尖閣諸島の領有権問題      「参考資料(1) 論文・書籍13」



尖閣列島の領有権と「明報」論文

  奥原 敏雄           

 はしがき

 すでに本誌二月号でその全訳文が紹介されている香港紙(中立系)明報新聞社の月
刊「明報」(一九七〇年10月号)に掲載された論文は、「釣魚台列島はわれわれのもの」
と題するタイトルを付しているが、これは論文というよりは、むしろ台湾の新聞などで発表
された尖閣列島に関係した記事、論文等を整理、配列した資料集ともいうべきものであ
る。しかしより厳密にのべるならば、資料集といっても、伝聞や憶測の人った資料が多
く、揚仲揆氏の論文、また馬廷英博士(国立台湾大学地質学教授)が、国府立法院に堤
出したとされている報告書にしても、国際法学者や地理学者による資料の分析と検討を
へたものを使用しているわけではない。したがってこのような資料からえられるものは、
台湾及び海外各地の華僑が尖閣列島の領有権問題に関連していかなる意見や考え方
をもつているか、についてのだいたいの傾向を知りうるといった性格のものであって、そ
れ以上のものを期待できないであろう。
 「明報」の論文を検討した結果の印象は「明報」の論文や、引用の基礎となっている台
湾の新聞などの記事に、かなり初歩的な誤解や認識不足が多いという点であった。
 そこで本稿では、このような誤解や認識不足から生じたと思われる問題点をいくつか指
摘した。ただしあくまで、国際法の立場に限定して批判訂正したものである。

 尖閣列島の範囲

 花瓶嶼は尖閣列島の一部ではない
 馬延英博士は「一九〇〇年ドイツ出版のAndreeshandatlas 第四版一四〇頁記載図に
釣魚島と花瓶嶼とがある。近頃(戦後)日本人によって尖閣列島と改称されたものだが
‥…」とのべておられるが、これは八月二五日付『中央日報』の記事であきらかなごとく、
博士が、Hwa-Pin-Su を花瓶嶼と誤解されたことから生じている。
 しかしながらヨーロッパ諸国の海図において、Hoapinau と記載されているのは、実は、
久場島(黄尾嶼)なのである。ただし日本においてもそうであったように、魚釣島と久場島
の呼称が入れ替り、ヨーロッパ諸国の海図も、前者を Hoapinsu、久場島をTiauauと記述
していろものが多い。
 たとえば一九世紀末の『イギリス海軍水路誌』第四巻は、次のように記している。
 Hoapisu, the south-western island of an isolated group adout 90 miles northward of 
the west end of Mciaco sima, is 1,180 feet high with a steep cliff on the southern 
side of the summit, and a gradual slope on the easuthern side This island is barreu 
and uninhabited, there are pools of fresh water, with fish in them, on the eastern 
slope.
(魚約島は、宮古島の西端から北方約九〇マイルにある孤立した列島の中の南西部の
島。島の一番高い場所は海抜一、一八○フィートで、その南側は険しい断崖、東側は緩
やかなスロープになっている。やせ地の無人島だが、東側のスロープには淡水池があ
り、魚が住む─編集部訳)
 この場合の Hoapinsu は魚釣島である。
  また明治四十五年(一九一二年)の「帝国地名辞典」一、巻八七」五頁は、次のように
のべている。
 釣魚嶼。釣魚台にも作り、和平山ともいふ。海図にホアピンスと記せるもの是なり。今
沖縄人は、久場島と呼べども、古来ヨコンの名によって、沖縄人に知られし島にて、当時
は黄尾嶼を久場島とせしが、近年如何にしてか、呼称混乱し、黄尾嶼をヨコン、本島を久
場島と唱ふる至れりといふ。
 昭和二十五年(一九五〇年)の「南島風土記」四五五及び四五六頁において、東納恩
寛惇氏も、次のように指摘している。
 釣魚嶼。……海図にホアビンスウ Hoapinsu とあろのは黄尾嶼の華音である……。
 黄尾嶼。陳侃録黄毛嶼に作ろ。海図に Tiausu と出ず。釣嶼の華音で、多分前者と錯簡
したものであろう。
 いずれにせよ海図を注意してみれば、 Hoapinsu が、魚釣島か久場島のいずれかであ
り、花瓶嶼と混同することはないし、また本来の花瓶嶼の地理上の位置からみても、Hwa
-Pin-Su を花瓶嶼と誤解する余地はなかったはずである。


