尖閣諸島の領有権問題     「参考資料(1) 論文・書籍05」



動かぬ尖閣列島の日本領有権

−井上清論文の「歴史的虚構」をあばく−
  昭和48年「日本及日本人」新春号
                  奥原敏雄(国士舘大学助教授・国際法)

一 序

 井上清氏(京都大学教授・日本史)は、七二年に入って、主として歴史的見地から、尖閣
列島の中国帰属を主張するいくつかの論文を発表しているが、その中でも次の三論文が
代表的なものといえよう。
  その一つは、『釣魚列島(尖閣列島等)の歴史と帰属問題』(「歴史学研究」二月号・第
三八一号)と題するものであり、その二つは『釣魚諸島(尖閣列島など)の歴史とその所
有権(再論)』(「中国研究月報」六月号・第二九二号)と題するものであり、その三つは
『「尖閣列島」−釣魚諸島の史的解明』(現代評論社・十月九日発行)である。
 これらの論文において井上氏は、著者が雑誌「中国」七一年六月号に発表した『尖閣
列島の領有権と「明報」論文』と題する論文ならびにその他のもの(『尖閣列島の領有権
問題』第五一沖縄)第五六号・特集尖閣列島=南方同胞援護会、七一年三月二十五
日)に反論されている。この反論において著者の古文書に対する解釈が問題とされ、いく
つかの前提を付して(この前提については後にのべる)、この解釈を誤りであるとしてい
る。またあらたな古文書を指摘して、歴史的に列島の中国領であったことが証明されたと
主張する。
 だが井上論文を検討した結果、著者の見解を修正する必要がないばかりではなく、ま
すます著者のそれが正しいとの結論に達した。そもそも井上氏と著者とは、古文書の扱
い方が根本的に異なっているわけである。著者の場合古文書から列島に対する中国の
領有意識が証明されたといいうるためには、中国の領有意識が直接的かつ具体的にこ
れらの中で示されていなければならない。そうしてこれは著者の個人的見解ではなく、領
有権問題を扱った多くの国際裁判所の判例によって要求されてきた国際法の原則であ
る。他方、国際法は国家の領有意思だけでは領有権確定にとって不十分であり、少なく
とも国家の現実的具体的な統治権行使を必要とする。ただきわめて例外的なケースにお
いて、国家の領有意識だけで領有権が認められたこともある(一九三一年フランスとメキ
シコとの間で争われたメキシコ沖合のクリッツバートン島事件に関する仲裁判決)。しか
しこの判例においても新たな先占国による統治権行使の事実が存在するときに、これに
対抗しうるものでないことを認めている。(同様な例としては、アメリカとオランダとの間で
争われた「パルマス島事件」事件に対する一九二八年常設国際仲裁裁判所判決があ
る)。
 尖閣列島の場合、わが国による八十年近い平穏かつ継続的な実効的支配の事実が
存するため、今日中国が領有権を主張するのであれば列島に対する領有意識だけでは
不十分である。一八九五年以前においてすでに十分領有権を確定させていたと主張しう
るだけの証拠、すなわち中国による尖閣列島に対する具体的かつ直接的な統治権行使
の事実を証明する証拠が指摘されなければならない。
 右の事実が証明されれば、日本はすでに中国領として国際法上に確定していた尖閣列
島を不法に領土編入していたこととなる。しかもこのような編入行為が日清戦争終結の
直前になされていたという事実から、戦争の勝利に乗じた強奪行為であったといわれて
も仕方がない。この点は井上氏の指摘を待つもでもない。
 結局、問題は一八九五年以前に中国が尖閣列島に対し具体的な統治権を行使してい
たか否かにかかわってくることとなる。ただしわが国は日清戦争の十年以上も前から、
尖閣列島についての領有意識をあきらかにし始めていたし、一八八五年には部分的で
はあったが、これに具体的な統治権を行使していた(出雲丸による尖閣列島の調査)。そ
れ故、中国が尖閣列島の領有権を主張するのであれば、少なくとも当時における日本の
それを上まわるだけの統治権を中国が行使していたという事実を証明しなければならな
い。国際法は領有権について、競争的主張の存するときは、優越的主張をおこないえた
国家に対し領土の帰属を認めているからである。

