1972
年中の日本外務省の2つの文書をまとめると、つぎのように要約できよう。(2)
1879年、明治政府は、琉球藩を廃止し、沖縄県とした。尖閣諸島は、1885年から、政府
が沖縄当局を通ずる方法などにより、再三にわたり現地調査をおこない、これが無人島
であること、清国の支配がおよんでいないことを慎重に確認して、1895年1月14日の閣
議決定で、同諸島を沖縄県の所轄とし、正式に日本領に編入し、標杭をたてることにし
た。このようにして、わが国の領土に編入された尖閣諸島は、そのご八重山郡の一部を
なすことになった。明治政府は、同諸島8島のうち4島を国有地に指定したが、1884年ご
ろからこれらの島々で漁業に従事していた福岡県の古賀辰四郎にたいし、政府はこれら
4島の払い下げを申請したので、これを有料で払い下げを、今日にいたっている。
戦後における支配 日本側は、さらに以下のように主張する:
尖閣諸島は、南西諸島の一部としての地位をそのままにして、米国の施政権下におか
れ、米国の諸法令は、琉球政府の管轄区域に尖閣列島をふくめている。1968年、琉球政
府の一係官は、南小島に数十名の台湾人労務者が、不法に上陸し、船舶の解体作業に
従事していたのを発見した。この係官は、その入域が不法であることを説明し、入域を希
望するのであれば、許可証を取得するよう指導した。かれらは退去し、同年夏と翌年春
には、こんど琉球列島高等弁務官の許可をえて、ふたたび上陸した。不法入域事件にか
んがみ、琉球政府は、琉球列島米国民政府の援助を得て、1970年7月7日から16日に
かけて、尖閣諸島に領域表示板を建立した。
国際法上の評価 さらに、日本外務省は、つぎのむね主張する:
尖閣諸島は、国際法的には、「先占」による取得である。ある国は、どの国にも属しない
地域(無主地)を一方的借置で自国領とすることができる。先占が有効である要件は、そ
こが無主地であること、国家がその地域を自国領とするむねを明らかにすること、実際上
その地域に有効な支配をおよぼすことである。わが国は、そのいずれの要件をもみたし
ている。尖閣諸島は、日清戦争の結果、わが国が清国から割譲をうけた「台湾全島及び
その付属島嶼」のなかにふくまれるのではない。1951年のサンフランシスコ講和条約で
は、わが領土から切りはなされることになった台湾などの地域(第2条)と、南西諸島のよ
うに、当面米国の施政権下にはおかれるが、ひきつづき日本領として認められる地域(第
3条)とが区別された。同条約の領土処理は、1952年発行の日華平和条約の第2条でも
承認されている。1970年6月17日署名の沖縄返還協定により、1972年5月15日をもっ
て、これら地域の施政権が、わが国に返還されることになった。中国が同島を台湾の一
部とみていなかったことは、米国の施政下におかれた地域に同諸島がふくまれている事
実にたいし異議をとなえなかったことからも明らかであり、中華民国も、中華人民共和国
も、1970年に東シナ海大陸棚の石油開発の動きが表面化して、はじめて尖閣諸島の領
有権を問題としたと主張しているのである。
4 中華民国側の主張
1949年、蒋介石政権は、国共内線にやぶれ、台湾に逃れた。1952年、わが国は、蒋介
石政権側と平和条約をむすんだが、領土条項の第2条は、日本国は、台湾、澎湖諸島、
新南諸島と西沙群島にたいするすべての権利、権原および請求権を放棄すると規定し
ただけで、尖閣列島にはふれていない。台湾には、1970年に、尖閣諸島の領有権の主
張があらわれたが、翌年の秋、中華人民共和国が国連に復帰したため、台湾政権は外
向的孤立をよぎなくされた。日本、中国、台湾政権の3者の要求が競合しているだけに、
この問題は複雑である。台湾側の主張で注目すべきは、1970年8月20日の台北新生報
の社説である。これは、とりわけ、つぎのように論じている。
中国石油公司が、米国の数社と進めている尖閣群島付近での海底石油探査につい
て、日本外務省は、「尖閣諸島は沖縄諸島の一部である」として、わが国に異議を表明し
ているが、この主張は、わが国を激起している。石油が豊富に埋蔵されていると推定され
た地区は、わが国の大陸領土の自然延長であって、その主権がわが国に属するのは、
絶対に疑いない。同島に居住者はいないが、わが国の漁民は、常時そこへ操業におも
むき、わが国の重要な漁場のひとつとみなしてからすでにかなり長い。しかも、わが国の
漁民がひんぱんに同島で操業していて、この島のうえに、いまだに沖縄人をみかけたこ
とがないのである。(3)
沖縄返還協定は、1971年6月17日に調印されたが、その調印まじかの4月20日に、同
国の外交部は、つぎのむねのべたい:(4)
中華民国の尖閣列島にたいする領土主権は、歴史、地理、使用および法理のいかなる
観点からいっても、疑問の余地がない。米中韓三国間の石油会社の契約は、技術的な
ものであり、競争を回避するために、その内容は公表しない。
5 その後の経過
沖縄返還協定 1971年4月9日、米国は、その翌71年に尖閣諸島の施政権を日本
政府に返還するとの公式態度を明らかにした。沖縄変換時、どのように尖閣諸島を扱う
べきかが問題となった。わが国は、変換区域のなかに同諸島がふくまれ、それが日本領
となることを当然であるとみたのにたいし、中国と台湾は、それに強く反発した。米国の
立場は、同諸島にたいする施政権は日本に返還するが、それは主権の返還を意味せ
ず、この問題は、当事者どうしの話し合いで解決することが望ましいという方針をとった。
日中共同声明 田中角栄の訪中時、1972年9月29日に、日中共同声明が調印さ
れた。同清明は、「日本国と中華人民共和国との間のこれまでの不正常な状態は、この
共同声明が発出される日に終了する」と述べているが(第1項)、尖閣諸島については、
ひとこともふれておらず、このためそのごも日中間で確執がつづいた。1971年の秋に、中
国の国連加盟が実現したことをうけ、同日中声明は「日本国政府は、中華人民共和国政
府が中国の唯一の合法政府であることを承認する」とし(第2項)、さらに「中華人民共和
国政府は、台湾が中華人民共和国政府の立場を十分理解し、尊重し、ポツダム宣言第
8項に基づく立場を堅持する」と宣明している。それゆえ、わが国からみるなら、尖閣列島