 尖閤列島の命名年代

 尖閣列島の名称は、第二次大戦後に命名されたものではない。 この点についても馬
博士は、非常な誤解をされているようである。尖閣列島という名称は、一般には、明治三
十三年(一九〇〇年)沖縄師範学校教諭黒岩恒氏が、命名したとされている。これを裏
付けているものは、同年八月の「地学雑誌」第一二輯第一四〇巻四七七頁(黒岩恒「尖
閣列島探検記事」)である。
 同氏は次のように説明している。
 茲に尖閣列島と称するは、我沖縄島と清国福州との中央に位する一列の小嶼にして、
八重山島の西表(イリオモテ)島を北に距る大凡九十哩内外の位置に在り‥‥・・。而して
此列島には、未だ一括せる名称なく、地理学上不便少からさるを以て、余は窃かに尖閣
列島なる名称を新設することなせり、而して本列島は地勢地質上二部に大別するの必要
を見る。甲は釣魚嶼及ひ尖閣ゥ嶼にして、乙は黄尾嶼なりとす左表の如し、
       (甲) (1)魚釣嶼
尖催列島     (2)尖閣ゥ嶼
       (乙) (3)黄尾嶼
 黒岩氏自身もあきらかにしているごとべ彼個人としては、尖閣列島という名称を、以前
から用いていたのであって、このことは明治二十七年(一八九四年)の「南島深険」にお
いて笹森儀助氏によってあきらかにされでいる。
 他方列島の文字を使用していないが、尖閣群島という名称は、黒岩氏の命名に先立つ
こと十四年前、すなわち明治十九年(一八八六年)の「海軍水路部水路誌」(寰瀛水路
誌)第一巻下第一〇編八五三頁にあらわれている。
 尖閣にいう名称は、今日では、イギリス海軍が命名したものと思われる Pinnale 
Islands の和訳であろうと解されている。
Pinnacle Islands の Pinnacle とはヨーロッパのどこでも見受けられるカソリック系寺院の
尾根の形─尖塔─を指すものであり、Pinnacle Ialands の名前は、南小島や北小島があ
たかもこれと近似しているところから、名付けられたものであろう。しばしば用いられる尖
頭という名称も、あさらかにこれらの影響を受けたものと思われる。


