尖閣諸島の領有権問題     「参考資料(1) 論文・書籍09」


the asahi asia review 10:1972 summer
夏季号
朝日アジアレビュー 通巻一〇号・一九七二年第二号
18頁〜25頁


特集1 尖閣列島問題   <2>
尖閣列島と領有権帰属問題
  奥原 敏雄       

 沖縄本島の那覇空港唐南西航空のYS11で約一時間、八重山群島の石垣島に着く。
さらにこの島から船で南南西へ一七五`、約一四時間(平均七ノット)かかって尖閣列島
中の主島、魚釣島に達する。
 尖閣列島の自然環境については、比較的水量の豊富なのは、魚釣島だけである。それ
も最近の琉大調査によると塩分とアンモニア分をかなり含み必ずしも飲料に適当である
とはいえないとのことである。
 このように飲料可能の水のごくかぎられているということが、尖閣列島の居住適正を著
しく低めるものとなっているが、それ以外に人命を危うくするぐらいに蚊群および無数の
青バエが棲息していること、耕地に適する地域のほとんどないこと(多和田眞淳「尖閣列
島の植物相について」琉大農学部報告第一号、一九五四年四月)も、さらに居住不適性
を高めている。
 また尖閣列島周辺海域は普通でも気象変化の非常に激しいところであるばかりでなく、
夏季(五月から九月)を除いて列島に近づくことは極めて危険であるといわれている。列
島への上陸および投錨もかなり困難のようである。高良鉄夫教授(現琉大学長)によれ
ば、尖閣列島近くは、潮流が速く、かつ波も高く、船着き場もないので、上陸の時ボートは
縁着した珊瑚上に転覆させられる危険性が多く、とくに赤尾嶼(筆者注=大正島)は、さ
らに潮流がいちじるしく速く、投描ができない点を指摘されている(高良鉄夫「尖閣列島の
アホウ鳥をさぐる」=『南と北』第ニ六号、南方同窓援護会  一九六三年)。
 このような気象条件および居住不適正のため、列島でのいたましい犠牲や十分の準備
もなく渡島しようとして失敗したいくつかの事例もある。とりわけ太平洋戦争の末期、台湾
に疎開途中の石垣町民が、米軍機の銃撃をうけ、魚釣島に漂着したにもかかわらず、ク
バの芯や寿命草以外にも食料もないため、一五〇人中五〇人が栄養失調その他で死
亡するという事件がおきている。
 古くは明治ニ四年伊沢矢喜太(熊本県)が魚釣島、久場島に沖縄漁民とともに渡島し、
海産物とアホウ鳥の鳥毛を採集することに成功したが、気象条件などのため、長く滞りえ
ず石垣島に戻り、ついで翌々ニ六年花本某外三人の沖縄漁民が永井、松村某(鹿児島
県)とともに久場島に赴いたが、食料が尽きて失敗している。同年には前記の井沢が再
び渡島し、採集に成功するが、帰路台風に遭い九死に一生を得て福州に漂着している。
なお同年には、野田正(熊本県)等ニ〇人近くも魚釣島、久場島に伝馬船で向うが、かれ
らも風浪のため失敗している。

  T.古賀氏の列島利用
 明治ニ〇年代における右の人々などの尖閣列島への渡島が失敗したのは、いわば当
然でもあった。彼らが列島への移住や渡海に失敗したのは、渡航の時期や季節風、自
然環境等を無視したこともあったが、最大の理由は、資本もなく、しかも伝馬船か沖縄で
用いられているサバニといった刳船(くりぶね)で列島に渡ろうと試みたことに起因する
 これに対して古賀辰四郎氏は、国の許可と奨励の下に、明治三〇(一八九七)年以
降、大規模な資本を投じて、尖閣列島の開拓に着手することとなる。すなわちすでに明治
一七年(一八八四)年頃から列島で漁業、ベッ甲の捕獲、貝類の採集などをおこなってい
た古賀氏は、明治ニ八(一八九五)年一月一四日の閣議における尖閣列島の沖縄縣所
轄決定並びに翌明治ニ九(一八九六)年、列島の八重山郡所属にともない、政府に国有
地である尖閣列島の使用許可を申請していた。
 明治ニ九年九月政府が期間三〇年の無料貸与を認めるや、かれは、ただちに翌三〇
年から資本力に物をいわせて大阪商船の貨客船をチャーターし、列島に途中寄港させ、
