尖閣諸島の領有権問題

尖閣列島ノート・U
高橋庄五郎著

青年出版社





尖閣列島あれこれZ

 (1)藤田元治の削除
 藤田元治氏は、一九三八年冨山房から出版した『日支交通の研究』『中近世論』のな
かで、おおよそつぎのように述べている。

  台湾の北富貴角を東にまわると、基隆港口に基隆嶼周囲二〇町(筆者注 約二、二
〇〇メートル)の孤立せる黒 岩がある。其の北に花瓶、綿花、彭佳の三嶼が鼎足の形
をなしている。この彭佳嶼の東にさらに尖閣群島がある。日本の多くの地図には載って
いない。台湾の版図にも沖縄の版図にも、そこまで広く書いていないのが例であるから
だが、日本総図ならば載せなくてはならぬ島である。もちろん沖縄県八重山郡に属する
帝国領土で ある。尖閣の名は沖縄県師範学校教諭黒岩恒氏の実地踏査の時の命名
で、明治三十三年の地学雑誌に同氏の報 告がある。この諸島の中で最大のものを鉤
魚嶼という。英国製の地図にピンナクル島 Pinnacle Is. と出てい る。ところがこの島を
沖縄県人はユクン・クバと呼ぶ。これは随書『琉球伝』に記されているところの義安すな
わち広東から琉球に至る航路のうちに●●嶼の名残りである。●●は音クヒ、すなわち
クバである。ユクンとは「ユークの」という語の約で、つまり「琉球のクバ」という意である。
日本人は隋の煬帝の大業三年 (六○七年、聖徳太子摂政十五年)ころの名だというこ
とをしらないから鉤魚(ky y●)という字を誤って逆に魚 釣島ということにしてしまった。そ
れはともかくこうした記録によって一、三○○年来中国と日本との航路に は重要な島で
あったことがわかる。この島は実に台湾の北端を離れて、南風に乗じて東へ十更、西表
島の北九○浬、基隆から一二○浬にあたり、沖縄島へ二三○浬であるが、陳侃使録に
は「十日南風甚迅、舟行如飛、然順流而下、亦不甚動。過平喜山、鉤魚嶼過黄色嶼過
赤嶼目不暇接、一昼夜兼三日之路、夷舟帆小、不能相及矣、相失在後、十一日夕見古
米山」とあるところで、南風にあえば順流即ち黒潮にものるので三日の路を一昼夜で快
走することが出来たと見える。平嘉山というのは彭嘉山であり、現在の彭佳嶼である。

 ところが藤田元治氏は、十一日夕見古米山のつぎに、「乃属琉球者、夷人歌舞於舟、
喜達於家」とあるのを削除してしまっている。陳侃の『使琉球録』は、古米山(久米島)を見
て、これを「すなわち琉球に属するもの」としたのだから、久米島からが琉球だとしたの
で、久米島を見て夷人(琉球人)たちは舟の上で、ああ無事に家に帰ってきたと小おどりし
て喜んだのである。どうして、藤田氏はこのところを削除したのか。これを削除しないと尖
閣列島が「八重山郡に属する帝国領土」といえなくなるからではないのか。「夷人歌舞於
舟、喜達於家」のあとにまだ記述は続き、久米島を望見したのちに東風になり、「進寸退
尺」の状態で二十五日ようやく那覇港に入ったわけだが、「喜達於家」までは当然引用す
べきである。
 そしてまた、藤田元春氏は「ユクン・クバ」は「琉球のクバ島」ということであるとして、尖
閣列島を「琉球の島」であると論証しようとしている。しかし、八重山でイーグン・クバシマ
と呼んだイーグンは八重山方言で魚を突いてとる銛のことで、クバシマはクバの葉が繁
茂しているからそのように呼んだのである。尖閣列島周辺は、各種の文献によって明ら
かなように、今も昔もサバ、カツオ、カジキマグロ、サメ等の魚の宝庫であり、釣魚台、釣
魚嶼、魚釣島等の呼称が由来するユクンあるいはイーグンはこの島に関係しており、「琉
球の」ということではない。

  (2)倭寇と尖閣列島と沖縄

 井上清氏教授は『尖閣列島』(現代評論社刊、一九七二年)の中で述べている。

  おそくとも十六世紀には、釣魚諸島が中国領であったことを示す、もう一種の文献が
ある。それは、陳侃や
 郭汝霖とほぼ同時代の胡宗憲が編纂した『籌海図編』(一五六一年の序文あり)であ
る。胡宗憲は、当時中
 国沿海を荒らしまわっていた倭寇と、数十百戦してこれを撃退した名将で、右の書は、
その経験を総括し、倭
 寇防衛の戦略戦術と城塞・哨所などの配置や兵器の制・船艦の制などを説明した本で
ある。
  本書の巻一「沿海山沙図」の「福七」〜「福八」にまたがって、福建省の羅源県、寧徳
県の沿海の島々が示
 されている。そこに「鶏籠山」、「彭加山」、「釣魚嶼」、「化瓶山」、「黄尾山」、「橄欖山」、
「赤嶼」が、この順に
 西から東へ連なっている。これらの島々が、現在のどれに当たるか、いちいちの考証は
私はまだしていない。
  しか し、これらの島々が、福州南方の海に、台湾の基隆沖から東に連なるもので、釣
魚諸島をふくんでいるこ
 とは疑いない。
  この図は、釣魚諸島が福建沿海の中国領の島々の中に加えられていたことを示して
いる。『籌海図編』の巻
 一は、福建のみでなく倭寇のおそう中国沿海の全域にわたる地図を、西南地方から東
北地方の順にかかげて
 いるが、そのどれにも、中国領以外の地域は入っていないので、釣魚諸島だけが中国
領でないとする根拠はど
 にもない。
 これに対し奥原敏雄教授は、『中央公論』一九七八年七月号の論文「尖閣列島領有権
の根拠」でつぎのように反論している。

  井上清氏は、鄭若曽の『籌海図編』巻一の「福建沿海山沙図」をもち出して、その中
に釣魚台などの見出さ れることをもって、これらが中国領の島嶼とみなされていたとさ
れる。しかし、『籌海図編』における右の事 実を中国の領有論拠だとすることは、陳侃、
郭汝霖使録よりもさらに劣るといってよいであろう。大体、沿海 図といった性格のもの
は、かならずしも、自国の領土だけでなく、その付近にある島々や地域を含めるもので 
あって、たとえば、日本の沿海図であれば、朝鮮半島の南端の一部が含まれることもあ
るし、台湾省の沿海図 では、与那国島や石垣島なども、示されるのが普通である。むし
ろ『籌海図編』を引用するのであれば、同書 巻一の十七「福建界」が当時の福建省の境
界を示すものとして適当であるといえよう。だが、この地図に示さ れているのは、澎佳山
までであって、少琉球(台湾)、釣魚台などは描かれていない。『籌海図編』は台湾が中 
国の版図に編入された一六八三年よりも百二十一年前に書かれたものであるから、台
湾が「福建界」の外に置 かれていたのは当然であった。それだけでなく、釣魚台などが
「福建界」のなかに描かれていないことは、魚 釣台などが当時中国領でなかったことを
明らかにしているとさえいえるのであろう。

 倭寇の歴史のなかで、倭寇がもっともひどく暴れ回ったのは、一五五三(中国の嘉靖三
十二)年から一五五九(嘉靖三十八)年のあいだである。一五五三年王直が数十群の倭
寇を糾合したが、これは最大の倭寇であった。この倭寇討伐のため、中国の明朝は一五
五六年に胡宗憲を倭寇討伐総督に任命した。明朝はすでに何回も日本国王に対して倭
寇を取締まってくれと使者をだしていた。胡宗憲の前任者揚宜は、鄭舜功を使者として日
本に送った。このとき鄭は二年も日本に滞在した。胡宗憲も蒋洲と陳可願を日本に送り、
王直と会談させた。胡宗憲と王直とは同郷人だったのである。一五六○(嘉靖三十九)
年に、うまく故郷におびきよせた王直を胡宗憲は処刑し、倭寇を征伐した。しかし、このこ
とによって倭寇が滅びたわけではない。鄭舜功は『日本一鑑』を著わした。蒋洲は帰国し
て、明代第一の地理学者であった鄭若曽に、日本で調査した資料を提供し、鄭舜曽は
『籌海図編』を著わした。『籌海図編』の実際の著者は胡宗憲でなく鄭若曽である。
 この『籌海図編』は、中国人の日本に対する知識を一変させたものであった。司馬遼太
郎氏は『籌海図編』はながい中国の歴史のなかで、最初に出現した日本研究書であると
いっている。一六二一年(中国明朝の天啓元年)の茅元儀の『武備志』の日本に関する
部分は、『籌海図編』からそのまま取られている。藤田元治氏によれば、中国では、倭寇
が中国を侵略するようになってから、陳侃の記録や『籌海図編』、『広興図』などが書かれ
たもので、それ以前の中国は日本を辺境の地として重視していなかったといっている。
 ところが倭寇の根拠地は、沖縄に意外に多いことを知った。一般に知られているのは、
宮古島東端に近い城辺町の上比屋山の倭寇の根拠地であるが、司馬遼太郎氏の『街
道をゆく6』を呼んで驚いたのである。司馬氏は稲村賢敷著『琉球諸島における倭寇史跡
の研究』(一九五七年)に読んだという。著者が出版元の吉川弘文館にきたら一九六二
年に売り切れて、そのご重刷していないという。
 稲村氏の踏査によると、と司馬氏は書いているが、倭寇遺跡は沖縄に多い。とくに先島
である八重山諸島において痕跡がおびただしい。そして司馬氏は、「日本の中世末期か
ら、中国の元・宋から明代いっぱいにかけて、倭寇は東シナ海の波涛を自分の家の座敷
のようにかけまわった。この武装商人もしくは海抜の活動というのは明帝国の寿命を早
めさせたほどのもので、中国側の資料を読むだけでも、その運動のはがしさはどうやら後
世のわれわれの想像をよほど大きくしなければならないほどのものだったらしい」といっ
ている。
 海抜四八メートルの竹富島には倭寇の見張所がある。沖縄では倭寇のことをかわらと
呼んだ。これは倭寇と同義語の甲螺のことで、倭寇は小部隊の大将のことを「頭」と呼
び、かわらは竹富島の小波本御岳の祝詞にもあるという。
 沖縄の先島では倭寇が住んでいた土地にはがーら(かわら)の名称がついているのが
多いという。宮古島の上野村字中山「がーら原」という部落があり、倭寇の子孫の村だと
される。その氏神を「がーら殿御岳」と呼ぶ。倭寇の子孫だとされる家系では、子供に、多
くの場合「がーら」という童名をつけた。
 このような話を聞くと、胡宗憲が、尖閣列島を防衛区域に入れたということがうなずけ
る。陳侃が琉球に使いする以前から、釣魚島、黄尾嶼、赤尾嶼などは、福州から那覇へ
の海の道であった。これは福州から那覇へと続く島の道であり、中国は個々の島に名を
付けた。胡宗憲は倭寇との徹底抗戦の陣を敷いたのだから、釣魚島などを防衛区域に
いれても不思議はない。胡宗憲が倭寇と対決したときには、琉球の安全は中国の安全に
とって重要であるというような考えはなかった。中国では倭寇の進入について、気象、地
理、軍事等の研究をし、倭寇の侵入海路が風の方向と強弱によって決まること、大陸に
近付くと島を伝わってやってくることなどを知った。嘉靖年間の中国の防衛方法は「海を
防ぐは会哨にあり」とした。会哨とは海上を哨戒する戦船が一定の決められた島で会合
し、前後左右と組織的に連携して哨戒することである。と同時に陸上の築城をおこなっ
た。その城の数は実に多い。




     (3)清国領になろうとした宮古・八重山群島

島津の侵略により「日中両族」となった琉球
 一三七二年、中国(明)の太祖が琉球の中山王察度に詔諭をあたえて以来、琉球の北
山、中山、南山の三王は中国に朝貢し、一四○二年に中山王が三山を統一して、一四○
四年には中国(明)の太祖の冊封使が琉球に来ている。尖閣列島は琉球と中国との交
通路にあたり、また琉球王はシャム、パレンバン、マッラカ、スマトラ、アンナンなどと手広
く貿易をやるようになると、尖閣列島は当時の海の銀座通りになったといってよい。潮流
の関係で中国や南方諸国から帰る船は、尖閣列島を目標にかじをとった。琉球から中国
へ行った船は、すべて福州にはいった。福州には「琉球館」が設けられた。だから尖閣列
島は沖縄と福州とのあいだにある島なのである。琉球王朝は、朝貢貿易という名の中国
との貿易で、栄えたのである。また南方との貿易でも多くの利を得た。一六世紀に中国
(明)は、中国貿易船の日本渡航を禁止し、また一五四七年に中国の寧波港で、日本の
細川船と大内船が大ゲンカししたので、中国は日本の朝貢貿易を禁止してしまった。この
ことによって、中国と貿易をしていた薩摩の島津も大打撃を受けた。琉球は中国とは十
四世紀以来、朝貢冊封の関係にあって貿易で栄えていたので、島津義久はこれに目を
つけ、琉球の中国との貿易を支配することによって、その利権を奪い「以って宿債を償な
わん」としたのである。徳川家康から「琉球征伐」の許しをえた島津義久は、一六○九
(慶長十四)年三月、一○○余隻の船に三、○○○余人の兵を乗せて琉球領の奄美大
島を攻め、三月五日には運天港に到着、四月三日に首里城に迫り、尚寧王は降伏した。
島津はこの侵略戦争で、琉球を付庸の国(植民地)とし、琉中貿易の利を独占的に収奪
したのである。このときから、琉球は「日中両属」となった。琉中貿易は実に利益が大き
かった。
「唐一倍」といわれたように、倍ももうかったのである。あるものは一○倍にもなった。こ
の利益を保護するためには、琉球の中国に対する朝貢冊封の関係を維持させなければ
ならないし、琉球が薩摩藩の付庸の国であることを中国に知られてはまずい。薩摩は十
五条の掟で琉球をがんじがらめに縛ってしまったが、中国は琉球に対して全く内政干渉
をしなかった。ましてや琉中間に領土問題などはありえなかった。琉球は三六島であり、
福州とのあいだをひん繁に往復した琉球の官史や船員にとって、琉球と福州とのあいだ
に散在し、中国が島名も付けている釣魚台や黄色嶼や赤尾嶼などは当然宋主国である
中国のものであった。

 琉球と日中交渉

 幕藩体制を倒し、王政復古によって成立した明治維新政府は、一八六八(明治元)年十
一月に、薩摩藩を通じて王政復古を琉球王尚泰に通告した。琉球王は、王政復古という
からには、薩摩藩の島津に奪われた、奄美大島から与論島までの旧琉球領土を返してく
れるのかと思ったほどに、天皇については知らなかった。明治政府は一八七二(明治五)
年九月に琉球正尚健を東京に呼び、琉球王を琉球藩王にし、日本の華族にしてしまっ
た。琉球王は宋主国である中国に助けを求めた。そこで中国(清)は琉球を助けるため
に、駐日公使何如璋に命じて日本政府と交渉させ,琉球は中国の属国だと主張した。
 一八七四(明治七)年十二月十五日に大久保利通内務卿が三条実美太政大臣にだし
た「琉球藩所分方之犠ニ付伺」に、そのようすがよくでている。一八七一年十一月に琉球
人五四人が、台湾に漂着して殺されたことを口実に、一八七四年五月十七日に,明治政
府は将兵三、六五八人を派遣して台湾侵略をやった。幕藩体制のもとにあった下級武士
の不平不満が激化して、明治政府政権崩壊の危機を感じた維新政府は、一方ではロシ
アの圧力で樺太から撤退し、他方では征韓か征台かを激論した。一八七四年二月に征
台と決まった。台湾無主の地だという口実で出兵したら、中国から猛反撃をくった。中国
と交渉のため出向いた大久保内務卿は,全く身の細る思いで「これまでの焦思苦心言語
の尽くすところにあらず」「この日終生忘るべからず」といった。しかし,この交渉で大久保
内務卿は中国か五○万両をせしめたので、沖縄の帰属問題は決着したと思った。ところ
がそうはゆかなかった。「琉球藩所分方之犠ニ付伺」のなかで、「曖昧糢糊として日,中
何れの所属か決まらず、はなはだ不体裁とは思いますが」とボヤいている。
 琉球王はあいかわらず中国との朝貢関係を続けていたので、一八七九年一月に松田
道之内務大書記を那覇に派遣し,琉球王に対して、これまで命令したことにしたがわな
いのはどういうわけか詰問し、「督責書」を手渡した。これに対して琉球王は、この問題は
目下東京で清国大使と日本政府がはなしあっているから,その交渉が妥結するまでは、
命令にしたがうわけにはいかぬとハッキリ断った。松田道之内務大書記はすっかり頭に
きて、「後日の処分を待て」といっいてひとまずひきあげた。そして三月二十七日、松田道
之内務大書記は歩兵四○○人、警官一六○人をひきいて首里城にのりこみ、病臥中の
尚泰王の代理人今帰仁王子に対して、三条実美太鼓大臣の廃藩置県の達示を読み上
げた。二分ともかからなかった。武力を背景にした明治政府の断固たる処置に、琉球王
は服さざるえなかった。「古兵寸兵を治めず、専ら口舌を持って外交の衝に当たって」き
た五○○年の歴史をもつ琉球王朝は亡びた。しかし王族や支配階級のていこうは続い
た。問題はすべて解決したわけではなかった。

