尖閣諸島の領有権問題



senkaku−note・尖閣諸島問題 W
http://homepage1.nifty.com/NANKIN/


第二部☆編入経緯
1 境界は既に画定していたのではないか? ――台湾出兵
 統計局の見解・琉球五十五島――先占されていないことの確認


☆混乱が生じた背景の確認 
☆旧慣維持
☆異様の国土 
☆なされない琉球藩の版籍奉還 

☆曖昧模糊たる沖縄の位置・領域の理解
 ☆沖縄県は泉州の東にあり 

台湾出兵    領域の暗黙の了解 
下関条約における領域の確認

曖昧な南西諸島

☆所轄と所属 
 所轄と所属の定義 
「尖閣諸島」の編入には問題があるのか 
幼稚な法制 西洋人顧問への依存
島嶼の所轄決定

 未所轄島嶼 
 ☆小笠原帰属問題との比較
 ☆鳥島所轄決定の件との比較 
☆伊豆諸島の鳥島の編入との類似性 
☆一乙第二七六八号の四
☆琉球諸島の特殊性の再確認 
☆当初の整理 

☆先占したのか? 
☆流布する南方同胞援護会の見解「先占」
☆沖縄県の見解――沖縄県政略年譜
☆琉球の人々の歴史的記憶

☆尖閣諸島編入経緯
 ☆なされている伝統的領土としての公示
 ☆内務省地理局編纂の「大日本府縣分割図」 
☆清国は知っていたのか?
☆ボアソナードの提言 
☆東京地学協会
☆海外探険彙報 
☆「グアテマラ・ホンジュラス国境問題」
高野長英の「知彼一助」
☆沖縄県下無人島の編入 
 ☆作業の始り 
 ☆巨文島事件の衝撃のなかで 
本県と清国福州間に散在せる無人島 
清国の鶏籠支配 
☆明治十八年九月の西村県令上申 
 ☆大東島巡視済の儀 
☆大東島の無効な編入? 
山県内務卿の指示
 
  ☆親展第三十八号 
☆沖縄県下無人島 ―井上馨外務卿の真意
☆ビルマ併合さる
☆条約改正 
☆硫黄列島編入の経緯
 管下無人島
☆丸岡知事の所轄決定の伺い 
 ☆「日本外交文書」 ――外務省の整理 
 
☆奈良原知事の上申 
☆隣接していない清国と琉球
☆ 明治二十八年の尖閣編入 
変った書式 先占ではない証拠 
 ☆八重山群島の北西部 
 ☆先占した竹島?先占していない久場島 
 ☆「所轄と認ムル」
先占論の不可の確認 
 
☆なぜ魚釣島久場島の所轄決定は官報にのらなかったのか?
☆「秘別第一三三号」の甲号と乙号 
 ☆内務省廻議案の真の意図
☆明治二十七年、内務省の誤解 

☆なぜ所轄標杭はうたれなかったのか? 
☆公示の手続きは確立していない
☆当時の状況
まとめ
☆尖閣諸島は盗取したのか? 井上清・高橋庄五郎批判
 




勅令十三号
☆沖縄と台湾の境界はいつ画定したか

1.4半架島の編入経緯




1 境界は既に画定していたのではないか? ――台湾出兵

編入経緯考察 
 すでに尖閣諸島がどちらに関わりが深い島嶼であるかについての答はでた。歴史的に
みて、文化的にみて、どちらに属するかについて答はでた。道義的問題は解決できた。こ
の海域は、歴史的水域である。そこに浮かぶ歴史的島嶼である。道義的にも恥じること
のない領土である。これで問題は解決した。これで終りにしてもよい。とくにすべてを白紙
に返して道義のみをもって検討するということにすれば、編入経緯の考察はいらない。 
 しかし法的側面=編入経緯をやはり検討してみなければならない。というのはこれらの
島嶼を日本が盗取したなどという主張が堂々とされているからである。「盗取」したといわ
れる筋合いはないのはすでに明らかである。道義的にみて琉球=日本に帰属するのが
妥当であるからである。しかし「盗取」といわれるのは見過ごして良いことではない。 
 法的手続きに落ち度があるために、あたかも「盗取」したように見えるのであろうか。そ
れとも落ち度などははじめから全くないのであろうか。或いは道義的にみても間違いない
領土を、中国領土であると誤認して、強引に先占したのであろうか。 
 奇妙にも先占したという通説が日本の主張として流布していることが問題である。先占
論は沖縄の歴史と文化をきちんと考察しなかったために成立させざるを得なかったもの
である。これが、問題の発端である。なぜこのような奇怪な論理が構築されたのか。この
ことを知らねばならない。 
 これが卵である。これに対してこの先占が無効であるという主張が中国側からなされて
いる。これが鶏である。この関係を絶つためにも、きちんとした考察が必要である。本当
に、「先占」の手続きがなされたのかということをきちんと法的に検証する必要があるの
である。 
  
  ☆ 境界はすでに画定していたのではないか?
 最初に、検証しておかねばならないことがある。日本が尖閣諸島を編入する以前に、す
でに日清両国は、琉球と台湾の境界について交渉の場で、確認しあい、このことでは合
意していたのではないかということである。そうであれば日本政府が尖閣諸島を先占する
はずがないことになる。 
 先述したように清朝の官吏傳雲竜が日本で、「遊歴日本図経」を書き上げ、1889年
(明治二十二年)に総理衙門に提出しているが、このなかでは尖閣諸島を琉球諸島の一
としていた。これは彼の個人的見解ではなくて、すでに台湾出兵の後に、確認済みの事
実をそのまま書いたものだと思われるのである。 
 日中間で、臺灣(=小琉球諸島)と琉球・沖縄との境界を画定する交渉が正式に行わ
れたことはない。中国は琉球王国の解体を認めなかったから、(琉球を日本領であると認
めることはなかったから)「境界の画定」に応ずるはずはなかった。日本側からしても、こ
の二つの間には「東番」があったのである。台湾島原住民居住地域は、無主の地である
という見解をとっていた。画定交渉がなされるはずはない。 
 しかし明治初期の両国間の交渉のなかで、この問題が取り扱われなかったわけではな
い。間接的にではあるが、臺灣撤兵交渉の中で、確認がなされている。このとき臺灣の
領域が相互の間で確認されたのである。その上で改めて相互不可侵が謳われたのであ
る。それを定めた条項がある。 
 繰り返しになるが、この時点においても、清国は日本の琉球併呑をはっきりとは認めて
ない。間接的に認めただけであった。また日本側も、この当時、琉球藩を置くに止めてお
り、沖縄県を設置したわけではなかった。(1872年の9/14 に琉球藩設置が設置され
ていた。)尚泰は琉球藩王となっている。交渉がなされた当時、琉球藩の進貢はまだ禁
止されていなかったのである。 
 だから、相互不可侵の領域が曖昧である。琉球についてはその扱いが玉虫色の扱いと
されていて、所属が曖昧ではあった。しかし日本が犯してはならない台湾の領域につい
ては、きちんと相互に理解し合ったと見なければならない。日本は「東番無主地」論を放
棄したのであるから、台湾島に対する中国主権を認めたことになる。 
 ここのところを年表でみておこう。 
*************************************** 
|1874|04月 台湾出兵(=征台の役)明治政府の最初の海外出兵、 
|    |7/12 琉球藩、外務省直轄から内務省の隷属に移行         | 
|1875|7/14 琉球処分官、松田道之が清との冊封、朝貢関係廃止などを琉球 | 
|    |王府に伝える                           | 
|1876|12月 琉球、清に窮状を訴え、各国公使に救済を依頼        | 
|1879|3/27 琉球藩の廃止、沖縄県の設置が通告される(琉球処分)B琉球に| 
|    |宗主権を持つとして清が抗議Bアメリカ前大統領グラントが調停したが解| 
|    |決せず(琉球帰属問題)                      | 
|    |3/31 明治政府が軍、警察を派遣し、首里城の藩王府を接収     | 
|    |4/4 沖縄県設置(太政官布告第十四号)・政治改革をするも、旧慣習| 
――RYUKYU.LZH 琉球・沖縄史年表 制作者 でび(SGZ00211@niftyserve.or.jp) 
*************************************** 
 この時、臺灣の領域について、確認がなされており、それが相互に了解されているので
あれば、その後、明治新政府が、尖閣諸島を臺灣の一部とみなすわけがない。臺灣に属
さない花綵列島の島を沖縄の一部とみなすのは全く自然である。また清国も当時、尖閣
諸島を台湾の一部とみなすはずがない。だとすれば尖閣諸島の潜在的帰属は、このとき
にすでに定まったのではないか? 
 台湾諸島(=小琉球諸島)の範囲が定れば、琉球諸島の範囲も自然と定るのではない
か。
 そうなると、このとき琉球と台湾の境界についても相互に了解しあっていたとまでいいう
るのではなかろうか。琉球の帰属そのものは清国がなんとか棚上げにしたつもりであっ
たことは間違いないが、…… 