毎年数十人の季節労働者を派遣(明治三十年五〇人、三一年同じく五十人、三二年二
九年、三三年男子一三人、女子九人)、前任者との交代はもちろんのこと、日用雑貨品、
建設資材などの運搬、補給をおこなうとともに、列島で得た産物の積荷も実施した。しか
も彼らはその後、遠洋漁船ニ隻を自ら購入し、自力で列島への労働者の派遣と食料資
材の補給、産物の運搬をおこなった。
 古賀辰四郎による列島での最初の事業は、主としてアホウ鳥の鳥毛採取とグアノ(鳥
糞)の採掘であつた。アホウ鳥の鳥毛(腹毛、綿毛)は当時のヨーロッパにおける婦人帽
の材料として高価なものであり、またグアノも今日のように化学肥料のない時代には貴
重なものであつた。
 しかしアホウ鳥は毎年一五万羽近くも捕獲するという乱獲と猫害(列島に渡島した者の
飼っていた猫が、そのまま居つき、野生化して、最盛期にはニ千匹近くになったといわれ
ている。野生化した猫は主として魚釣島に生存しているが、かつては久場島にもいたとい
われる)のために、大正四(一九一五)年頃にはほぼ絶滅した。またグアノの採掘と台湾
(キイルン)の肥料会社への積み出しも、第一次世界大戦の影響を受けて船価高騰した
ために事業採算が合わなくなり中止された。
 古賀辰四郎氏は、アホウ鳥の採取とグアノ採掘の他にフカの鰭や貝類、べッ甲の加
工、海鳥の缶詰製造、カツオ島、アジサシの剥製などの事業も営んできた(海鳥の剥製
は南小島でおこなわれ、大量の亜砒酸使用のため同島の水流―といっても岩清水―に
もごく最近までこれの混入していることが指摘されていた)。古賀氏はこれらの事業と並
行して、魚釣島と久場島に家屋、貯水施設、船着場、桟橋などを構築するとともに、排水
溝など衛生環境の改善、海鳥の保護(卵などが海中に落ちないように安全な場所に移す
作業)、実験栽培(芭蕉、甘蔗、甘藷、煙草など)、植林などをおこなってきた。明治四二
(一九〇九)年一一  月ニニ日、政府は古賀氏の列島開拓の功績に対し藍綬褒賞を授
賞した。
 大正(一九一八)年、古賀辰四郎氏が亡くなった後、辰四郎氏の子息善次氏が引き続
き列島の事業を継続した。もっとも古賀善次氏の時代には、すでに指摘したごとくアホウ
鳥の採取とグアノの採掘事業は困難となったため、カツオブシの製造と海鳥の剥製に事
業の中心が移って行った。これらの事業の最盛期には、カツオブシ製造の漁夫八〇人、
剥製作りの職人七〇人から八〇人が、魚釣島と南小島に集まったといわれる。
 尖閣列島は、昭和元(一九ニ六)年、それまでの無料貸与期間(三〇年)も過ぎたた
め、その後は一年契約の有料貸与となった。そこで昭和七(一九三二)年、古賀氏は魚
釣島、久場島、南小島、北小島の四島の払い下げを申請、政府はこれを有料で払い下げ
た。以後、右四島は古賀氏の私有地となり、所有権移転と登記も完了(資料参照)、古賀
氏は爾後毎年四島に対する地租を支払ってきた。



U・尖閣列島に対する日本の領有意志

 わが国が尖閣列島に対する領有意志を固めたのは、当時いかなる国も列島に対し実
効的支配を及ぼしていなかったからであった。このような島嶼は、国際法上、無主地であ
つたから、日本は国際法上の先占の原則に従って領有権をあきらかにし、その後平穏か
つ継続的な実効支配を尖閣列島に及ぼしてきた。列島に対する我が国の公然たる占有
に対しては、これまでいかなる国もー少なくとも一九七〇年に国府と尖閣列島に対する
領有権主張を開始するに至るまでー抗議をしてきた事実はなかった。継続的な実効的支
配の事実については後述する。
 ところでわが国が列島に対し国際法上一般に認められる領有意志を表明したのは、何
時かといった点であるが、無主地を先占するにあたっての国家の領有意思存在の証明
は、国際法上かならずしも、閣議決定とか告示とか、国内法による世紀の編入といった
手続きを必要とするものではない。先占による領域取得にあたって、もっと重要なことは