  「先占」法理の動機と効力を混同した井上諭
しかし井上論文では、中国による統治権行使の事実は一つもあげられていない。したが
って国際法の観点から井上論文を評価する場合には、尖閣列島に対する中国の領有権
を立証することに失敗したものであるという以外に評価を下しえない。
 もっとも、井上氏は尖閣列島の所有権問題に関連して適用される先占の法理自体を無
効であるとする。井上氏が先占の法理を認めない理由は、この法理がヨーロッパ諸国に
よる植民地獲得のために作り出されたものであって、帝国主義の国際法であるというこ
とにあるようである。しかし、これは先占の法理が成立した動機と先占の法理の効力とを
混同したものにほかならない。
 今日国家の多くは大なり小なり先占の法理に依拠しなければ、自国の領有権を主張し
えない領域を有している。また先占の法理によって取得した一定の土地の上に国家が成
立している事例も多数存する。
 たとえば日本が小笠原諸島、北海道、南千島などを日本の領土であると主張しうるの
は、この法理による。台湾、内蒙古、旧満州の一部などに対する中国の領有権主張が認
められるもの、この法理である。またオーストリア、ニュージランド、アメリカ合衆国、カナ
ダなどの国々において自国領域としている陸地および島嶼のすべては、これらの国々が
独立する以前において旧本国が先占によって領域として取得していたものである。もし
先占の法理が無効というのであれば、これらの国々の存在自体が法的に否定されなけ
ればならないことになる。
 しかし現在これらの領域および国家は一般的に有効なものとして国際社会と国際法に
おいて認められており、また多くの場合このような領域および国家は植民地支配地域と
か植民地主義国家と呼ばれてきたわけではない。
 植民地主義とか植民地支配が今日非難されるのは、国家として独立しうるだけの住民
数と民族自決の意思が存在するにもかかわらず第三国がその地域の住民の意識を無
視して、立法、司法、行政上の支配をおこない、しかも支配国の利潤追求の手段としての
み地域住民を扱ってきたことが多かったことによる。
 このようにみてくると、少なくとも広大な土地にごく少数の原住民しか居住しない陸地や
尖閣列島のような無人群島にまで先占の成立動機を持ち出して、領有権の無効を主張
することは、非現実的な思考方法以外の何物でもないことが分かる。まして日本の場合
には無効であって中国がおこなうときは正当であるかのごとき議論は一方的、独断的な
主張にすぎない。


二 井上論文の歴史的虚構性

 井上論文には多くの弱点と歴史的虚構性がある。
 第一に、井上氏によって指摘された古文書のどれ一つも、中国が列島の島嶼に直接か
つ具体的に領有意識を示したことを証明していない。それらのいくつかは、尖閣列島が
当時琉球領でなかったことをいくらか証明しているだけであるにすぎない。その他の古文
書は間接的、推定的な証拠としての性格しか有しない。そうしてこの推定自体が根本的
に誤っている。
 第二は、琉球通行史および明治台湾史についての研究不足から、台湾と花瓶・彰佳嶼
などが自明の中国領であると頭から思い込んでいるし、また尖閣列島に対する琉球人の
知識を完全に過小評価し、列島に対する知識を中国人を介してはじめて琉球人が知りえ
たとか、これらの島々を発見し、命名したのも中国人であったと独断している。
 第三に、このような「思い込み」および「独断」は、尖閣列島を記載した中国の文献と琉
球の文献とを数の上からだけ判断した結果による。
 他方、井上清氏は「歴代宝案」「球陽」「明実録」など琉球、中国の関係古文書、また琉
球通行史に関する研究論文・著書を完全に無視している。それ故、右のような結論(尖
閣列島と琉球との関係に対する誤った評価)をえている。また「台湾府志」(一六九六年)
「続修台湾府志」(一七六五年)「諸羅県志」(一七一七年)「淡水庁志」(一八七一年)
「台湾府嶼図纂要」(清代)などの古文書の検討を怠り、陳侃、郭汝霖の時代(十六世
紀)にすでに台湾、花瓶・彰佳嶼などが自明の中国領であったと誤った断定を下してい
る。