 このことを検証してみよう。 

  ☆ 出兵前に行われた日米間の台湾と琉球の領域確認について
 明治五年十月二十五日、副島外務卿は在日米国公使デロングと対話している。その
時、臺灣島のなかには無主の地があるとして、デロングは副島に占領せよとけしかけて
いる。武力討伐し領土とすることを勧めている。そのつもりがあるならばとして種々の協
力を約した。主要航路の脇に、難破船を襲撃し、乗組員の首を刈るような原住民の支配
地域があってはならなかったからであろう。この時、台湾の地図や、その山川や家屋の
写真を副島種臣はみせられた。デロングはリゼンドルを顧問として推薦した。リゼンドル
は廈門総領事であった。翌日、はやくもデロングはリゼンドルを副島に引き会わせてい
る。その場で、二人は台湾とその周辺の事情について細かく話し合っている。デロング公
使や外務省雇い米人スミスも同席していた。 
*************************************** 
 副島外務卿米国人ゼネラル・リゼンドル応接記 
              −−壬申九月廿四日、於横浜出張所  
副 ケイランの東方の島は如何。 
李 ペスカドル、是は先ず支那に属し居候。此島を取り候へば、支那へ向ふにも、最良の
足溜りに候。 
(中略) 
副 マジヨルは小島に候哉 
李 模形は心得候へども、商売は盛んにいたし居候趣に候 
副 マジヨル島を巡廻いたし候もの御存知有之候哉 
李 否、尤委敷(くわしき)絵図は所持いたし候米人にて同島え商売に参り候度と申候も
の有之候へども、コンスルも無之、且自分支配外故許し不申、商売に参り候へば、多少
の利益あるべくとの趣、此島は一体、何れに属し候哉 
副 蓋し琉球に属するならん。周囲十八里程にて、石炭坑有之よし。 
李 自分の勘考にも琉球に属し候歟と存居候。……  
  (中略) 
李……マジヨル島は何れに属するにもせよ、早く旗を建候國の所轄と可相成候(38-39) 
――近世日本国民史 90 徳富蘇峰 
*************************************** 
  
  二日後に二人はまた会見している。 
*************************************** 
李 ……ボテルダバコー島は、何國にも不属、銅は澤山有之趣に候。土蕃は私(李仙
得)参り見請候処、顔色・衣服の様子は西班牙領マレーの人種と被存候 
−−近世日本国民史 90 徳富蘇峰 
*************************************** 
 最初にでてくるケイランは鶏籠なのであろうが、このやり取りはどうもよくわからない。副
島は台湾の東にある島々のことを聞いたのではないだろうか。西方の誤記か。幕末に流
布していた長久保赤水の東洋図においては澎湖は鶏籠の東に記されている。とすれば
副島は間違えたつもりはなかったかもしれない。 
 マジヨル島について強い関心を副島は示している。これは先島諸島である。リゼンドル
は琉球に属するとして副島のいうことに一応、同意したようにもみえたが、すぐに、まだき
ちんと帰属が決まっていないと指摘しなおしている。早く旗をたてた国のものになるといっ
ている。これが列強の考え方であった。先島についても無主の地ではないかと暗示して
いる。副島種臣は反論してはいない。十分な知識がないとしか思えない。 
 紅頭嶼についてはリゼンドルは無主の地であるとはっきりと述べている。臺灣政庁の力
が全く及んでいないからである。西洋人からは日本の島ではないかと思われていた歴史
もある。ここにも日本が暗に旗を立てるべきだといわんばかりであるが、副島は回答して
ない。琉球と臺灣の領域について不明瞭な議論が続くことに注意していただきたい。 
 副島は清国との交渉の難しさをこぼしている。とくに琉球は両属であるから、厄介なの
であると。副島は出兵をすればどうなるかをあやぶんでいる。清国との関係を心配してい
る。しかしリゼンドルやデロングは「東番」は万国公法からみれば「無主の地」であるとす
る。そして放置しておけば、どこかの国にいずれはとられることになるとする。そして他国
に渡せば、日本の安全にとっても有害であるという。アメリカの現地公使の勧めによっ
て、出兵は現実化していくのである。 
  
☆台湾出兵へ
 会談後すぐにリゼンドルは日本政府に二等官の待遇で、雇用された。リゼンドルは米国
海軍少佐カスセルを軍事顧問として推薦した。しかし現役軍人の雇用は本国政府の許可
が必要であった。この問い合わせの結果、意外なことにアメリカ政府は台湾出兵に不快
感を露骨に示したのであった。更にイギリスも反対した。米英の本国政府からみると、好
ましくないことなのである。日本が台湾およびその付近の島嶼ををおさえてしまうことは、
中国への門戸を閉ざすことになる。中国進出の邪魔となる。琉球をおさえられたのさえ邪
魔なのである。英米人がこの挙に力を貸すことさえ米英の本国政府から禁じられた。こ
のため日本政府は出兵を取り止めと決定せざるをえなかった。米英の反対をおしきるほ
どの力はなかった。また兵員を臺灣に運ぶことさえ米英人の協力なしにはできない状態
であった。まず船がないのである。その上、航路もよく知らないから、航海も単独でできる
わけではなかった。大隈重信がなんとか船を外国から買い入れ、そして処罰覚悟のお雇
いイギリス人の協力によりかろうじて派兵することができたに過ぎなかった。大久保利通
の説得を退けて、独断で西郷従道は出発したのである。 
 明治七年(1874年)、台湾出兵がついに行われた。当時、「臺灣処分」ともいわれてい
たという。 
  