 日本側の列島利用

 日本人は尖閣列島の利用に失敗していない。
 『明報』論文は、「中央日報」八月二二日及び二三日付(筆者注。『明報』が九月一三日
と二二日としているのは誤り)揚仲揆氏の文章を引用して、次のようにのべている。
 釣魚島について。……翌二十八年(筆者注。明治二十八年)初めに、ようやく閣議を通
過した(筆者注。日本領土編入に関する閣議決定)これ以後、さまざまな移民策が試みら
れたか、いずれも逆風、逆流、台風などの自然災害により挫折し、定住できなかった…
…。
 久場島について。……明治三十年古賀辰四郎は、さらに沖縄県政府に久場島の開墾
を願い出で許可され、翌年、二十八名の移民を渡海させた。その翌年、別の二十九名を
送って……。しかし大正の中頃に撤退して久場島は再び無人島となった。
 なお昭和の初めに古賀辰四郎の子、古賀善次が釣魚島にカツオ節工場をたて各種の
関連事業をやったが、成功しなかったそうである……。
 琉球人がこの島に来るには、遠い路のりを逆風と逆流を乗り越えなければならず、その
ため数十年やってみて、一つも実績があがらなかったのも不思議ではない。
『明報』は、また八月三一日の「中国時報」記事ぜ的確な報道として、引用している。
 ……漁民たちが、いつもここで顔き合せるのは肉親と同郷人ばかり、地理的環境と海
流の関係で、外国漁船が釣魚台列島に来ることは骨折り損なのだ……。
 この論文が指摘しているような逆風、逆流や台風などによって、列島への渡海や移住
の試みが失敗したことはあったが、こうした事実は、尖閣列島が日本領土に編入される
以前の一時期、すなわち明治二四年(一八九一年)頃までであった。
 かれらが列島への渡海や移住に失敗したのは、渡航の時期や季節風、自然環境など
を無視したこともあったが、最大の理由は、資本もなく、しかも伝馬船か沖縄で用いられ
ていろサバニといった刳り船で、列島へ渡ろうと試みたからであった。
他方古賀辰四郎氏は、かれらより数年早い明治十七年頃から、列島で漁業、ベッ甲の捕
獲、貝類の採集をおこなっていた。古賀氏が事業に成功したのは、かれらのごとく冒険心
に逸った無謀な試みとしてではなく、綿密な事業計画と収益計算にしたがって、大規模な
資本を列島に投じたからであった。
 列島の借地権を内務省よりえてから古賀氏が渡海にあたって使用した船舶は、最初は
基隆への航路に就航していた大阪商船の貨客船を資本力に物をいわせてチャーターし、
列島に途中寄港させ、労働者の派遣及び前任者との交代は勿論のこと、日用雑貨品、
建築資材、食糧などの運搬、補給をおこなうとともに、列島でえた産物の積荷も実施し
た。しかもその後さらに遠洋漁船二隻を購入改良して、自力で列島への労働者の派遣と
食料・資材の補給、産物の運搬をおこなったのであろ。
 労働者の長期派遣が大正四年頃で終止したのは、基隆の台湾肥料会社へのグアノ
(鳥糞)の積出船価が第一次大戦のため高騰し採算ベースに乗らなくなったことと、鳥も
採集の対象となっていた阿呆鳥が濫獲や猫害等によって極端に減少してしまったからで
あった。
 他方魚釣島、南小島などでのカツオ節製造、カツオ鳥、アジサシなど海鳥の剥製、森林
伐採のための事業が継続され、季節労働者が太平洋戦争直前まで列島で働いていた。
この事業が終止符をうったのは、わが国の石油需給が逼迫し、船舶用燃料が配給制と
なり、事業を困難なるものとしたからであった。
 以上によってもあきらかなごとく古賀氏は、逆風や逆流、台風といった自然災害が原因
となって、事業を中止したものではない。古賀氏による事業は、自然災害によって、その
継続を放棄せざるをえなくなった理由によるというものではなく、純粋に経済的及び社会
的理由によるものである。
 台湾の新聞や『明報』が、自然災害を理由に日本人の列島利用の失敗を主張するの
は、臆測と認識不足、あるいは漁民らの狭い自己体験のみによって引き出されに結論
を、鵜呑みにした結果であると断ぜぎるをえない。
 なお戦後列島の利用が減少しているのは、次の四つの理由による。
 (1) 尖閣列島の四島(魚釣、久場島、南小島及び北小島)が、古賀善次氏の所有の所
有にかかろ私有地であることは、同氏の戦前における知名度及び事業実績から、現地で
は誰でも知っていたこと。
 (2) 古賀善次氏が、戦後本土に帰り、かつ病弱、高齢のため事業をおこないえず、また
適当な後継者に恵まれなかったこと。
 (3) 大正島(赤尾嶼)と久場島が米軍演習地域に指定され、永久立入禁止区域となっ
たこと。
 (4) 一九五五年沖縄漁船第三清徳丸(一五・九トン)が、魚釣島一五〇米のところで操
業中、国籍不明のジャンク船二隻に銃撃され、九人の乗組員中三人が行万不明になる
事件が発生、琉球政府立法院は事件後ただちにアメリカ民政府、日本政府、国際連合
宛事件の調査方を要望する決議を採択したが、なんらの結果もえられなかったため現地
漁民は、以後生命の危険を恐れて、尖閣列島付近での操業を自粛してきたこと(ただし
一九五五年以前には、クバの葉の採集や鳥卵の捕獲、漁業などのため先島の漁民が季
節的に列島にわたっていた)。