明治天皇とグラント将軍の会見

アメリカの第一八代大統領グラント将軍は、大統領をやめてから世界漫遊の旅にでて中
国を訪問し、恭親王と李鴻章北洋大臣にあった。そのとき中国(清)側から琉球問題がだ
された。一八七九年八月十日にグラント将軍は浜離宮で明治天皇と会見した。このとき
の記録に「一八七九年八月十日浜離宮ニ於テ,聖上、ゼネラル・グランド御対話筆記」が
ある。グラント将軍は中国の恭親王や李鴻章北洋大臣から琉球問題の話をきき、琉球の
帰属問題について日・中間の斡旋にのりだしたのである。グラント将軍は天皇に会う前
に、ビンハム米駐日公使はすでに数回日本政府と会談をおこなっている。グラント将軍
は明治天皇に、要旨こういっている。

  日本に来て話を聞いてみて、日本の主張することもわかるが、中国の考えも察しなけ
ればならない。中国は 昔から琉球の関係があるのに、今回の日本政府の琉球処分を、
和親の道ではないと考えており、また中国は台 湾事件(筆者注一八七四年の台湾侵
略)の屈辱を忘れられないでいる。日本が琉球を支配下におくことによっ て、日本はふ
たたび台湾を奪って、中国と太平洋のあいだを遮断しようとする意図がある、という疑念
を中国 はもっている。中国の心情も察して、中国に一歩譲った方がよい。私が中国で聞
いたところでは、琉球の諸島 間に境界線をきめ、中国が太平洋にでる道をあたえるな
ら、中国も承諾するのではないか。

 グラント将軍の助言と示唆で、明治政府がたてた政策は、宮古・八重山諸島を中国に
渡して、中国から最恵国待遇を手にいれようとしたことである。一八八○年六月に天皇
は、中国駐在の穴戸?公使を駐清特命全権大使に任命し、翌一八八一年二月には宮
古・八重山諸島を中国に渡すことまで話しあわれた。沖縄諸島と宮古諸島のあいだの約
三○○キロメートルの海の中間に、境界線を引くというものであった。中国の考えでは薩
摩藩が琉球から奪った奄美大島を日本領とし,沖縄本島を中心にする諸島は元の琉球
王の領地とし、宮古・八重山群島を清国領とするものであった。この日中間交渉は一八
八六(明治十九)年に至っても解決しなかった。


    (4)  尖閣列島とサバニ

 沖縄の先島(筆者注 宮古・八重山群島)では、中国名の魚釣台と黄尾嶼は、古来から
ユクン・クバシマの名で親しまれていた。ユクンとは魚島の意であるから,魚釣島が当時
から両国(筆者注 日中両国)の好漁場として知られていた(傍点は筆者)のであろう(奥
原敏雄論文「尖閣列島」『沖縄タイムス』一九七○年九月二日号)。

 逆風や逆流や台風などによって、列島への渡海や移住の試みが失敗したことはあった
が、こうした事実は、尖閣列島が日本に編入される以前の一時期、すなわち明治二十四
(一八九一)年ごろまでであった。
 彼らが列島への渡海や移住に失敗したのは、渡航の時期や季節風、自然環境などを
無視したこともあったが、最大の理由は、資本もなく、しかも伝馬船や沖縄で用いられて
いるサバニといったくり船で船で列島に渡ろうと試みたからであった・・・・・・。
 基隆より台湾漁船が列島に赴き,操業をおこなうようになったのは、第一次大戦終了前
後のころからのようである(奥原敏雄論文「尖閣列島の領有権と『明報』論文」『中国』一
九七一年六月号)。

奥原氏のこの二つの論文には、おかしな点がある。
 第一のおかしな点は、奥原氏が「古来からユクン・クバシマの名で親しまれた……魚釣
島が……両国の好漁場として知られていた」というが、それでは古来、先島諸島からどん
な漁船で魚釣島に行ったのか。沖縄のなかでも特に貧しい先島諸島の漁民たちは、小さ
なサバニしか持っていなかったと思う。彼らは人頭税と名子制度に苦しみ抜いており、悲
惨な生活を強いられていた。この人頭税は一九○三(明治三十六)年までも残されてい
た。また古来というからには、五○年や一○○年前のことではあるまい。
 第二のおかしな点は、渡航の困難なユクン・クバシマがどうして先人の人たちに親しま
れたのかということである。実生活と深いかかわりあいのない無人島に、どうして親しみ
をもったのか。親しみをもつからには、しばしばそれを見て美しいと感じたのか。尖閣列
島は決して美しい島ではない。では先島の人たちの生活に豊かさをもたらかしたのか。
尖閣列島が開発されるまではそんなこともなかった。では航路の目標として親しまれた
のか。これはありうる。しかし、そのような親しみをもった者は、朝貢船か南方諸国との貿
易船の乗組員たちだけであったと思う。そして、それはどごく少数の人たちであった。宮
古島の保良は海上交易が盛んなころの重要な港であ
ったが,朝貢船、貿易船のほとんどは、那覇からでて那覇に帰ってきた。薩摩藩が琉球
の貿易を牛耳っていたからである。牧野清氏は「八重山としては、十五世紀の末葉ころ
から始まった南蛮貿易業者や、沖縄航海に従事していた一部の人々にのみ知られてた
いと思われる。それが一般的にイーグンクバジマとして広く知られるようになったのは、
古賀辰四郎氏が魚釣島やクバ島で事業をはじめてからであるようだ」といっているが筆
者もそう思う。それは決して古来からではない。一九六九年になっても尖閣列島は「交通
の便がないために普通に人々が行くことができない、彼方の夢の島」(「尖閣列島標柱建
立報告書」一九六九五月十五日)であった。
 第三のおかしな点は、尖閣列島への渡海や移住の試みに失敗したというのは、一八九
一(明治二十四)年ごろまでであったというが、一八九三(明治二十六)年には伊沢弥喜太
氏が渡航したが、帰路台風に遭って福州に漂着している。伊沢氏は汽船で渡ったわけで
なくサバニか伝馬船で渡ったものであろう。
 では、沖縄にはどんな船があったのか。
 マーラン船=これは中国から造船技術を学んで造られた船で、朝貢や海外貿易に使わ
れた三本マストの帆船である。中国のジャンク船に似た船である。帆はガマを織ってつく
ったガマ帆であった。
 山原船=近代になってから、沖縄本島の北部の山原から木材や薪を運ぶために、マー
ラン船の小型のものが造られた。これが山原船である。一八七九年の廃藩置県後も山
原船は国頭地方の住民にとって、唯一の交通機関、輸送手段であった。
 サバニ=これはくり船といわれる。一八九一(明治二十四)年までは、日本には動力付
きの漁船は一隻もなかった。そして全国の漁船のうちくり船は二・一%で、沖縄には二、
三一九隻のくり船があった(全国のくり船数は六、二五一隻)。糸満のサバニは船足は非
常に速いが、ひっくりかえり易いものである。トカラのくり船は頑丈で安定していたが、そ
のかわり糸満のくり船のような操縦の軽快さを欠いていた(「九州・沖縄篇」『風土記日
本』平凡社刊、九四〜一○七頁)。沖縄に石油発動機ができたのは一九一一(明治四十
四)年ごろからである。
 フィリピン型漁船=長い棒を横に出して、船の安定を保つようにしたもの。
 和風型=沖縄本島以外の島々で、初めて沖縄本島などを巡航できる船を造ったのは宮
古島である。これは本土から流れてきた船大工によて造られたもので、艫には舵もつい
ており日本の帆柱をもっていた。宮古島から首里王朝へ朝貢船につかわれた(司馬遼太
郎著『街道をゆく6』一三二〜三頁参照)。
 一八八二(明治十五)年以降、田代安定、赤堀廉蔵、笹森儀助氏らが沖縄探検をおこ
なっている。このうち田代安定氏は三回探検し、一八八五年に第二回目の探検をおこな
ったが、西表島から与那国島に渡るのに、サバニでは渡れなかった。やむなく彼は、西表
から四〜五○キロメートルの波照間島に渡った。それにはサバニ二隻を横に並べて、こ
れをくくりつけてようやく渡った。サバニでは、西表島から七○キロメートル離れた与那国
には、渡れなかったのである。だから宮古、八重山などの先島諸島から百数十キロメート
ルも離れた魚釣島に、魚をとりにゆくのは非常に困難であった。また蛋白源としての魚貝
類は、苦労して魚釣島まで行かずとも、島の近辺でとることができた。五月から九月は扁
南風が吹き、沖縄は台風の銀座である。そして十月から翌年四月までは「新北風」とい
われる北東の季節風が吹く。とくに二月風廻といわれる一月、二月は海の荒れる季節で
ある。
 司馬遼太郎氏の『街道をゆく6』(朝日新聞社刊)に与那国の「小さな魚市」というのが
ある。
 婦人が魚屋さんに「いくらですか」ときくと、若い主人は「一斤三百円です」と答えた。司
馬氏が沖縄の一斤は何グラムかと聞いてたら「この魚四匹です」というおおらかな答えだ
った。だから何グラムかわからないが、一ぴき七五円であるということはたしかである。し
かし、商売にしているのかといえばそうでない。この島で
は、竹富島もそうであるように、魚屋という独立の商業は存在しないのである。農家の者
でも釣りに行って、余分に釣れれば臨時に魚屋になって、それを近所のひとに売ってやる
という仕組みなのである。いかにもそれがのんきそうで、いい眺めだったという。また貝は
海岸で子供が拾えるから、一家の働き手が半日仕事を休んで採りにゆかなければなら
ぬようなしろものでなかった。
 司馬氏のこの見聞は、一九七四年のことである。何も危険をおかして魚をとりに、尖閣
列島まででかける必要はない。これは今も昔もおなじである。
 一九六八年現在で、沖縄の一トン未満のくり船と一〜五トン級沿岸漁船との合計は、
沖縄の全魚船数の九○
%五〜五○トンの近海漁船は八%、五○トン以上のものは二%である。(『日本の文化
地理』講談社刊、第一七巻二六六頁)。
 ところが魚釣島周辺は、台湾漁民にとっては大きな利害関係がある。一九五○年代の
末ごろから台湾漁船の数が急激に増え、魚釣島周辺は台湾漁民の好漁場で、年間三、
○○○隻の漁船が漁撈に従事しているという。台
湾漁民のうち、尖閣列島周辺に出漁しているのは宣蘭県の漁民がもっとも多く、宣蘭県
にある一、三○○余隻のうち三○○余隻が操業していた。尖閣列島周辺での台湾の水
揚量は、一九五八年で一万七、○○○トンであったという(一九六八年の沖縄全体の水
揚量は三万三、四二三トン)。だから宣蘭県漁民にとっては、生活がかっている
わけである。台湾漁民は尖閣列島に夜間碇泊できなくなると、水揚げが激減することに
なるという。しかし最近でも沖縄から尖閣列島周辺に出漁する漁船はいない。奥原教授
は日本が台湾を支配していた当時の台湾漁民の魚釣島周辺での漁撈は、国際法的には
日本人としての行為であったといっている。しかし問題は、台湾漁民の方が
尖閣列島に深いつながりがあったということである。
 たしかに、尖閣列島周辺海域には魚が多い。黒潮にのって北上するカツオ、マグロ、カ
ジキ等は、必ずこのあ
たりを通り、またサメ類、サバ、アジなどもいた。しかし尖閣列島は、琉球人にとって古来
から明治になって
も、小さなサバニで危険を冒し、何日もかけて、冷凍も発達していない時代に、魚とりにい
かなければな
らない好漁場ではなかった。琉球人の生活にとって尖閣諸島は、あまり関係のない、まさ
に「夢の島」だったのである。



  (5) 尖閣列島の発見者はだれか

 沖縄の人たちで、尖閣列島を発見したのは古賀辰四郎氏だという人がいる。それは、
そのようにきかされてきたからだろうが、これは全くの誤りである。また、日清戦争直後に
『熊本日日新聞』が報道したといわれる、伊沢弥喜太郎が鳥島(尖閣列島のこと)を発見
というのも誤りである。これらの発見というのは、彼らがはじめて尖閣列島を見たというこ
とで、この誤りは歴史がこれを証明している。
 古賀氏や伊沢氏が、いまでも八重山の古老のあいだで、イーグン・クバ島といわれてい
る尖閣列島に行ったときには、尖閣列島の島々には、すでに中国が島名が付けていた。
そして、その島名は、中国や琉球の古文書にもはっきり書いてある。一八八五(明治十
八)年九月ニ十二日付けで西村捨三沖縄県令が山県有朋内務卿に提出した公文書の
なかでも釣魚台、黄色嶼、赤色嶼、の島名が使われている。
 一三七二年、明の太祖が琉球の中山王察度に招諭を与えて以来、琉球の北山、中山、
南山の三王は中国(明)に朝貢し、一四○二年には中山王が三山を統一して、一四○四
年には明の太祖の冊封使が琉球に来た。
 尖閣列島は琉球と中国とのひん繁な往来の交通路にあたり、また一五世紀以来、琉球
が東南アジア(とは当時はいわなかった)のルソン(フィリッピン)、シャム(タイ)、マラッカ
(マレーシア)、ボルネオ、スマトラ、スダン、ジャワ、サンプツサイ(パレンパン)パタニ(ビル
マ)などと手広く貿易をやるようになると、尖閣列島の辺りは、まさに海の銀座どおりとな
った。福州から那覇へはいる船も、南方諸国との貿易船も釣魚嶼(また魚釣台あるいは
釣魚山)―黄色嶼―赤尾嶼(または赤嶼)そして久米島―那覇という航路をとったから、
尖閣列島はこれらの人たちによく知られていた。琉球から中国に行った船は、みな福州
にはいった。福州には「琉球館」ができた。琉球王朝は貿易によって繁栄したのである。
沖縄の記録によると、「琉球から南方にでかけた貿易船は、シャムがもっとも多く五八船
で、合計一○四隻となっているが、実際には一五○隻を下らなかったといわれている」
(『日本の文化地理』講談社、第十七巻)。
 琉球は中国に対して礼節を尽くしたので、中国は琉球を守礼の国とよんだ。琉球は中国
に朝貢し、中国は琉球王を冊封した。薩摩藩の島津義久は、琉球の対中国貿易の利権
を手にいれようとして、豊臣秀吉とも話しをつけていたが、あらためて徳川家康から「琉球
征伐」の許しを得て得て、一六○九(慶長十四)年「琉球征伐」をし、琉球を「付庸の国」
(殖民地)にした。そして琉中貿易の利益を収奪した。
 そればかりでなく、島津は琉球の産物を収奪した。薩摩藩が琉球に要求したのは、年貢
米九、○○○余石、
芭蕉布三、○○○反、琉球上布六○反、下布一万反、ラミー(唐苧)一万三、○○○斤、
い草のむしろ三万八、○○○枚、しゆろ縄一○○方であった。八重山上布は美しい伝統
的な布である。女たちは麻の繊維から糸を紡
ぎ、染めあげ、夜になると番所で役人の監視のもとで布を織った。昼は男とともにに野良
で働いた女たちにとって、夜も憩いの時ではなかった。一晩に一尺をおるのがせいぜい
だった。美しい八重山布には、女たちの恨みが織り込まれていた。そのことは平凡社刊
『日本残酷物語』に明らかである。
 また、「久米島の仲里村の真謝部落は紬の里といわれており、いまでも織られている。
琉球王朝はこの袖を中国と薩摩に貢いだ。織り方がまずかったり、期限におくれたりする
と織った布で体を縛られ、村じゅうを引き回されたりした」(『沖縄の孤島』朝日新聞社
刊)。
 琉球の税制は統一されておらず、税は現物納であった。とくに宮古、八重山の農民は
人類税と名子制度に苦しめられ、過酷な労働を強いられた。このような、しいたげられ
人々にとって、尖閣列島は全く関心の外にあった。だから古賀辰四郎氏が尖閣列島を発
見したときいても、別に興味をしめさなかった。日常生活に関心がなかったから、尖閣列
島をしらなくても、それですんだのである。