☆大久保利通使節団の交渉 
 明治七年(1874年)八月六日、大久保は特命全権弁理大臣となり、この出兵の後始
末をするために、清国にむかった。 
☆台湾領域の了解  
 ☆日本側の台湾領域の了解 
 まずは交渉のとき、日本側は台湾をどう考えていたのか。特命全権大使・米欧回覧実
記(五)久米邦武編田中彰校注をみてみよう。当時台湾の範囲を日本はどう考えていた
かがわかる。久米の見解は当時の日本の常識といっていい。 
 *************************************** 
 台湾島は福建省の属島にて、北緯二十二度より、二十五度十二分に位す、福州港の
烏龍口より、直西海程八十海里を隔つ、猶印度に錫蘭島あるか如し、此島の中脊に、山
脈隆起し、南より北に横絶し、地勢は東西に両截す、西半截は稍寛平なり、支那人其の
民を驥糜し、台湾府、及ひ数県をおき、鎮台兵を派し、福建総督に管隷す、北方の岬角よ
り、西方の海浜、みな其政化に服す、所謂る台湾是なり、東方半截は、山嶺紛互し、中に
十八種の生蕃あり、各区域に生聚し、酋長を立て、弱の肉は強の食、常に協一すること
なく、其の民は巫来由の一種にて、剽悍……(中略)支那人之を攻撃すれとも、兵懦弱に
して、生蕃の健闘に当る能はす、棄て化外におく、生蕃人は支那人を蔑視すること、嬰児
の如し、其地南緯に近く、気候熱にして、熱帯の草木を生す、……(-329) 
  注釈 福州は?江の下流域になるわけだが、ここにいう「烏龍江」は廈門港に河を開く
「九龍江」の誤りか、また、本文中の「直西」は「直東」の誤りだろう。(-350) 
――特命全権大使・米欧回覧実記(五)久米邦武編田中彰校注  1982年 岩波文庫 
*************************************** 
 東番が存在するということは、日本人の間では常識であった。 
*************************************** 
 生蕃の地方には、良港に乏し、其南方の岬より、東へ海路百余海里にて、琉球諸島に
毘連す(-329) 
――特命全権大使・米欧回覧実記(五)久米邦武編田中彰校注  1982年 岩波文庫 
*************************************** 
 ここにも南方の岬がでてくる。どこまでが先島なのか明確には把握できていないのであ
る。辺境の先島に関する地理的認識は曖昧なものである。紅頭嶼等を琉球諸島の一部
と判断しているともとれる。 
 久米は、琉球諸島と臺灣諸島が一続きの島々であると認識している。花綵列島という
概念については知らなかっただろうが、一続きの島と認識されていたことは間違いない。 
  
  ☆『使清弁理始末』
  
 『使清弁理始末』(権少内吏金井之恭)は政府要路の人々に配布されたものである。 
「職に要路に在る者粗顛末を知らせる可らす。宜しく今に乃んて使清弁理の始末を編次
し以て一本を要路各員に頒つ可し」とされている。大久保利通の意をうけて権少内吏金
井之恭が編纂した。太政大臣三条実美の許可をうけ刊行されている。出兵の目的は「台
湾処分」、つまり東番の獲得であった。しかし失敗した。東番の清国帰属をなぜ認めたか
という不満が政府部内でこうじていたと思われる。その対策としてだされたものであろ
う。 
 花綵列島のこの地域には琉球、東番、台湾が並んで存在していた。日本の保護国であ
る琉球と、中国人の植民地である「台湾」という二つの地域に挟まれて存在するのが台
湾島原住民の住む領域である。ここがどこの国に帰属すべきかは、当時、何ともいえな
い状態にあった。だからこの譲歩に不満をしめす者に交渉経過をきちんと説明しなけれ
ばならなかった。 
 『使清弁理始末』は台湾と琉球の境界について、暗黙の内に了解をかわしてきたことを
知らせることになった。 
 『使清弁理始末』に収められている『第二九号 第四回応接』をみてみよう。明治七年
十月五日に行われ、大久保全権弁理大臣等と清国総理大臣文祥等が出席している。以
下の引用のなかで、大臣とされているのは大久保であり、諸大臣とは清国側の大臣であ
る。 
*************************************** 
 大臣  「貴大臣等証跡とする府志に於ても、亦版図にあらさること明瞭なり」。 
 大臣  「その他を挙けて数ふ可らさるの実証あり。台湾府志にも詳なり」 
 諸大臣 「何等の事を指して言はるるや」 
 大臣  「官を設け兵を設けすと云う 府志にも亦詳かなり」 
*************************************** 
 前回の「照会」のなかで、台湾府志淡水庁志の記載をもって中国側が自国の版図であ
ると主張してきたことに対する反論が行われている。清国側のもちだしてきた台湾府志
にもとづいて大久保は逆ねじをくわせている。この交渉の折々に、台湾府志がでてくる。
蕃地に支配が及んでいないではないかという指摘を日本側は繰返す。いや及んでいると
清国はいう。 
  
 ☆清国側の台湾領域の了解
  ☆清代の台湾の版図 
 台湾府がどこまでを領域としていたかは台湾府志の領域図をみてみればすぐわかる。
台湾府志は四度改訂されている。最初は台湾島の東半分しか領域図に記されていな
い。しかし西半分もやがて記すようになった。しかし最後まで基隆嶼さえ記されていない。
尖閣諸島どころか半架諸島さえ記載されていない。 
  
  ☆ 弱水             
*************************************** 
弱水とは、崑崙山を取り巻いて流れ、水に浮力がなく、生身の人間にはそれが渡れない
ことから、神性を持たぬものが崑崙山に近づくことを防いでいる川であった。山海経海内
南経では建木は弱水のほとりに生えているとされている。(-165) 
――西王母と七夕伝承 小南一郎 1991年 平凡社 
*************************************** 
 建木とは天地をつらぬく世界樹である。崑崙山は世界の中心とされた。台湾には南崑
崙山という地名もある。建木≒若木≒扶桑という関係が成立する。扶桑の側に弱水があ
るわけである。 
 台湾府志には、鶏籠のすぐ北側には弱水があると恐れられていることが再三書かれて
いる。乗りだせば生きて帰れないという。台湾府が琉球を非常に遠く感じていることがよく
あらわれている。これを思えば、半架諸島さえ台湾府志の領域図に入らないのも当然で
ある。弱水は扶桑の国を取巻いているものであった。それが台湾島の北をひたすほど迫
っているというのはどういうことか。考えてみればわかることである。琉球の人々が我と日
本は共に扶桑であると述べたことも思い出される。 
  