 中国側の列島利用

 中国人としての列島の利用は戦後のことである。
 ただし、この点については若干の註釈が必要であろう。すなわち基隆より台湾漁船が
列島に赴き、操業をおこなうようになったのは、第一次大戦終了前後頃からの.ようであ
る。
 大正八年(一九一九年)の日本水路誌には次のように記している。
 毎年五月から八月の期間基隆港より発動機艇をもって此島附近に鰹漁に来るものも
あるも、多くは早朝来って夕刻には出港帰港するを常とす。
 同様な記述は、昭和十六年の「水路誌」にもあるところから、戦前(ただし第一次大戦
前後から)基隆を基地とし操業のため台湾漁民らが、尖閣列島付近に赴いていたことは
事実である。もっとも当時基隆には、日本本土から台湾に渡ってきた網元が多数おり、
かれらが大部分の漁船(とくに発動機艇)を所有していたところから、尖閣列島へ赴いた
漁船及び漁民の多くが、本土からの渡島日本人であることは想像にかたくない。
 ただし台湾漁民が雇傭され、列島で漁業に従事したり、かれらの所有すろ漁船で列島
に赴いていたことも十分にありうる。それにしても当時台湾は日清戦争の結果、日本に
割譲され、その結果この地域の住民は、日本国籍を有するものとなったため、これら台
湾漁民の戦前におけろ列島での漁業行為も、法的に限定すれば、国籍上日本人の行為
としてみなされうる。
 したがって法的に(国籍法及び国内法上に)中国人として、尖閣列島に赴き、漁業に従
事し始めたのは、第二次大戦後とりわけ一九三〇年代の後半以後のことであろ。しかし
ながら揚仲揆氏の主張するごとく「昔から今まで、自然に順応して、長期にわたってこの
列島を領有してきたのは、わが福建省、折江省、台湾省沿岸の漁民同胞である」とする
のは、事実に反するといわなければならない。とくに福建省、折江省の漁民が列島付近
で慢習的に操業していた事実は、今のところはまだ実証されていない。