    (6) 日清戦争とバカ鳥の島

古賀辰四郎という人
 牧野清氏の「尖閣列島小史」によれば、古賀辰四郎氏は古賀門次郎氏の三男で、一八
五六(安政三)年に福岡県八女郡山田村に生まれた。ここは八女茶の産地である。実家
は代々茶の栽培と製造をしていた中流農家だった。一八七九(明治十二)年に二十四歳
で那覇に渡り、寄留商人として茶と海産物業の古賀商店を開いた。
 一八七九年といえば、明治政府が王制復古、廃藩置県の大号礼をだしても尚泰琉球
王はどうしても従わず、従来どおり中国との関係を断たなかったので、政府は四○○人
の兵と一六○人の警察官を差し向けて、全く軍備をもっていなかった首里城を接取し、武
力を背景に琉球処分をやった年である。
 琉球王は中国に助けをもとめた。前アメリカ大統領グラント将軍が、世界漫遊の旅にで
て中国を訪問した際、李鴻章北洋大臣から日本政府の琉球処分についてあっ旋を頼ま
れ、明治天皇と琉球問題について話した年である。 牧野清氏は、古賀氏は生来進取の
気性に富んだ人だったと書いているが、なかなか太っ腹の人だったようである。四月に
沖縄に廃藩置県が強行された直後に那覇に渡ったのだから冒険好きといえる。沖縄で
燕尾服を着たのも、ドイツ製の安全カミソリをもったのも、ピストルを手に入れたのも古賀
氏が最初であった。古賀氏がピストルをもって台湾探検をしたのは一八九七年であった
が、彼はピストルを使わなかった。また彼は、二台の遠心分離機を買って分密糖製造を
始めたり、御木本幸吉氏と共同出資で石垣島名蔵湾で真珠養殖をしたりしている。また
いちはやく大東島の開拓にとりくんだが、のちにこれを玉置半右衛門氏に譲ってしまっ
た。古賀氏は養殖興業の功によって一九○九年に藍綬褒章を受けた。沖縄で藍綬褒章
を受けたのは、慶良間のカツオ漁業の功労者松田和三郎についで二人目であった。
  牧野氏によると、古賀氏は石垣島に支店を出した翌々年の一八八四(明治十七)年
に尖閣列島を探検して、その有望性を認め、ただちに鳥毛、フカのひれ、貝類、ベッ甲な
どの事業に着手し、その直後に仲御神島を探検して、同島にも目標の事業を始めた、と
なっている。これはどうも手際がよすぎる。
 上地龍典著『尖閣列島と竹島』では「石垣市で尖閣列島の話を聞いた古賀は、明治十
七(一八八四)年人を派遣して列島の探検調査に当たらせ……無人島開拓に意欲を燃
す』とあり、古賀氏自身は尖閣列島に渡っていない。
 一九六八年の高岡大輔氏のリポートには「尖閣列島の開拓史についての詳細を知る
由もないが、八重山歴史と島の所有者……古賀善次氏の話とを総合するに、福岡県で
茶舗を営んでいた故古賀辰四郎氏が山茶を求めて無人島を探検している時に初めて開
発したもので、明治十七(一八八四)年のことだったという」と書いてある。
 ところが、新里金福・大城立祐『沖縄の百年』太平出版社刊、第一巻によると、「廃藩置
県後に那覇に渡った古賀は大東島やラサ島(沖大東島)、赤尾嶼、仲御神島などを探検し
た、そして彼が尖閣列島を発見したのは日清戦争の直前である」と書いている。
 『沖縄の百年』の書いてあることが正しいとすると、尖閣列島を最初にみたのは熊本県
下益城郡河江村字住吉出身の伊沢弥喜太氏だということになる。奥原敏雄教授は雑誌
『日本及日本人』(一九七○年新年号)に記載した「尖閣列島―歴史と政治のあいだ」に
伊沢矢喜太と書いているが、これは伊沢弥喜太が正しい。奥原教授はこう書いている。
「尖閣列島は明治十年代の前半までは無人島であったが、十年代の後半明治十七年ご
ろから古賀辰四郎が魚釣島、久場島などを中心にアホウ鳥の羽毛、綿毛、べっ甲、貝類
などの採取を始めるようになる。こうした事態の推移に対応すべく沖縄県知事もまた明治
十八年九月二十二日、内務卿に国標建設を上申するとともに、出雲丸による実地踏査を
届けでた」、「その後明治二十四(一八九一)年伊沢矢喜太(熊本県)が魚釣、久場島に
沖縄漁民ととともに渡航し、海産物とアホウ鳥を採集することに成功したが、長く滞まるこ
となく石垣島にもどり、次いで翌々二十六(一八九三)年花本某外三名の沖縄人が、永
井・松村某(鹿児島県)に雇われ、久場島に赴いたが、食糧が尽きて失敗する。同年に
はさきの伊沢が再び渡航し、採取成功するが、岐路台風に遭い、九死に一生をえて福州
に漂着している。なお同年にはさらに野田正(熊本県)ら二○人近くのものも、魚釣、久場
島に伝馬船で向かうが、かれらも風浪のため失敗している」。

尖閣列島を日本領に編入させた日清戦争
 古賀辰四郎氏の息子の善次氏(一九七八年六月五日、八十四歳で死去)は、雑誌『現
代』一九七二年六月号でこう語っている。
 当時八重山の漁民の間で、ユクンクバ島は鳥の多い面白い島だという話が伝わってお
りまして、漁に出た若者が、途中魚をとるのを忘れて鳥を追っていたというような話がよく
あったようです。おやじもそんな話を聞いたんですね。そこで生来冒険心が強い人間なも
んですから、ひとつ探検に行こうということになったんです。明治十七年のことですがね。
 この探検の詳細な記録は残っておりませんが、何か期するところがあったのでしょう。
翌明治十八(一八八五)年、父は明治政府に開拓許可を申請しています。しかし、この申
請は受理されませんでした。当時の政府の見解として、まだこの島の帰属がはっきりして
いないというのがその理由だったようです。
 ところが、父の話を聞いた、当時の沖縄県令西村捨三がたいへん興味を持ちまして独
自に調査団を派遣しました。調査の結果、島は無人島であり、かつて人が住んでいた形
跡もないことがはっきりしまして、以後西村は政府に日本領とするようしきりに上申しま
た。
 明治政府が尖閣列島を日本領と宣言したのは、父の探検から十一年後の明治二十八
(一八九五)年です。父の探検から西村県令の上申もあったのでしょうが、日清戦争に勝
ち台湾が日本領土となったということが、宣言に踏み切らせた理由と思います。

 そこで「沖縄県琉球国那覇西村二十三番地、平民古賀辰四郎」自身はどうなっている
のかを、彼が一八九五年六月十日付で野村靖内務大臣にだした「官有地拝借御願」に
よって見てみよう。  

  私儀国内諸種ノ事業ノ日ニ月ニ盛ニ赴キ候割合ニ大洋中ニ国ヲ為ス国柄ナルニモ係
ラス水産業挙ラサルハ
 予テ憂ヒ居候次第ナレハ自ラ帆楫ノ労ヲ取リ明治十二年以降十五年ニ至ルマテ或ハ
琉球ニ朝鮮ニ航シ専ラ
 海産物ノ探検ヲ致候以来今日マテ居ヲ沖縄ニ定メ尚ホ其業ニ従事致至候更ニ業務拡
張ノ目的ヲ以テ沖縄本島
 ノ正東ニ在ル無人島ニシテ魚介ノ群常ニ絶ヘサル大東島ニ組合員ヲ送リ一方ニ以テハ
農事ヲ勤メテ日常食糧ノ
 窮乏ヲ防キ一方ニ以テ大ニ其地海産物ノ捕漁ヲ為サントシ己ニ明治廿四年十一月廿
日時ノ沖縄県知事丸岡莞
 爾氏ニ同島開墾ノ許可ヲ得タル次第ニ御座候是ヨリ以前明治十八年沖縄諸島ニ巡航
シ船八重山島ノ北方九拾
 海里ノ久場島ニ寄セ上陸致候処図ラスモ俗ニバカ鳥ト名ノル鳥ノ群集セルヲ発見致候
止マリテ該鳥ノ此島ニ棲
 息スル有様ヲ探求仕候処秋来タリ春ニ去リ巣ヲ営ムヲ以テ見レハ全ク此期間ハ其繁殖
期ニシテ特ニ該島ヲ撰テ
 来ル モノナル事ハ毫モ疑無御座候予テバカ鳥ノ羽毛ハ欧米人ノ大イニ珍重スル処ト
承リ居候間試ニ数羽ヲ射
 殺シ商品見本トシテ其羽毛ヲ欧州諸国ニ輸送仕候処頗ル好評ヲ得其注文マテ有之候
是ニ依テ考ヘ候ニ右羽毛
 ハ実ニ海外輸出トシテ大ニ価値アルモノト信セラレ申候尤モ輸出品トシテ海外ノ注文ニ
応スルニ足リル数量ナル
 ヤ否ヤ ヲモ探究仕候処捕獲ノ方法ニ因リテハ相当ノ斤量ニ於テ多年間輸出致候ニ差
支無キ見込有之候以上
 ノ次第柄ニ付直ニ其捕獲ニ従事致度考ニテ候処甲乙ノ人々ニ聞知セラレ競フテ乱殺候
様ノ事ニ立チ至ベク自然
 多人数間ニ分チテ輸出ノ業ヲ営ミ候ハ相互ノ利益ニアラス所謂虻蜂共ニ獲ラレザル結
果ニ成行キ可申恐有之候
 間バカ鳥羽毛輸出営業ノ目的ヲ以テ久場島全島ヲ拝借候様出願ニ可及ノ処右久馬島
ハ未タ我邦ノ所属タル事
 判明無之由ニ承知仕候故今日マテ折角ノ希望ヲ抑制致居候是レ見本送達ノ際欧州ノ
注文アリタルニ係ラス之ニ
 応スル能ハ サリシ以所ニ御座候然ルニ這度該島ハ劃然日本ノ所属ト確定致候趣多
年ノ願望ニ投ジ申候

 古賀辰四郎氏はさらに、この「御願」のなかで、バカ鳥が多いといっても無限のもので
はなく、競争、乱獲ということになると繁殖保護も難しく採算も取れなくなるから、官有財
産管理規則第七条二項の規定によって、全島を自分に貸してほしいと述べている。 この
「御願」は古賀氏自身が書いたものではあるまい。このような文書が書けるならば、古賀
氏の手になる探検記録があるはずである。ところが古賀善次氏のいっているように詳細
な探検の記録は残っていない。おそらく、この「御願」は役人の手を借りたものであろう。
 古賀辰四郎氏と尖閣列島とのかかわりあいについては、何人かの人たちは一八八四
(明治十七)年といい、古賀氏自身は一八八五年といい、『沖縄の百年』第一巻では、日
清戦争の直前というから一八九三年か一八九四年からであったであろう。古賀氏が本籍
を福岡から沖縄に移したのは一八九五年であり、彼は腰を据えて事業にとりくむことにな
った。古賀氏は寄留商人ではなくなる。
 とにかく、古賀辰四郎氏は福岡県からお茶の商売で那覇に渡り、捨ててある夜光貝など
の貝殻をボタンの材料として、神戸に売って(年間一八○トンから二四○トン)金をもうけ
て、石垣に支店をだし、ユクン・クバ島のバカ鳥という資源に目を付けて、政府に開拓させ
てくれと何度も願いでたが、政府は「我邦ノ所属タル事判明無之」と許可しなかった。とこ
ろが、日本が日清戦争に勝って、一八九四年十二月二十日には中国から、張蔭桓、邵
友濂氏を講和全権として任命した旨アメリカ公使を通じて日本に連絡してきた。十二月二
十五日に中国は、朝鮮の自主独立を認めると宣言したのだから、朝鮮を支配するため
に、朝鮮から中国の勢力を一掃しようとした日本の戦争目的は、完全に果されたことに
なる。そして時を移さずそれから二日後の十二月二十七日に内務大臣は外務大臣にバ
カ鳥の島を閣議にかけることを協議した。野村靖内務大臣が陸奥宗光外務大臣にだした
協議文書には「其当時(筆者注 明治十八年)ト今日トハ事情モ相異候ニ付」とあり、外
務大臣には異議はなかった。事情がどう異なったのか。それは日清戦争で勝ったという
こと以外にはない。そして尖閣列島は、この日から「劃然日本の所属ト確定」した、という
ところに重大な問題があるのであって、古賀辰四郎氏がいつ尖閣列島に行ったかという
ことはさして問題ではない。翌一八九五年一月十四日、伊藤博文内閣は、このバカ鳥の
島を閣議にかけて、「沖縄県下八重山群島ノ北西ニ位スル久場島魚釣島ト称スル無人
島」に標杭を建設することを認めた。日清戦争に勝ったとたんに待ってましたとばかり
に、日清戦争の処理で忙しい政府がバカ鳥の島を閣議にかけたことについてはどんな事
情があったのか。これはどうにも理解に苦しむところである。
 一九一〇(明治四十三)年一月一日から九日まで、『沖縄毎日新聞』は藍綬褒章を受け
た古賀辰四郎氏の業績をたたえる「琉球群島における古賀氏の功績」を連載した。筆者
はこれを見ていないが、井上清教授によればつぎのとおりである。

 明治二十七(一八九四)年(古賀氏は)同島(釣魚島)の開拓の許可を本県(沖縄県)知
事に請願したけれども、当時同島の所属が帝国のもなるや否や不明確なりし為に、却下
せられしより、更に内務・農商務大臣に宛て請願書を出すと同時に、氏は上京して親しく
同島の実況を具陳して開拓を懇願したるも、尚ほ許可せられざりしが、時々に偶々二十
七、八年戦没(日清戦争)は終局を告げ、台湾は帝国の版図に帰し、二十九(一八九六)年
勅令第十三号を以て尖閣列島の我が所属たる旨公布せられたるにより、直ちにその開
拓に就き、本県知事に請願し、同年九月初めて許可を与えられ、茲に同氏の同島に対す
る多年の宿望を達せり(『歴史学研究』一九七二年第二号)。

 ここに「勅令第十三号を以て尖閣列島の我が所属たる旨公布せられたるにより」とある
が、勅令第十三号には、そんなことは何も書いていない。おそらく沖縄県知事は勅令の
でるのを待っていたのであろう。ところが勅令第十三号は半年経っても一年たってもでな
い。沖縄県知事は内務省に、どうなっているのか照会したものと思う。ところが中央では、
台湾までわが国の版図にはいったのだから魚釣島、久場島などについて面倒な手続き
などはまったく必要ないといわれたものであろう。
 『沖縄毎日新聞』の記事でもわかることは、古賀辰四郎が親しく中央に働きかけたとい
うことである。室伏哲郎著『汚職のすすめ』によると、バカ鳥を閣議にかけた野村靖内務
大臣は、東京市の水道用鉄管の国産会社「日本鋳鉄合資会社」の不正を一八九五年十
一月に、東京市参事会が告発したとき、東京市会の解散を命じた人物である。日本鋳鉄
合資会社の創立者雨宮敬次郎は獄中から森検事を二、○○○円で買収し、証拠不十分
で免訴となり出獄したという当時の情況があった。古賀辰四郎氏が親しく働きかけた内
容は何であったのか、これはあきらかではない。一八九一年七月二十七日の官報に載
った大臣の年俸は内閣総理大臣九、六○○円、各省大臣六、○○○円、次官四、○○○
円であった。これに対して一八九六年三月現在の職業別の平均賃金は、機織女工は上
等で月に四円五○銭であり、下等で二円二○銭だった。農作の日雇労働者は上等で男
は一日二○銭、女は一八銭であった。だから二、○○○円も積めば検事だって買収でき
たわけである。
 それにしても、伊藤内閣のこの素早い反応は、古賀氏の働きかけのみによったのであ
ろうか。当時の沖縄の政治、経済、社会をもみなければなるまい(本書Zの(8)を参
照)。
 奥原敏雄教授はこの点に関して、雑誌『中央公論』一九七八年七月号の論文「尖閣列
島の領有権の根拠」でこのように述べている。