  陳侃使録にみる琉球人と尖閣列島

 それではまず最初に琉球と尖閣列島の関係についてみてみよう。陳侃「使琉球録」(一
五三四年)は、尖閣列島の島々を最も古く記載した文献として重要であるが、「使琉球
録」巻一は次のようにのべている。
 「十一月新進貢船至ル。予等之ヲ聞キ喜ブ。?人海道方ヲ諳ゼズ(よく知らない)切ニ之
ヲ優フ。其ノ来リテ其ノ詳ヲ詢ジ(相談する)得ルコトヲ嘉ブ。翌日又報ズ。琉球国船至
ル。乃チ世子(冊封を受ける琉球王位継承者)長史蔡美ヲ遺シテ来?ス(迎えにきた)。予
等則チ又其ヲ喜ブ。諸貢社(最初に福州へ至った進貢船の人々)に詢ズル(相談する)コ
トナキヲ。(略)
 世子亦?人舟ヲ善ク操セザルコトヲ慮シ(憂慮し)、看針通事(針路士兼通訳)壱員ヲ遺
シ遺シ夷梢(即チ)舟ヲ善ク駕スル(扱いうる)者三十人ヲ率ヒ、代リテ(?人に代って)之ノ
役ヲ為ス。即チ又其ヲ喜ブ。前駆(先導の舟)ノ助ケヲ借リラザルコトヲ。而シテ同舟(同
行の舟で琉球の迎接船のこと)有リ共ニ済ル者矣」
 陳侃使録は井上氏の主張とまったく反対に、中国人の方が尖閣列島の航路に十分な
経験のなかったことを認めている。そうしてこのことは別段不思議ではない。なぜならば、
この航路を中国人が利用するには、琉球へ赴く場合か、さらにこれに続く南路(琉球−薩
摩)を用いて日本へいたるとに以外に考えられないからである。
 ところが尖閣列島と南路を経て日本へいたるルートを中国人が知るようになったのは、
陳侃使録によってであり、鄭舜功も『日本一艦』(桴海図経・巻一、一五五六年)の中でこ
れをあきらかにしている(『使琉球録』において陳侃は従人の中に日本へいたる路程につ
いて知識を有する者のいたことを誌している。鄭舜功自身も日本へ渡るにあたって海上
知識の大部分を寧波などに居住する日本人多数からえたとのべている)。
 次に琉球への往来であるが、洪武五年(一三七二年)中国。(明朝)は行人楊載を琉球
へ派遣した。これより一八六八年までの四百九十六年間中国に冊封使を琉球へ、琉球
は進貢使謝恩使などを中国へそれぞれ赴かせた。
 中国が琉球へ往来するようになったのはこのとき以後であって、これにより前に公的な
かたちで両国が相互に交通をおこなっていたということはなかったようである。他方冊封
使が琉球へ赴いた回数は冊封・進貢関係の全期間を通じて、合計二十三回であった。
(ただし最初の楊載は冊封使でなかったが、この数字の中に含めている。)そうしてこれ
以外に中国が琉球へ公船を派遣したことはほとんどなかった。
 冊封船の二十三回という数字は約五百年間における総数である。これを平均すると二
十一・五年に一回の割合となる。しかもこの平均はいわば算術的な平均であって、実際
には三十年あるいは四十年といった空白期間のあった例も数多くみられた(張学礼・林
鴻年各三十年、徐葆光・周煌各三十七年、李鼎元四十年など)。陳侃のときは最長で前
使董旻との間に実に五十五年の空白があった。これでは?人たちがこの航路を経験する
のは一生に一度か二度ということとなり、とうていこの航路に関する正確な知識をもちう
るはずがなかった。航海の経験が少ない以上、操舟の術に信がおけなかったこともまた
当然であった。
 それでは陳侃は何故琉球人がこの航路を熟知し、操舟の術にも優れていたと記述した
のであろうか。これは中国への琉球船の圧倒的な派遣回数であった。すなわち陳侃まで
に琉球船は二百八十一回中国へ赴いていた。これに安南・シャムなどとの交易船(勘合
符船)が南洋諸地域へ渡っていた回数が加わる(これらの琉球船も帰路尖閣列島を通っ
ていたことはほぼ間違いない)。これが現存する記録からだけでも、九十八回に達してい
る。かくして、陳侃以前に少なくとも合計三百三十二回、琉球船が中国の福州あるいは
南洋諸地域からの帰途、尖閣列島を経由していたと想定しうるのである。