は、少なくとも国府の国家領土ということにはならない、といえよう。
棚上げ論の台頭 ふつう平和条約は、戦後処理の最終的な解決をめざすが、尖閣
諸島の帰属問題は、結局、日中平和条約では規定されず棚上げされた(次項)。この経
過は、現在の日ロ平和条約の成り行きをかんがえるうえでも、きわめて深い。棚上げのき
ざしは、はやくも日中共同声明の直後からみられる。1972年11月6日、大平外相は、日
中平和条約で領土問題にふれるかとの質問にたいして、後ろ向きの問題の処理は日中
共同声明で終わったと述べ、尖閣列島問題の棚上げを示唆した。中国側からも、1974年
の秋、この問題の棚上げの発現がくりかえされた。1975年、ベトナム戦争が終わり、尖閣
列島をめぐる確執も、政治・外交面で、しばらく穏やかになったが、1978年4月12日、突
如魚釣島周辺に百隻以上の中国漁船が集結し、そのうち10隻以上が、日本主張領海で
操業をはじめ、そこに翌日は40隻もはいってきた。海上保安庁によれば、中国漁船団
は、その多くが機銃や自動小銃で武装しており、13日には、中国漁船が、わが国の巡視
船に自動小銃を向けたという。に注平和条約の交渉は、遅れながらも進行中であり、わ
が国政府は、この中国側の真意をはかりかねたが、中国側には遺憾の意を表明し、漁
船退去を申し入れ、16日に中国漁船団は、尖閣諸島からはなれはじめた。これは、中国
側がこれを日本領土とみたからではなく、日中関係を大局的に解決したいからであると
説明された。自民党首脳は、13日夜、「中国が尖閣列島の領有権を主張するかぎり、日
中条約交渉再開の大きな障害になる。領有問題をウヤムヤのまま条約交渉再開を急ぐ
ことは、党内慎重派の反発だけでなく、国民感情も許さないだろう」と述べ、「日中条約問
題を日ソ平和条約問題と対比した場合、ソ連にたいしては、北方4島が返還されないか
ぎり、平和条約をむすばない、とわが国は主張しているので、その意味からも現状のまま
の条約締結は困難だ」との見方をしめした。(5)
翌14日、中国外務省は、「(日中共同声明以後)この問題(尖閣列島)については、双
方ふれないようにしようということで、中国側は固く守ってきたし、いまもその考えに変わ
りない」との趣旨の発言をした。15日、日本外務省も、日中平和条約で、尖閣諸島の問
題を棚上げする方針をさらに鮮明に打ちだし、漁船の退去が実現すれば、日中間の領土
問題は1972年の日中国交正常化のときの原則にしたがって処理する、との基本方針を
固めた。これは、日中共同声明の基本となった日中双方とも領土問題にはふれないとい
う当時の暗黙の了解にもどることを意味するもので、中国との外交交渉の場に、領土問
題を直接議題としないことにより、平和条約締結への突破口を開きたいというかんがえに
もとづいたものであろう。16日の朝日新聞では、「今回起きた事態の処理をあいまいにし
たまま、日中平和条約をむすぶことは、北方領土問題をタナ上げにしたまま日ソ善隣協
力条約を結ぼうとせまるソ連に対して、日本が拒否しにくくなることを意味する」と指摘さ
れている。これは問題の核心をついている。(6)
領土問題では、わが国の対中と対ロ方針のあいだに、鮮やかな対照がみられる。尖閣
諸島問題では、日中両国政府が、公然と問題の先送り方針を打ちだしたのにたいし、北
方領土問題においては、日本政府はまえから棚上げに反対してきた。尖閣問題で、司法
的解決について、いずれの国からも提案がないことは、やはりアジア的な土壌と当時の
共産圏の政治的手法の偏重に根ざしているのであろう。
日中平和友好条約の締結 1978年春の事件の荒波も、表面は落ち着きをとりも
どし、平和条約交渉が進んだ。その過程で、尖閣諸島について、どのように話し合ったの
かは、1978年9月18日の園田外相の講演についての朝日新聞の記事によれば、つぎの
通りである(その部分の要約)。
日中条約交渉のとき、尖閣列島を日本領と主張すれば、中国面目の国だから、ここで
口をだせばこじれる。ところが、日本では、この点をはっきりさせなければ条約締結はす
るな、といっている。本国からの訓令にはしたがわなければならぬ。そこで話すきっかけ
をうかがった。くだけた話をして1時間、神に祈る気持ちで、ケ小平副主席に、尖閣列島
でまえのような事件が起こらないよう約束してくれるよう頼んだ。幸い副主席は、それは
偶発事件であったとこたえ、「いまのままで20年も30年もほおっておいたらいい。オレの
ほうは絶対に手をださない」と2、3回くりかえした。もし中国が「オレのものだ」といった
ら、私はもう日本には帰れない。そこで私は「この問題は、それ以上いったら、閣下もオ
レも困る」といったわけだ。(7)
結局、日中平和条約は、1978年8月12日に調印され、同年秋に発効したが、武力不行
使や反覇権などについての規定が数条あるだけで、尖閣諸島に着いては、その帰属問
題が残っているにもかかわらず、ひとこともふれていない。棚上げされたのである。日中
関係は、1996年、歴史認識や尖閣諸島問題などから悪化し、翌1997年春やっと修復さ
れた折り、またしても問題が再燃した。5月5日夜、沖縄県から船で出航した石原慎太郎
元運輸相(現東京都知事)らは、非常時の応援にあったが、中国外務省は6日、かれら
が中国領土に違法上陸し、主権を侵犯したもので、強い怒りをおぼえると避難した。1997
年11月11日、日中新漁業協定が署名された。協定は、排他的経済水域の境界画定交
渉は継続することにした。境界画定までのあいだ、暫定的借置を導入し、尖閣諸島の周
辺海域は、既存の漁業秩序が維持されることとなり、尖閣諸島の問題は、同協定によっ
ても棚上げされた。
<参考>中ロ国境画定 中ロ間の東部国境は、1991年の河川の主要行路の中心線を
国境とすることで合意したが、1969年に武力衝突があったダマンスキー島(中国名は珍
宝局)など多くの中州島は帰属未定であった。1997年11月10日、エリツィン大統領と江
沢民国家主席は、4300qにおよぶ東部国境の画定を盛りこんだ共同声明に調印した。
ロシアが実行支配する大ウスリーなど3島を除き、東部国境の98%が共同使用されるこ
とを基本に画定した。この国境画定は、中ロ間だけでなく、アジアの国境の安定化や画