 わが国が尖閣列島を領土編入した明治二十八年一月十四日(閣議決定)という時期
は、すでに日清戦争におい
て日本の勝利が確定的となり、講和予備交渉がまさに始まろうとしていた時期である。台
湾を日本に割譲する
ことについて、列国の承認も取り付けていた時期である。政府がそうした時期に尖閣列
島の沖縄編入を認める
に至った背景に、台湾をも失うことをみとめた清国が、無主地のごく取るに足らない尖閣
列島の帰属をめぐって、まず争うことはないであろう政治的判断があったことは想像にか
たくない。
 しかしながらそうした微妙な時期における領土編入が、ともすればわが国が尖閣列島
の領土編入を見送ってきた背景、あるいはそれを編入するに至った時期に、とかくの疑
惑を生じさせ、日本は尖閣列島が中国領土であると思っていて、ひそかに時期を狙い、日
清戦争の結果として、日本が勝利を確定的なものとするに至った時期に、これを処理した
のではないかと疑問を持たせる余地を残すことになる。そしてこれは一般的にもっともな
疑念だと思う。

 奥原教授はこの論文で、「天皇政府が釣魚諸島を奪い取る絶好の機会としたのは、ほ
かでもない、政府と大本営が伊藤首相の戦略に従い、台湾占領の方針を決定したのと
同時であった」とする井上清教授の見解(井上清著『尖閣列島』)、「日清戦争での勝利を
機会にし背景にして、日本がさらに戦争を拡大している情況のもとでなされた至極あいま
いな『先占』というものの実質は中国から奪った台湾省の一部を先取りしたことにならな
いか」(高橋庄五郎論文「いわゆる尖閣列島は日本のものか」『朝日アジアレビュー』一九
七二年第二号)という疑問に対して、一般的にもっとも疑念としているが、奥原教授はあく
までも、尖閣列島は国際上の無主地であったと主張する。




バカ鳥と古賀辰四郎氏

 尖閣列島には、どんな海鳥が、どのくらいいたのであろうか。
 古賀辰四郎氏がバカ鳥と呼んだ鳥は、アホウ鳥ともトウクロウとも呼ばれ、またの名を
信天翁ともいわれていた。尖閣列島にはこのほか、クロアジサシ、セグロアジサシ、カツ
オドリ、オオミズナギドリなどがいた。
 そして北小島にはセグロアジサシ(背黒鰺刺)、クロアジサシ(黒鰺刺)が、南小島にはカ
ツオドリがいた。二○○メートルしか離れていないのに海鳥が異なっていた。南小島と北
小島の情況について黒岩恒氏はこう書いている。

 余が着島の節は(五月)産卵の期節にして、南北の小島に群集するもの、幾十万を以て
算すべし、これ英語に所謂Ternなるものとして、尖閣の諸嶼にかぎり、釣魚黄尾等の諸
嶼に見ず、其空中を飛翔するや、天日為めに光を滅するの観あり、カンエイ水路誌(明治
十九年刊行の海軍水路局の水路誌)記して、其鳴声殆んと人をして
聾せしむと云へるは、誠に吾人を歎かさるなり、若し夫れ閑を偸みて北小島の南角に上
らんか、幾万のTernは驚起して巣を離れ、「キャー、キャー」てふ鳴声を発して頭上を?翔
すべく吾人若岩頭に踞して憩はんか、空中にあるもの漸次下り来たりて吾か周辺に群集
し、同類以外復怪物あるをしらさるものの如く、人をして恍然自失、我の鳥なるかを疑は
しむ、此景此情、此境遇に接するにあらされば、悟り易からさるなり(筆者注 ふりがなは
筆者)。
 古賀辰四郎氏」は、年間一五万羽も海鳥を捕獲した。
バカ鳥と古賀辰四郎氏がいなかったら明治時代に尖閣列島は問題にならなかった。

日清戦争のあとさき

一八九三(明治二十六)年十一月、過酷な税の負担に耐えかねて、宮古島の農民四人
が上京し、宮古の悲惨な現状を議会と政府に訴えた。中央の新聞は「明治の佐倉宗五
郎」と書きたてた。政府はただちに内務書記官を沖縄に派遣し調査させた。
一八九四(明治二十七)年一月十二日、貴族院に「沖縄県政改革建議」がだされた。
一月十七日、宮古島福里村の農民一六○人が署名した「宮古島島費節減及島政改革
請願」が衆議院に上程され、衆議院はこれを可決した。この年に名子制度だけは廃止さ
れたが、人頭税は一九○二年まで存続された。
三月、大蔵省は祝辰巳氏を沖縄県収税長に任命し税法調査をさせた。
八月一日、日本は中国(清)に対して宣戦布告。
九月十五日、平壌大会戦、十六日未明平壌を占領。
九月十七日、黄海大戦、中国軍艦五隻を撃沈。この陸海の大戦ですでに勝負はついた。
十月八日、イギリスは日本の戦勝に驚き講和を勧告。
十月二十六日、第一軍(山県有朋)は鴨緑江を渡って九連城を占領。引続き第二軍(大
山巌)は花園江に上陸開始。
十一月十二日、中国(清)はアメリカ公使を通じて講和条件の基礎を提案、日本側は講
和全権の任命が先決だとしてこれを拒否。
十一月十三日、第一軍海城を占領。
十一月二十一日、第二軍旅順占領。
十二月二十日、中国(清)はアメリカ公使を通じて張蔭桓、圏F濂氏を講和全権に任命し
たと日本に通知。
十二月二十五日、中国(清)は朝鮮の独立自主を認めると宣言。これによって明治軍国
主義の日清戦争の目的は達せられたことになる。
十二月二十七日、内務大臣は外務大臣と釣魚島と久場島をたてたいという沖縄県知事
の上申ついて協議。外務大臣に異議なし。
一八九五(明治二十八)年一月十四日、標杭建設を閣議決定。
一月二十一日,沖縄県知事に通知(しかし、標杭建設は日本の主権下では実行されず、
七四年後にアメリカの施政権下の石垣市長命令で初めて建設)。
一月三十一日、中国講和全権広島に到着。全権委任状が不備だとして日本側は談判を
拒否。
三月二十日、下関で、伊藤博文内閣総理大臣と李鴻章全権とのあいだで講和談判開
始。
四月十七日、日清講和条約調印。
四月二十三日、三国干渉(独・仏・露)。
五月五日、三国の勧告を日本は受諾。
五月八日、日清講和条約批准書交換。
五月十日、樺山資紀海軍大将を台湾総督に任命
五月二十五日、台湾省民蜂起。
五月二十九日、日本軍台湾に上陸。
六月二日、中国(清)李経方全権と樺山台湾総督との間に、講和条約第二条第二項およ
び第三項の台湾全島及びその付属諸島嶼と澎湖列島の受渡しがおこなわれた。
六月十日、古賀辰四郎氏は「官有地拝借御願」を政府に提出。
一八九六(明治二十九)年九月、古賀氏は三○年間無償で魚釣島、久場島、北小島、南
小島の借用に成功。

(1)伊沢弥喜太氏は、福州に漂着し救助され、中国の高官から陶器の花瓶をもらって帰
った。



      (7)尖閣列島の開発
どの島か
 古賀辰四郎氏が尖閣列島が尖閣列島のどの島で開拓事業をおこなったかについては
資料が乏しい。だから人によっていっていることが違う。たとえばこうである。
 古賀辰四郎は明治三○(一八七九)年、沖縄県庁に開拓の目的をもって無人島借区を
願い出て三○年間無償借地の許可をとると、翌明治三一年には大阪商船の須磨丸を久
場島に寄航させて移住労働者二八名を送り込むことに成功し、さらに翌明治三二(一八
九九)年には大阪商船の永康丸で男子一三名女子九名を送り込んだ。この年の久場島
在留者は二三名となり古賀村なる一村を形作るまでになった。これらの労働者がいつご
ろまでいたかは明らかでない。説によると大正の中期ごろまで続いたといわれる(奥原敏
雄論文『日本及日本人』一九七○年新年号)。
 古賀氏は数十人の労働者を同列島に派遣、これらの干拓事業に従事させた(注 明治
三十「一八九七」年五十人、明治三十一「一八九八」年同じく五十人、明治三十二「一八
九九」年二十九人の労働者を尖閣列島に派遣、さらに明治三十三「一九○○」年には男
子十三人、女子九人を送りこんだ)・・・・・・。
 大正(一九一八)年、古賀辰四郎氏が亡くなった後、その息子古賀善次氏によって開拓
と事業が続けられ・・・・・・事業の最盛期には、カツオブシ製造の漁夫八十人、剥製作り
の職人七〜八十人(筆者注上地龍典氏によれば八八人)が、魚釣島と南小島に居住し
ていた(尖閣列島研究会「尖閣列島と日本の領有権」『季刊沖縄』第五十六号)。
 明治三十(一八九七)年、二隻の改良遠洋漁船をもって、石垣島から三十五人の労働
者を派遣し、翌三十一年には更に五十人を加えて魚釣島で住宅や事業所,船着場など
を建設して、本格的に開拓事業を始めたのである(牧野清論文「尖閣列島小史」)。
 石垣島で尖閣列島の話を聞いた古賀氏は、明治十七(一八八四)年人を派遣して、列
島の探検調査に当たらせ・・・・・・翌三十(一八九七)年から、毎年、三○人、四○人と開
拓民を送りこんだ。こうして最初の四年間に島に渡った移住者は、一三六人に達しその
なかには女性九人も含まれていた。・・・・・・明治三十六(一九○三)年には内地から剥
製職人一○数人が移住し・・・・・・明治四十二(一九〇九)年の定住者は、実に二四八人
に達し、九九戸を数えた。・・・・・・南海の無人島・尖閣列島は、古賀氏の力によってすっ
かり変貌をとげた(上地龍典著『尖閣列島と竹島』)。以上の移住の状況を書いている人た
ちのなかには,島名を挙げずに尖閣列島とだけいっている人がいるが、それは魚釣島だ
ったのか、あるいは久場島だったのか、どうもはっきりしていない。
 尖閣列島研究会によれば魚釣島と久場島であるし、奥原教授によれば久場島である。
また牧野清氏によれば魚釣島である。黒岩恒氏のいったように、沖縄の人たちが魚釣島
と久場島をアベコベにしていとするとどうなるのか。この島名をアベコベにしていたことに
ついては、奥原敏雄教授も井上清氏教授も知っている。一九四〇(昭和十五)年になっ
ても、沖縄県警察本部は「魚釣島(一名クバ島無人島)」といっている。古賀辰四郎氏が
一八九五(明治二十八)年に久場島といったのはじつは魚釣島ではなかったのか。古賀
善次氏がカツオブシ製造と海鳥の剥製作りをしたのは魚釣島と南小島であった。
 また一九六八(昭和四十三)年に台湾の業者が起重機を二台ももちこんで一万トンの
貨物船の解体作業をやっていたのは南小島であった。また一九七〇年に、やはり台湾
の業者が久場島で沈没船解体作業をやっていたが、これは台風で座礁して久場島海岸
に打ちあげられた台湾の貨物船の処理のためであった。古賀辰四郎氏が事業を開始さ
れたのは,久場島からではなかったのかといっているが、その理由は、久場島は魚釣島
ほど地形が複雑でなく、地質も単純であり、土壌は肥沃のようで、島の南西面には数ヘク
タールと思われる砂糖キビ畑も船から望遠され、同行の者がパパイヤの木も見受けられ
たと言うし、古賀辰四郎氏は柑橘類も移植したといわれるからだとしている。
 また正木任氏は魚釣島に飲料水があるから、古賀辰四郎氏は魚釣島を根拠地にして
事業を始めたようだといっている。そして一九三九年現在、久場島に飲料用天水貯水槽
が三つ残っていたという。
だが、よく考えてみなければならないことは、古賀辰四郎氏が久場島を借りたいと願いで
たのは、じつは海鳥を捕まえて、これを外国に売るためだった。そして黒岩恒氏「恍惚自
失、我の鳥なるか、鳥の我なるかを疑がわしむ」といわせたのは南小島と北小島の海鳥
どもであった。南、北小島は魚釣島に近い。そして南小島の西側にひろがる平坦地は近
代工業の敷地になりそうだという(高岡大輔氏)しかし、それも水があってのことである。

どんな事業か
では古賀氏は尖閣列島でどんな事業をおこなったのか。これも、概略引用しただけでもま
ちまちである。
 国有地の借用許可をえた古賀氏は、翌年の明治三十(一八九七)年以降大規模な資本
を投じて、尖閣列島の開拓に着手した。すなわちかれは魚釣島と久場島(傍点著者)に家
屋、貯水施設、船着場、桟橋などを構築するとともに、排水溝など衛生環境の改善、海鳥
の保護、実験栽培、植林などをおこなってきた(注 この功績によって政府は一九〇九「明
治四十二」年、古賀氏に対し藍綬褒章を授与している)(前掲尖閣列島研究会論文)。
 開拓事業と並行して、アホウ鳥の鳥毛採取、グアノ(筆者注 鳥糞)の採掘等の事業を
おこなった(前掲尖閣列島研究会論文)。
 大正七(一九一八)年古賀辰四郎が亡くなった後、その息子古賀善次氏によって開拓と
事業が続けられ、とくに魚釣島と南小島で、カツオブシ及び各種海鳥の剥製製造、森林伐
採が営まれてきた(前掲尖閣列島研究会論文)。
古賀善次氏が国から民有地として払い下げを受け戦前まで魚釣島にカツオブシ工場を設
けて、カツオブシ製造をおこなったり、カアツオドリやアジサシその他の海鳥の剥製、鳥糞
の採集などを営んでいた(奥原敏雄論文『日本及日本人』一九七〇年新年号)。
 古賀辰四郎氏及び善次氏によっておこなわれた事業は、この他フカの鯖、貝類、べっ甲
などの加工、海鳥の缶詰製造がある。・・・・・・
ただしアホウ鳥の鳥毛採取は乱獲と猫害などのため大正四(一九一五)年以降、またグ
アノの採掘と積出しは、第一次大戦によって船価が高騰し、採算が取れなくなり中止され
た。その他の事業も、太平洋戦争直前、船舶用燃料が配給制となり、廃止された(前掲
尖閣列島研究会論文の注)。
 尖閣列島は古賀辰四郎さんの無人島探検によって明治十七に初めて開拓に着手され
たわけです。その古賀さんが労務者と共にまず黄尾嶼にわたって、羽毛、亀甲、貝類等の
採取に着手し、その後魚粉の製造あるいはかつお節工場を現地にたてて経営しましたけ
れども、大正の中ごろから事業不振のため全部引揚げ、その後現在にいたるまでも無人
島になっている(桜井×氏)
 古賀辰四郎は明治十七(一八八四)年、労務者を久場島に派遣し、羽毛、べッ甲、貝類
の採取を初め、その後、古賀氏は日本政府から魚釣島、久場島に派遣し、羽毛、ベッ甲、
貝類の採取を初め、その後、古賀氏は日本政府から魚釣島、久場島、 北小島、南小島
の四島を三〇年の期限付きで借地権を獲得した。そしてカツオドリ、アジサシなどの海鳥
の剥製、鳥糞の採集、カツオ業を拡張したが、それらの事業がいつごろまで続いたかに
ついては明確な記録もなく、善次氏の話によれば、大正の中期ごろから事業が不振にな
ったらしい(高岡大輔論文「尖閣列島周辺海域の学術調査に参加して」参照)。
大正(一九一九)年の冬・・・・・・当時古賀支店は魚釣島でカツオ漁業を経営していたの
で・・・・・・(牧野清氏)。
 古賀辰四郎氏は魚釣島と久場島に家屋や貯水設備、船着場をつくった。さらにカツオ
節工場、ベッ甲、珊湖の加工工場も建設された。
そのほかグアノ採掘にも着手した(上地龍典氏)。
黄色嶼で明治四〇年代、古賀辰四郎氏は二年間燐鉱採掘したが、その後台湾肥料会
社に経営権を渡した(正木任論文「尖閣列島を探る(抄)」『季刊沖縄』第五十六号参
照)。
古賀商店は戦争直前まで伐木事業と漁業を営み・・・・・・(琉球政府声明「尖閣列島の領
土権について」)。
 黄色嶼を古賀氏が開拓し、椿、密柑など植え,旧噴火口には密柑,分旦、バナナ等があ
った。さつまいもやさとうきびは野生化していた。魚釣島の古賀商店の旧カツオ節製造所
の跡に荷物を運んだ。魚釣島の北北西岸に少しばかり平地があって、そこに与那国から
の代用品時代の波に乗ってか、はるばるとクバ葉脈を採取のため男女五三名という大
勢の人夫が来て、仮小屋を作り合宿していた(前掲正木任論文参照)。
正木氏のリポートにある与那国の人たちは、古賀商店の多田武一氏が連れて行った人
たちであろう。クバの葉脈でロープや汽船や軍艦のデッキ用の×(筆者注 ブラシという
人もいる)をつくった。またクバの幹で民芸品などもつくったといわれている。与那国にも
クバはあったがそんなに多くなかった。戦争によって物資が不足してくると、クバの繊維
はシュロ椰子の代用品につかわれたのであろう。
多田武一氏は与那国の人であり,クバの葉を求めて家族とともに魚釣島に渡った。これ
が、琉球政府声明にある古賀商店の伐木事業なのかもしれない。しかしこれは季節的一
時的なもので、古賀善次が政府から四島を買いとったときには、四島はふたたび無人島
になっていた。