 古文書の価値

 日本・琉球・中国側の古文書は、列島の中国帰属を立証していない。
 今日領有権原の帰属が、たんなる発見とか、領有意思の存在だけで認定しえないこと
は、国際法の常識であるが、他方一八世紀前半以前においては領有意思の存在だけで
領有権原が帰属しえたこともあって、古文書を検討して領有意思の存在や確認の事実を
見出すことは、国際法学の上からは興味のある問題である。
 ただし繰り返しことわっておかなければならないことは、かつて領有意思の存在のみで
領有権原が帰属していた地域であっても、一八世紀後半以後は、これらの地域に対して
国家が実効的支配を合理的期間内に及ぼしえなかったときには、ふたたび無主地とな
り、第三国の先占の対象となりうるということである。
 したがって中国の「冊封便録」などの検討は、かつて中国領であったか否か、といった
事実を究明する上での興味に限定され
る。
 ところで筆者が「冊封諸便録」日本及び琉球の古文書を検討した結果えた結論は、琉
球王朝時代、尖閣列島が琉球領でなかったという事実だけであって、それ以上に列島が
中国領であったとする直接的立証は勿論、間接的な推測も下しえないという結論であろ。
 たとえば揚仲揆氏の指摘する一五三四年の「陳侃使録」中の「十一日夕、古米山(筆
者注。久米島のこと)をみる、すなわち琉球に属するものである」(十一日夕見古米山乃
属琉球者……)と記している部分(筆者注。一六五〇年の琉球側文献である向象賢「中
山世鑑」に出てくる部分は、若干修正を施しているようであるが、「陳侃使録」を転載した
ものである。この点についての揚仲揆氏の指摘は正しい)、及び一八〇〇年の程順則
(琉球)の「指南広義」に出てくる「姑米山─琉球南西側の境界の山─であるを目印にと
る……」(取姑米山琉球西南界上鎮山……)は、いずれも現在の久米島が、当時の琉球
王国の所領であることを認め、とくに「指南広義」は、久米島をして「南西側の境界」として
いる。
 冊封船が釣魚船、黄尾嶼、赤尾嶼と目標にとりながら、久米島(有人島)をはじめて見
出しえたとき、この島が琉球領であると記していろのであろから、たんに久米島が琉球領
であったということだけでなく、はじめて琉球領に達したという意識で書いたものであると
考えてよいであろう。
 このようにみてくると久米島が琉球領の境界にあたる島であったこと、「指南広義」の言
葉を借りるならば、南西側の境界であったことはあきらかである。
 ところでこの二つの古文書から導きうる結論は、それだけであって、久米島より手前の
赤尾嶼などが中国領であるか否かをこれらの古文書から結論づけることは、推測的にせ
よ不可能である。
 次に一五六一年の「郭汝霖使録」中の「赤嶼に至る。赤嶼(筆者注。赤尾嶼のこと)は、
琉球地方とを界する山なり」(至赤嶼焉赤嶼者界琉球地方山也)とする記述からも、赤嶼
が中国(明)と琉球とを界する中国省境の島であると解釈することは困難であり、むしろこ
の部分の意味は、文章を素直に読めば、赤嶼より先の島は、琉球領であるといっている
にすぎない。
 したがって湯仲揆氏のごとく郭汝霖のこの記述を「赤嶼はわが方と琉球との接する山」
と解釈するのは困難である。揚氏のごとく解釈しうるためには、赤嶼が明の省境をなす地
方山であるといった表現が必要であろう。「冊封使録」は、中国人の書いたものであるか
ら、赤嶼が自国領であるとの認識があったならば、そのように記述しえたはずである。揚
氏の論理の中には、中国領か琉球領かを決定する前に、両国のいずれにも属さない場
合がありうることを最初から無視しているところに問題があろといえよう。「冊封使録」は、
揚氏も指摘しているごとく主として航路上の目標としての関心から、尖閣列島の島嶼名
に触れているにすぎないのであって、列島が中国領であることを冊封使たちが後世に確
認させるという意識で記述していたわけではない。「冊封使録」が針路や海行日記のとこ
ろでのみこれらの島嶼に言及し、かつ「冊封使録」以外の当時の中国側古文書に列島島
嶼があらわれてこないのは、このことを十分に立証しているといえよう。
 また揚氏の指摘した以外に一、二点の「冊封使録」が存在しているが、陳侃や郭汝霖
のような記述は、これ以外に見当らないのである。その上陳侃と郭汝霖の使録は、「冊
封使録」の中でも最も古いものに属するものなのである(現存する使録中最古のものが
陳侃、次が郭汝霖の使録)。
 さらに揚仲揆氏は、日本の古文書として林子平の「三国通覧図説」(一七八五年)の琉
球国部分図を指摘し、林子平が宮古、八重山、釣魚台、黄尾嶼、赤尾嶼などのことを詳し
く描き、とくに宮古、八重山の二つについては、支配権が琉球に属することを詳しく注釈し
ていろところから、釣魚台が琉球に属していないことを側面から説明したことになる、とし
ている。
 この揚氏の指摘は正しい。ただし林子平が「三国通覧図説』を作成するにあたって原本
としたものは、一七一九年の「中山伝信録」であろが、この「中山伝信録」は、程順則の
「指南広義」を引用して列島に言及しているにすぎない。
 このときの冊封使(徐保光)の一行は、航路を誤ったか、列島を見出しえないで終って
いる。「指南広義」を引用していろのは、おそらく航海の不手際を補添すべく、これを引用
して他の「冊封使録」との体裁均衡をととのえたのであろう。
 そうであるとすればこのような使録に依拠して作成された「三国通覧図説」から、林子
平が魚釣台は琉環領でないといったこと以上の意味、たとえば列島が中国領であると認
めていたとする推論を下すことは適当でないのであろ。