  矛盾する陳侃の領有解釈
ところで陳侃使録によって、冊封船は同乗の琉球人に針路と操舟を完全にまかせながら
琉球へ赴いたことがあきらかである。したがって陳侃が尖閣列島の島々を船上で望見し
えたのも、琉球人が右の諸島嶼を航路目標として針路をとったためであった。さらに陳侃
がこれらの島々を『使琉球録』に残しえたのも、船上の琉球人に島々の名前を質問した
結果によったものと思われる。
 実際に陳侃が船上の琉球人にしばしば質問をおこなっていたことを厳家簡『殊域周咨
録』(巻四・「琉球国の部」一五八二年」はあきらかにしている(尾崎重義『尖閣列島の帰
属について』レファレンス第二六一号参照)。同書によれば陳侃は古米山(久米島)、熱
壁山(伊平屋島)などについて琉球人に質問している。とりわけ久米島に関する陳侃の
質問は重要である。なぜならばこの質問によって久米島が琉球領であったことを陳侃は
知ったからである。(「十一日至夕始見古米山の間知琉球境内」)。このようにみてくるな
らば『使琉球録』において陳侃が「十一日夕見古米山ノ乃属琉球者」と書き残したのも、
右の琉球人に対する質問の結果を使録で留めるためであったとみてよいであろう。
 有人島であり尖閣列島の島々よりはるかに大きい久米島に対する知識ですらこの程度
であったとしたら、陳侃が釣魚嶼(魚釣島)や赤嶼(赤尾嶼)などについて、琉球人からの
知識なしに何かを知っていたなどということはほとんど考えられない。まして井上氏のよう
に陳侃がこれらの島々を中国領であると認識していたため、久米島にいたって「乃属琉
球者」と記していたのであろうといった解釈はまったく成り立ち難いし、後にのべる歴史的
事実とも反している。

   明代における法的地位

 次に明代十六世紀における台湾および花瓶嶼、彰佳嶼などの法的地位であるが、上
述したごとく井上氏はこれらを「まぎれもない」「自明の」中国領であると頭から断定して
いる。しかし台湾の歴史について少しでも知識を有するものであれば、このような断定は
決しておこなわなかったであろう。事実台湾や香港の中国人諸学者の論文、新聞・雑誌
のどの解説において、井上氏と同じような断定をしている者は一人もいない。もし井上氏
の断定が正しければ中国人の論文などにおいて、まず第一番に強調すべき事柄である。
しかしこの問題に中国人があえて触れないのは、当然であってそれなりの理由があって
のことである。
 まず一六九六年(康煕三十五)の清朝公文書である。『台湾府志』(高供乾編。高供乾
は福建分巡台湾廈門道の按察使)をみてみよう。これによると台湾が始めて中国の版図
に編入された年は康煕二十年で、翌二十一年台湾に郡邑(台湾府と台湾・鳳山・諸羅三
県)を置いたとしている。
 「台湾自康煕二十年始入版図」
 「上二十一年特命靖海将軍施公 師率討平之 始入版図置郡邑」
康煕二十年とは一六八一年のことであるが、台湾が中国の版図に編入された正確な年
は康煕二十二年であって『台湾府志』の右の記述は誤りである。一七六五年(乾隆三十
年)の『続修台湾府志』(余文儀?。?者は福建巡撫の兵部侍朗兼都祭院右副御使)で
は、康煕二十二年に改められている。
 「康煕発亥歳(康煕二十二年)地入版図」
 その他の文献もすべて版図編入の年を康煕二十二年としている(台北庁『台北庁誌』
明治三六年および大正八年版参照。なお伊能嘉矩『台湾志』明治二十八年)。
 ところで福建省に隷属することとなった台湾に対する行政上の北限はどこまでであった
か。まず上述の『台湾府志』における「台湾府総図」と「台鳳諸三県澎湖図」ならびに『続
修台湾府志』中の「台湾府総図」および「淡水庁図」であるが、これらの地図ではいずれ
も鶏籠嶼と鶏籠山(現在の社寮島でしばしば大鶏籠嶼と呼ばれている)までしか描かれ
ていない。この中でも「淡水庁図」に詳しく八個の島嶼名を記しているが、大鶏籠嶼だけ
が見えるに過ぎない。
 ただし地図だけでは不十分なこともあるので、十分な証明とはいいがたい。そこで文献
上(すべて当時の公文書)の記載からこの問題をあたってみる必要がある。
 すなわち、一七一七年の『諸羅県志』(周鐘??)巻一の「疆界」は、台湾県(台湾北部)
の北界が大鶏籠山(山は島の意味)であることをあきらかにしている。
 「県治東界大山 西低大海 南海鳳山県西南界 台湾北界大鶏籠山」
 本書は巻一「山川」において、大鶏籠山を説明し、同島が台湾郡邑の租山であり、日本
および西洋の船舶がすべてこの大鶏籠山を針路目標として航行していた事実をあきらか
にしている。
 「大鶏籠山 巍然外界之天半 是台湾郡邑之租山也。往来日本洋船 皆以此山 為指
南」
 一八七一年の『淡水庁志』(陳培桂?)はさらに明白に大鶏籠山が「極北の道の終り」に
あたることを記している。
 「加行五里 至大鶏籠租山 沿海極北之道止」(同書巻一「封域志」の「疆界」)
 同様に清代に発刊されたとされる「台湾府図纂要」(台湾銀行経済学研究室の一九六
三年復刻版による)も大鶏籠山が淡水庁の「極北の区」であり、台湾の租山であるとして
いる。「大鶏籠・・・・・淡庁極北之区 為台租山」(同書「台湾與図表」中の「淡水庁」)
 また戦後(一九五四年)基隆南文献委員会によってまとめられた『基隆市志』もこのこと
を確認している。すなわち同書は一八四〇年(道光二十)の「台湾道姚瑩禀奏台湾十七
国設防状」を引用して、次のようにのべている。
 「大鶏籠淡水極北 転東之境 距淡防庁二百五十五里」
 右の文献から、少なくとも一八七一年以前において尖閣列島の島嶼は勿論のこと、こ
れより台湾に近い綿花嶼、花瓶嶼、彭佳嶼も台湾府の疆界の外にあったことがあきらか
となった。実際に後者の島々が台湾の範囲に行政上含まれるにいたったのは、上述の
「基隆市志」によると一九〇五年(光緒三十一)で、この年轄区の再調整が日本政府に
よっておこなわれ、彭佳嶼外二島が台湾の範囲に含められたと説明されている。かくし
て、日清講和条約が締結せれる以前の台湾省の付属諸島は、台湾北東については、今
日社寮島の名で呼ばれている大鶏籠山までであったと結論することができる。