一枚の写真
ここに一枚の写真がある。一九七八年五月五日号『アサヒグラフ』は,尖閣列島は無人
島ではなかったという「証拠の写真」を八枚掲載した。それは古賀善次未亡人花子さん
がもっているものだが、そのなかの一枚は筆者が一九七一年に入手したものと全くおな
じものである。筆者のもっている写真は,一九〇一年二月に黄色尾島で生まれたという
伊沢弥喜太氏の長女真伎さんのもっている明治四十年頃の写真である。そして、おなじ
一枚の写真を古賀花子さんは魚釣島のものだといい,伊沢真伎さんは黄色島(黄色嶼、
久場島)のものだという。この写真には事務所の責任者として、日の丸のポールのところ
に伊沢弥喜太氏がおり、その右六人目のところに白い着物を着て帽子をかぶり、ステッ
キをついているのが古賀辰四郎氏である。いったいどちらが本当なのか。辰四郎氏と弥
喜太氏の二人が写っているのである。古賀花子さんのもっていないもう一枚の写真(こ
れは古賀辰四郎氏の自慢のカメラで写したものであろう)の中央に弥喜太氏が次女を膝
の上に乗せているのがある。それには「黄尾島古賀開墾・・・・・・」と紙に書いたものを門
柱に貼り付けてある。これは写真をとるために書いたものであろう。なかなかよい字であ
る。
 ところが弥喜太氏や辰四郎が書いた日誌も記録もない。辰四郎氏は久場島拝借願い
を出して借り受けたのに、どうして「黄色島古賀開墾・・・・・・」としたのだろうか。黄色島を
島の固有の島名と考えたのであろう。しかし、黒岩恒氏が書いていているように、当時沖
縄の人たちが黄尾嶼と魚釣島(釣魚島)をアベコベに考えていたとしたらどうなのであろう
か。伊沢真伎さんは黄尾島では飲み水がなおので妻帯者は弥喜太氏一人であったとい
っている。写真にある婦人労働者は、すべて独身で土佐のカツオブシ工場から連れてこ
られたものであり、子供労働者はとさや沖縄から買われきたものであったという。
 黄尾島で弥喜太氏の娘が二人生まれた。長女の真伎さんは久米村小学校に三年生ま
でいて、一九一〇(明治四十三)年に弥喜太氏の故郷熊本県に帰ったが、そのご、父弥
喜太氏の故郷熊本県に帰ったが,その後、父弥喜太氏とともに台湾に行き、そこで結婚
し、敗戦で日本にかえった。大城立裕著『内なる沖縄』によれば、久米島の住人は、中国
からの帰化人の子孫で、旧王朝時代は中国語を常用していた向きもあったようだという。
 古賀花子さんは夫の古賀喜次からきたことを話しているのであり、伊沢真伎さんは父
弥喜太氏から昔きいたことを話しているのだから記憶がうすれたことも誤りもあるだろう
と思う。しかし正木任氏によれば黄尾嶼(久場島)には飲み水がなく雨水を貯える水槽が
三カ所つくられ、それでも飲料水が不足したときはサバニで魚釣島まで水取りに出掛け
たというから、真伎さんの生まれたのは確かに黄尾嶼であった。ではカツオブシ工場は魚
釣島にあったのか。それとも黄尾嶼(久場島)にあったのか。あるいはまた魚釣島と黄尾
嶼の両方にあったのかどうもはっきりしない。しかし伊沢真伎さんは黄尾地馬でカツオブ
シ工場をつくり、土佐から職人を入れて経営していたというし、また黄尾島では貝殻の採
取とアホウ取の毛の採取をやっていたといっている。弥喜太氏は「八方ころび」とよばれ
たまん丸な真珠を品評会にだして賞金三百円をもらい、皇后陛下に健常するために東京
に行くのに支度金がかかり赤字をだしたという。真水がなくともカツオブシがつくれるのか
どうか宮城県気仙沼の古いカツオブシ業者にきたら、それはつくれるという。


辰四郎と弥喜太
二人がどこで、どのようにして知りあったのかはわからない。出資と経営についてどのよう
な話があったのかもわからない。わかっていることは、古賀辰四郎氏は金をだしても細々
したことはいわない太っ腹の人だったということである。伊沢弥喜太氏は一八九一(明治
二十四)年、漁民とともに石垣島から魚釣島と久場島に渡航した。このとき弥喜太氏は
海産物とアホウ鳥を採取して帰った。そしてまたこのとき、弥喜太氏は中国人の服装をし
た二つの遺体をほら穴のなかで発見している。黒岩恒氏は一九〇〇年の尖閣列島探検
記事のなかで、同行の人夫が山中に白骨ありといったが、夕方なので無縁の亡者を弔う
ことができなかったといっているが、それは釣魚島のことである。弥喜太氏は一八九三年
再度渡航している。石が井島に支店をだしていた辰四郎氏は当然、弥喜太氏と知りあっ
たと思う。弥喜太氏は読み書きのできる当時インテリであった。
 一九〇〇年五月に古賀辰四郎氏は永康丸をチャーターし、宮島幹之助理学士(北里研
究所技師を経て慶應大学医学部教授)に頼んで久場島(黄尾嶼)の調査をしてもらうこと
にした。沖縄師範学校教諭黒岩恒氏(一八九二年に沖縄に赴任)は校長の命令で同行
し、また野村道安八重山島司も一諸に行った。
 宮島幹之助理学士の黄尾嶼での調査は、風土病,伝染病、ハブ、イノシシその他の有
害動物の有無や飲料水の適否などであった。調査の結果、マラリヤ,伝染病はなく、ハ
ブ、イノシシは棲息せず、また飲み水がないことがわかった。
 宮島理学士が黄尾嶼で調査をしているあいだ黒岩氏は、永康丸を釣魚嶼に向け、五月
十二日午後四時、古賀辰四郎、野村道安氏とともに釣魚嶼に上陸しただけで船にもど
り、二日後に迎えにくるからといって黄尾嶼に帰った。黒岩氏の釣魚嶼の探検記事には
「教導(伊沢氏)一名、人夫三名」をもって探検隊を組織したとある。教導とは案内役のこ
とである。この伊沢氏というのは伊沢弥喜太である。弥喜太氏は釣魚嶼のことを知って
いた。「午後尾滝谷に着す、此地古賀氏の設けたる小舎一、二あり屋背屋壁皆蒲葵葉を
用い」と黒岩氏は書いているが、ここは「秋来たりて春に去る」アホウ鳥を捕獲するため
に設けられたもので、屋根も壁もみなクバの葉でつくられていた。
尖閣列島の仕事に実際に携わった責任者は弥喜太氏である。では、釣魚嶼の開発はク
バの葉でつくった小舎からどんな発見をしたのだろうか。
 辰四郎は一九○一年には、沖縄県技師熊蔵工学士の援助を受けて、釣魚島に防波堤
を築き、漁船が着岸できるようにした。辰四郎氏が描いた明治四十年代の魚釣島事業所
建物見物配置図がある。(上地龍典著「尖閣列島と竹島」教育社刊、五四頁)。この配置
をみると漁師の住まい、カツオブシ加工労働者の住まい、婦人労働者の住まい、子供労
働者の住まい、カツオ切り場、カツオ釜などがあり、又火薬庫もある。
 バカ鳥の乱獲と本土資本の進出で、弥喜太氏の経営はゆき詰まり、弥喜太氏は家族と
ともに台湾に行き一九一四年に花蓮港で死んだ。
この年に第一次世界大戦が始まり、日本軍は山東省に上陸した。そしてその四年後に
辰四郎が死んだ。この二人が死んでしまうと、正確な記録がないために事実関係がよく
わからない。辰四郎氏のあとを善次氏が継いだが、尖閣列島の「黄金の日日」はそのこ
ろまでだったと上地龍典氏は書いている。
 どうもややこしい問題である。しかし、そこには「天日ために光を滅する」ほどの海鳥が
いて、北上するカツオ、マグロ、カジキなどの回遊漁の一部は必ず尖閣列島海域を通過
する。そして古賀辰四郎氏の尖閣列島開発事業があったことは、まぎれもない事実であ
る。古賀商店の一九○七年の産物価格は一三万四、○○○余円というから、これは当時
としてはたいへんな金額である。この年の四月に三越百貨店があ食堂を開いたが、料理
一食五○銭、洋菓子一○銭、紅茶、コーヒーがそれぞれ一杯五銭であった。
 これら開発事業は、すべて日清戦争で尖閣列島を日本領としたことであり、無主地を先
占し有効支配していたという裏づけにはならない。




(8)閣議決定と勅令第十三号および第十四号―
    ――その政治的、経済的、社会的背景

明治憲法における閣議決定
 一九七二年三月八日に日本外務省がだした「尖閣諸島の領有問題について」という同
省の基本的見解は『明示二十八年一月十四日に現地に標杭を建設する旨の閣議決定
を行なって正式にわが国の領土に編入することにしたものである』と述べている。また、
一八九五(明治二十八)年一月十四日の閣議決定と勅令第十三号との関係について、
日本の一部の国際法学者たちは、つぎのようにいっている。
 尖閣列島の領有主権についてであるが、日本の主張は、同列島がすでに一八九五年
の閣議決定をへて、一八九六年の勅令十三号により領土=沖縄県の一部として公式に
編入された事実に基づいている。これは、どこの国の領土でもないいわゆる無主地を取
得する方法――――先占――――として国際法が予想しているものである(皆川洸論
文「尖閣列島」)。明治二十九年(一八九六)勅令第十三号によって日本政府が尖閣列
島の領有宣言を行っている(新城利彦論文「尖閣列島と大陸だな」)。
 明治二十八(一八九五)年一月十四日、閣議は正式に八重山群島の北西に位する魚
釣島、久場島(黄尾嶼)を沖縄県の所轄と認め、沖縄県知事の上申通り、同島に所轄標
杭を建設せしめることを決定し、その旨を同月二十一日沖縄県知事に指令した。さらに
閣議にもとづいた同列島に対する国内法上の編入措置は明治二十九(一八九六)年四
月一日、勅令十三号が沖縄県に施行されたのを機会ににおこなわれた(奥原敏雄論文
「尖閣列島」『沖縄タイムス』)。
明治二十八(一八九五)年一月十四日、沖縄県知事に対して、その実施を指令した。沖
縄県知事は、明治二十九(一八九六)年四月、尖閣列島を、八重山郡に編入せしむるこ
とによって、国内法上の措置を完了した(尖閣列島研究会「尖閣列島と日本の領有権」
『季刊沖縄』第五十六号)。それでは、明治憲法(旧憲法)における内閣制度と閣議とは
どんなもであったのかということがまず問題になる。旧憲法下の内閣制度と現在のそれと
は著しく異なるからである。
 新憲法においては、「行政権は内閣に属する」のに対して、旧憲法では行政の大権は
あ天皇にあって、内閣は行政権の主体としての天皇の単なる輔弼機関にすぎなかった。
 すなわち、旧憲法では「国務閣大臣は天皇を輔弼し、その責に任ず」とあり、内閣は国
務大臣が個別に天皇を輔弼するにあたって、その責めを全うするための必要と便宜にも
とづいて設けられたものにすぎなかった。旧憲法では国務大臣が内閣という会議体を組
織することは明らかにされておらず、内閣は憲法に直接根拠をもつ機関ではなかった。
だから、明治二十八年一月十四日の閣議決定は、そのままでは「正式にわが国の領土
に編入する」ために国家としての意思決定をしたことにはならない。行政の大権が天皇に
属していたから、実際には、政策決定は内閣総理大臣や各担当大臣によっておこなわ
れたけれども、国家としての意思表示は正式には勅令というかたちをとらなければならな
かった。

勅令第十三号および第十四号
いわゆる尖閣列島の無主地の先占を主張する一部の国際法学者は、一八九五(明治二
十八)年一月十四日の閣議決定と一八九六年三月五日の勅令第十三号を関連させて、
先占の法理をくみたてようとしている。

朕沖縄県ノ郡編制二関スル件ヲ裁可シ?ニ之ヲ公布セシム
    御 名 御 璽
明治二十九年三月五日
           内閣総理大臣候爵 伊 藤 博 文

             内 務 大 臣  芳 川 顕 正
勅令第十三号
第一条那覇首里両区ノ区域ヲ除ク外沖縄県画シテ左ノ五郡トス
 島尻郡 島尻各間切久米島慶良間諸島渡名喜島栗国島伊平屋諸島鳥島及大東島
中頭郡 中頭各間切
国頭郡 国頭各間切及伊江島
宮古郡 宮古諸島
八重山郡 八重山諸島
第二条郡ノ境界若クハ名称ヲ変更スルコト要スルコトハ内務大臣 
之ヲ定ム
   附則
第三条 本令施行ノ時期ハ内務大臣之ヲ定ム

朕沖縄県郡区職員及島庁職員に間スル件ヲ裁可シ?ニ之ヲ公布セシム
  御  名  御  ?
 明治二十九年三月五日
           内閣総理大臣候爵 伊 藤 博 文
           内 務 大 臣  芳 川 顕 正 


勅令第十四号
第一条沖縄県島尻中頭国頭ノ各郡長一人及郡書記若干人ヲ置ク
第二条沖縄県宮古八重山ノ各郡ニ島司一人及島庁書記若干人ヲ置ク
第三条 沖縄県那覇首里ノ各区ニ区長及区書記若干人ヲ置キ那覇区長ハ島尻郡長を
以テ之ニ充テ首理区長ハ中頭郡長ヲ以テ之ニ充ツ
第四条 地方官官制中郡長ニ関スル規定ハ区長ニ適用シ郡書記ニ関スル規定ハ区書
記ニ適用ス
第五条 沖縄県郡区書記ノ定員ハ沖縄県判任官ノ定員内ニおいて於        
           