定過程でも、大きな異議をもっている。
註
(1)資料、1001―1003頁。同書1885年―1971年までの重要資料も掲載されている。
(2)資料、同年3月8日の「尖閣諸島の領有権の問題について」と5月の「尖閣諸島につ
いて」、1003―1007頁。次頁の引用も同頁内。
(3)資料、997―1007頁。
(4)資料、998―1000頁。尖閣列島にかんする1971年4月20日および6月11日の中華
民国外交部声明をまとめて、その要点を記せば、つぎのようになろう。1943年、中、米、
英など主要同盟諸国は、カイロ宣言を発表しており、さらに1945年のポツダム宣言には、
カイロ宣言を実現すべきことが規定され、日本の主権は、本州、北海道、九州、四国およ
び主要同盟国が決定したその他の小島だけにかぎられるべきであると定めている。した
がって、琉球群島の未来の地位は、明らかに主要同盟国によって決定しされるべきであ
る。第2次世界大戦後、同列島は、米国が軍事占領したが、当時わが政府は、そこを海
域安全の共同保衛のため必要な借置と認めた。そのご中米は巡選(ら)範囲を区切るこ
とで協議を達成し、以来わが漁民は、この地区で操業をつづけている。しかし、米政府が
琉球を日本に返還するとき、尖閣列島もそれにふくめようとしているので、わが政府は、
それに強く反対している。政府は、日本が尖閣列島に気象台を建設するとの消息をきい
たので、関係国政府に強く反対し、厳正な交渉をおこなって、わが尖閣列島の主権の護
持につとめている。中日韓の民間団体は、たしかに海底資源開発について話し合った
が、まったく尖閣列島の主権にはふれていない。中米韓の石油会社の契約は、純然たる
技術的なものだが、わが国の利益を護持できるものである。日米政府が、まもなく琉球群
島移管の文書に署名し、中華民国が領土主権をもつ釣魚台列島をも包括していることを
知り、政府はその立場を全世界に宣明しなければならない。中華民国の琉球についての
一貫した立場は、関係同盟国が、カイロ宣言およびポツダム宣言にもとづいて協議・決定
すべしとするものである。しかるに、いまだに米国はこの問題について協議せず、性急に
琉球を日本に返還すると決定したのであって、中華民国は、きわめて不満である。
(2)朝日新聞、1978年4月14日。
(3)参考、『朝日新聞』、1978年4月16日。
(4)『朝日新聞』、1978年9月20日。
(5)1997年11月10日の『北海道新聞』と『朝日新聞』。
第20章 先占と実効的支配
―竹島と尖閣諸島との関連で―
係争諸島と先占 わが国をめぐる領土問題については、先占は、とくに竹島と尖閣
諸島の問題に関係する。北方領土とことなり、日本は、中国とも、韓国とも、これらの係
争諸島にかんする条約をむすんでこなかったからである。
1.尖閣諸島 わが国勢府の主張によれば、1885年からの調査で、この諸島に清国
の支配がおよんでいないことを確認し、1895年に現地に標杭を建設して日本領としたと
のことであるが、中国側にあれば、これは昔から中国領土で、はやくも明代(1366―
1644年)には、中国の海上防衛区域にふくまれて、中国の台湾に付属していたという(98
―99頁)。
2.竹島問題 わが国の主張によれば、江戸幕府は、1696年に鬱陵島を放棄したが、
竹島をば日本領として取りあつかい、1905年に竹島を島根県隠岐島司の所管にいれ、
第2次大戦の終了するまで、実効的な支配を継続してきたとのことであるが、韓国側によ
れば、同国は、新羅時代(4世紀半ば―935年)から、竹島を鬱陵島に付属する島として
支配してきており、それは自国領であるという。
2.千島列島の場合は、その係争諸島にかんする国際的な文書がいくつかある。それゆ
え、千島の先占は、歴史的には興味あるにしても、国際法上それは決定的な意味をもた
ず、むしろ条約の解釈が重用である。
先占の要件 つぎが、先占の要件とみられており、これについて、根本的な反対説
はない。
第1に、それは国家によっておこなわれなければならないということ。その意志を表示し
なければならない。
第2に、先占される土地は、無主の地であること。ある土地に人がすんでいても、その土
地が、どの国家にも属していないときは、無主の土地とみられてきたが、しかし、そのよう
な土地は、民族自決権と先住権の要求の高揚げとともに、古典的な理論に服しなくなっ
た。
第3に、先占が実効的であることが必要である。先占を尊重させる権力が必要である。
無人島の場合、ときどきみまわって国家機関が秩序を維持できれば、それで十分であ
る。
国際法の父といわれるグロチウス(1583―1645年)藻、「意志行為だけでは不十分で
あって、先占が明らかに認められ得る外部的行為がなければならない」(1)と述べてい
る(田だし、これは海の先占について)。19世紀の後半には、先占が実効的でならなけれ
ばならないことは確立したとみられている。
20世紀中の判例 先占に関係するのは、とりわけ、つぎのような判例である。(年号は、
判決のあった年)
@1904年 ギアナ境界事件 あたらしい貿易経路を発見しただけでは、その私人の本国
が、その土地にたいする主権を取得したことにはならない、と判示された。
A1931年 クリッパートン島事件 島も先占を主張するメキシコは、その権利を実効的に
行使したことを証明しなければならない、との要件が強調された。
B1933年 グリーンランドの法的事件 他国が、優越的な主張を立証できないときには、
時刻の主権の現実的行使はわずかなものでよいとし、先占の要件を明確にした。
C1951年 マンキエ・エクレオ諸島事件 英国は「古来の権原」を、フランスは「固有の権
原」を主張。ICJは、実効的占有を重視し、係争諸島は英国領であるとした。
D1928年 パルマス島事件 ある国家が、当初は実効的に支配していたとしても、いつ
のまにかその土地を平穏かつ継続的に支配しているなら、後者が優越する。
38 クリッパートン島事件
(仲裁裁判、当事国はメキシコとフランス、仲裁付託契約は1909年3月2日、判決は1931
年1月28日、その間21年10カ月、領土紛争、159〜165頁)
本件は、とくに尖閣列島の問題で参考になりうる。