実効的支配であり、その事実を通じ国家の領有意志が証明されれば十分である。
 このような観点から考察するならば、尖閣列島に対する我が国の領有意志は明治二八
(一八九五)年一月一四日の沖縄県への所轄を認めた閣議決定によってではなく、すで
に明治一八年一〇月二一日、政府が沖縄縣知事より上申のあった出雲丸による港湾の
形状並びに土地物産の開拓見込みの有無についての調査を認めた事実によって、すで
に存在したと思われる。当時政府は清国の新聞などが台湾近傍清国所属の島嶼を日本
が占拠している等の風説を掲載し、清国政府に注意を促しているという事実をも考慮し
て、沖縄縣知事より上申のあったような国標の設置をただちに公然とおこなうようなこと
には反対していたけれども(資料参照)、国標の建設や開拓そのものに反対していたわ
けではなかった。政府は国標などを建設する時期を問題としていたわけであって、列島に
対する領有意志そのものはすでにはっきりしていた。
 実際に明治一八年の時期において清国が尖閣列島に対する日本の先占に反対し、あ
るいはそれを清国領であると主張しても、それまでに清国はいかなる意味においても尖
閣列島にたいする実効的支配をおこなっているわけでなかったから、そのことによって列
島に對する日本の先占宣言が国際法上に不法となるものではなかった。また清国が自
国領であると主張したからといって尖閣列島が清国領になりうるものでもなかった。
 したがって政府の清国に對する配慮は、あくまでも政治的なものであり、法的な意味を
もつものではなかった。この点は山県有朋内務卿と井上馨外務卿とのこの問題をめぐる
論議に徹してもあきらかである。
 すなわち明治一八年一〇月九日の官房甲第三八号別紙乙号において内務卿は「右諸
島ノ義ハ中山伝信録ニ記載セル島嶼ト同一ノ如ク候へ共只針路ノ方向ヲ取リタル迄ニテ
別ニ清国所属ノ証拠ハ少シモ相見へ不申・・・・・」という意見を添えて、外務卿の意見を
問い合わせたのに対し、井上卿は右諸島が清国國境に接近していること、清国の新聞
などが清国政府の注意を促しているという理由で、国標の建設と島嶼の開拓を「他日の
機会」に譲るべきであるという意見であった(資料参照)。これは外務卿としては職責上
当然のことであったように思われる。なぜならば、これらの島嶼が国際法上には無主地
であっても、清国と日本の双方がその存在を十分に知り、かつ清国の国境に近い(日本
の国境―沖縄縣にも近い)島嶼に対し、相手国がこれに関心を有しないならばともかく、
清国の新聞などが自国の政府の注意を促している段階で、公然と国標を建てるなどの行
為をおこなうことは好ましくなかったからである。
 このように、わが国は列島に対する領有そのものには反対でなかった。出雲丸の派遣
を政府が認めたことは、その事実によって間接的に日本の列島に対する領有意志を表
明したこととなる。また明治一八年以前に内務省地理局編纂の「大日本府県分轄図」
(明治一四年)は既に沖縄県の中に尖閣列島を含めていたし、さらに明治一八年以後明
治二五年までの間に、軍艦金剛(明治二〇年)、軍艦海門(明治二五年)による尖閣列
島の実地調査がおこなわれており、かつその間、清国政府によるいかなる抗議も存しな
かった。
 したがって明治二八年一月一四日の閣議決定以前において尖閣列島に對する日本の
領有意志は十分にあきらかであり、ただ閣議決定はその事実を公式に確認するととも
に、地方行政区分上、沖縄県に所轄せしめるという措置をとったというべきであろう(なお
「日本外交文書」第一八巻五七五三n上段によれば「明治二十八年一月ニ十一日閣議
決定ヲ経テ内務外務両大臣ヨリ曩ニ上申中ノ標杭建設ノ件聞届ク旨沖縄縣知事へ指令
アリタリ」とあり、一月ニ一日が閣議決定の日であるか、或いは沖縄縣知事の指令の日
であるのかあるいは閣議決定と指令が一月ニ一日に同時になされたものか、あきらかで
ない。この点については一又正雄博士のご尽力により総理府において同博士および係