知事之ヲ定ム
   附則



 もともと、この二つの勅令は、いわゆる尖閣列島の日本領編入を目的としたものではな
かった。だから外務省の基本見解では勅令第十三号はもちだしてはいない。では、この
二つの勅令がだされた政治的、社会的背景はどういうものであったのか。この背景につ
いて、新里金福・大城立裕著『沖縄の百年』大平出版社刊、「第三巻・歴史編」によって
その概略をのべるとつぎのようになる。
 一八七九年に明治政府が武力を背景にした廃藩置県を沖縄に実施したとき、松田道
之処分官は、租税はおいおい軽減するが藩主や旧士族の身分家禄などはなるべくもと
のままにして優待するから、各自安心して仕事にはげむように、という格好のいいことを
いって、新政府への協力を求めた(八二頁)。事実、明治政府は旧藩王尚泰に対しては
特別利付公債二○万円を、家禄もちの士族三六○余人には年額十五万余を与えた(八
一頁)。同年四月に平民にされた華士族の分家は録を失ったが、その年の十二月には
旧慣どおり家禄を支給するということまでやった(八一頁)。寄生的な士族階級に対する
待遇は他府県よりもかえってよく、彼らの生活は前よりも楽になったといってよい。
 これに比べて無縁であった下級武士の生活は何の保証もされず、急速に零落して都落
ちしていった(八一〜八二頁)。農民は農奴的立場から開放さされたわけではなく、農民
の租税は少しも軽減されなかった。旧藩の法規、税制はそのまますえ置かれ、改正され
たのは各離島のにも駐在所が置かれて警察組織が整備され、また裁判は「裁判事務の
執行は旧藩の法を参酌して人情風俗に従い適宜裁判すべし」というものであり、県知事
が判事を兼務するという、まことにひどいものであった(八三頁)。とくに宮古、八重山など
の先島はあいかわらずひどい差別を受けていてた。
 沖縄の農民は、首里王府の所有地を耕す農奴にひとしい立場におかれていた(六五、
一三四、一四五頁)。首里王府の所有地は全農地の七六%におよんでいた(一四八
頁)。そしてそこには小作権というものも確立していなかった。首里王府から賃与された
土地の共有地とされ、納税義務は村にあった。農民は各戸ごとに村の共有地を割り当て
られた。この地割りは数年から十数年の周期で割り替えがおこなわれたから、おなじ土
地をながく耕作することはできなかった。これが地割制度である(一五一頁)。
 ところが宮古、八重山の先島では、土地は家を単位とする個人所有であったが、その
かわり人頭税制と名子制度があった(一五二頁)。
 そしてこれらの制度は廃藩置県後も残った。人頭税制は島津が沖縄を殖民地とした、
一七世紀のはじめからあったもので、十五歳から五十歳までの全農民に、男には米、
粟、女には上布を個人単位に例外なく賦課っするもので現物納であった。また名子制度
は、農民に対して旧士族のために、無償で労働を提供させたもにである。一八八八年投
じで約三、○○○人の名子が史員四百数十人に自由にこき使われていた(一三四頁)。
琉球王朝時代から、三三○キロメートルの海で沖縄本島からへだてられた宮古、八重山
の士族階級の特権は、この人頭税制度と名子制度の上に築かれたものである。
 一八九三年十一月三日、宮古の農民の代表四人は東京に着き、宮古の現状を政府に
訴えた。中央の新聞は四人の代表を「明治の佐倉宗五郎」と書きたてた。一八九四年一
月十二日、貴族院に「沖縄県政改革建議」が提出され、曽我祐準史は説明して「沖縄県
諸島中には軍港とすべき処あり、わが東洋の関門というべき処なれば、もし今日東洋に
時変あらば沖縄に要塞を設くる必要なきあらず。これ実に諸君の熟考を請う点なり」と述
べ、又重税負担にあえぐ沖縄農民の惨状を知るものが少ないと欺いた(一三八頁)。明
治政府は日清戦争に向かって体制を固めており、沖縄は国境の島々であったわけであ
る(一三九頁)。その直後の一月十七には宮古島福利村の農民一六○が署名した「宮古
島費節減及島政改革請願」が衆議院に上程された。
 この請願の内容は島費節減と人頭税の改革を訴えたものである。衆議院はこれを可決
した。四人の代表は政府にも陳情して帰国した(一三八頁)。そしてこの年に名子制度だ
けは廃止されたが、人頭税は一九○三年まで残された。じつは一八九三年三月十八日
に奈良原繁沖縄県知事は宮古島民の訴えをとりあげて、蔵元、村番所の機構改革、史
員定員の削減、名子制度廃止、予算協議会の設置などを吉村貞寛宮古島役所長に内
訓し、吉村役所長は旧改革にのりだしたが士族たちの烈しい抵抗にあって、改革計画は
失敗したということがあった(一三五頁)。宮古の士族階級が、廃藩置県に強く反対しな
かったのは、人頭税と名子制度が存続されてたからであった。
 一八九三年十一月に宮古農民の国会請願後、政府は直ちに内務書記官を沖縄に派
遣して、「旧制度運用実情と人心の傾向等調査」にあたらせた(一三九頁)。日清戦争とい
う本格的外侵略戦争の準備をすすめつつあった政府にとって、国境の島沖縄で紛糾が
おこるのは、大きな痛手であったからである(一三八頁)。一八九四年には江木県治局
長を派遣して沖縄の地方制度の調整をさせ、また同年の三月二十八日には、大蔵省の
祝辰巳氏を沖縄県収税局長に任命し、税法調査させたが、祝氏の報告は「同県の制度
は複雑にして、内地と同一の扱いはできぬ」というもので、工地整理の着手は先にひきの
ばされた(二二二頁)。
 一八九五年七月には、目賀田種太郎大蔵省主税局長を沖縄県制度改正方案取調委
員に任命して調査に着手、そのご若槻礼次郎国税課長によって同調査はつづけられた
(一四○頁)。政府が沖縄の土地に着手したのは、一八九九年四月からである(二二二
頁)。 その間、中央政府はわずかに郡区の編成を整理して、お茶をにごしたにすぎなか
った(二二三頁)。一八九六年三月五日付勅令第十三号および第十四号がそれである。
この勅令は四月一日から施行された。そしてこれは、中央政府の令達によっておこなわ
れた沖縄の地方制度の最初の改正であった。沖縄の旧慣地方制は、間切・島の制度で
あるがこの制度は農村地域にだけ適用され、首里、那覇の支配階級移住には別の制度
があった。
この郡区編に関する二つの勅令によって、改正されたのはつぎの諸点である(二二三〜
二二六頁)。
@首里、那覇の二地区に区制を施行した。この両区はこれまでずっと支配階級の居住区
で民有地であるのに移住者は一切の貢祖や民費を負担していなかった。改正によって
首里、那覇両区は区税もはらわなければならなくなった。そしてまた泡盛製造税と塩田
税は国庫に納入されることになった。那覇区長には島尻郡長を首里区長には中頭郡長
を兼任させた。議決機関として区会を設けた。
A農村地区を島尻、中頭、国頭、宮古、八重山の五郡に分け久米、
慶良間、渡名喜、粟国、伊平屋、鳥島、大東島を島尻郡の管轄とし、伊江島を国頭郡の
管轄とした。島尻、中頭、国頭の三郡に郡長を置き、宮古、八重山の両群には島庁を開
設し島司を置くことにした。
 しかし沖縄県は、この二つの勅令による郡区編成によって,形式的には他府県と似た格
好になった。沖縄県に徴兵令が施行されたのは一八九八(明治三十一)年一月一日であ
るが、一八九七年六月二十四日に高島鞆之陸軍大臣が松方正義総理大臣にだした、沖
縄県及び東京府管下小笠原島に徴兵令を施行する勅令案ならび理由書には,沖縄で廃
藩置県後、十数年間も徴兵令を施行しなかったのは、当時の内政外交上の理由による
ものであったが、いまその理由を考慮する必要がなくなった。それに昨年から郡区制を
施行して、制度も本土と似てきた。徴兵令を施行するには好機である、といっている(二二
五頁)。すなわち勅令第十三号、第十四号は、徴兵令を施行の役にもたったということに
なる。
 このように勅令第十三号と十四号がだされた背景は、明治政府が内政外交上の理由
から、沖縄の旧慣制度をそのままにしていたが、宮古農民の人頭税廃止運動がきっかけ
となり、政府は沖縄の近代化すなわち土地制度の改革に、手をつけざるえなくなったとい
うことである。沖縄の諸制度の改革は租税制度改革であり、租税制度の改革は土地制
度の改革は土地制度そのものの改革であった。しかし沖縄の制度は複雑である。そこで
とりあえず,郡区編制ということでお茶をにごすことになったわけである。
 だからこの勅令十三号は、いわゆる尖閣列島とは全く関係なくだされたもので、関係あ
るかのようにいうことは誤りである。
(1)法学協会編『注解日本国憲法』下巻、有斐閣刊。『図解による法律用語辞典』自由国
民社刊。を参考文献とする。
(2)区長、郡長、島司は官選によって任命され、その俸給は従前どおり国庫負担であっ
た。そして官選の実質は、それまでの役所長の名所を変更したにすぎなかった。




(9)『ひるぎの一葉』より

 岩崎卓爾氏は一八六九(明治二)年仙台にうまれ、第二高等学校を中退して北海道札
幌測候所に勤務、中央気象台をへて、一八九八(明治三十一)年十月石垣島測候所に勤
務、一八九九年に石垣島測候所所長となり一九三二(昭和七)年退官し、一九三七年後
が五月に石垣島で没した。彼は一生を通じて、木綿の着物を着て、下駄をはき、洋服、洋
傘、靴をもちいなかった。そして彼は石垣島の人たちから「天文屋のうしゆまい(じいさ
ん)」と親しまれた。
一九一三年以後は妻子を仙台に帰して、年に一度東京で開かれる測候所所長会議に出
席のついでに家族と会っていた。程順則の『指南広義』が中央の機関誌『気象集誌』に
彼の手ではじめて紹介された。退官後、彼は石垣島の登野城に居を構え「袋風荘」と名
付けた(『沖縄の百年』太平出版刊)。
一九七四年六月に,伝統と現代社から『岩崎卓爾一巻全集』が出版されている。ところ
が、一巻全集に載っている先覚列島はほんのちょぴりである。彼の著作『ひるぎの一葉』
のなかに「与那国島と波照間島と尖閣列島」があるが、尖閣列島について、要旨つぎの
ように簡単にふれている。
@尖閣列島(通称クバ島また大正四年十月刊の水路図に尖閣諸嶼と記す)。
A尖閣列島(黒岩恒先生の新称)
B列嶼は魚釣嶼、尖閣諸嶼および黄色嶼より成る。
C先代古賀辰四郎氏が企図した初めのころ、退屈をなぐさめよとして猫を連れて行った。
ところが繁殖力さかんで野猫と化し、アホウ鳥は鳥から逃げてしまうようになった。無人
島を開拓しようとする人は慎まなければならない。
D島嶼付近のカツオが群集することが多く、現在六九人がすんで漁×をしており、燐鉱
あり。
また「石垣島気候篇」には「八重山群島の周囲と面積」に、南小島、北小島、魚釣島、久
馬島の四島をのせている。
 石垣市に四○年も生活し、石垣島測候所に銅像まで建ててもらった岩崎氏氏は、一九
○○年に宮島幹之助や古賀辰四郎とともに尖閣列島に渡った野村道安八重山島司とは
同居人(仙台)だから、当然黄尾嶼や魚釣嶼のことをきており、古賀辰四郎や息子善次
氏の事業についても知っていたとおもう。だが,岩崎氏の尖閣列島についての記録はあま
りにも少ない。岩崎氏は古賀氏の事業には興味がなかったようである。東京の中央気象
台が、岩崎氏を東京によびもどして技師にしてやろうと幾度も声をかけたのに、「実は、こ
こが日本一空がきれいなのですと」応じなかった彼のことだから、バカ鳥を捕まえて羽毛
をむしり、肉は缶詰にして金もうけるというよな、ナマグサイことには気をひかれなかった
のかもしれない。
(1)一九三七年『沖縄日報』に連載、一九六七年、琉球新報社刊。



 (10) 下関条約と台湾の受渡し

下関講和談判
 日清戦争の講和談判は、一八九五(明治二十八)年三月二十日から下関の藤野楼(春
帆楼)でひらかれた。日本側全権は伊藤博文総理大臣と陸奥宗光外務大臣であり中国
側は李鴻章筆頭全権であった。会談は七回おこなわれた。
 日本側の講和条約案は「奉天省南部と奉天省に属する島嶼」、「台湾全島及其付属諸
島嶼及澎湖列島」などの割譲と軍費賠償として三億両(テール)を要求した。李鴻章全権
はこの日本の要求に対して、「日本は今回交戦の初め、清国と干戈を交うるに到りたる
は朝鮮の独立を図り清国の土地を貧るに非ずと中外に宣言せしに非ずや」、「兵費に就
ては今回の戦争は清国先づ手を下したるに非ず、また清国は日本の土地を侵略せしこと
なし。故に論理上よりいえば、清国は公費を賠償すべきものに非ざるが如し」と主張し
た。中国側は、一八九四年十二月二十五日をもって、すでに朝鮮の独立自主を認める旨
を宣言している、だから日本は戦争の目的を達したことになる。それ故兵費の賠償は十
二月二十五日までとし、それ以後の分について要求するのは不当だ、ともいった。日本
側が「台湾全島及其付属諸島嶼及澎湖列島」を日本によこせと要求したとき、中国側は
「澎湖列島に限る事」と修正案をだした。伊藤博文総理と李鴻章全権とのやりとりの日本
側の記録はこうなっている。
 李 貴国が未だ占領せられざる台湾までも要求の条件とせられるは、少なくともその真
意を解するに苦しむ所なり。
 伊藤 現に占領すると否とは、敢て問う所に非ず。仮し未だ占領せざるも、要求の条件
とするにおいて何の妨げあらんや。
 李 現に占領せざる地を要求せらるるは、其当を得ずと思考す。
 伊藤 若し然らば、直ちに兵を送りて占領せしめんが如何。
 伊藤総理はわれわれの最大の任務は、一日も速く講和条約を結ぶことであるとして
「広島に於ては出征の準備己になり、何時を問わず×を解かんとするの運送船六十隻あ
り、現に昨夜以来今朝までの間に、当時峡を通過したる運送船二十席に達せり、而して
その向かう所は、天津を距る遠からざるべし」といって李全権に圧力をかけた。

 伊藤総理の脅迫によって、李全権は台湾を日本に割譲することをのぞんだわけだが、
台湾の受渡しついてのやりとりはこうなっている。尖閣列島に関連して、これは非常に重
要である。
 李 条約批准の時は貴国よい其高官の為めに全権委員を簡派せられんか、其節を以
て土地引渡に関する規定を十分商議せんとす。而して貴国に割譲したる土地へは無論
武官を派出せらるべきも、之と同時に文官をも派遣せしめられたし。然らば引渡細目を議
するに於て、双方に便宜多し。又実際の引渡は、批准交換後六箇月と決定せられんこと
を望む。
 伊藤 六箇月は長きに過ぐるを以て許諾し難し。
 李 兔に角批准交換後引渡に関する事項を商議する為に、双方より特に全権委員を任
命せられざるべからず。
 伊藤 条約第二条第二項の実行に就きては、別に取極書を起草し置きたり。
 李 批准交換後に於て此事(筆者 引渡のこと)を決定せられたし。
伊藤 条約第二条第二項の実力に就きては、別に取極書を起草し置きたり。
 李 批准交換後に於て此事(筆者注 引渡のこと)を決定せられたし。
伊藤 交換後にて不可、必ず今日に於てえ決定せざるべからず。
 李 実は台湾に関しては、余は同地総督に指揮命令する権力を有せず。因て批准交換
の時、貴国より北京に簡派せられる全権委員と、我総理衙門との間に於て商議せられん
ことを望む。然らば我総理衙門はその商議の結果を以て、台湾総督に指揮するところあ
るべし。因て此事交換後、通商航海条約、陸路交通貿易に関する諸条約と共に商議せ
らたし。
 伊藤 其の如き遅緩の措置許さず。必ず今日に於て確定せざるべからず。
 李 然れども批准交換の非ざれば,土地の引渡を得ざるは勿論なれば、交換後全権委
員をして実行せしむるの外なし。今日は単に其事の約束のめに止め置かれんことを望
む。
 伊藤 約束のめ止まるは不可なり。我は実際の引渡を受くる為に何時と雖も全権委員
を簡派すべし。必ず今日に於て確定する所なかるべからず。
 李 然れども余は台湾総督に向い、何等指揮するの権力を有せざれば、今日に於ては
如何とも名言するを得ず。
伊藤 批准交換後は台湾は我主権の及ぶ所なれば,其場合に於いて何
等商議するを要せず。
 李 台湾の引渡は少なくとも六箇月の猶予を乞わざる得ず。現に我官史及土豪等をし
て、公私の事務をもまとむる丈の余裕を与えられざれば、或は為めに不慮の変生ずるな
きや得し難し。
 伊藤 閣下は何故に今日此の取極書に同意すること能はざるか。
 李 余の権力の及ばざる所なれば,今決定するを得ず。.結局批准
交換後、両国全権委員をして商議せしめられたしと乞うの外なし。
 伊藤 然らば閣下は何れの日会同して、何の日まで決定せんとするか。
 李 其期限は今明答するを得ず。
伊藤 とても承諾し難し。
 李 既に台湾割譲の条約なりたる後のことなれば、両国全権委員が最後の引渡に付て
の規定を商議するなれば・・・・・・
伊藤 然らば一定の期間を確定せざるべからず。先批准交換一箇月と取極め置かん。