三 古文書の解釈に対する批判

 (一)陳侃『使琉球録』(上述参照)
 (二)郭汝霖『重刻使琉球録』(一五六二年・嘉靖四十一年)
 井上氏は郭汝霖使録中の「赤嶼者・界琉球地方山也」(赤嶼は琉球地方山を界する山
なり)の「界」を中国と琉球との界であると解しているが、上述したごとく井上氏は右のよう
な解釈をおこなうにあたって台湾および彭佳嶼などがまぎれもなく自明の中国領であった
と前提に立っていた。しかし先にものべたごとくにこのような前提は事実と一致しないこと
があきらかとなった。したがって井上氏の解釈自体成り立ち難いこととなる。
 郭汝霖は陳侃の二十八年後に琉球へ赴いたのであるが、かれの以前に文献としては
陳侃使録しかない。その前使の使録に「久米島が琉球の属する」と書いてある(郭汝霖
使録巻一はこの文言を含めて陳侃使録を転載している)事実を思い出して郭汝霖は別の
表現を用いてまったく同じことを記したのであった。すなわち久米島にいたって陳侃が
「琉球に属する」とのべている以上、赤嶼はまだ琉球領ではないけれども、久米島の手前
にあるからあたかも琉球領を界するかたちになっているという意味である。郭汝霖使録
の文言を読めば赤嶼の次の島(久米島)が琉球領であることは誰にでも分かることであ
る。つまり汝霖が陳侃の使録を意識して、しかも同じ表現を用いることはあまりにも能が
ないと考え、手前の赤嶼との関係でこのことあらためて記録に残そうとしたにすぎないの
である。郭汝霖が赤嶼のところで「琉球と中国とを界する」という表現をとらなかったの
は、井上氏のように「とくにその必要がなければ書かないのが普通である」ということでは
なく、そもそも最初からこのような意味をもたせようと考えていなかったからに他ならな
い。
 (三) 汪楫『使琉球雑録』(一六八三年、康煕二十二年)
 井上氏は汪楫使録・巻五の「神異」における「中外之界」を中国と琉球との界であると
主張する。その場所は久米島から西進して?海に入ろうとするすぐ手前の水域で、距離的
には赤嶼より北東約百二十浬、普通には約一日(十更)のところである。(もっとも汪楫た
ちの往路は非常に順調であったため朝方赤嶼を通過して、夕方にはその場所にいたっ
ている)。勿論海上であり付近の島嶼はまったくない。その水域はしばしば「溝」と呼ばれ
ていたところであるが、汪楫のときに、この水域を「郊」と呼んでいるものがいた。そこで
汪楫が興味にかられて「郊」とはどういう意味かと相手に聞いたところ「中外の界」である
と答えた。さらに汪楫が何をもって「界」とするかと質問したところ(この質問はまったく正
当であって、海上では島嶼以外に国境を識別しうるものはない)、相手は懸揣する(推定
する)だけだが、ここが丁度その所ででたらめをいっているわけではないと、かなり苦しい
云いわけをしている。汪楫の質問はやや意地の悪いものであったが、汪楫にしてみれば
相手を困らせたことに対するいくらかの優越感があったのであろう。この部分をわざわざ
使録に残したのも、おそらく右の理由によったものと思われる。
 他方汪楫はこの議論を決して納得したわけではなく、そのことは「郊」の文字のところで
「溝ともいう」と説明し、また「郊を過ぐ」とは書いているが、議論の相手が主張したような
「界」とか「中外の界」と用いて、「界を過ぐ」とか、「中外の界を過ぐ」と記していたわけで
はない。
 井上氏はさらに周煌「琉球国志略」(一七五六年、乾隆二十一年)にも言及し、汪楫使
録の右の部分を同書巻十六「志餘」に要約している事実をもって、かれが汪楫ともに赤
