尖閣諸島の領有権問題

尖閣列島探検記事

最初に:管理人
(ひらがなや漢字などはできるだけ原文そのままに近づけていますが、間違いや字抜け
など相当あると思います。
完璧に訂正できるのはまだ先になると思いますのでそのまま掲載して低ます。現代文は
田中氏がそのサイト「尖閣諸島」に掲載しておられますのでそちらを参考にされてくださ
い。)

底本になった地学雑誌は九州大学図書館のものです。古い本ですし、7年ほど前に撮っ
たものでコピー機がまだ性能が悪く、写真等は非常に画質が悪いです。








no.1




地學雑誌 (第12輯第140巻 尖閣列島探検記事)
 
尖閣列島探檢記事


明洽三十三年五月、沖縄県那覇区在住古賀辰四郎氏代、其借区たる無入島へ向け、汽
船大阪
商船会社汽船永康丸派遣の挙あり。理學士宮島幹之助氏亦渡航せらる、不肯校命によ
り此
幸便を借り渡島探検することとなり、同五月三日を以て那覇出帆往復十八日問、即同五
月二十日を以て調査を了へ帰校せり。その間、宮島學士は黄尾嶼の一島に留りて調査
に従事
せられしも、余は他の列島を回遊せり。この記事は専ら余か回遊せし列島に属するもの

して、黄尾嶼に就いては、他日精密なる報文の出つる斯あらん、看官それこれを諒せ
よ。
 明治三十三年七月
      沖縄県師範學校に於いて              黒   岩    恒 





總論
茲に尖閣列島と称するは、我沖縄島と、清國福州との中央に位ずる一列の小嶼にして、
八重山列島の西表島を北に距る大凡九十哩内外の位置に在り、本列島より沖縄島への
距離は二百三十哩、福州への距離亦略相似たり、台湾島の基隆へは僅々一百二十余
哩を隔つ、帝國海軍省出版の海図(明治三十年刊行)を案ずるに、本列島は、釣魚嶼、
尖頭諸嶼、及び黄尾嶼より成立し、渺たる蒼海の一粟なり。左れど其位置上の関係より
して、古来沖縄県人に知られ居れり、而して此列島には、未た一括せる名称なく、地理學
上不便少なからずを以って、余は窃かに尖閣列島なる名称を新設することとなせり。而し
て本列島は地勢地質上に大別するのを必要と見る甲は魚釣嶼及ひ尖閣諸嶼にして乙は
黄尾嶼なりとす左表の如し。
           


尖閣列島
   (甲)
       (1)釣魚嶼
       (2)尖閣諸嶼
   (乙) 
       (3)黄尾嶼

前者は主として近古代水成岩より成り後者は全く火山岩より成るなり。 


○魚釣嶼
釣魚嶼に釣魚台に作る、或は和平山の称あり、海図にHoapin-su、と記せるもの是なり。
沖繩にては久場島を以って通す。左れど本島探検(沖縄人のなしたる)の歴史に就きて
考ふるときは、古来ヨコンの名によって沖縄人に知られしものにして、当時に在っては、
久場島なる名称は、本島の東北なる黄尾嶼をさしたるものなりしが近年に至り、如何なる
故にや彼我呼称を互換し、黄尾嶼を「ヨコン」、本島を久場島と唱ふるに至りたれば、今
俄に改むるを欲せず、本島の事悄は余か探検の前既に多少世に知られ居るものあれぱ
参考の為、先既知の事実を網羅せんとす。 


○英海軍水路誌支那海第四答の記事に曰く
Hoapinsu, the south-western island of an isolated group about 90 miles northward of 
the West end of Meiaco sims, is 1180 feet high. with a steep cliff on the southern 
side of the summit, and a gradual slope on the eastern side. This island is barren and 
uninhabited; there are pools of fresh water, with fish in them, on the eastern slope. 