伊藤総理は「講和条約批准交換後、一箇月以内に双方の政府は台湾に委員を派遣し、
同批准交換二箇月以内に最後の引渡を遂行すべし」という案を李全権に示した。これに
対して李全権は、平和回復ができれば両国官史は友好的にやってゆくのだから、そんな
に期限を厳しくする必要はあるまい。閣下は実にに多く望まる(You are too hungry)とい
った。批准書交換についても伊藤総理は条約調印後10五日といい、李全権は一ヶ月と
主張した。伊藤総理は十五日から二十日と妥協したが、李全権は二十日では不十分だ
と反論した。結局講和条約には第五条で『日清両国政府は本役批准交換後、直ちに書く
一名以上の委員を台湾省に派遣し、該省の受渡を為すべし、而して本役批准後二箇月
以内に、右受渡を完了すべし』と規定した。
 講和条約は一八九五年四月二十三日に駐日独・仏・露三国の公使が外務省を訪れ、
林次官に,日清講和条約中の「×東半島の割地につき重大なる異議を」申したてた。いわ
ゆる三国干渉である。そのことによって中国政府部内日清講和条約の改訂・批准阻止を
主張する声が大きくなった。伊藤博文総理大臣も陸奥宗光外務大臣もすっかりあわてて
しまい、結局、四月三十日に御前会議を開いて×東半島を永久に放棄することにきめ
た。批准書交換は五月八日におこなわれ、五月十日には×東還付の天皇の詔勅が出さ
れた。


大急ぎの台湾受渡し
台湾の受渡しについては、筆者の手元にある岩波書店刊『近代日本総合年表』にも、お
なじく岩波書店刊『日本史年表』にも、また中央公論社『日本の歴史』別巻5の年表にも
載っていない。だが、外務省編『日本外交年表』(原書房刊)には載っている。

 明治二十八(一八九五)年六月二日,清国全権李経方と樺山台湾総督間に台湾及び澎
湖列島受渡を了す。
 下関の講和談判で李全権は,台湾の引渡しには六ヶ月かかるといい、伊藤総理は一ヶ
月と主張した。結局は二ヶ月以内ということになったのだが、実際には批准書交換の日
から二五日目に台湾の受渡しは完了した。講和談判のなかで伊藤総理は、批准書交換
後は台湾はわが主権のおよぶところだから、受渡しについてなにも中国とのあいだに相
談する必要はないといったし、下関条約の台湾割譲に反対する台湾省民の抵抗武装力
は、五月二十五日蜂起しているのだから、中国側としても公私の事務をまとめて引継ぐと
いう状況ではなかった。だから李経方全権と樺山資紀台湾総督とのあいだの受渡しは、
至極おおざっぱなあものであったろうと思う。だから台湾の付属島嶼名までいちいちあげ
るというようなことはなかった。一八九六年五月に大阪で出版された新直×編、吉岡平
助発行の『高等小学科地理補習用「台湾地理小誌・全」』には「台湾本島のほか島嶼の
挙具べきものは西部の澎湖島を第一とし、ついで小琉球島あり、頭部に紅頭嶼、火焼嶼
あり、また東北海中に二島あり、一を亀山といい、一彭佳嶼という」ときわめて簡単に書
いている。
 奥原敏雄教授は台湾が中国領になったのは一六八三年であり、棉花嶼、花瓶嶼、彭
佳嶼などが台湾に行政編

以下 18行抜け






[ 井上清教授と奥原敏雄教授の古文書をめぐる論争


     (1) 尖閣列島は台湾の付属島嶼か無主地か

   京都大学井上教授(日本史)は、その著書『尖閣列島』のなかで、「国士舘大学の国
際法助教授奥原敏雄のほかは、あえて歴史的説明を公表したものはまだ一人もあらわ
れていない」と書いている。国士舘大学奥原敏雄助教授(国際法)は、直接歴史的古文
書に触れて、いかにして尖閣列島が無主の地であったかを立証しようとしている。尖閣列
島が無主の地でなければ、古賀辰四郎、善次氏親子の尖閣列島開発事業という実効的
支配の証拠を何  百ならべてみても、それらはしょせん、領有権主張の根拠にはならな
いからである。
   奥原教授はこのことについて、雑誌『中央公論』一九七八年七月号掲載の同教授
論文「尖閣列島領有権の根拠」のなかでこう述べている。

 もし尖閣列島が中国領であったと仮定した場合、わが国の立場はたしかに不利にな
る。台湾の付属諸島として尖閣列島を扱った場合、日清講和条約第二条は、台湾および
その付属諸島を日本に割譲しているから、第二次大戦後わが国が台湾を放棄した結果
として……(尖閣列島も)放棄したことになる……。
 また仮に台湾の付属諸島として扱わなかったとしても、中国領である尖閣列島の領有
権をわが国が取得するためには、時効の法理による以外にないということになる。ところ
が時効の法理は日清戦争といった事実が存在しない場合に使い得る議論であって、もし
日清戦争の存在を前提として、この問題を考える場合に、この法  理によってわが国が
尖閣列島の領有権を取得したとする主張は論理としていいうるとしても、主張としてはき
した時期に、わが国が領土編入したという行為そのものが、日清戦争の結果として、そう
いった行為を可能ならしめたということになるからである……少くとも尖閣列島が中国領
であるという前提に立つ限り、それが台湾の付属諸島であろうとなかろうと、日本が日清
戦争の結果として、初めて取得が可能になった地域ということになるからである。

  そしてまた同論文のなかで奥原教授は、尖閣列島の考え方として六つあげている。

(1) 尖閣列島をめぐる領土紛争は政治的紛争ではなく、法的な紛争である。
(2) 私的な紛争ではなく、中国と日本の国家間の紛争である。
(3) 国家間の法的紛争だから国際法に従って解決しなければならない。歴史的見地か
ら尖閣列島の領有を主張するということと、その主張が法的に認められるかどうかは一
応別問題である。
(4) ただし、国際法が歴史的事実を無視するということではない。問題は歴史的古文書
が、国際法上に意味のあるものかどうかということである。
(5) 実効的支配を要件とする先占の法理は、現代の国際法のもとでも有効である。
(6) 歴史的見地に立つ中国領有論の大部分は、これは法的な観点から分析するなら
ば、いわゆる発見、命名、領有意思の存在だけで領有権の帰属が決定されると主張する
にひとしいことになろう。このような主張は初期の先占の法理にも存在したものである。
発見優先の原則(国家の意思による発見)は、ポルトガルとスペインが海上の支配権を
握っていたヨーロッパ近世初期から一八世紀の後半まで有効であった。ただし、この場
合の発見というのは、大陸の一部を発見したことにより大陸全体の領有権を取得し得る
というものではない。

  わが国が尖閣列島の領有権を主張するには、先占以外にはない。割譲とか征服とか
併合とかのいくつかの領有主張の根拠があって、そのなかから先占を選んだわけではな
い。南方同胞援護会の尖閣列島研究会が、一年もかかってだした結論は先占であった。
無主地の先占を立証するために、資料を集めたと考えられる。先占を主張するために
は、尖閣列島は絶対に台湾の付属島嶼であってはならず、それは無主の地でなければ
ならない。国際法における無主の地の先占が、新たな領土取得の方法として、欧州列強
によって、アメリカ大陸やアフリカ大陸での植民地獲得のために機能したのは十九世紀
以降であり、それは国家の一方的行為でおこなわれた。ところが奥原教授は、一五三二
年の中国の琉球王に対する第一一回目の冊封使陳侃の記録や、一五六一年の郭汝
の記録を、一九世紀の国際法に当てはめて解釈しようとしているところにたいへんな無
理がある。
  中国(明)の太祖が琉球中山王察度に詔諭をあたえたのは、一三七二年であり、太祖
の冊封使が琉球に来たのは、一四〇二年である。以来、琉中間には国境問題も領土紛
争も全くなかった。琉球国は三六島であり、琉球国と中国とのあいだに第三国があるは
ずはなかったし、無主の地というものがあるなどという理屈は、思いもおよばなかったこと
である。陳侃が皇帝の使節として琉球に赴いたときには、尖閣列島にはすでに中国の島
名が付けられていた。そして、一九三四年に発表された陳侃の『使琉球録』は、四〇〇
年も後世の国際法の法理「無主地の先占」に対抗するために書かれたわけではない。こ
れは、国際法における無主地の先占というものを知っていて、デ・ロングアメリカ公使や
アメリカのル・ジャンドル前厦門領事などにそそのかされて、一八七四(明治七)年に、台
湾を無主の地として兵を送り、中国から厳重な抗議を受けて、大久保利道内務卿が自ら
中国に赴かなければならなかった明治政府とはわけが違う。中国でも琉球でも官吏や船
員は、福州から那覇へつうずるこの海の道をよく知っていた。琉球の船員は慶良間で養
成され、海外へ渡航する船の船員の三分の二までは慶良間の出身者であった。那覇と
福州とのあいだにある島は、琉球のものでなければ宗主国中国のものだという認識であ
った。また当時の中国の領土意識から考えてもそうであった。


      2 『三国通覧図説』の図をめぐる論争

  林子平(一七三八〜九三年)の『三国通覧図説』中の「琉球三省並三十六島之図」
は、一七八五(天明五)年秋に東都日本橋北室町三丁目須原屋市兵衛が出版したもの
である。この図は福州から那覇への航路上に、花瓶嶼、彭佳山、釣魚台、黄尾山、赤尾
山を、ほとんど直線上に描き中国本土とおなじ桃色の彩色をし、琉球三六島と区別をして
いる。

  奥原教授の主張
  『三国通覧図説』の地図の色は、決して領土の帰属を識別したものではない。仮に、
同色に塗られているから中国領と理解した場合、旧満洲と日本とがおなじ緑色、北海道
と琉球はおなじ褐色、台湾はこのときすでに清朝の版図に正式に編入されていたのに、
朝鮮とおなじ黄色に塗られていたのはどういうわけか。色からだけ問題にすれば旧満洲
が日本領、北海道は琉球領、台湾は朝鮮領になってしまう。林子平が出鱈目な知識しか
もっていなかったか、地図の色が領土を識別したものではないかのいずれかでなければ
ならない。もし出鱈目な知識しかもっていなかったとすれば、釣魚台などを中国領としたこ
との信憑性もきわめて怪しいことになる。林子平が依拠した原典は徐葆光の『中山伝信
録』(一七一九年)であった。『中山伝信録』には二枚の地図が付されている。一つは「針
路図」であり、いま一つは「琉球三十六島之図」である。林子平の「琉球三省並三十六島
之図」がこの二枚の地図を参考にしてつくられたことは、一見して、明らかである。『中山
伝信録』からは、いかなる意味においても、釣魚台が中国領に属することは明らかにさ
れていない。『中山伝信録』は伝聞に依拠している以上、第二級の価値しかない。

  井上教授の主張
    釣魚島とそのならびの島々に関する明治以前の古い記憶は、日本にはただ一つ
しかない。林子平の『三国通覧図説』の附図の「琉球三省並三十六島之図」のみである。
林子平は一七一九年の冊封使徐葆光の『中山伝信』の図によって書いたものである。だ
から価値が低いのではなく、価値はきわめて高い。徐葆光は琉球に渡るにあたって、琉
球の地理、歴史、国情について、従来の不正確な点や誤りを正すことを心がけ、各種の
図録作製のために、とくに中国人専門家を連れてきたほどである。彼は琉球王城のある
首里に入るとすぐ、王府所蔵の文献記録の研究を始め、程順則と蔡温を相談相手として
八ヶ月間琉球の研究をした。程順則は琉球人で、中山王の家来であり、清皇帝の陪巨で
あった。彼は琉球の生んだ最大の儒学者であり、地理学者であった。また、蔡温は、福
州に三年間留学して、地理、天文、気象を専攻し、のちに琉球王府の執政官となった人
で、程順則につぐ当時の大学者であり、琉球の王国時代を通じて最大の地理の専門家
であった。
  徐葆光は『中山伝信録』を著わした。この『中山伝信録』は出版後間もなく日本に輸入
され、日本の版本もでた。そして『中山伝信録』は明治初年に至るまでのあいだ、日本人
にとって琉球に関する知識の最高の源であった。だから、一八八五年九月二十二日付で
西村捨三沖縄県令が山県有朋内務卿に提出した「久米赤島(筆者注 赤尾嶼)外二島
取調ノ儀ニ付上申」には久米赤島、久場島および魚釣島は、古来沖縄でいうところの島
名で大東島とは異なり、『中山伝信録』に載っている釣魚台、黄尾嶼、赤尾嶼と同一のも
のではないかとの疑いがある、としている。また同年十一月二十四日付西村県令から山
県内務卿への文書では「清国ト関係ナキニシモアラス」と書いている。

  程順則は一七〇八年に『指南広義』を著わしたが、琉球人の文献に釣魚諸島の名が
でてくるのは、一六五〇年に琉球の支配層のなかの親日派向象賢の『琉球国中山世
鑑』巻五と『指南広義』の「針路条記」の章および付図との二つしかない。向象賢は陳侃
の『使琉球録』をそのまま引用している。程順則の本は、だれよりも清朝の皇帝とその政
府のために、福洲から琉球へ往復する航路、琉球全土の歴史、地理、風俗、制度などを
解説した本であり、釣魚島などのことが書かれている「福洲往琉球」の航路記は、中国の
記録に依拠している。だから徐葆光の『中山伝言録』の図によって描いた林子平の「琉
球三省並三十六島之図」の価値はきわめて高いものである。

 両教授の主張は原文のままではなく、著者の研究ノートとして整理したものである。
(1) 両教授の論争は、林子平の図の色分けについておこなわれているが、その図は尖
閣列島が福州・那覇間に 直線的に点在している。ところが林子平の図には幾種類かあ
って国会図書館の図は、第11図のとおり?籠山のもとに、まとめて描かれている。?籠は
台湾の基隆である。
   この図も天明五年秋、東都日本橋室町三丁目須原屋市兵衛梓のものであるが、そ
の下に仙台伊勢□□助□□とあり、これは奥原教授や井上教授の見た地図とは違って
いる。版木の彫り方もうまくない。これは初版かあるいは幕府に版木をとりあげられたあ
とのものではなかろうか。この図も奥原教授としては別の三十六島の図と同様に中国領
と断定できるものではないかもしれない。
(2 奥原教授は、林子平が、出鱈目な知識しかもっていなかったのではないかといって
いるが、これは林子平に対する評価を誤っている。林子平自身決して出鱈目な人ではな
い。経世家としてじつに優れた人であった。彼は仙台から江戸に遊学、一七七五年長崎
に行き、オランダ人からロシアの南下の形勢をきき、 「日本国」としての防衛の緊急性を
痛感して,このことを日本民族全体にひろめなければと考え、地理学・兵学の研究をし
『三国通覧図説』を著わし、また『海国兵談』(一七八六年)を出版した。林子平は一七七
五年の長崎行きののち、二度長崎を訪れ、また江戸で大槻玄沢、宇田川玄随、桂川甫
周らの蘭学者と交わり、海外の事情をきいている。彼が出鱈目な人間でないことは、一
七八八年にロシアのエカテリナ二世女帝の命を受けたラスクマンが根室に入港して以
来、ロシアの南下政策は続き、一八七四年三月にはロシアのあいつぐ暴力によって、日
本は樺太から居留民四五八八人を北海道に引き揚げさせ、一八七五(明治八)年に樺
太・千島交換条約を結び、樺太はすべてロシア帝国に属することになってしまった。この
ことを見ただけでも林子平が出鱈目な人でなかったことがわかる。彼はまことに先見の
明があったといわなければならない。
(3) 林子平の『三国通覧図説』は、「三国通覧與地路程全図」、「朝鮮八道之図」、「琉
球三省並三十六島之図」、 「蝦夷国全図」 (北海道) 、「無人島大小八十余山之図」 
(小笠原) の五枚にわかれている。だから、奥原教授が、北海道と琉球はおなじ褐色に、
台湾と朝鮮がおなじ黄色に色塗りされているから、色わけだけからいえば台湾が朝鮮領
に、北海道は琉球領になってしまうといっているのは、それはへ理屈というものである。
  林子平の『三国通覧図説』はイルクーツクを経て、一八三二年にはドイツ人の東洋学
者ハインリッヒ・クラプトールの手にはいり、パリでフランス語に訳され出版されている。そ
の地図も色分けされている。小笠原諸島の帰属問題での日米交渉の際には、「無人島
大小八十余山之図」(小笠原)は、日本にとって有力な資料となった。



     (3) 赤尾嶼と久米島のあいだ

  『使琉球録』と『重編使琉球録』
 陳侃は一五三二年に琉球に来た第一一回目の冊封使であり、郭汝霖は一五六一年の
第一二回目の冊封使である。陳侃の記録に『使琉球録』があり、郭汝霖には『重編使琉
球録』がある。陳侃の『使琉球録』は「使事紀略」と「群書異質」の二部からなっている。