事実 1858年秋に、フランス政府代理人の海軍大尉は、クリッパートン島沖を航行中、
海軍大臣の命令にしたがって、同島の主権は、この日からナポレオン3世とその後継者
に属すると布告した。航行中、詳細な地図がつくられ、小艇の乗組員が上陸したが、船
は主権の表示をのこさず離島した。フランスは、ハワイ政府にたいし、同海軍大尉の任務
の終了を通告した。ホノルルの新聞は、クリッパートンにたいするフランス主権はすでに
公布されている。という宣言文が公表された。そのご1887年まで、明白な主権行為は、フ
ランス側からも、他の諸国側からもおこなわれていない。1897年、フランス太平洋海軍艦
隊長は、グアノを採掘している3人をクリッパー島で発見したが、かれらのアメリカ国旗の
掲揚について、フランスは抗議した。しかし、同島を自国領とかんがえていたというメキシ
コは、砲艦を派遣して、メキシコ国旗をかかげた。結局、両国は1909年その帰属問題を
裁判で解決することに合意した。判決は、1931年にでた。
判決 メキシコによれば、この島は、スペイン海軍によって発見されていたのであっ
て、当時有効であった法によりスペインに属し、1836年からは、同国の承継国として、メ
キシコに属していたという。しかし、発見がスペイン人によりおこなわれたとみとめるにせ
よ、メキシコの主張が根拠づけられるためには、スペインが国家としての立場で、同島を
自国の領土に編入する権利をもつだけでなく、その権利を実効的に行使したことを証明
する必要があろう。しかし、それはまったくしめされなかった。ある領土が完全に無人の
地であるという事実によって、そこに先占国家があらわれた最初のときから同国が絶対
的に使用できるときは、その時点から占有の実行は完成されたとみられなければならな
い。これらの前提から、クリッパートン島は、1858年11月17日、フランスにより合法的に
取得されたことになる。同国が、あとになってその権利を遺棄(derelictio)によりうしなっ
たと認定する理由はない。なぜなら、同島を放棄する意志をもったことはないからであ
る。
解説 1)わが国の領土問題の関連で注目されるのは、フランスが同島を放棄する意
志をもったことはないから、あとになってその権利を遺棄する意志があったとすれば、そ
れは放棄につながるということを前提にしている。
2)本件は、ある面で、尖閣諸島問題とにている。中国は、明朝が倭寇の進入に抵抗する
ため、1556年に胡宗憲を総督に任じて、沿海各省で軍事的責任をおわせ、尖閣諸島が
中国の防衛範囲にはいっていたと主張するのにたいし、日本側は、1885年の調査で、同
諸島が清国に所属する証拠がないことを確認して日本領に編入したとし、中華民国政府
も、中華人民共和国政府も、1970年にはじめて同書島の領有権を問題にしたと主張し
た。
3)実効的先占 本件は、とりわけ、パルマス島事件〔266―269頁〕と東部グリーンランド
の法的地位事件〔163―167頁〕とならんで、先占は実効的でなければならないとする判
例である。
39マンキエ・エクレオ諸島事件
(国際司法裁判所、当事国は英国とフランス、付託は1951年12月29日判決は1953年11
月17日、その間1年11カ月余、高野判例、1965年、99―110頁)
古来の権原;固有の権原;占有に直説する証拠;刑事裁判権の行使〔マンキエとエクレオ
は、英領チャンネル諸島のひとつであるジャシー島とフランス本土とのあいだにある〕
事実 英国とフランスは、付託合意にもとづいて、訴えを提起し、それぞれ係争諸島に
たいする自国の権原を主張した。英国は、古来の権原(ancient title)の由来をとき、マン
キエとエクレオ諸島の自国領有を主張する。つまり、1066年の征服1204年の占領、その
ごの諸条約、1471年の休戦協定を引用する。他方フランス側も、固有の権原(titre
originel)の由来をとく。すなわち、ノルマンディ公は、フランス王の家臣であったこと、
1202年のフランス裁判所の判決により、英国王ジョンは、フランス王からの封地がすべて
没収されたこと等々。
判決 海峡諸島をふくむノルマンディ画、1066年から1204年まで、ノルマンディ公の資
格における英国王により保管されたという事実にかんがみて、英国の見解に有利な推定
の根拠がある。たといフランス王が、海峡諸島について、固有の封建的権原を有してい
たにせよ、それは1204年以降の諸事件の結果として、失効してしまったにちがいない。
1202年のフランスの判決については、海峡諸島に着き、判決が執行されることがなかっ
た。フランス王が、海峡諸島の占有に失敗したからである。しかし、決定的な重要性をも
つのは、中世紀の事件からひきだせるような推定でなく、両島の占有に直接的に関係す
る証拠である。英国が採用した事実のうち、とくに司法権、地方行政権と立法権の行使
にかんするものに証拠能力をみとめる。ジャシー王立裁判所は、ほぼ100年間、エクレオ
で刑事裁判権を行使してきた。
解説 モーパサンの短編「ジュールおじさん」のなかのジャシー行きがおもいだされ
る、この作品は、1883年の夏、新聞に発表されたものであるが、「ジャシー行きは、貧乏
な人びとにとっては、旅行の理想である。…外国へいくことになる。この小島は英国の領
土だ」と書いている。ところで、本件は国際司法裁判所の領土問題にかんする最初の判
決であるだけでなく、「古来の権原」とか「固有の権原」のことばを使用していることでも注
目される。日ロ中韓は、多かれ少なかれ、本件中の英仏とにた態度をとって、争いあって
いるのである。この判例の重要な点は、実効的占有を重視したことである。しかし、それ
にしても、事実上の支配が、その地域が当然その支配国の領土であることを意味するも
のでないことにも注意しなければならない。たとえば、占領は、占領地域が当然その占領
国の領土になることを意味しない。また、北方4島については、ロシアよりは、むしろ日本
に固有の権原があろう。しかしまた領土は、いろいろな自由で変更するので、過去に固有
の権原をもっていたとしても、それが現在も当然その国の領土であるという証明にもなら
ない。問題は、複合的で、総合的な判断が必要である。本件が、日ロ間の領土問題で、