○日本水路誌第二巻に曰く
ホアピンス島(釣魚嶼)
西表島の北方凡そ88里にあり。この島の南側最高処(1181呎)より西北西に向へる方
は、削断せし如き観を呈す。この島に淡水の絶ゆることなきは、諸天然池に淡水魚の育
成せるを以って知るべし。しかしてこの池は皆海と連絡し、水面には浮萍一面に茂生す。
島の北面は北緯25度47分7秒、東経123度30分30秒に位す。この島他は6、7名の人を
支ふるにも不十分にして人居の跡なし。 


○琉球国志略巻の四に曰く
琉球在海中、興漸浙?地勢東西相値、但平衍無山、航行海中、以山為準、福州往琉球、
出五虎門、取鶏龍山、花瓶嶼、彭家山、魚釣台、黄尾嶼、赤尾嶼、姑米山、馬歯山、収
入那覇港 


○沖縄県美里間切詰山方筆者大城永常が、明治十八年九月十四日 沖縄県庁に
差出したる書面
魚釣(ヨコン)島と申所は久米島より午未の間に有之島長一里七八合程横八九合程、久
米島より距離百七八里程島嶺立にして松木樫木其外樹木繁茂且山中より流水有之浜
足場広く及船碇宿所有之模様。且つ亦諸鳥の儀郡り船に飛来りて人を不恐交接して食
物を拾食ひたり尤も鮫鯖抔船端潮涯に寄り来る故に、縄掛けを以って鮫の尾を結付採
揚け申たる事御坐候 


○沖縄県五等属石澤兵吾が明治十八年十一月四日附差出したる報告書に曰く
 明治十八年十月二十九日午後四時西表島船浮港出帆針を西北に取り進航し翌三十
日午前四時数海里を隔てて屹然として聳へたるものあり。即ち魚釣島なり。同八時端艇
に発し其の西岸に上睦するも峻坂なるを以って容易に登ること能はず。沿岸はまた巨岩
大石縦横にあり且つ往々潮水のー窟に注ぎ入るあって歩行自由ならず。故に漸く其南
西の海浜を跋渉して全島を相するに島の周廻恐らくは三里を超えざるへし。而して内部
は巨大の岩石より成立ち満面「コバ」樹阿旦榕藤等大東島の如く沖縄本島と同種の雑
草木を以って藪ひ間々渓間より清水流るれとも其量多からす平原なきを以って耕地に乏
し海浜海族に富むを認れとも前顕の地勢なるか故に目下濃漁の開業を営むに更なら
す。然れとも其の土石を察するに稍入表群島中内離島の組織に類して只石層の大なる
を覚ゆるのみ依是之を考ふれは煤炭又は鉄鉱を包含せる者にあらさるか若し果して之
あるに於いては誠に貴重の島嶼と言はさるべからず。該島は本邦と清国との間に散在
せるも以って所謂日本支那海の航路なり。故に今も各種の漂流物あり小官等の目撃せ
しものは或いは琉球船と覚しき船板帆檣或竹木或は海綿漁具就中最も目新しく感じたる
は、長二間半許幅四尺斗りの伝馬船の漂流せしものなり形甚だ奇にして曽て見聞せざ
るものなれば、之を出雲丸の乗組員に問うに、曰く支那の通船なりと答えり。 

 鳥地素より人蹟なければ、樹木繁茂すれとも大木は更になし。野禽には鴉鷹(白露の
候なれば沖縄と同じく渡りたるものと見ゆ)、鶯、鴟、目白、鳩等にして海禽の最も多きは
信天翁とす。この鳥、魚釣島の西南浜少しく白砂を吹寄せたる渓間に至るの間、地色を
見さる迄に群集す。実に数万を以って算すべく、而して皆砂或いは草葉を集めて巣とな
し。雌は卵を抱き雄は之を保護し又養ふか如し。この鳥和訓「アホウドリ」又「トウクロウ」
又「バカドリ」等の名あり。素より無人島に棲息せるを以って、曽て人を恐れず小官等共
に語って、曰く人を恐れされは宜しく生捕となすべしと各先を争うて進み、其頸を握る太た
容易なり。或いは兩手に擁し或いは翅を結て足を縛するあり。或いは右手に三羽、左手
に二羽を携えて、以って揚々得色或いは卵を拾う等、我を忘れて為せとも、更に飛去する
ことなければ暫時十羽数百卵を得たり。則ち携帯し以って高覧に供せしもの是なり。この
海鳥禽中最大なるものにして、量凡そ十斤に内外す臭気あれども肉は食料に適すと云
う。今書に就き調べるに、Diomedea属にして英語のAlbatrosと称するものなるべし。蝙蝠
大東島等に均しく棲息すと想像すれども獣類別に居らさるべし。 