  ☆ 今、版図に入っているのは……
 台湾通志は清末台湾にて編纂されたものである。清の官僚郭起元による「慎防守議」
が収録されている。要約すると「全台湾三千余里、版図に入っているのは二千余里近く
でそれ以外は生蕃が雑居し、状態は予測を許さないものがある」と報告されている。日本
側の認識と一致している。 
 鄭若曽の琉球国図をみてもわかるとおり、琉球、東番、台湾という三つの地域すべてを
琉球国の領域と明はかつてみなしていた。ただ実際には当時も澎湖島や台湾島には琉
球国の力は及んでいなかった。そこへ明代に進出してじわじわと漢民族が領域を広げて
いったという形になっている。しかし東番はずっと存在していたのである。 
 台湾島の東部は、清国から東番と呼ばれ、長らく別の国であるとみなされていた。琉球
と「台湾府」の間には東番という国があったのである。だからこそ琉球と中国は接壌の状
態にあるとは相互に認識されなかったのである。 
 しかし明代にも徐々に漢民族の居住地域が拡大しつつあった。 
 清代になってから、花綵列島の一部である台湾島の西南部を清は領域の中に組込ん
だ。そして次第に漢民族が先住民族を圧迫し、あるいは同化し、その支配領域を拡大し
て行きつつあった。漠然と開拓が進んでいくのを清国政府はむしろ長らく押しとどめようと
していた。蕃界への立入りを禁じたのであった。しかし開拓は進んでいった。花綵列島の
すべての地の分割がやがて完成するはずである。 
 だが十九世紀後期においても、まだかなり支配の及んでいない地域が東部に存在して
いた。台湾、東番、琉球という「国」が花綵列島のこの地域に存在していたのである。清
国が台湾島のこの曖昧な領域をなんとかしなければならないと思うようになったのは、勿
論、列強の進出に対抗せねばならなくなったときである。そして東番の存在を否定するよ
うになった。明治新政府は、東番を存在するとみなした。西から手を伸そうとしたのであ
る。清国と日本はこの領域で争った。台湾島原住民居住地域の取合いが起きることにな
る。列強は日本を支持しなかった。大陸に列強が勢力を拡大することを考慮してみると、
日本の臺灣獲得は明らかに計画の邪魔となるからである。琉球諸島が日本に帰属する
のさえ、実はかなり邪魔であった。ましてそれ以上南に日本の力が伸びることは好ましく
ないのであった。臺灣そのものにも列強は関心をもっていた。中国のものとしておけば、
はいりこむ機会が将来あるかもしれないのである。 
 明治初期はまだ先住民支配地域は確固として存在していた。だから周辺にある無人島
の帰属も曖昧なままだった。しかしやがてこの帰属曖昧な土地の帰属も完全に定るはず
であった。清国と琉球は隣接することになるはずである。だが清国と琉球は隣接すること
なく、終ったのである。両国の間にある帰属曖昧な土地は、分割されずじまいであった。
間に先住民地域がある状態で、やがて日清戦争が起きる。 
 
  ☆ 大久保利通使節団の研究
 大久保使節団は北京談判の最中に中国史料の研究も現地でしている。大久保は随員
を毎夜集めて一緒に問題を研究する。智恵を搾っているのである。台湾府志に再三言及
して清国大臣に逆ねじをくわせているのもその成果である。使節団は、認識を深めてい
た。台湾領域図を使節団のすべての人が熟知するようになったことは間違いない。 
 『第六十七号 復命に附して奏する使清始末』には、「摘要」として「彼れの答えは、第
一台湾府志を以拠となし」とある。 
 延々とこれをめぐって議論していたのである。 
  
☆『処蕃趣意書』 
『処蕃趣意書』を見てみよう。 
 これは明治八年一月に蕃地事務局が作成したものである。  
*************************************** 
「明治六年の台湾征伐事件に関する日清両国間の外交談判記録の一で明治八年蕃地
事務局から発刊されたもの、四六型九十六頁洋紙和綴の小冊子である」 
−−明治文化全集第11巻外交篇 解説より 
*************************************** 
 『処蕃趣意書』の冒頭の「蕃地処分の儀に付趣意書」には台湾道台が西郷従道都督を
訪れて「彼蕃地は実に清国の属地なること載て志書に在りと云う」とある。 
 また清国人の記録である「国朝始末記」にはこうあるという。 
*************************************** 
「中将内慚ぢ復た来り謁す。……生番は中国の版図に非らざるを以て詞と為す。台湾府
志載する所を以て示すに及び(中略)倭将羞憤……」(-210) 
−−近世日本国民史90 徳富蘇峰 
*************************************** 
 西郷中将が、台湾府志をみせられ、ぐうの音も出ず、おそれいって、顔を赤らめ台湾島
から撤兵を申出たという話になっている。清朝の役人が台湾に建立した石碑にも似た話
が記されている。勿論、この碑文は事実ではない。相互の記録をつきあわすことができな
い場合には、注意が必要である。 
 すでに十六世紀に、「中国人が外国人について言うことは信ずるべからず」と西洋人は
再三、述べている。強烈な差別思想の持主だからである。それに余りにも主観的であ
る。史的叙述が客観性をかくことが多過ぎるという傾向がみられる。外国の姿(外国人の
姿)をきちんと伝えないのである。 
  
  ☆ 蕃地処分趣意書
 日本側は 蕃地処分趣意書第二号のなかで 柳原公使の言葉として 
「貴国の台湾を定めしは僅かに康煕年間に在りて、現に蕃地と其の境界を立てたり」とし
ている。清国も之にはっきりと同意している。清国は台湾が古代からの領土であるとは主
張しない。清国も、康熙帝の時に版図に入れたとのみいう。 
 原住民の支配する地域が清国の属地がどうかという点をめぐって、烈しく応酬しあって
いる。 
 台湾島原住民は、居住地を自分の土地であるとみなしていた。彼らは清国の属民であ
るなどという認識はもってない。驚くべき事に、彼等の武装抵抗が最終的に終わるのは
昭和十年のことである。 
 蕃地処分趣意書第三号を見てみよう。 
*************************************** 
 「清国諸大臣の説に云、生蕃の帰化して属地たること台湾府志に明なり。府志今日の
為に作るに非す、所伝既に久し。後世必す拠る天下の常理、貴国豈遵守せさるへけん
や」 
*************************************** 
 台湾府志を根拠にして「無主の地」ではないと、日本の出兵を清国側は、激しく批判して
いる。「台湾府志」を「天下の常理」とまでいいきっている。 
 これに対して日本は元々、支配が及んでいないところを領土とみなすことはできないと
している。そして国際法を持ち出し、蕃地が実効支配されていないと繰り返す。清国は国
際法は、清国を律することは出来ないという。 
 蕃地処分趣意書第七号の記録によると「府志中の所引諸書に声教逮はすと云うあり、
版図に入らすと云うあり、実は化外異類たりと云うあり」とあると日本側は反論している。
そして実際は清国がいう「蛮人」に税を課しているという事実はないのではないかという
疑問を示している。蕃人と取引をしている商人に税がかけられているに過ぎないと日本
側は述べていた。現地の原住民から税など払っていないという証言を頭目から聞き、そ
の証文を提示している。 
 明治七年十月十四日に英国公使が訪れ、大久保利通と話合っている。 
「衙門は台湾府志を引いて版図の証とすれも、其書中既に版図外の民或は異類の人等
の文字あり、其版図外たる判然なり」と大久保は力説した。ただ英国公使としては、自国
の利益になる方を良しとするだけである。撤兵を要求することになる。 
  