尾嶼と久米島の間が「中外の界」であると確認し、赤尾嶼以西が中国領であることを、文
字の上でも明記しているとのべ、さらにこの後の四封諸使録がこれに触れていないの
は、周煌の記述に批判や訂正のないかぎり、ここを中外の界としていたことがあきらかで
あったからであるとしている。
 井上氏の論理は大変都合の良いもので、汪楫使録の右の部分を載せているときは、こ
れを重要であるとみなした証拠であるとし、他方これに言及していないときは批判や訂正
がなかったからであるとする。
 だが、周煌はむしろ汪楫使録を訂正したとみるべきものである。まず第一に、汪楫が
「郊を過ぐ」と書いた「郊」を用いず、一般に使われている「溝」を用いて「過溝」(溝をすぐ)
とした。同様に「問郊之義」とせず「問溝之義」としている。さらに周煌使録の巻五は、こ
れを「中外の界」ではなく「?界の界」であると明記している。すなわち周煌は「琉球の周囲
は皆海である、西方の海は黒水溝によって距てられており、黒水溝は?海の界をなしてい
る」(「環島皆海地也 海面西距黒水溝 与?海界」)。また周煌の次の李鼎元使録でも、
黒水溝を「?海の界」と当時呼ばれていたことをあきらかにしている。かくして「溝」は海上
の特色を区別する意味で、「?海の界」と呼ばれていたにすぎなかった。
 (四)林子平『三国通覧図説』(一七八五)
 林子平は、徐葆光の『中山伝信録』(一七一九年)に依拠して「琉球三省并三十六島之
図」を作成したことを本書の「題初」においてあきらかにしている。そうして中山伝信録か
ら釣魚台などが中国領であったことを証明する証拠な何もない。したがってもし釣魚台な
どを中国領と考えて、中国大陸の赤色と同じ色にしたとすれば、それは誤りであったとい
うことになる。他方林子平は右の図の外に三枚の部分図とこれらのすべてを一枚にした
「三国通覧嶼地路程全図」を作成している。これによると、釣魚台のどの島々のほかに小
笠原諸島、カムチャッカ半島も中国大陸と同色の赤色としている。また日本本土と旧満州
が共に緑色であり、同様に台湾と朝鮮とは黄色、蝦夷(北海道)の大部分と琉球とは褐
色である。もしこれらの色をもって領土を識別していたとすれば、林子平は、旧満州を日
本の領土、台湾は朝鮮領、北海道は琉球領(あるいはその反対)と考えていたこととな
る。これがいかにナンセンスなことかは論をまたない。
 なお井上氏もこの色の相違に若干言及し「子平がはっきり日本領とみなしている小笠
原諸島を、日本本土および九州南方の島や伊豆諸島とはちがう色にぬってある。これら
から類推すると、彼は台湾は中国領であっても本土の属島ではないと見て、ちょうど小笠
原島が日本領であっても九州南島などのように本土の属島とはいいがたいので、本土の
色とは別の色にしたのと同じく、台湾をも中国本土やその属島とは別の色にしたのでは
あるまいか」としている。
 しかし台湾は当時すでに福建省に隷属しその一部として扱われていたのであって、本
土の属島であった。また台湾が中国本土の属島でないと仮定しても、台湾よりも中国大
陸から離れ、しかも無人の小島群にすぎない釣魚台などだけは中国本土の属島であっ
たとする解釈は全然論理としてもなり立たない。さらに小笠原諸島が日本本土の属島で
なかったが故に色が異なったとでもいうのであれば、同色の旧満州地方は日本の属領で
あったとでもいうのであろうか。かつて関東軍が聞いたら喜びそうな解釈である。いずれ
にせよ、林子平は日本人でしかも民間の学者であったにすぎない以上、かれの文献自
体は、かりに歴史的観点からにせよ、中国の領土たるを証明する証拠価値を有しないの
である。