官、筆者立会いの下に、閣議決定書の原本との照合がおこなわれ、その結果一月ニ一
日は「指令」の日であり、閣議決定は一月一四日であることがあきらかとなった)。


  V・列島に対するわが国の実効的支配(戦前)

  古賀氏の尖閣列島利用に関連して政府はすでに指摘したごとく、かなりの統治権を行
使しており、また明治二八年までの古賀氏の列島での事業が私人の行為であったとして
も、明治二九年以後の同氏の列島利用の行為は、国の許可と奨励を受けたもので、単
純な私人の行為ではない。尖閣列島の自然環境や居住不適正を考えるならば、現実的
占有にまで至らなくても国家の統治権が一般的に及んでいたことを立証することができ
れば、国際法上列島に對する日本の領有権を十分に主張しうるといえよう。加賀氏が明
治二九年以後第二次世界大戦直前まで、尖閣列島を有効に利用してきたという事実は、
一般に列島などに対して国際法上要求される実効的支配の程度をはるかに上まわっ
て、わが国がこれをおこなってきたこととなる。
 しかもこのような事実に加えて、わが国はさらに次のような統治行為を列島に対してお
こなってきた。
すなわち政府は明治二八年一月二一日、沖縄縣知事に対し四月一四日の閣議決定に
基づいて尖閣列島に標杭を建設すべく指令した。沖縄縣知事は翌二九年四月、尖閣列
島を八重山郡に所属させ、さらに明治三五(一九〇ニ)年一二月、石垣島大浜間切登野
城村の行政管轄とした。同年一二月沖縄縣は、臨時土地整理事務局によって、列島に
対する最初の実地測量を行うとともに各島の正確な縮尺図を作成した。この測量は、翌
年から実地される地租制度(それ以前においては人頭税制度)に備えるためのものであ
り、この測量にもとづいて魚釣島、久場島、南小島、北小島の四島(国有地)は石垣島の
土地台帳にも正式に記載された。
 尖閣列島に對する実地測量は、その後大正四(一九一五)年、日本水路部、大正六
(一九一七)年、海軍水路部、昭和六(一九三一)年、沖縄縣営林署によってもおこなわ
れてきた。
 国もしくは地方行政機関あるいはいずれかの許可と奨励を受けた資源および学術調
査、救助措置、気象測候所設置のための現地調査が、尖閣列島に対して何回かおこな
われてきた。
 すなわち明治三三年には八重山島司が資源および地形調査(黒岩恒、宮島幹之助氏
も同行。両氏による調査は同年の地学雑誌<第一二輯第一四〇巻>に発表された)を
おこなっている。さらに昭和七(一九三二)年、農林省の資源調査団が同様の目的で渡
島、このときは石垣島測候所の正木任氏も同行、同氏は後にこの調査結果を「尖閣列島
を探る」(『採集と飼育』第三巻第四号)に發表している。また昭和一五(一九四〇)年、魚
釣島に不時着した南台航空の阿蘇号遭難に際して旅客機の乗客等一三名を救出すばく
八重山警察署の警官が現地に急行した(旅客の中に機密書類を携行していた者がいた
ためこの救助は厳重をきわめたといわれている。この救助には台湾からも現場に赴いて
いる)。

 さらに昭和一八(一九四三)年、軍の要請により魚釣島に気象測候所を設置すべく石
垣測候所の技官二名が現地に調査出張している(この事実は八重山気象台の出張綴よ
り確認、ただし気象測候所の設置は、種々の理由から中止された)。またすでに紹介した
昭和二〇(一九四五)年の台湾疎開者遭難事件に関連して、警察官と軍関係者が、魚釣
島への救助に赴いた。
 なお大正八(一九一九)年、魚釣島付近で遭難、同島へ非難した中国福建省の漁民男
女三一人が同島で事業を営んでいた古賀善次氏らによって救助、石垣村に収容され、
同村で救済看護し、全員を無事送還している。この事実について翌大正九(一九二〇)
年、長崎駐在中華民国領事より石垣村長外三名(石垣村長豊川善佐、古賀善次、玉城
勢孫伴、松葉ロプナスト)に感謝状が送られているが、この感謝状において遭難場所を
「『日本帝国』沖縄縣八重山郡尖閣列島内和洋島(筆者注=魚釣島)」と明記している