 
  ☆ 先例
 清国は再三、台湾府志を提示する。これを決定的な証拠であるとみなしていることはい
うまでもない。この領域図にのっているのは大鶏籠嶼までであった。先述した通り尖閣諸
島どころか半架諸島さえ台湾府志の附図にのっていないのである。清国が台湾の付属
島嶼と考えてはいない証拠である。蕃地もこの領域図のなかにあるから自国の領域であ
ると清国は頻りに主張した。だからここに載っていない島々が、台湾の領域に属するは
ずはないのである。尖閣諸島が台湾の付属島嶼になるはずがない。歴史的にみて台湾
政庁の下にあった時期がないのである。 
 ただ福建省所属の島嶼である可能性はあるわけである。だから台湾府志にのっていな
くても清国領でないとは断定できない。しかし鄭若曽の琉球国図にもこれらの島は大小
琉球の一部を構成するとされている。また半架諸島も尖閣諸島も、レキオの一部として
西洋人からは認識されていた。 
 福建志なども日本側は当然、調べたはずである。江戸幕府旧蔵の漢籍はそのまま新政
府に受継がれた。吉宗以来、熱心に中国の地方志を集めていたのである。福建志や台
湾府志の調査を、日本側がおこなわなかったはずがない。これらの地方志はとりよせる
までもなく、日本にあった。内閣文庫目録を見ると、万暦福州府志、福建通志、重纂福建
通志等があった。そして台湾府志は複数所蔵されていた。外務省や内務省の記録に、こ
のとき文献調査が命じられたという資料をまだ見たことがない。しかし紛争が起きたとき
相手国の領域図を調べないはずもない。立場が逆で有れば、中国側は日本側の記録を
必ず調べるであろう。幕府がロシアと国境画定をはかった時の史料をみれば、きちんと地
図や各種資料を詳細に検討するのが常例となっていた。 
*************************************** 
 「樺太境界に関する上申書」 
 「既に長崎において西洋地図を取調候処、凡北極土地五十度位までを以て御国之境と
いたし有之、右は外国之図にて、御国之境を外国之図にて可決理決て無之候付、如何
様とも可及弁論積に御坐候得共、いづれよりいづれを以て境と可致定見は無之、……」 
「先林大学頭並天文方、其外此節蝦夷地之儀取調罷在候前田健助等え仰付候て、早々
西洋各国之地図、並御国之諸書物穿鑿之上、証拠を以了見可申立旨被仰渡候様仕
度、尤右にて治定は仕間敷候得共……」(-43) 
――日本近世国民史33 徳富蘇峰 
*************************************** 
 ロシアとの交渉に苦しむ幕府側の担当者、川路聖謨と筒井肥前から、老中首座阿部正
弘に送られた伺書の一節である。はっきりとした証拠がないとして、樺太のどこまでを日
本領とすべきか不明としている。樺太で日本の勢力が及んでいるのは南端のごくわずか
な地域であるとしている。それより奧にはたまに人を派遣するばかりのことであると。固
有の領土ではないとしている。阿部正弘は安政元年十二月九日付で内談書を二人に与
えている。ロシア人が来たのは近年のことにすぎないのだから、樺太全島を日本の領土
であるとして交渉すべきであると断固としていう。これは先占の権利が日本にあるという
ことであろう。 幕末の当時においてもまずは各種地図や資料を徹底的に調査したので
ある。幕末においてさえ西洋諸国の地図が調査対象に含められている。 
 北京談判の時には、台湾府志の領域図を、日本政府も熟知するようになった。いやも
っと知ったのが早いのは間違いない。台湾についての調査も、琉球の帰属を検討する場
合に既に、徹底的におこなわれたはずである。その過程で台湾府志に、大鶏籠嶼までし
か記載がないことはわかっていたであろう。幕府以来台湾の領域は熟知していたとみな
すべきである。この談判を通して、清国の台湾領域についての認識を改めて確認したと
いうことであるはずである。 
  
  ☆ 交渉内容のまとめ 
 北京での談判のまとめをみてよう。日本側が主張したのは次のような諸点であった。一
応、確認しておこう。 
*************************************** 
 1.生蕃は無主野蛮の地にある。 
 2.公法では実地の施設と受益がなければ主権を認めない。 
 3.生番に清国は何らかの政教をほどこしているか。 
 4.日本は昨年副島大使に与えた清国側の言明を信用している。 
 5.蕃人が漂民を害するのを度外に放置して懲らさず、他国の人民を憐れま 
    ず。生蕃強暴の心を養う理があるのか。 
 
 これに対して清国は次のように反論した。 
 1.台湾生番の地は清国の属地である。 
 2.『台湾府誌』に載せているのは属領の証拠である。 
 3.清国の内地にも広東の瓊州のごとき蕃地がある。(蕃地といえども版図で 
   ある) 
 4.副島使清の際の一場の説話(口頭の言明)により、無主の蕃地となすのは 
   承服しがたい。 
 5.万国公法は近来西洋諸国が編成したもので、清国の事を載せていない。こ 
   れによって論ずるのでなく「正理」をもって熟談したい。(-123-124) 
――明治維新と領土問題 安岡昭男 教育社歴史新書<日本史>144 1980年 
*************************************** 
  
  ☆ 瓊州と台湾
 瓊州は海南島である。これを例に持出すことは正しくない。瓊州は大明一統志にも、明
代の地方志にも記されている。また瓊州の原住民も、おおむね支配に服していた。 
 台湾は大明一統志にものっておらず、また明代の地方志にものっていない。そして清
代になっても原住民の多くは武器をもって戦い、支配に服していない。東番は、蕃界の向
うにある別の国とされているのである。東番の西には琉球・日本という国があった。東番
は両国の間にある。瓊州とは違い他国と接壌している地域にある。清国内部におり、漢
民族に取囲まれている地域にいる少数民族とは別である。また抵抗をすでにやめてしま
った少数民族と、抵抗して支配を拒否している民族は別である。先述した通り、台湾島原
住民の抵抗が終わるのは、昭和十年である。 

  ☆ 交渉妥結
 日本と清国の談判は決裂寸前のところまで行きながらなんとかまとまった。日本側が事
実上、主張を、つまり蕃地無主論を取り下げる形で決着した。 
 清国は日本政府を通して被害者に撫恤金を出すことになった。撫恤金は慈悲によって
下賜される金である。実は賠償金ではない。この遭難によって台湾生番に害されて死亡
したのは宮古島の役人とその従者だけなのである。琉球王の臣下に撫恤銀をだしてもお
かしくはない。(実際は、台湾生番に害された場合には、従来、何の補償もしなかった。
中国の近海で海賊の襲撃により被害を受けた場合には補償している。このことから見て
も台湾島原住民支配地域を東番という別の国として清国は扱ってきたのである。) 
 台湾出兵の意義について、「日本国此次弁ずる所はもと民を保つ義挙のために見を起
す。清国指して以て不是となさず」と日清両国が交した文書にはある。不是としないという
のは、是とするという意味であろうか。必ずしもそうではない。ただ日本の主張を批判はし
ないといっているだけともとれる。是とも不是ともしないという立場がありうる。日本の主
張は主張として聞いたととれる。曖昧模糊としている。 
  