余り援用価値がないのは、そもそも北方領土問題においては、先占の実効的支配でなく
て、現行条約の解釈が問題だからである。地方、この事件は、竹島問題を考察するうえ
では、かなり参考になる。太壽堂鼎・京都大学教授は、本件を引用し、「決め手となるの
は、信憑性が疑われる歴史的事実に基づく根拠ではなくて、実効的占有の有無であろう」
と述べている。(そして、わが国が竹島問題では優位であるとみる。ケース、112頁)
註
(1)一又正雄『戦争と平和の法』、第1巻、グロチウス、1996年の復刻版、酒井書店、
307頁
第21章 島にかんする判例
さて、島の領有権問題について、その全体像を把握するため、島にかんする20世紀中の
判例を一瞥しよう。千島列島、尖閣諸島、竹島問題を視野にいれ、つぎの8つの事例は
すでに説明した。その要点を復習すれば:
@1903年 アラスカ国境事件 本件では、どこに「ポートランド海峡」が位置するかで、島
の帰属先が左右された。(右上の図を参照)
A1914年 チモール島事件 交渉当時の意図が重視され、条約発効後のべつの主張は
放棄した土地の要求のむしかえしであると非難された。
B1928年 パルマス島事件 本件では、領有権請求のためには、権原の有効な取得を
証明するだけでは不十分であり、国家権力の平穏かつ継続的表示が必要である、と判
示された。
C1931年 クリッパートン島事件 ある国家が、ある土地を最初から絶対的に使用できる
場合に、放棄の意志がなければ、占有は実行されたみる。
D1933年 カステロリゾ島とアナトリア海岸領海境界事件この紛争について、仲裁契約
がむすばれたが、提訴後の交渉成功で、訴訟は中止された。
E1933年 グリーンランドの法的地位事件 グリーンランドにたいしては、1931年までデ
ンマーク以外から主権の主張がなく、ノルウェーは、それを争ってならない、とされた。
F1951年 マンキエ・エクレオ諸島事件 裁判所は、重用なのは、中世の諸事件からの
推定でないこと、国家の実効的支配が重要であるむね判示した。
G1978年 エーゲ海事件 裁判所の判例は、外交交渉と司法的解決が併用されたさま
ざまの実例を提供している。(1)以上の判例は、すでに紹介したので、つぎの4つの判例
を検討するが、わが国のかかえる領土問題を解明・解決のための手がかりがあるだろう
か?まずは各事件の要点を紹介する。
H1909年 グリスバダルナ事件 現実に存在し、かつ長期にわたった事態は、可能な限
り変更しない、というのが確立した国際法の規則であると、仲裁裁判所は判示した。
I1937年 ビーグル海峡事件 係争海峡のコースは、交渉当事国には議論すら必要の
ないほど明白であったにちがいない。したがって、裁判所は、そのことを考慮する。
J1992年 領土・島・海洋境界事件 3国にかこまれたフォンセカ湾には、利益共同体が
存在し、湾の閉鎖線には3国とも存在すると判示された。
これらの判例註には、前述の先占と放棄の法理を補強するものがあっても、それを否定
するものはない。ただ、きわだっているのは、「領土・島・海洋境界事件」である。これはフ
ォンカセ湾に岸をもつ3国が湾の閉鎖線にも存在するという奇想天外な、しかし衡平の原
則には、かなっているような判決である。本件は、おなじく3国の複雑な利害関係が調整
された1977年の大陸棚国境画定事件とあわせて考えると興味深い。この2つの事件で
は、それぞれ3国の利害関係が絶妙に調整されたようにみえる。なお、2001年3月現
在、世界市民法廷に付託されている事件は、北方4島、西■諸島、南沙諸島、フォークラ
ンド島および竹島にかんするものである。
40グリスバダルナ事件
(仲裁裁判、当事国はノルウェーとスウェーデン、付託契約は1908年3月14日、判決は
1909年10月23日、その間1年7カ月余、領土紛争、49―61頁)
本件では、講和という事実のみによって、問題の海の領域が分割されたとの判示がとく
に重要である。フィヨルド;砂州;浅瀬;漁業;長期の事態
事実 (1)合同委員会 本件は、スウェーデン・ノルウェー国境の南端の峡湾イデフィ
ヨルドの湾口から公海までの境界紛争で、問題の境界線は、1661年の両国間の国境画
定条約によって定められていたが、その数カ所が不明確なため、1897年に設置された両
国の合同委員会が、国境画定の提案をまとめた。提案によると、全委員の意見は、イデ
フィヨルド最奥部から第17点までは一致、しかし、第18点以遠の公海までの境界線につ
いては、合意をみず、両国の委員は、どちら側も、グリスバダルナの砂州と付近の浅瀬を
自国の領海にふくめていた。この付近の海域は、エビ漁業の好漁場であった。
(2)仲裁付託契約 結局、1904年、双方は問題を仲裁裁判に付託することに合意し、
1908年3月14日、とりわけ、つぎの次項をふくむ仲裁付託契約をむすんだ。(ノルウェー
は、1814年いらい、スウェーデンと同君連合であったが、1905年に分離した。)
第1条3名からなる仲裁裁判所は、両国から各1名、のこる1名の裁判長はオランダ女
王が任命する。
第2条 仲裁裁判所は、第18点から公海までの境界を決定する。
第3条 仲裁裁判所は、1661年の国境画定条約により、境界線が画定されているとみな
されるべきかについて、決定しなければならない。
判決 仲裁裁判所は、1909年10月23日、とりわけ、つぎのむね判示した。
1)第19点について、本裁判所の審理段階での両当事者の主張は一致した。
2)両当事国は、その両側にある島や岩礁(いつも海面下に没していないもの)をむすぶ
中間線によって分割するという規則を採用している。当事国の意見によれば、これが、
1661年条約においてA点(イデフィヨルドのほぼ出口にあたる。スウェーデン領コスター島
ノルウェー領チスラー島をむすぶ線のほぼ中点)の内側で採用された規則であったとされ
る。そのような規則の採用は、現在これを適用する場合、条約当時に存在した状態を考
慮しなければならない。ハイエフルエル岩礁は、当時は海面上にあらわれていなかった
ので、ヘヤェクヌブが基準点として採用されるべきである。このようにして、第20点も確定
された。
3)のこる問題は、第20点以遠の公海にたっするまでの境界線。1658年の講和という事