(この感謝状で現存するものは、当時石垣村雇でその後同村助役となった玉城勢孫伴
氏の保管するもの唯一つである。なお現物よりのコピーは筆者保管){資料参照}。


  W・平和条約第三条の下での尖閣列島

 サンフランシスコ平和条約第三条は、直接には尖閣列島に言及しているわけでない。し
かし同条約第三条は、北緯二九度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む)とし
ており、この南西諸島のなかに尖閣列島が含まれていたことは外務省が非公式に連合
国総司令部に提出した南西諸島一覧表からも、あきらかである。実際に米国は、軍事占
領下の沖縄に始めて公認によって作られる四つの群島(沖縄、宮古、八重山、奄美)政府
を設立すべく、昭和二五(一九五〇)年八月四日に交付した米軍政府令第二二号「群島
組織法」の八重山群島の範囲に尖閣列島を含めた。米国はまたサンフランシスコ平和条
約の成立に備えて琉球政府を設立した。その設置法たる昭和二七年二月二九日の米民
政府布令第六八号「琉球政府章典」第一条は、琉球政府の政治的、地理的管轄区域を
定め、その中に尖閣列島を含めた。同様に昭和二八(一九五三)年一二月二五日の米
民政府布告第二七号「琉球列島の地理的境界」第一条及び一九五五年四月九日の米
民政府布告令第一四四号「刑法並びに訴訟手続法典」第二部第一章第九条のいずれ
も、尖閣列島を適用区域に含めていた。このようにサンフランシスコ平和条約第三条にも
とづいて米国は尖閣列島に対して施政権を行使してきたが、この米国の施政権行使は、
尖閣列島を含む同条約第三条の地域の領有権が依然として日本に帰属しているとの前
提の下に認められていた。
 米民政府はまた実際に、尖閣列島に対し施政権を行使してきた。すなわち同列島中の
国有地である大正島を昭和三一(一九五六)年以降海軍軍用演習地として、また民有地
である久場島については昭和三〇(一九五五)年、空軍、それ以後海軍軍用演習地とし
て使用してきた。
 ただし久場島についてはすでに指摘したごとく民有地であるということもあって、琉球政
府を代理人として、一九五八年七月一日所有主である古賀善次氏と米民政府との間に
基本契約賃貸借契約(Pasic  GRI  Nr.83−1)を結んだ。この契約に基づいて米
民政府は所有主に年額五七六三ドル九二セント、その後(昭和三八年)現在の一万〇
五七六ドルを支払ってきた。琉球政府はこの契約以前から古賀氏所有の四島に対し固
定資産税を徴収してきたが、軍用地使用による収入に対してもあらたに源泉徴収するこ
ととなった。
 一方、琉球政府立法院は昭和三〇(一九五五)年三月二日、魚釣島領海内で国籍不
明のジャング船ニ隻に銃撃され、三名が行くヘ不明となった第三清徳丸事件に関連し
て、同年三月五日、米民政府、日本政府並びに国際連合等に対し事件の調査方を要望
する決議を採択した。昭和四二(一九六七)年一〇月二八日、琉球政府もまたこの事件
に関連して被害者家族に救援金(九八七ドル四五セントから四七五七ドル六〇セント)を
支出した。
 昭和三六(一九六一)年尖閣列島を行政的に所管する石垣市は、土地借陳安定法にも
とづき固定資産評価上の実態調査のため担当官を尖閣列島に派遣するとともに、昭和
四四(一九六九)年五月、市長も同行して尖閣列島五島に石垣市の管轄を明示した行政
標識を設立した。
 他方、米民政府と琉球政府は昭和四三(一九六九)年以降、列島に対する不法入域を
取り締まるべく種々の対策、例えば軍用機による哨戒、警告板の設置(一九七〇年七
月)、琉球政府巡視艇によるパトロール、不法上陸者の退去命令などをおこなってきた
(なお米民政府は、南小島で沈船解体作業に従事していた台湾人がその後正規の入域
手続きを申請してきたので、一九六九年一〇月三一日までの期限を条件として許可し
た)。


X・中国および台湾の領有権主張