  ☆ 暗黙の了解? ――台湾府志の領域図と花綵列島の図 
  パンペリー日本踏査紀行(藤川徹訳)をみてみよう。 
 その一節に次の記載がある。 
「日本帝国は大陸から大洋を隔て、アジアの東岸に沿って延びる長い島列の主要部分を
構成する。部分的に海面下に列なる山脈である島列は台湾で洋上に突きだし、東北に
傾き、琉球列島、九州、本州、蝦夷を通り、蝦夷で分岐して北に向かい、サハリン、また
はカラフト島で地質学的には別の派生となる。一方、主要な山脈は東北に向かって、千
島列島に長く列なり、さらにカムチャッカの……」 
 またこうも記載されている。 
「台湾を除くと、この島列の大きな島嶼はすべて日本に属している」 
 原著は1861年に公刊された。パンペリーは日本が招いた初のお雇い学者であった。
幕府はアメリカの地質学者に日本の鉱物資源の探査をおこなわせようとして招請したの
である。 
 当時の地理学会においても台湾から千島までの島々が、花綵列島として一群の島とし
て認識され、定義されていたことは間違いない。パンペリーの説では樺太は大陸への付
属性が高く、いわば岬のようなもので、花綵列島は北海道から千島に向かって走ってい
ることになる。当時、台湾から千島まで、一続きの花綵列島の島々が走っているというの
は、地理学的常識となっていた。樺太をどうとらえるかに問題が残っていたようではある
が、……。 
 すでにみてきたように南蛮人や紅毛人が東洋にきて初期につくった地図をみると、日本
と琉球と台湾とは同じ色に塗られていた。彼等は、花綵列島のこの部分を同じ色で彩色
していたのである。中国人も同じようにみて、これらの島嶼を大小琉球と呼んでいた。 
 その内、台湾に属する分を除けば残りは琉球と日本になるであろう。そうではないか。
 「花綵列島」の図に台湾府志の領域図をかさねればどうなるであろうか。花綵列島を共
に構成する台湾と琉球は勿論、一続きの島である。隣島である。明確に台湾に帰属する
部分が決れば、花綵列島の残りは琉球になるであろう。明治新政府の政治家や官僚
が、そう考えるのは当り前であった。西洋人顧問もその考えを支持したであろう。「明確に
台湾に帰属する部分が決れば、花綵列島の残りは琉球を構成するであろう」。台湾と琉
球の境界についても両国はこの台湾撤兵交渉時に暗黙の内に了解に達していると考え
られるのではないか。台湾の領域が画定すれば、琉球の領域も決るはずではないだろう
か。花綵列島の島々から、台湾を除いた部分が琉球になるはずである。半架諸島や尖
閣諸島は花綵列島の一部である。台湾の領域については合意が成立している。ならば
日本政府が、尖閣諸島を沖縄の一部とみなすのは当然であろうと思われる。合理的に推
論すれば台湾の領域外にある島(花綵列島に属する島)を沖縄に属すると見るのは当
然であろう。 
 界をどこにおくべきかがわかる。話合い、交渉すればどうなったかがわかる。 
 しかしこのように推測するのは妥当であるとはいえても、法的にこのとき境界を「画定」
したとは勿論いえない。 
 日本政府にきちんとした歴史認識があれば、半架諸島を琉球の一部としたであろう
か?しかし当時としては、利用価値の余りない島嶼である半架諸島までは要求しなかっ
たであろう。どうでもよいことであった。 
 それに大久保使節団は、半架諸島については知らなかったかもしれない。 
 明治初期には、半架諸島が清国の地図にもまた日本政府のもっていた地図にもなかっ
た可能性が強い。とすると認識のなかでは尖閣諸島と台湾の間には当時、島などなかっ
たことになる。そういう認識で台湾撤兵交渉が進んだとしたらどうであろうか。明治新政
府は、ずっと沖縄と台湾の界を尖閣と台湾本島の間においていたと考えられはしない
か? 
 当時の西洋地図をみても、尖閣諸島のみが記されていることが多い。半架諸島は消え
ていることが多い。だとすると半架諸島が脱落する図をみて、臺灣と琉球の境界を認識し
たのではないかとも思われる。ここからが臺灣ならば、その手前までは琉球だろうと。 
 琉球の歴史と文化に対する基本的な理解がなかったとしても、尖閣諸島は琉球のなか
にとりこむ形で界が画定されることになったであろう。半架諸島については琉中の歴史に
ついての深い理解がなければ、沖縄に帰属すると要求することはできない。 
 ここでペリーの図を思い出してみよう。リゼンドルが副島種臣にみせた台湾図がこれだ
とすると、その台湾図には半架諸島のみが記載されていたであろう。とすると……。 
 熟慮してみたが、琉球と台湾の境界の方については明確に合意がなされたとまではい
えない。 
 当時の日本政府は何事によらず常に西洋人顧問の助言をうけていた。大久保もボアソ
ナード等の顧問をともなっていた。交渉過程で、彼等はすべてに目を通していたのであ
る。法律顧問ボワソナードは日清両国の協約前文に「台湾生蕃」が「日本属民等」に害を
くわえたとあるところを指摘し、間接的にではあるが清国が日本の琉球併合を認めたこと
になるといった。しかしこの程度では、ポイントをあげたとはとれない。「日本属民等」とい
っても、遭難民のなかに沖縄に派遣された日本人が含まれていたと清国が誤認したとし
てもおかしくはない。そう思ったのだとあくまでも主張されれば、水掛け論になる。「等」の
解釈が問題となる。「日本属民」とされてはいないのである。 
 台湾出兵は、逆に台湾島が清国の支配地であることを国際的に認めさせる結果になっ
たとする説がある。だが当時、列強がアジア諸国同士が交わした協定にどれほど重きを
おいたか疑わしい。それに日本側としても、台湾生番というのは、この場合は牡丹社だけ
をさしていると主張することも可能であった。つまり清国の支配が牡丹社にのみ及んでい
るということである。決してそれ以外の地域の清国帰属まで認めたわけではないと。 
 間接的に認めたというのは、いくらでも解釈次第で覆すことができる余地があるのであ
る。大久保が後に、述べたように、いまだ琉球の帰属は(そして台湾島の原住民支配地
域の帰属も)「曖昧模糊としてはっきりしない」と嘆くのが正しいのである。清国側も依然、
臺灣島の支配について不安を感じ続けていた。 
 やはり琉球と台湾の境界は当時、学問的にも法的にもまだ不明確であった。この境界
は、万人が認めるという「地理的」境界にも、また「法的」に画定した境界にもなってはい
なかった。流動的な要素が残った。台湾の領域に入らないところが、即、沖縄の領域に
入るとまで断定はできない。入るとした方が自然なのは事実であるが……。この地域に
ある総ての島を当時の両国政府が知っていたという証拠もない。すべての島嶼が知られ
ていないと、界は画定できないであろう。台湾の領域については確認されたとしても、沖
縄の領域については、合意されていない。暗黙の了解に達していたとも残念ながらいえ
ない。曖昧模糊たる有様である。 
 しかし台湾の領域については確認しあったということは事実である。 
 明治七年(1874年)に行われた日清交渉の節に、台湾の領域は相互の間で確認済
であることが従来見落されてきた。台湾の領域について日本が、清国の主張を受け入れ
たということである。了解があったのである。 
 撤兵の際に、日清両国は、きちんと日清条約の領土不可侵条項の履行を再確認してい
る。日本が犯してはならないのは、台湾府志の領域図に示されているところだけであった
と日本側は理解したはずである。(しかし中国側の理解は違っていたのかもしれない。琉
球の日本帰属をはっきりと認めたわけではなかった。中国としては帰属を曖昧にして玉
虫色にすることができたと理解していたと思われる。) 
 清国の各大臣は、交渉の場で、再三台湾府志に言及し、自国領土であると主張した。
台湾府志の領域図をもって花綵列島の清国に属する部分を明らかにし、守ろうとした。
台湾の付属島嶼については台湾府志の領域図にもとづいて日清両国間で確認がなされ
た。 
 尖閣諸島が台湾の付属島嶼でないことは、台湾出兵(一八七四年)の際に、日清両国
によって確認されているのではないか?この出兵の後始末をめぐって行われた交渉の際
に、日清両国は台湾(=小琉球諸島)の境界については了解に達していると考えざるを
えない。
  