実のみによって、領域が自動的に分割された。その自動的な分割線を確認するには、そ
の当時有効であった法原則に依拠しなければならない。1658年の自動的分割線の決定
―それは、こんにちにおける問題の境界線の画定とおなじ―は、海岸線の一般的方向
にたいし垂直線をひくことである。が、当事国は、重要な州をよこぎるように境界線がひ
かれることが不適当との意見であるから、第20点から、真西より南へ19度かたむく方向
にひかれるべきである。
4)グリスバダルナをスウェーデンに帰属させる境界画定は、とくに、つぎの事実状態によ
り支持される。グリスバダルナの浅瀬におけるエビ漁業は、ノルウェー人よりもスウェー
デン人によって、おこなわれてきた。現実に存在し、かつ長期にわたって存在してきた事
態は、可能なかぎり変更しない、というのが確立した国際法の規則である。
5)ショッテグルンデをノルウェーに帰属させることは、以下の重要な事実状態により十分
に支持される。スウェーデン人が長期間に、かつ広範囲に、より多数ショッテグルンデで
漁業に従事してきたと推定されるが、ノルウェー人は同地域で排斥されなかっただけでな
く、グリスバダルナよりショッテグルンデにおいて、いっそう有効に、ほぼ継続的にエビ漁
業に従事してきたことが当事者により確信されている。
解説 わが国の領土問題の関連でみると、本件で注目されるのは、とりわけ、つぎの
点である。
1)問題付託後、それは早期に解決(1年7カ月)された。
2)ノルウェーは、1658年の講和という事実のみによって、問題の海の領域が自動的に
両国のあいだで分割されたと主張する。その主張は、スウェーデンによっても排斥されて
いないとして、裁判所は、その意見を支持し、この意見は、当時の、また、現代の国際法
の基本原則に一致すると判示した。
3)国境線画定のさい、現状が尊重されたこと。この判決での重要なポイントのひとつは、
海の領域の境界画定のさい、現実に存在しかつ長期にわたって存続してきた事実状態
は最大尊重することが、確立した国際法原則である、との判示である。現実に存在し、か
つ長期にわたり存続してきた事実状態や権益は、そのごのいろいろな判決でも考慮さ
れ、等距離法式は機械的には適用されていない。北海大陸棚事件におけるジェサップ裁
判官の個別意見(領土紛争、60―61頁)、チュニジア・リビア事件(183―186頁)、グリー
ンランドとヤン・マイエン間海域境界事件(191―194頁)などでは、同時に衡平の原則に
注意を喚起している。衡平の原則というのは、境界についてわかりやすくいえば、ある当
事者が、ある部分で相手国より多く利益をえる場合、他の部分では相手国のほうの利益
をより多く考慮することである。北方領土の貝殻島では、わが国の国民が、同島につい
て、特別の権益をうけてきた。それゆえ、本判決のプリズムからみるなら、将来、歯舞群
島が、日本領あるいはアイヌ自治区とされるかどうかわからないが、いずれにせよ、最低
限度そのときの貝殻島の状況が尊重されるべきであるということになろう。
4)この仲裁判決は、隣接する2国間の境界画定にかんする興味深い先例である。判決
によれば、境界線は、海岸線の一般的方向にたいして、垂直線をひくことによって定めら
れなければならず、その場合、境界線の両側の海岸線の方向を考慮すべきであるとす
る。しかし、このような規則は、そのご歴史の流れにそい、修正されていく。一国が独善
的に行動してならない理由は、このような法の流動的な形成過程にもみいだされる。
4)本件で、両係争国は、エビの好漁場を自国の要求区域にふくめた。このように、日ロ
中韓の各国は、まず国際法の規則を考察する以前に、自国の欲望・要求をおしとおそう
との態度がさきだちすぎていないであろうか。この面では、世界の多くの国が、まずは自
国の利益を考慮して、それを確保する根拠をさがしだそうとし、場合によっては理屈をこ
ねる。そのことじたい、多くの人間の不可避的な性向に関係しているであろうから、それ
ほど非難できないと譲歩しても、批判されるべきは、権利の侵害が問題になっているにも
かかわらず、紛争国が、長年にわたり外交交渉で問題を解決せず、また他の平和的解
決方法も使用しないことである。
41 クレタ島とサモス島の灯台の事件
(仲裁裁判、常設国際司法裁判所、当事国はフランスとギリシア、付託契約は1936年8
月28日、提訴は同年10月28日、判決は1937年10月8日、提訴から判決まで11カ月余、
横田、87―94,145―153頁。宮崎、194―195頁)
事実 問題は、旧トルコ領土内の灯台の特許契約にかんする。この契約により、フ
ランスの会社は、19世紀から地中海の旧トルコ領にある灯台の建設や維持にかかわっ
てきた。1913年4月1日に、同社とトルコ政府は、更新契約をむすんだ。しかし、これは、
バルカン戦争のまっさいちゅうで、クレタとサモスの両島をふくむトルコの島々が、ギリシ
アに占領されていたときであったので、ギリシアは、常設国際司法裁判所で、トルコとフラ
ンス会社間の契約の効力を争った。しかし、1934年3月17日、同裁は、「ギリシア政府に
たいして有効である」と判決した。〔くわしくは、横田U、87―94頁〕。そのご判決の適用に
ついて、両国間に争いがおこった。つまり、判決がクレタ島とサモス島の灯台に適用され
るかということである。ギリシア政府は、すでに契約更新まえに、両島がトルコから分離さ
れていたから、それらの島の灯台は契約外であるとみなして、ギリシアは、ふたたび事件
を常設国際司法裁判所に付託した。
判決 1)ギリシアの主張を棄却 ギリシアの主張によれば、クレタ島とサモス島は、
広範な自治をもっていたから、1913年に、トルコがすでにまえから主権をうしなっていたと
いうものである。しかし、1923年のローザンヌ議定書12の9条は、バルカン戦争後トルコ
から分離されたすべての領土に適用される。
2)クレタ島 同島は、その自治にもかかわらず、トルコ帝国の一部であった。1913年5月
30日の講和条約は、「トルコ皇帝は、連合国の諸元首にクレタ島を割譲し、かれらのため
に、同島において有した主権に属するすべての権利とその他の権利を放棄することを宣