 戦後の列島

 琉球政府は列島の領域侵犯に関心をもっていなかったわけではない。
 揚仲揆氏は、台湾漁民の列島付近での操業に対しアメリカと琉球とが、そのことが分っ
ていながら対策が立てられず、時たま折衝を試みろが、これもものにならないというの
は、米琉ともにこの問題をさして重要視していないのではないか、とのべておられるが、
これは事実に反するとともに、琉球政府の権限を考慮に入れていないものである。
 揚氏が法律の専門家であるか否かはともかくとして、あるいはまたこの点の指摘をアメ
リカ民政府に向けている場合は別であるが、この点を琉球政府に向けている場合には、
琉球列島が、サン・フランシスコ条約第三条にもとづいてアメリカ合衆国の完全な施政権
下におかれているという特別な事情を無視していろこととなる。
 日本が尖閣列島での台湾漁民の操業を法的に取締る権能を有しないことは、平和条
約第三条によってあきらかであるが、琉球政府もまた領海侵犯行為を取締ったり、入域
者を逮捕、裁判する権限が、外国人については与えられていないのである。
 台湾漁民が外国人である以上、かれらを直接に取締りうる地位に琉球政府はなかっ
た。最近にいにって琉球政府の警官や出入管理庁の係官が現地に赴き、台湾漁民等の
入域の退去を勧告しているが、これはアメリカ民政府の事前の同意をえておこなっている
ものであり、最近になってかかる権限があらたに与えられたというものではない。
 しかもこれまで列島への台湾漁民の入域について琉球政府は、しばしばその取締り方
を民政府に要諦してきた。とくに前に触れた第三清徳丸事件に関連して、琉球政府は、
民政府にその善処方と行方不明乗組員の調査方を要請、民政府も在台北アメリ刀大使
館を通じて、国民政府に調査を要請したが、いかなる回答もえられないままで終ったとい
われている。


 尖髄列島と文献上の不備

 日本の地図・歴史書・公文書などの多くに列島の記述あるいは記録の存在しないことを
指摘するのは、事実に反する。
 尖閣列島のように極端に面積の小さな無人島などの場合、このようなことが時々おこる
のは別段に珍しいことではない。大体作成される地図の用途、縮尺程度によって極端に
小さな島嶼が省略されることは、なにも尖閣列島にかぎったことではない。また国勢調
査、続計、物産記録などに尖閣列島に関した記述のない場合があるのは、列島渡海者
が、移住者ではなく一年交代の労働者であること、古賀氏の経営すろ商店が、那覇と石
垣にあり、そのため列島での物産の集計や収益が、那覇及び石垣での他の収益、集計
に算入されること、とくに古賀氏の事業は、尖閣列島のみにかぎられていたわけではな
いから、おそらく他の地域からの同種の物産と混入され、記録や統計上に尖閣列島とし
ては別個にこ記載されなかったとしても別段に不思議はないのである。しかしながらこう
した記録がまったくないというわけでもなく、古賀辰四郎氏が明治四十二年に列島開拓
の功績に対して藍綬褒章を授与された当時に政府に対して提出された報告書及び授賞
の際の勲記、さらにこの綬賞を記念した翌四十三年一月の「沖縄毎日」の記事(七国連
載)に、古賀氏の事業内容、物産の種類、収益、労働者の渡海状況が詳細にのべられて
いるのである。
 尖閣列島の場合同様な環境、位置におかれた地域と比較したときに、文献の数は決し
て少ないとはいえないであろう。反対に『明報』が引用する中国側の列島関係の文献は、
古文書以外に皆無である。いずれにせよ日本の文献上の不備をいかに指摘しても、そ
れによって尖閣列島の領有権帰属の効果が、台湾に発生するわけのものでない。むしろ
戦後台湾の文献は、列島が台湾の附属諸島であることを否定しているものもある。たと
えば一九六五年の「台湾省地方自治誌要」第五章(行政区域)一二五頁は、明鄭及び清
代の行政区域は、鶏籠島を台湾省の北限としている。同書は、尖閣列島よりもはるかに
台湾に近い花瓶嶼、綿花嶼、彭佳嶼が台湾の行政区域に入ったのは日本行政時代であ
ることをあきらかにするとともに、戦後の台湾省の極北を彭佳嶼(基隆市)の北端としで
いる。同様に一九六八年の「中華民国年鑑」は、台湾省の極北そ彭佳嶼、極東を綿花嶼
としている。
 さらに重要なことは、戦前の大正八年(一九一九年)魚釣島附近で遭難、同島へ避難し
た中国福建省の漁民男女三一人が、古賀善次氏所有の船で救助、石垣島に収容され、
同村で救済看護し、後無事にかれらを帰国させた行為に対して、翌九年五月二〇日、中
華民國領事馮冕氏より、石垣村長外三名に、感謝状が送られているが、この感謝状の
中で中国領事は漁民等の遭難した場所を「日本浦帝国」沖縄県八重山郡「尖閣列島」円
和洋島(筆者注。魚釣島のこと)と明記しているのである。この感謝状は今日でも現存
し、筆者自身もその現物よりコピーをもっている。