 中国及び台湾によってこれまでなされてきた尖閣列島の領有を主張する根拠は、第一
に、歴代冊封使録等の古文書を理由にしたものであり、第二に日清講和条約第二条の
「台湾全島及びその付属諸島嶼」のなかに尖閣列島が含まれているとする主張(七一年
一二月三〇日中国外交部声明){資料参照}であり、第三に、尖閣列島と台湾の地理的
接近を理由とするものであり、第四に、台湾漁民の列島の使用状況もしくは実態を指摘
するものであり、第五に、尖閣列島を大陸ダナの一部であると主張するものである。其の
他、米国がポツダム宣言にもとづいて沖縄の日本への返還に際し、連合国である国府と
協議しなかったこと、またポツダム宣言とサンフランス平和条約が日本の海外領土要求
を禁止してるといった主張がある。しかしながら、たんに古文書を理由とした列島に対す
る中国の領有権主張は、それだけでは不十分であり、さらに実効的支配の事実が立証
されなければならい。また今日までのところ、尖閣列島に対する中国の領有意志の存在
は古文書によっても立証されていない(この点については筆者の二つの論文、「尖閣列
島の領有権問題」季刊『沖縄』第五六号、南方同胞援助会七〇年六月)」、「尖閣列島の
領有権と明報論文」『中国』七一年六月号を参照されたい)。
 また台湾漁民による列島の利用は、戦前は日本人としての利用であり、戦後は私人と
しての利用にすぎず、いかなる意味においても国際法上の領有権主張の根拠となりえな
い。
 地理的近接性を理由とした領有権主張もすでに一九二八年のパルマス島事件(米国
対オランダ)に関連して、常設国際仲裁裁判所によって否定されている。尖閣列島を大
陸ダナの一部分であるとみなす主張が大陸ダナの本来の定義に合致しないものである
ことはあまりにもあきらかである(この点については筆者「尖閣列島―その法的地位―
F」『沖縄タイムス』一九七〇年九月八日参照)。
 さらにポツダム宣言を理由とした二つの主張は、その後の平和条約の締結によってす
べて解決されていることを指摘すれば十分であろう。
 最後に日清講和条約第二条との関係であるが、これも理論的には、日清講和以前に
おいて尖閣列島の清国領であることが国際法上に立証されているか、もしくは日清講和
会議において日本自身が尖閣列島を清国領であると認めていないかぎり意味がない。だ
が上述してきたごとく列島に対する清国による実効的支配の事実はまったく存在してお
らず、しかも日本自身はすでに明治一八年ごろから列島の領有意志をもち始め、明治二
八年一月には沖縄県の所轄とする閣議決定をおこなっていたのである。それにもかかわ
らず日清講和条約の経緯に照らして、この問題を検討することによって、尖閣列島が台
湾の付属諸島に含まれていなかった事を確認することもまた有益であるように思われる
(尚日清講和会議関係の資料については、一又正雄博士および早大教授大畑篤四郎氏
の外務省での調査結果に依拠するものであることを特記する)。
 日清講和条約第二条は清国より日本に割譲される地域を定めた規定で、三項から成
っている。第二条第一項は、遼東半島、第二項は「台湾全島及びその付属諸島嶼」、第
三項は、澎湖列島である。澎湖列島についてはその範囲を緯度経度で示している。
 同条約第三条は「前条ニ掲載シ付属地図ニ示ス所ノ経界線ハ本条約批准交換後直チ
ニ日清両国ヨリ各ニ名以上ノ境界確定委員会ヲ任命シ実施ニ就テ確定スル所アルへキ
モノトス・・・・・・・・・」と規定した。第三条の規定から「付属地図」は現地に就いて確認す
る要のあるものについて作成された。このような地域は割譲されるべき部分が陸地に於
いて清国に接している場合であるから、第二条一項の遼東半島にかぎられた。実際に遼
東半島については付属地図が作成され条約に添付された。しかし境界劃定委員会によ
る遼東半島の実地境界劃定は、三国干渉の結果、遼東半島の還付(明治二八年五月一
〇日)となったために不必要となり、実施されなかった。