言する」と述べている〔第4条〕そのときまで、トルコ皇帝が主権をもっていたことについ
て、この正式な放棄よりも決定的な証拠を発見することは困難であろう。
3)サモス島 同講和条約で、トルコ皇帝が、多島海における同国のすべての島々にかん
する決定を列国に委任することを宣言した後、1914年2月13日に、列強の決定により、
サモス島がギリシアに帰属した。
解説 1)本件の判決では領土の一部が「分離された」(detached)という場合の要件
が述べられている。この判決で、分離ということばは、ひろい自治の場合は、本国政府と
の「すべての政治的結合が切断され」、本国政府が、その自治領にかんして「すべての
権能をうしなっている」こととされた。
2)わが国の領土問題の関連では、1913年の講和条約のクレタ島放棄条項にかんする
判示が注目される。この判決のプリズムをとおし、対応することばを機械的に代入すれ
ば、つぎのようになる:
1951年対日講和条約は、日本国は千島列島において有した主権に属するすべての権
利とその他の権利を放棄するむね宣言すると述べている(第2条)。そのときまで、日本
国主権をもっていたことについて、この正式な放棄よりも決定的な証拠を発見することは
困難であろう。
講和条約は、ふつう戦後処理を最終的に解決するものであるから、それは自然な判断
である。本判決も、放棄による島の移転は、講和条約の締結時点で確定したことを前提
としている。そのごの一方的判断や一方的な解釈の変更で、境界が変更することを前提
にしていない。占領は、領土の移転をともなうものでない。(戦後の日本占領を想起され
たい)
41 ビーグル海峡事件
(仲裁裁判、当事国はアルゼンチンとチリ、仲裁付託契約は1971年7月22日、判決は
1977年2月18日〔前掲書では4月〕、その間5月6カ月ほど、領土紛争、244―259頁)
本件は、南米のビーグル海峡の島にかんして生じたものである。
事実 ビーグル海峡の島にかんする1881年の条約の第3条によれば:
島にかんしては、スターテン島とそれに近接する小さな島々は、アルゼンチン領とする。
ビーグル海峡の南方でホーン岬にいたるまである全諸島とフェゴ地帯の西方にある諸島
は、チリ領とする。争点となったのは、ピクトン、ネヴァ、レノックス〔上図〕のこの3島が、こ
の「ビーグル海峡の南方」の島々に該当するかである。1971年の夏、英国、チリ、アルゼ
ンチンのあいだでむすばれた仲裁付託契約は、1902年の一般仲裁裁判条約、裁判の義
務化にもとづいてむすばれた。仲裁裁判所は、1972年の夏、その所在地をジュネーヴに
おき、1977年4月の判決で、係争3島はチリに属するとし、つぎのむね判示した。
判決 海峡は、ピクトン島のところで、二手にわかれている。「ビーグル海峡の南方」
に係争諸島があるかは、どの流れがビーグル海峡かによる。その解決は、1881年条約
にもとめられるべきである。他の部分については、くわしい定義をあたえている交渉者た
ちが、なぜビーグル海峡については、国境線を定めなかったのかは、同海峡のコース
は、議論すら必要のないほど明白であったからにちがいない〔参照、北大西洋沿岸漁業
事件〕。北琉が海峡内のさまざまな目的地にいく航海に一般に使用された。探検家ボヴェ
は、その報告書をグランデ島の南岩の湾で執筆したが、かれは同湾をビーグル海峡の
終わりであると記述している。1885年のアルゼンチン総督の公式報告書のなかには、チ
リのバナー・コーヴ港で夜をすごすと述べられているが、同港はピクトン島の北琉沿いに
ある。裁判所は、係争3島が「ビーグル海峡の南方」に位置すると判定し、チリ領と判定
する。
解決 1)議論すら必要のないほどの明白さ わが国が放棄した「千島列島」が、国後
と択捉をふくむということは、議論すら必要ないほど明白であるだろうか。たぶん、これ
は、地理的にも、また法的にもそうであろう。むしろ、問題は、色丹と歯舞群島である。
2)とどのつまりは判決にもとづく ところで、この判決は、1978年1月24日、アルゼンチン
により拒否されたため、紛争区域に険悪な状況が生じた。この地域の領有に執念をもや
す理由のひとつは、この地域が南極大陸にたいする権利に関係すると両国は、武力不
行使協定をむすび、ローマ法王の仲介をうけいれ、ついに1984年に平和友好条約をむす
んだのであるが、ここで注目すべきことは、この平和条約も、ローマ法王の提案も、仲裁
判決の効力を前提としたうえで、境界画定をはかったことである(3)
5)フォークランド領有問題 日グル海峡の東にあるフォークランドは、アルゼンチンと英
国間の係争地であるが、この紛争は2000年12月、世界市民法廷に国際中立提訴団が
提訴した。
42領土・島・海洋境界の紛争にかんする事件
(国際司法裁判所、当事国はエルサルバドル、ホンジュラス、1986年5月24日に付託協
定、判決は1992年9月11日、その間6年3カ月余、国外、95巻1号、1996年、92―119
頁)
本件で裁判所は、苦肉の策か、奇想天外な、しかし衡平の原則には、おそらく、かなっ
ているような判決をだしている。
事実 1821年、スペイン領グアイテマラ歯、中米共和国連邦として独立したが、1839
年に連邦が分裂して、そこにエルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグアなどが誕生した。
そのご1854年に、米合衆国がホンジュラスにエル・ティグレ島の購入を提案したさい、エ
ルサルバドルはこれに抗議し、同時にメアングェリタ島を要求した。フォンセカ湾について
も、交渉がおこなわれ、1884年の条約で、エルサルバドルとホンジュラス間の国境画定
がなされたが、ホンジュラスは同条約を批准しなかった。他方、1900年には、ニカラグアと
ホンジュラス間の交渉で、フォンセカ湾内の両国の境界が画定された。ところが、1916年
には、エルサルバドルは、ニカラグアが、合衆国の海軍機との建設をみとめた条約は、こ
の湾の共有権の侵害になると主張して、ニカラグアを中米司法裁判所に訴えた。翌1917
年の判決は、フォンセカ湾の水域は、1900年のホンジュラスとニカラグアの分界水域をの
ぞいて、当該事件の当事国エルサルバドルとニカラグアとのあいだでは「共有の状態」に