  ☆ 了解の継承 
  この交渉を担当した大久保は1878年に暗殺されている。 
 当時の激動の時代のなかでは、台湾の境界についての知識も継承されたかどうか不
安になる。 
 大久保使節団の随員の中には後によく知られるようになった官僚の名前も見える。岩
村高俊(内務五等出仕)、井上毅(内務七等出仕)等である。彼等は沖縄に深く関係する
ようになる。やはり暗黙の了解が伝わっていないはずがない。 
 その上、使清弁理始末や処蕃趣意書が存在する。清国との交渉過程が詳細に記録さ
れて政府高官に配られていた。この「了解」は後に、間違いなく伝わっていた。 
 尖閣編入は、このときおこなわれた交渉のなかで形成された暗黙の了解を踏まえて行
われたものであろう。 
 台湾出兵の後始末の交渉において、日中の境界が画定したという事実は残念ながらな
い。ただ尖閣が台湾の付属島嶼でないことは相互にはっきりと了解しあったとみてい
い。 
 それにもかかわらず、新政府は「先占」しようとしたのであろうか?そうしようとした事実
が本当にあるのかどうか、改めて確かめねばならない。 



 「釣魚台ハンドブック」 中国側の一見解
 これはパソコン通信上で流れていたものである。それを採録した。でどころはいまいち、
はっきりしない。ただわかっているのは、1972年頃、アメリカにおいて中国人留学生が
書いたものらしいということである。原文は英文のようである。和文に誰が訳したのかも
わからない。私がみかけたのは1996〜7年頃だったと思う。日中間で尖閣島(中国名、
釣魚島)が問題になった時にボードに掲示された。過去のログのなかからこの「釣魚台
ハンドブック」全文を探そうとしたが、ついに発見できなかった。そこで私の当初、書いて
いた小文のなかに断片的に引用していた分をつなぎ合わせて復元するしかなかった。欠
落があるかもしれない。いやたぶんあるであろう。しかしそれでも簡略に中国側の主張を
把握するには役立つ。 












▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼

      釣魚台ハンドブック(=中国側の一見解)


釣魚台ハンドブック参考資料 
一、地理的環境 
 釣魚台列島は八つの小島からなり、台湾の東北に位し、約北緯25度40分から26
度、東経123度20分から123度45分の間にある赤尾礁、黄尾礁、釣魚島、飛瀬島、
北小島、大北小島、南小島、大南小島で、その中の釣魚島は台湾省北部の基隆(キー
ルン)港から僅か102浬しか離れていない。これらの島嶼は、中国大陸棚にあり、その
周囲の沿海の深さはどこも100米に満たない。中国大陸に近づく程深度は浅くなってい
る。ところがこれらの島嶼は琉球からは250浬も離れており、しかも中間には水深200
0米から4000米の深溝がある。 
 1958年にジュネーブで開かれた国連海洋法会議で通過した大陸棚条約では、その1
5条で、沿海国家は「水深200米或いはこの深度を超えても水深が天然資源の開発を
許す大陸棚に対して主権を行使することができる」と指摘している。 
 国際司法裁判所が、1969年2月に下した西ドイツ、デンマーク、オランダ間の北海大
陸棚の限界問題の判例も参考になる。この判例では、「大陸棚での主権の限界の画定
は、沿海国家の陸地領土の自然延長の原則に合致すべきである」とのべている。 
 中国台湾省及びその付属島嶼周囲の海域とその他中国に近接する浅海海域は、すべ
て悠久な年代を経てきた中国陸地領土の延長であり、みな中国の所有であり、これら浅
海海域の地下資源は、ただ中国のみが測量調査と開発の権利を持っている。 
 琉球列島は、千島列島、日本列島、フィリピン群島、大スンダと小スンダ群島からなる
「花旗列島」の一部であり、釣魚台列島とは深い海溝で隔てられており、地理上から言っ
て釣魚台列島とは全然関係がない。 
  
二、歴史的背景
 釣魚台列島は、遠く明代にすでに中国の版図に入っており、中国のいくたの古書にも
すべて記載されている。 
 明朝嘉靖13年(1534年)に、中国中央の官吏陳侃が沿海州を巡察したときに、これ
らの島嶼を訪れたことがある。嘉靖41年(1562年)中央の官吏郭汝霖が沿海を巡察し
たとき、5月1日に釣魚島を訪れており、3日には赤尾嶼を訪れている。これによって分
かるように、釣魚台列島はみな中国の海域にあり、みな中国の領土である。 
 清朝乾隆50年(1785年)に林子平(日本人)が製図した「三国通覧図説」も、釣魚台
列島は琉球の範囲に属さないことを説明している。 
 1941年、日本が台湾及び琉球を占拠していた期間に、「台北州」と「沖縄県」の間に
「尖閣群島」(日本名、中国名は釣魚台列島)の漁場をめぐり訴訟が発生した。1944
年、日本の東京の裁判所はこれらの島嶼は「台北州」の管轄に属し、これらの島嶼に出
漁する漁民は「台北州」の許可証を要す、と判定している。これからも分かるように、釣魚
台列島の行政管轄権は一貫して台湾省に属しており、たとえ日本が占拠していた時代で
も変更されたことはない。 
  