 台湾の付属島嶼については講和会議の席上、清国側は日本が福建省に近い島嶼まで
も台湾の付属島嶼であると主張することを恐れて、具体的な島嶼の名前をあげることを
提案したが、台湾と福建省の間に澎湖列島のある以上、清国側が心配するようなことは
起こりえないと日本側が説明したので、清国代表も了解したという経緯があった。
ここで明らかなように、台湾の付属諸島ということで清国側が関心をもっていたのは福建
省沿岸の諸島であった。他方、尖閣列島よりはるかに台湾に近いビ彭湖列島ついては
緯度経度で示し、尖閣列島については明示的にはもちろんのこと、緯度経度でも示され
なかった。講和条約の席上においても尖閣列島はまったく言及されていないことは勿論
である。このことは台湾北部の島嶼については、台湾にごく近い島嶼、すなわち鶏籠島
だけが清国時代の台湾省の行政区画に含まれていた事によっても裏付けられる。次に
中国側が実効的支配の証拠として主張していると思われるものに、昨年一二月三〇日
の中国外交部声明の中における「明朝の時代からこれらの島嶼がすでに中国の海防区
域内に入っていた」ことの指摘がある。同日の北京放送はこれを説明して「中国の明朝
は倭寇の侵略撹乱に抵抗反撃するため、一五五六年に胡宗憲を倭寇討伐総督に任命
し、沿海各省における倭寇討伐の軍事責任を持たせた。そして魚釣島、黄尾嶼、赤尾嶼
などの島嶼は当時、中国の海防の範囲内にあった」と報道した。
 これはおそらく胡宗憲が編者で、実際はケ若層の著した籌海図編一三巻、萬里海防図
論ニ巻、江防図考一巻、海防一覧図一巻のいづれかであるように思われる。今日までの
ところ、中国は具体的な証拠を提示していないから詳細を論ずることはできないが、海防
図といった性格のものは進入経路と思われる地域―それが他国の領域であると否とを
問わずーを含めるのが普通であるから、海防図に含まれていたという事実そのものは取
り立てて領有権を主張する根拠となるものではない。
 今一つのものは、清の西太后が、光緒一九(一八九三)年一〇月、薬草採取のため盛
宣懐(大堂寺正卿)に釣魚台、黄尾嶼、赤嶼の三島を与えたといわれる、いわゆる西太
后の御墨付である。香港の左派系雑誌『祖国』(一九七二年二月)の「釣魚台問題重要
補充資料」の中で揚仲揆氏(中国文化学院琉球研究所所長)によって紹介されたもので
ある(もっとも楊氏は自著「中国・琉球・釣魚台」の中ですでにこれに触れているらしい。
筆者未見){資料参照}
 このお墨付きの信憑性はかなり疑わしといえよう。まず第一に光緒一九年一〇月と記
しているだけで、正確な日が記していない。お墨付きの内容も、西太后が述べたことを第
三者がまとめたようなものとなっている。又お墨付きの中で盛宣懐の商売繁盛やかれの
売っていた薬の効き目の宣伝も兼ねていて、いかにもわざとらしい内容のものとなってい
る。
たとえば「この霊薬は海上で産するから、とくに中土に効く」とか、「知るところによれば大
常寺正卿(筆者注=盛宣懐)は代々薬局を設け、診療をほどこし、薬を与え、貧病を治し
てきた」、あるいは「盛宣懐のもってきた薬は非常に効きめがある」といった文章がそれ
である。どうも御墨付きの名を借りて商売の宣伝用に作らせたもののようにも見える。
 楊仲揆氏自身は一九七〇年八月二二日の中央日報紙上で「尖閣列島問題」と題する
論文を發表しているが、当時の論文においてかれは「尖閣列島の物産は海底の石油が
発見されるまでは、島の付近に豊富な魚貝類、島のアホウ鳥、鳥の卵、羽、糞だけであ
ったようだ」とのべ、薬草には触れていなかった。この薬草は、海芙蓉といい、高血圧に
よく効く高貴薬とされている。海芙蓉はかつて台湾および付近の離島でも採れていたが、
今では皆無となり、尖閣列島では久場と魚釣嶋にあるとされている。台湾の新聞によれ
ば五年ぐらい採取可能であると書かれている(海芙蓉という潅木の根が薬になるようで
ある)。海芙蓉は非常に高価なものとされているから、もし戦前古賀辰四郎及び善次氏