あった、と判示した。ニカラグアは、判決直後に、この判決を拒否する声明を発表した。エ
ルサルバドルとホンジュラス間で、そのごも国境紛争は続き、1969年には、武力衝突が
発生するまで悪化したが、結局、1980年に一般平和条約がむすばれ、この条約によって
設置された合同国境委員会が、条約で未確定の陸地の6カ所、それに島と海洋の法的
地位を決定することにした。しかし、1985年までの作業は成功しなかった。そこで、5年の
経過後に成果のない場合の国際司法裁判所への付託を定める一般平和条約にもとづ
き、1986年の春に付託協定がむすばれ、5名の特別裁判部に解決をゆだね、同時に、国
際司法裁判所の判決を執行するための境界画定委員会が設置された。
当事国と訴訟参加国の3者3様の申立
1.エルサルバドル 1)ザカテ・グランデ島とファラロネス諸島をのぞき、フォンセカ湾内の
すべての島、とくにメアングェラ島とメアングェリタ島にたいし、主権を有する。2)フォンセ
カ湾外に主権を有するのは、太平洋に直接面している国のみであり、ホンジュラスは、湾
外の海域にたいし主権をもたない。
2.ホンジュラス 1)自国は、メアングェラ島とメアングェリタ島にたいし、主権を有する。
2)湾内には、利益共同体(the community of interests)が存在するが、それは共有
(condominium)ではない。3)湾外には、ホンジュラスも、沿岸の長さに比例して、領海、
排他的経済水域、大陸棚を有する。
3.ニカラグア 1)湾内に利益共同体の概念はなく、同概念は、ニカラグアの固有の権利
と両立しない。2)フォンセカ湾には、共有制度は存在しない。
判決 〔湾と島にかんする部分だけ。陸地の6カ所については割愛〕
1)紛争の対象となっている島は、エル・ティグレ島、メアングェラ島、メアングェリタ島であ
る。
2)エル・ティグレ島について エルサルバドルは、同島が1833年以前は自国に属してお
り、そのごの同島にホンジュラス当局が存在したのは、この島に避難していたエルサル
バドル反政府勢力を逮捕することを条件にみとめたのであって、それ以降のホンジュラス
の同島の占有は、1833年にエルサルバドルが同意した限定的目的を有する許可にもと
づく事実上の占領以外のなにものでもないとする。
3)しかし、この点につきエルサルバドルは、十分な証拠を提出していない。1849年、英国
が一時的に同島を占領したが、ホンジュラスに返還すると述べたこと、1900年にニカラグ
アとホンジュラスが国境を画定したさい、同島がホンジュラス領とされたことにたいし、エ
ルサルバドルが抗議しなかったこと〔尖閣諸島問題と対比されたい。98―101頁〕、1917
年中米司法裁判所によっても、同島がホンジュラス領とされたこと、等々からかんがえ
て、それはホンジュラス領である。
4)メアングェラ島とメアングェリタ島について エルサルバドルとホンジュラスは、両島が
一体のものであるとし、分割して取りあつかうことをもとめていない。1884年の条約は、そ
れらをエルサルバドル領と定めたが、ホンジュラス側が批准しなかった。しかし、そのごエ
ルサルバドルのメアングェラ島における存在は、エルサルバドルが、メアングェラ島にた
いする主権をおこない、そのご実効的占有と支配をおこなってきたという事実は、エルサ
ルバドルを同島にたいする主権者とみなしうる。
5)海域の地位について 当事国と学説も、フォンセカ湾が歴史的湾〔内水の要件をみた
していなくとも、慣行で内水とみとめられているもの〕であることに、意見が一致しており、
湾内水域は、共同主権の特有の制度に服するものである。その例外として、1917年判決
のように、湾内沿岸3カイリ水域は、排他的管轄水域であるが、その3カイリ外側に沿岸
国は、大陸棚も、排他的経済水域も、公海も有しない。湾内水域が、共有の地位にあり、
3国の共同主権に服する内水であるために、閉鎖線には3国とも存在し、ホンジュラスが
湾外の海洋にかんして締めだされることはない。湾内と湾外をわける基線は、地理的状
況から、プンタ・アンパラとプンタ・コシグィナ間の線である。湾外については、まず閉鎖線
の両端3カイリは、エルサルバドルとニカラグアの排他的管轄水域である。3共同主権者
のすべてが、閉鎖線の外側に領海、大陸棚、排他的経済水域の権原を有するのでなけ
ればならない。湾外で、共同主権の状況をそのままにするか、あるいは3国の区域に分
割すべきかは、湾内と同様、3国のきめるところによる。
解説 1)湾の閉鎖線に、3国が存在するとの、一見し衡平な、だが抽象的、仮想的な
概念の判決は、筆者の知るかぎり、これが最初である。リビア・マルタ事件の判決では、
沿岸国が大陸棚をもちうるのは、「その海岸をとおして」ということであった。複数の沿岸
国を有する湾は、およそ法的制度としての湾たる地位をもちえず、またフォンカセ湾を歴
史的湾と位置づける根拠もないとの反対意見もある。(小田滋裁判官、前掲、国外、116
頁)2)いずれにせよ、本件も、領域にかんする国際法の灰色の部分において、判決が、
いかに当事国の権利義務関係を明確にし、あるいは、裁判所がいかに立法的な性格を
おびた判決をもくだすかの一端をうかがいしることができる。大陸棚の開発が可能にな
り、それにたいする主権的権利の行使がみとめられるや、この制度は、その生成過程に
おいて、いろいろ複雑な態様にであろう。そのような場合、ましてや一方的な主張がその
まま、つねに国際法の支柱にたっているとの独善は危険であると、ここでも一言のべて
おきたい。3)前項の3)についてであるが、米国が尖閣諸島の施政権を日本に返還する
ことにたいしては、中国がつよく反発した。
註
(1)ギリシアがトルコ沿岸のほとんどの島を領有しているので、現在も問題が発生してい
る。
(2)1996年には、インドネシアとマレーシアとの首脳会談で、シパダンとリギタン島の領
有権問題を国際司法裁判所にゆだねることで合意した。
(3)横田洋三、前掲、258―259頁
「世界の領土・境界紛争と国際裁判」
外交交渉と司法的解決の採用を目指して
金子利喜男
明石書店
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