 1943年12月1日、中米英のカイロ宣言の中では「満州(東三省)、台湾および澎湖島
のような日本国が中国から盗窃したすべての地域を中国に返還すること」と明示されて
いる。 
 1945年ポツダム宣言は「カイロ宣言の条項は履行せらるべし」と決定している。 19
45年、9月3日、日本はポツダム宣言を受け入れ、正式に無条件降伏した。 日本の降
伏により、また台湾省が全部中国の版図に再び戻ったことにより、台湾省の付属島嶼は
当然一緒に中国に返還されるべきである。いわんや、1951年にアメリカのサンフランシ
スコで調印された日米講和条約でも、琉球の行政範囲に釣魚台列島は含まれていな
い。だからアメリカが1972年に琉球を日本に「返還する」ことによって日本が釣魚台列
島に対して何らかかわりを持つことはできない。 
 昔から釣魚台列島の周囲海域は、中国人民の主要な漁場であり、風を避ける港であ
る。  毎年漁期には基隆(キールン)、宜蘭(イーラン)、蘇澳(スウオウ)等から出漁する
漁船は3000余隻に達し、漁民は赤尾嶼などに小屋を建てて漁期に使用しており、一部
の漁民は1年のうち2、3ヶ月は島に居住している。また、採薬商人もこれらの島嶼に特
産の薬材を採取にきており、中国人民はさらに黄尾嶼には長さ300米に達するトロッコ
道を建設しており、二棟の鉄製小屋を建て、長さ120フィート幅4フィートの鉄製桟橋を建
設している。これらはすべて中国がこれらの島嶼に対して主権を行使している証拠であ
る。 
 つまり我々は、歴史、地理、地質等の各方面から、これらの島嶼が中国領土であること
を完全に証明できるのである。 
 ひるがえって日本がこれらの島嶼に対する主権を持ち出す証拠を見てみよう。 
 1970年9月、日本側はこれらの島嶼は日本人古賀辰四郎が、明治17年(1884年)
に発見したものであるといった。1970年8月に日本の記者が東京において古賀氏の子
息古賀善次を訪問したが、彼の父親が最初に釣魚台を発見したとの説は彼も認めず、た
だ彼の父親はかってこの島に行ったことがある、と言っただけである。たとえ古賀氏がこ
の島に行ったことがあったとしても、明朝の官吏がこの島を巡察した時および、正式に中
国の版図に納められたときより2、300年遅れている。 
 事実、日本側が使っている「尖閣群島」の名称は、甲午戦争(日本名では日清戦争)(1
894年)、馬関条約(日本名では下関条約)(1895年)以降、日本が中国の台湾省を強
奪した後、これらの島嶼に無理に押しつけたものである。※ 
 日本の古代史書の中にも、釣魚島、黄尾嶼……等の名称はないし、尖閣群島の名称
もない。 
 明治12年(1879年)日本で出版された「沖縄志」にのっている地図にも、釣魚台列島
はない。 
 1939年「大日本地理学会」出版の「大日本府県別並地名大鑑」の沖縄部分は、B5版
で3頁を占めており、沖縄に所属する大小島嶼の市町村の街はすべて記載されている
が、釣魚台列島はなく、尖閣群島の名も見当たらない。 
 1965年の日本政府の「臨時国勢調査報告」にも、また釣魚島或いは「尖閣島」の地
図や文章はない。 
 これでも分かるように、釣魚台列島はいまだかって琉球に属したこともなければ、日本
に属したことはない。 
※ 実際に尖閣列島と名付け総称するようになったのは1900年(明治33年)、沖縄県
師範学校教諭・黒岩恒が校命によりここを探検調査し、「地学雑誌」に発表したその報告
論文中で、名付けたことを明らかにして以降のことである。 
*************************************** 
ハンドブックに対する私の見解 
 このハンドブックは多くの「非事実」を含んでいる。 
 史料の恣意的な選択がめだつ。結論にあわせて例外的史料を選んでいる。その史料
の全体を読まず、都合のいいところだけを一部を巧みに切り出している。更に都合の悪
い史料はこれに触れないのである。日本側の地図や政府資料においても、わざわざ「載
っていない」ものばかりを選んで提示している。 
 事実関係に間違いが多すぎる。 
 例えば、この大審院判決は存在しないことが、確実である。当時の大審院にはそのよう
な訴訟を扱う権限はない。台湾総督府に管轄変更になったという事実はない。沖縄漁民
がここに出かけるのに、台北州の許可証が必要であるとされたなどという事実はない。
四度改訂されている台湾府志の領域図には、尖閣諸島は勿論一度も記されていない。
一度たりとも釣魚嶼などという地名が書かれていることもない。日本行政時代を通じて、
日本統治時代を含めて、台湾にある政庁の管轄下に一度たりとも、入ったことはないと
いうのが事実である。しかし、ここまで堂々と書かれると、あたかもそれが本当のような
印象を与える。 
 尖閣諸島周辺は大変波の荒い海域であり、この周辺で、中国人が古来から漁業を営
んでいたなどという事実はない。どのような史料にもとづいてこのようなことを主張するの
かが全くわからない。 
 黄尾嶼のトロッコ道?二棟の小屋?漁期には居住??根拠は? 
 明の初代洪武帝は、大小琉球を不征の国と「皇明祖訓」に述べている。子孫の守るべ
き義務を言い渡している。絶対に改めてならない「不改常典」として下されているのであ
る。この小琉球が台湾である。また清国皇帝は、台湾領有の詔勅を鄭氏を降伏させた
後、発している。新しく領土に組み入れたというのである。勿論、これらの事実は(尖閣諸
島どころか)台湾が古来から領土であったという主張には都合が悪いので、一切、ここに
は触れられていない。この調子であげていくと、きりがない。 
 更に西太后の下賜、尖閣諸島には中国の寺や漁民の墓があるなどなど。……。 
 事実と虚構が、みごとに組み合わされてできあがっている小論である。結論が先にあっ
て、それにあわせて、史料を選び、論理を組み立てていくとこのようなものができあがる
のである。 
 しかし一見したところ非のうちどころのないような堂々とした論となるのが困るのであ
る。これだけ読むと、果たして「先占」は有効であるかが不安になるであろう。日本領土で
あるという主張があやしくなるのである。例外的史料(史料のなかの例外的記述を含む)
が決定的なものとして扱われているが、それを知らないと……。 
 一般の人は、これを読むと、容易に反論できないであろう。 
 このような「論理」構築は彼等の常用するもので、よくみかける。 
 堂々たる態度、堂々たる論理構築に常に、日本側がおされてしまうのである。戦前期
からすでに、日本人はこの堂々たる態度、堂々たる主張が出来ないとされていた。いか
にも、周囲に与える印象がまずいといわれていた。彼等は、論をもって闘うのであり、そ
の戦い方が、日本人は異常に下手なのである。素人が、剣道の達人と闘うような有様と
なってしまう。訓練を受けていないのである。ギリシアの古典をみれば議会における堂々
たる「議論」の応酬が記録されている。しかし日本においてはみられない。伝統というの
はなかなか変わらないのである。 
 たちあいをやめてしまえば、外からみれば負けを認めたことになるわけである。 
 大審院判決・西太后の下賜などは、中国人一般に信じられている話である。ますます
中国領土であるという確信を抱くわけである。決して放置しておいてよい問題ではない。
交渉にあたっては他国の「世論」を常に考えておかねばならない。こうした「誤解」や「非
事実」をそのままに放置しているのは、なぜであろうか?放置しておくと危険ではないか。
確かに相手国がこのようなことを外交文書のなかに書いて申し入れをしてきたということ
ではない。しかし、だから放置しておいてよいというものではない。「世論」を形成してしま
うからである。 
 本来はきちんとした調査、きちんとした広報は外務省の仕事である。外務省が機能して
いないのである。これはこのことばかりではない。全く不思議な国である。 
 しかし先走って、今、ここで反論を続けても仕方がない。落ち着かねばならない。感情的
な言い方は反感を買うだけで、意味がない。 






トップへ
戻る