がこの薬木の存在を知っていたとすれば、当然事業の用に供したであろう。またすでに
大正年間から台湾漁民(当時は国籍上は日本)]も列島付近で操業していたから、もしこ
れを見つけていたならば、持ち帰り売却していたであろう。
  もしそうであれば久場嶋、魚釣嶋に海芙蓉が豊富であったとしても、台湾に於いてす
ら伐採し尽くされたのであるから、尖閣列島の場合も戦前において完全になくなっていた
であろう。また戦後台湾漁民が列島付近で操業を始めて一五年ぐらいになるが、もし漁
民等がその存在を知っていたならば、おそらく同様に取り尽していたであろう。
  このように考えるならば、列島における海芙蓉の存在が知られるようになったのは、
ごく最近のことでなければ辻つまが合わないこととなる。わが国の戦前の文献、古賀善
次氏の話のなかにもこの薬木の存在はでてこないし、また御墨付きの中で「この薬材の
原料は台湾海外の魚釣台、黄尾嶼、赤嶼でとれる」と書かれているにもかかわらず、こ
の御墨付き以外に列島で海芙蓉のとれることを記し清時代の文献は今のところ見当たら
ない。また古賀辰四郎氏はすでに明治一七年から列島での事業を営んできたが、日本
の文献のなかに何人かが來島し、海芙蓉の根を掘り起こしていったという記録もない。海
芙蓉がいかなる用途に供せられるべきものであるか当時の日本人が知らなかったとして
も、これを採取しに来たものがあれば、当然にその痕跡を残したはずである。
 実際に御墨付きをもらった盛宣懐自身も、尖閣列島に渡ろうとしたが、台湾人との言葉
が通ぜず、しかも釣魚台列島付近の水流が急で、時に船の転覆することもあり、岸につく
ことも困難であり、さらに島に水がなく、蛇や蠍蚣が多いという理由で断念している。明治
二六年当時でそうであったとしたら盛宣懐の祖父(盛庸)の子盛康の時代に列島に渡り、
海芙蓉を伐採してきたということはとうてい考えられない。
 さらに赤嶼は、草木一本はえていない完全な岩島である。このようにみてくるならば、釣
魚台、黄尾嶼はともかくとして、赤嶼が加えられていることは、いかにも尖閣列島に関す
る領有権紛争を意識して、この御墨付きをつくったというような気もする。しかし仮にこれ
が当時の清朝政治の実権を握っていたといわれる西太后の眞筆あったとしても、正式な
編入手続きとその後の十分な実効的支配をおこなってきたわが国の証拠と比較するなら
ば、まったく問題とならないばかりでなく、むしろこのような資料を中国の重要な領有権根
拠であると主張せざるを得ないところに、この問題をめぐる中国側の決定的な不利が存
するともいえよう。
 なお、この他、丘宏達・台湾国立政治大学客員教授が、日本の尖閣列島領有権主張を
分析批判した二つの論文(『大学』五〇巻二号=一九五二年二月=と『明報』一九七二
年三月号)を発表し、その結論部分で一八九五年以前に魚釣台列島が中国の管轄に属
する事を少なくとも日本の資料は示していると述べているが、丘教授が本論文で示した
証拠は、林子平の三国通覧図説とこれを翻訳したM.J.Klaproth(一八三二年パリ)のもの
だけにすぎない。林子平の三国通覧図説が中山伝信録に依拠したものであることについ
ては、すでに別の論文(前掲筆者論文参照)で触れてきたから、ここではこれ以上この問
題に言及しない。丘宏達教授は丹念にわが国の文献や地図にあたられ、その中に尖閣
列島について触れていないことを力説されているが、それらはすべて列島の日本領土編
入以前のものであるから、当然のことであり、法的には無意味である。また仮に編入以
後のわが国の文献上の不備を指摘しても、そのことによって中国の領有権が立証される
わけのものではない。
                      (おくはら  としお=国士舘大学助教授・国際法)


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明代および清代における尖閣列島の法的地位