 陳侃の『使琉球録』より
  九日、隠隠見一小山、乃小琉球也。十日、南風甚迅、舟行如飛、然順流而下、亦不
甚動。過平嘉山、過釣魚
 嶼、過黄毛嶼、過赤嶼、目休暇接、一昼夜兼三日之程。……十一日夕、見古米山、乃
属琉球者、夷人歌舞於舟、
  喜達於家。
  
  郭汝霖の『重編使琉球録』より
  (嘉靖四十年五月)二十九日、至梅花所開洋。幸値西南風大旺、瞬目千里、過東湧、
小琉球。三十日、過黄
  茅。閏五月初一日、過釣魚嶼。初三日、至赤嶼焉。赤嶼者、界琉球地方山也。

  
  奥原教授の主張
 陳侃が「十一日夕、久米島を見る、すなわち琉球に属するもの」といい、郭汝霖が「赤尾
嶼は琉球との境の」島だ」 といっても、それまで通ってきた赤尾嶼、黄尾嶼、釣魚嶼等の
島々が中国領であることを示す、いかなる証拠も見出だすことはできない。冊封使録は
中国人の書いたものであるから、赤嶼が自国領であるとの認識があったとすれば、はっ
きり中国領とわかるように記述できたはずである。尖閣列島が中国領か琉球領かを決定
する前に、両国のいずれにも属さない無主地である場合がありうることを、最初から無視
しているところに問題があるといえよう。冊封使録に釣魚島、黄尾嶼、赤尾嶼などに触れ
ているのは、主として航路の目標とての関心からである。

  井上教授の主張
 そもそも当時の中国人の領土意識からすれば、琉球全土も中国皇帝に臣属している
中山王の国土であり、一種の属領であった。だから明治政府が強権をもって琉球処分を
したとき、中国側はそれに反対し、琉球二分案について日中間で交渉がもたれたが、こ
の件は一八八六(明治十九)年に至っても解決しなかった。日清間の対立はそのまま放
置されて日清戦争となった。日本の琉球独占が確立したのは、日清戦争で日本が勝利し
たことによってである。明・清が琉球に冊封使をだした当時、 「普天の下王土に非るは莫
し」 という中国人の天下観念からいっても、琉中間に無主の地があるなどと考えるわけ
がない。冊封使はまぎれもなく中国領の福州から出発し、まぎれもなく中国領の台湾の
北を通り、やはり中国領であることが自明の花瓶嶼や彭佳嶼を通り、やがて釣魚島、黄
尾嶼を過ぎて赤尾嶼に到ったので、感慨をこめて、これが琉球地方を界する島だと書い
た、この文勢文脈は、赤尾嶼までが中国領で、ここから先が琉球領だと解するのが普通
であろう。

  奥原教授の井上教授に対する反論
  井上教授は、陳侃や郭汝霖が赤嶼(赤尾嶼)と久米島のあいだが琉中間の界をなす
とする前提として、台湾を「まぎれもない中国領」 としている。しかし、一六九六年の高拱
乾撰『台湾府志』 によれば、台湾が中国領になったのは一六八三年で、綿花、花瓶、彭
佳三嶼が台湾に行政編入されたのは一九〇五(明治三十八)年で、日清戦争以後のこ
とである。井上清教授が台湾を 「まぎれもない中国領」 とした前提は崩れてしまう。井
上教授は鄭舜功の『日本一鑑』の 「釣魚嶼は小東(台湾)の小嶼也 」 から釣魚嶼は台
湾の付属諸島であることが立証されるとしている。また井上教授は、小東は明朝の行政
管轄では、澎湖島巡検司に属し、澎湖島検司は福建に属しており、鄭舜功は釣魚嶼を台
湾の付属の小島と明記しているから、それは中国のものであることは明らかだとしてい
る。しかし、澎湖の巡検司制度そのものが『日本一鑑』の一六八年前の一三八八(明の
洪武二十一)年に廃止されていた。
  
  巡検司制度は唐の時代に設けられ、元もその制度を受け継ぎ、明の巡検司制度も元
の制度をすこし改めた程度のものであった。澎湖島巡検司が廃止されても、巡検司制度
そのものが廃止されたわけではない。倭寇の侵入を防衛するために 「衛」、「所」、「巡検
司」 が設置された。そこに軍隊が置かれ、また城が築かれた。一三八六 (洪武十九)年
から一三八七(洪武二十)年にかけて、明朝は大規模な倭寇防衛対策を打ちだしたが、
それはまず海浜の防衛であり、築城であった。浙江省(昔は浙西、浙東に分けられてい
た)には、洪武十九年から二十年にかけて五九の城が築かれた。中国の倭寇防衛策か
らきりはなして、澎湖島巡検司制度が廃止されたと単純な考え方をしてはなるまい。
  「中外之界」
  汪楫(康煕二十年、一六八一年の冊封使)の『使琉球雑録』につぎのような記述があ
る。

   二十四日天明ニ及ビ、山ヲ見レバ則チ彭佳山也……、辰刻彭佳山ヲ過ギ、酉刻釣
魚嶼ヲ遂過ス。船空ヲ凌グ
  ガ如クシテ行ク……
   二十五日山ヲ見ル、応サニ先ハ黄尾後ハ赤尾ナルベキニ、何モ無ク赤嶼ニ遂至
ス、未ダ黄尾嶼ヲ見ザル也、
  薄暮郊(或ハ溝ニ作ル)ヲ過グ、風涛大ニ作ル。生猪羊各一ヲ投ジ、五斗米ノ粥を溌
ギ、紙船ヲ焚キ、鉦ヲ鳴ラ
  シ皷ヲ撃チ、諸軍皆申シ刃ヲ露ハシ、舷ニ俯シテ禦敵ノ情ヲ作ス、之ヲ久シウシテ始メ
テ息ム、問フ、郊ノ義
  ハ何ニ取レルヤ、日ク中外ノ界也(傍点は筆者)、界ハ何ニ於テ辨ズルヤ、日ク懸揣ノ
ミ、然レドモ頃者ハ恰モ
  其ノ処ニ当リ、臆度ニ非ル也、之ニ食シ復タ之ニ兵ス、恩咸並ビ消スノ義也(井上清
論文¬釣魚列島の歴史と
  帰属問題」『歴史学研究』一九七二年二号)。
   
  冊封使たちの使録にしばしば過溝の祭がでてくる。「水皆黒色」とか「黒溝」とか「黒水
溝」とも記されている。井上教授は汪楫の使録のなかの「問フ、郊ノ義ハ何ニ取レルヤ、
日ク中外ノ界也」というのは赤嶼と久米島のあいだが「中外の界」であると主張する。こ
れに対して奥原敏雄教授は、汪楫は舟子との問答をそのまま記述するかたちで「中外之
界」に触れているだけであって、汪楫自身の考えを述べたものではなく、「中外之界」をめ
ぐる汪楫と舟子の問答は、冊封船の往路でなされたもので、その時期に台湾は、まだ清
朝の版図に入れられておらず、翌年汪楫が帰国した年に版図編入されているから、「中
外之界」は領海域を意味するはずがない、と反論する。
 しかし、この過溝の祭は、赤尾嶼の現場の状況と一致している。高岡大輔氏は『季刊沖
縄』第五十六号につぎ
のように書いている。

 大正島(筆者注 赤尾嶼)は魚釣島より役一〇〇キロ東方にあるが、台湾東海から北
上して来る黒潮は魚釣島附近で大陸棚上の大陸沿岸流と遭遇して北東に転向し、更に
大正島附近で再び北方に方向を転ずるが、それは南方系植物の濁流物が、これら群島
の沿岸に打ちあげれていることからも証明されるというが、その黒潮の速度は大正島附
近で四浬と言われ、この附近を小船で船行することは、時に危険であるいう(「尖閣列島
周辺海域の学術調査に参加して」)。
   また岩崎卓爾氏はこう書いている。

島の人達自から孤島の裡に跼蹐して蒼海を怖るる陸の人となりしは「ミジュ―」(海の溝
の意)の難を恐れたのである。ソハ風なくして潮浪の浪、白馬の如く奔り、或は風浪風波
の為め構造跪弱なる船?々破壊、流寓漂浪の身となり、空しく貴重なる生命を喪ふた歴
史は、これが実例を以て充満するからである。
 黒潮の事を中国人は黒溝とか落?とかいって居る。黒溝というのは黒色の水流という義
で黒潮というのと意味正に一致している。次に落?というのは洋上の一段低く流るる潮流
という意味で黒潮の流れは他の洋上よりは少し低く流れて居ると見ゆる。中国人は落?を
恐るること最も甚だしく隋、唐、明、清の昔より深く之を警戒して居たということは中国の
史書に散見するところである(『岩崎卓爾一巻全集』二六六頁参照。)

 そして奥原教授も、「中外の界」というのは、「東シナ海の浅海と、琉球の西方沖を南北
に流れる黒潮との境にあたる潮の流れの段差を示す部分を指すことは明らかである」と
述べている。
 魚釣島も南、北小島もそうであるが、赤尾嶼は水深二〇〇メートル以内の中国の大陸
棚の縁にちょっとのっているというかたちで、それから沖縄の島々とのあいだの南北に細
長い沖縄舟状海盆へと急に落ちこんでいるのである。南方同砲援護会の目的は東中国
海の海底石油を日本のものとするために、尖閣列島の領有権主張の根拠を探すことで
あった。だから、尖閣列島は台湾の付属島嶼でないことを証明しなければならない。無主
地であることを証明しなければならない。だから赤尾嶼と久米島のあいだが琉中間の境
(界)であってはならないのである。
  また棉花嶼、花瓶嶼、彭佳嶼の三嶼が日清戦争以前に台湾に行政編入されていた
のでは困るのである。こうなると国際法とはカントの道徳律みたいなものに思えてくる。一
九世紀の国際法が先にあって、一六〜七世紀の歴史 に光を当てて、いいとか悪いとか
いっているようなものである。歴史は書きかえられるということとはわけが違う。
  
(1)小琉球は台湾、平嘉山は彭佳嶼、黄毛嶼は黄尾嶼、赤嶼は赤尾嶼。古米山は久米
島、夷人は琉球人のこと。傍点は筆者。
(2)梅花所開洋とは福州から出発したという意。東湧はいまの東引島。井上教授は黄茅
はいまの棉花嶼ではないかといっているが、これは高草嶼とも呼ばれた彭佳嶼ではない
かとも考えられる。傍点は筆者。
(3)潮流の沖縄方言。


  \ 井上教授と筆者の見解の相違

      (1) 軍事基地か石油か
  
   井上教授が尖閣列島を、一八九〇年代にも一九七〇年代にも、軍事基地として重
視しているのに対して、筆者はバカ鳥、石油という資源を重視しているというところに、考
え方の相違のひとつがある。井上教授は、これらの島を明治政府が重視したとする根拠
として、一八八六(明治十九)年三月の山県有朋内務卿の沖縄視察、一八八七年四月に
沖縄県知事に任命された福原実知事が予備役陸軍少将であったこと、そしてまたその
年の十一月に伊藤博文総理が、大山厳陸軍大臣や仁礼景範海軍軍令部長らをしたが
えて、軍艦三隻をひきいて六日間の沖縄視察をしたこと、そしてこれらは対清戦争準備
のためであったこと、また一八九五(明治二十八)年一月、貴族院で「沖縄県県政改革建
議」が可決されたとき、提案理由の説明でも「沖縄の地たる、東洋枢要の地」、「軍事上の
枢要の地」ということのみくりかえし強調され、その要地の県政を改革して「海防に備えね
ばならぬ」ことが力説されたことに、端的にあらわれているとしている。
 井上清教授はさらに、著書『尖閣列島』で、「この列島はまた、軍事的にきわめて重要で
ある。ここに軍事基地をつくれば、それは中国の鼻先に鉄砲をつきつけたことになる」、
「またこの列島の中で最大の釣魚島には、電波基地をつくるという。周囲一二キロメート
ル、面積約三六七ヘクタールで、飲料水も豊富なこの島には、ミサイル基地をつくること
もできる。潜水艦基地もつくれる」といっている。
 筆者は、沖縄は国境の島々であるから沖縄を重視したとは思うけれども、明治政府は
尖閣列島を軍事基地として重視したことはなかったと答える。事実、バルチック艦隊の最
初の発見者は宮古島の漁師で、石垣島の電信所にサバニに乗って知らせに行った。尖
閣列島に見張りをだしてはいなかった。
 また、現在でも軍事基地としての価値はない。北朝鮮に侵入させたスパイ船の心臓部
を、三沢基地から爆破するという時代である。久場島(黄尾嶼)には水がないし、魚釣島を
潜水艦基地にもできない。かつて日本も米国も、尖閣列島を軍事基地としたことはなかっ
た。


      (2) 窃取か割譲か

 つぎは尖閣列島が、下関条約第二条によって日本領にされたのかどうかという点であ
る。
 井上教授は、著者が『朝日アジアレビュー』一九七二年第二号に発表した論文「いわゆ
る尖閣列島は日本のものか」に対してつぎのように反論されている。

 高橋論文によって、私は島名の重要性を教えられたのだが、その論文が、釣魚諸島は
下関条約第二条によって清国から日本に奪いとられたのではないか、としている疑問に
は、私は否定的に答える。高橋が指摘している通り、台湾・澎湖諸島とその付属島嶼の
受け渡しは、「実に大ざっぱな形だけの受け渡し」であったことにはまちがいない。それゆ
え私も、『歴史学研究』二月号にのせた論文を書いたときは、高橋と同じように考えてい
たが、いまは本文第一二、一三節(著者注 「日清戦争で窃かに釣魚諸島を盗み公然と
台湾を奪った」、「日本の『尖閣』列島領有は国際法的にも無効である」)に書いた通り、こ
こは台湾略奪と同時に、かつ台湾略取と政治的にも不可分の関連をもって、げんみつに
時間的にいえば台湾より少し早く、法的には非合法に何らの条約にもよらず、清国から
窃取したと考える。もしこの島々が、下関条約第二条にいう台湾付属の島(地理的なこと
ではない)として、台湾とともに日本に割譲されたものであれば、どうしてこの島は台湾総
督の管下になくて沖縄県に所属させられたのか説明できない。明治十八年以来、天皇政
府がこの島を盗みとろうとねらいつづけた全過程をみれば、この盗み取りが、日清戦争
の勝利と不可分ではあるが、下関条約第二条との直接の関係はないと言わざるをえない
(同教授著『尖閣列島』現代評論社刊、一四六頁)。

筆者も井上教授に対して否定的に答える。
尖閣列島は、本書で客観的にみてきたとおり、歴史的にも地理的にも台湾の付属島嶼で
あり、日清戦争の結果、中国から割譲を受けて日本領となったのである。これよりほかに
考えようがない。下関条約第二条によって日本に割譲されたものであれば、台湾総督の
管下になくてはならないというのは、あまりにもまともな考え方であり、明治軍国主義は、
後世のまともな学者が、まともに考えて理解できるようなことはやっていないのである。ど
うして台湾総督の管下におかなかったのかといえば、水産取締りのために魚釣島、久場
島などに標杭を建てたいと政府に上申したのは沖縄県知事であり、バカ鳥の島を開拓さ
せてほしいと政府に願いでていたのは、那覇在住の古賀辰四郎氏だったことを考えれ
ば、尖閣列島を日本領にした以上、沖縄県下に所属させたのは当然であり、何の不思議
もない。もっとおおざっぱに、もっと乱暴に考えた方が、伊藤内閣のやった現実に合致す
る。
 井上教授は「日清戦争で窃かに釣魚諸島を盗み公然と台湾を奪った」といわれるが、な
るほど経過をみればそうともいえる。しかし事実ことの本質は、下関条約第二条によっ
て、井上教授のいう窃取が割譲に変ってしまったのである。この条約によって沖縄と台湾
とのあいだに国境がなくなってしまったことにより、尖閣列島の日本領有は割譲によって
確定したというほかはない。






以上は、高橋庄五郎著『尖閣列島ノート』(青年出版社)の写しです。誤字や脱字が色々
あります。この責任は全て管理者にあります。お気づきの誤字脱字等の間違いについて
は、宜しければ当ホームページの掲示板でお知らせ下さい。そうして頂ければ誠に有り
難く思います。
文中の「?」や「??」は、私が使用しているジャストシステムの日本語変換ソフト・「一太
郎」では変換できても、、マイクロソフト社の「ワード」の文字コードにないために変換され
なかった文字です。「◆」は文字コートになかったために変換できなかった漢字です。







トップへ
戻る



尖閣諸島の領有権問題と中国の東シナ海戦略