四 むすび
 
 井上氏はこの外『籌海図編』巻一の「福建沿海山沙図」をもち出して、この中に釣魚台
などの島々が見出される事実をもって、これらの島々が中国領の島嶼とみなされていた
とする。しかし『籌海図編』を中国の領有権証拠とるにことは、これまでに言及してきたい
ずれの古文書よりもされに劣るといってよいであろう。第一に沿海図といった性格のもの
は、かならずしも自国の領土でなくとも、その付近にあれば記載するものであって、たとえ
ば日本の沿海図であれば、朝鮮半島の南端の一部が含まれることがあるし、台湾省の
沿海図などでも、普通、尖閣列島ばかりでなく、与那国島や、石垣島なども明示される。
今日の地図においてもそうであるから、距離や方向、大きさなどがあまり考慮されない当
時の地図においては、なおさらのことである。第二に「福建沿海総図」では澎湖嶼まで
で、釣魚台などは勿論のこと台湾すら見当たらない(同書四巻の(一))。上述の「治海山
沙図」は「福建界」(七)と(八)において扱われているが、「福建界」(五)でも同様に澎湖
山までで台湾は示されていない。勿論釣魚台などの存在も示されていない。
 次に鄭舜功の『日本一鑑』(一五五六年)であるが、「釣魚嶼 小東小嶼也」の「小東」
が台湾であることが事実であったとしても、すでにあきらにしたように当時台湾はまだ中
国の版図に入っていなかったから、このような文言を法的な意味で釣魚嶼が台湾の属島
であったことを立証しているものとはみなしえない。せいぜいのところ航海者の体験が地
理的理由をのべたものにすぎない。
 なお井上氏は「台湾は古くからの中国領土であり、明朝の行政管轄では、福建省の管
内に澎湖島巡検司が台湾をも管轄することになっていた、その台湾の付属の小島が釣
魚嶼であると鄭舜功は明記しているのである」と述べている。しかし澎湖の巡検司が台
湾を管轄下においていたことはなく(もしこれが事実であれば、『台湾府志』などが「一八
六三年に初めて版図に入った」と書く必要はなかったのである)、また巡検司の制度自体
は一三八八年にすでに廃止され、島民すべてを福建省の?泉二府の間に強制移住させ
ていたのである。当時台湾には北部と南部の一部に倭冦その他の海冦が出入りしてい
た程度であって、一般の中国人はいまだ移住するにいたっていなかった。したがって巡
検司を台湾へ派遣し住民を保護するという必要もなかったのである。他方鄭舜功自身
は、台湾が澎湖の巡検司の下におかれていたなどと一言ものべていない。これは台湾の
歴史学者万豪の主張であって、しかも文献上の裏付けもなく一方的にのべているにすぎ
ない。
 なお、この外若干の諸点が残されているが紙数の関係上割愛した。




以上は、奥原敏雄(国士舘大学教授・国際法)「動かぬ尖閣列島の日本領有権」−井上
清論文の「歴史的虚構」をあばく−(昭和48年「日本及日本人」新春号)を書き写したも
のであります。 書写:金涌、校正:馬場です。誤字や脱字が当然ある思っています。この
責任は全て管理者にあります。お気づきの誤字脱字等の間違いについては、宜しければ
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尖閣列島の領有権