 大審院の判例


 列島の台北州管轄を決定したとの大審院判例は事実錯誤である。
『明報』論文は、九月五日付東京発「中国時報」記者常勝君の記事を引用して、日本の
最高裁はある判決の中で釣魚台列島が台北州の管轄であることを確定している、と主張
する。
 これはおそらく那覇在住の中国人陳哲雄氏あたりからの情報のように思えるが、だい
だい尖閣列島の領海内は、戦前戦後を問わず漁業権の設定されているような水域では
なかったことである。このようなところで漁業権をめぐる争いが法的におきる余地はない。
またある記事は一九四四年といったり、陳氏は大正年間といい、常氏は年代をいわず、
他方陳氏は大審院、常民は最高裁といった具合に、年代も一致せず、事件の内容もあき
らりかでなく、具体性がまったくない。戦前の大審院と戦後の最高裁が、あたかも同一の
ものであるかのように扱われている。最高裁にせよ大審院にせよ、最終審であるから、
その前に事件か下級審で審理されたはずである。しかしこれらのことにはまったく触れて
いない。
 おそらくこのような誤解は、馬延英博士が誤解されたと同種のもの、すなわら台北州の
管轄に属し、尖閣列島の一部でない島嶼─花瓶嶼あたりを魚釣島か久場島と錯覚した
ものと思われる。いずれにせよ『明報』の論文等が事件を具体的に指摘していない以上、
論評しえないわけであるが、閣議の正式な決定があり、公文書にも記録されている尖閣
列島の沖縄県所轄が、辺鄙な田舎の下級審ならばともかく、最上訴裁判所が、かかる初
歩的なミスを犯すとは常識で考えられないのである。

  おわりに

 尖閣列島はわが国が国際法上の無主地であったものを、先占によって明治二八年(一
八九五年)日本領土に編入、以来最近にいたるまでいかなる国家からも正式非公式い
ずれの抗議も受けたことはなかった。つまりわが国は国際法における領有権確定の重
要な要件の一つであるいわゆる平穏裡な占有をおこなってきたわけである。したがっても
う一つの重要な要件である継続的な実効的支配を日本が及ばしてきたか、その程度は
いかなるものであったか、さらにそのような実効的支配で国際法上に領有権原を確定し
えたと主張しうるかといった問題が残る。しかしながらこの問題を諭すろことは優にこれ
までに筆をとってきた紙数を上まわることとなるであろうし、また本稿の目的とするところ
でもない。いずれにせよこのような領有権をめぐる国際紛争を解決するにあっては、すべ
ての当時国が、紛争を平和的に解決するという国際法上の原則の上に立って、友好互
譲の精神で問題に処することであろう。なおこの問題については筆者自身すでにいくつ
かの雑誌、新聞で発表しているので、これを参考にして戴ければ幸いである。
 左に参考文献を記しておく。
「尖閣列島―歴史と政治のあいだ」、「日本及び日本人」一九七〇年新春号。「尖閣列島
の法的地位」、季刊「沖縄」五二号、南方同胞援護会、一九七〇年三月。「尖閣列島―そ
の法的地位」、「沖縄タイムス」一九七〇年九月二日―九日。「尖閣列島の領有権問
題」、季刊「沖縄」特集尖閣列島、南方同胞援護会、一九七一年四月。「尖閣列島と日本
の領有権」(尖閣列島研究会)、季刊「沖縄」、特集尖閣列島、南方同胞援護会、一九七
一年四月。
 The Territorial Sovereignty over the Senkaku Islands and Problems on the 
Surrounding Continental Shelf, Japan Annual of International Law, 1970, The 
Japanese Branch of The International Law Association.
























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尖閣列島と領有権帰属問題