○共同運輸会社汽船出雲丸船長林鶴松が沖縄県庁に差出たる報告書に曰く(明
治十八年十一月二日)
 本船は初め魚釣島の西岸に航着し、其の沿岸三四「ケーブル」の地に数々側鉛を試み
たるに海底極めて深く其の浅深一ならす四十乃至五十尋にして更に投錨すべき地ある
を見す。魚釣島は一島六礁に成り、其の最大なるものは魚釣島にして六礁は其の西岸
凡そ五、六里内に併列し礁脉のの水面下に連絡するか如く。六礁の大なるものを「ピン
ナックル」礁と称し其の形状絶奇にして円錐形を為し空中に突出せり。右「ピンナックル」
と該島間の海峡は深さ十二、三尋にして自在に通航すると得、唯潮流の極めて速かなる
を以って恐らくは帆船の能く通過すべき所にあらす。魚釣島の西北西岸は嶼岸屹立し其
の高さ千百八十尺にして漸く其の東岸に傾斜し、遠く之を望めば水面上に直角三角形を
為せり。極めて清水に富み、其の東岸清流の横流するを認めり。海路誌に拠れば、其の
沿岸に川魚の住するを見たりと該島は那覇河口三重城を距る西七度、南二百三十海里
にあり。

 魚釣島は列島中の西南に位する大島にして、周回凡そ二里余、島形東西に長く南北に
短き歪したる楕円形にして、略海参に似たり、島の地貌は至て簡単なり、即島の高項は
甚だしく南側に偏在せるを以って、此方面は絶壁を以って終わり、容易に上るを容さず、
殊に南岸の東半の如きは、巉岩削立の如く、攀援の望み全く絶せり、而して島の延長に
沿ひたる分水的高頂の北側は、地勢漸を以って傾斜し海に入れり、故に今若し附図に於
けるAB線に沿ひて断面円を作らば、略直角三角形を呈すべし。 



 島の最高点を奈良原岳とす、(余が新設せる名称にして沖縄県知事男爵奈良原繁氏
に因む以下此類多し)海抜1181呎なり、海上より望むときは、岳の南側は過半絶崖に属
し、岩層の水平的に層畳するの状極めて明瞭なり、今もし此最高頂に上らんか、粗粒な
る砂岩の裂壊せるもの参差直立し、岌乎として墜落せんとするの状あり、岩隙に矮樹あ
り、之を援る猿の如くし、以って僅に頂上を極むべきも、力と頼む所の樹根は不意に岩を
離れ去ることありて危険極りなく、余は此嶺に於いて、矮樹の幹を握りたる儘三丈余の
岩壁を辷り落ちしも、幸に事なかりきり後の此岳に上んとする者注意して可なり、岩上に
蘭科植物の着生せるもの多し 

 奈良原岳の東方一帯の高点を屏風岳とす(新称)、之を海上より望むときは、峡崖草樹
なく、岩層煉瓦を呈して甚美観なり。右に記する如く、一島分水の位置、偏在殆其の極に
達するを以って、南岸に於いては一の水流たもなし、然るに北向きの斜面に於ては、小
流数派あり。加ふるに此傾きたる地盤は、深林蓊鬱として昼尚暗く、能く水湿を保蓄する
を以って、源泉混々たるもの少なからず、此方面に於ける水流を、東の方より順次に数
ふるときは、左の如し。 


・道安渓 八重山島司・野村道安氏に因みたる新設名なり、此渓の中流に小瀑布あり、
島に接近するときは、海上より望見し得べし、
・大渓 東西兩源あり、下流は瀦して小池をなす、
・小渓 下流に小水溜を見る、
・尾滝渓 下流は堆沙の中に消入す
本島に於ける渓流の通性として、下流の一潟して海に潮するものあるなく、一且溜停し、
然る後迂余途を求むるを常とす、これ島の緩辺に於ける珊瑚礁の発育に原因するもの
にして、此縁付けは広き処、幅八十メートルに及ぶを以って、小流の力能く之を截開する
能はず、溜して小池となり、溢れて海に入るもの多し、此小池の辺「イソマツ」多し。 




















no.2






































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