尖閣諸島の領有権問題


尖閣列島と領有権問題



隔週刊紙「サンデーおきなわ」昭和47年7月8日

尖閣列島と領有権問題@

「日本の領土」を認知
石油資源問題で態度一変

紛争以前における中国と台湾の見解

中国、琉球群島に含める

 サンフランシスコ平和条約の発効した(一九五二年四月二八日)約八ヵ月後の一九五
三年一月八日、中国(中華人民共和国)の人民日報は「琉球群島人民の米国占領反対
闘争」と題する重要な論説記事を掲載した。この記事は、日本人民の独立と反米帝反軍
事基地闘争を支持したものであるが、その冒頭で琉球群島を定義している。それによれ
ば、琉球群島は中国の台湾の東北から、日本の九州西南の海上に散在する七組の島
嶼(とうしょ)から成るとされているが、その中に尖閣諸島を明示的に含めている。
  「琉球群島散■在我国台湾東北和日本九州島西南之間的海面上、包括尖閣諸島、先
島諸島、大東諸島、沖縄諸島、大島諸島、土喝喇諸島、大隅諸島等七組島嶼、総計共
有五十個以上有名称的島嶼和四〇〇多個無名小島全部陸地面積為四千六百七十平
方公理」
この人民日報記事が掲載された五年後の一九五八年一一月、北京の地図出版社編集
部の作成した地図(日本の部)においても尖閣列島はあきらかに日本の領土の一部とし
て示されている。この地図では、魚釣島と赤尾嶼だけが名称(いずれも原文通り)を付さ
れており、また全体として尖閣群島という名前が用いられている。

台湾も同様日本国名で

 さらに台湾国立政治大学の客員教授丘宏達氏によって一九七二年明報三月号(香港
中立系)誌上の論文「日本の釣魚台列嶼に対する主権問題の論拠の分析」で指摘され
たところにしたがえば、一九六四年に中国大陸で出版された「中華人民共和国分省地
図」は、台湾省の最北端を彭佳嶼(筆者注=尖閣列島よりも一五〇`も台湾に近い島
嶼)と明記しているとのことである。
 台湾省の北限を彭佳嶼と記している点では、台湾(中華民国)の文献も同様である。た
とえば、一九六五年一一月一二日、台湾省政府によって印刷出版された「台湾省地方自
治誌要」において台湾省の極北を彭佳嶼の北端としている。また、一九六八年一〇月の
中華民国年鑑も同様に極北を彭佳嶼、極東を■花嶼と記している。一九六一年の台湾
五市一六県詳図ではその彭佳嶼も見当たらない。
 さらに一九六五年一〇月に出版された台湾の国防研究院と中国の地学研究所による
世界地図集第一冊(東亜諸国)において、尖閣列島は「尖閣■島」という名称を与えら
れ、個々の島嶼名も付されている。そうして最近中国によって呼称されている釣魚台は
日本名の魚釣島と記され、わざわざ和音をローマ字でつづっている。赤尾嶼はそれぞれ
カッコの中で日本名である久場島、大正島を併記し、黄尾嶼と赤尾嶼も和音で読めるよう
にローマナイズしている。北小島、南小島という名称にはローマ字のつづりを付していな
いが、いずれもわが国で付された名称である。尖閣■島もまたSENKAKU GUNTOと
正確に和音をつづっている。その他、一九七〇年の中華民国国民中学校地理科教科書
においても、尖閣列島(原図では尖閣■島)は、あきらかに「大琉球■島」の一部とされ、
魚釣島、北小島、南小島といった和名を付している。

71年から自国領を主張

このように中国および台湾における戦後の文献(公文書を含む)地図で、少なくとも一九
七〇年までのものは、尖閣列島を明らかに日本領もしくは琉球群島の一部(中華民国は
琉球群島全体を公式には中国領であると主張しているので、同群島に尖閣列島を含め
る場合でも、日本領であることを明示していない。中国の場合、琉球群島は、さきの人民
日報記事および一九五八年の北京出版地図でもあきらかなように、日本の領土であると
している)であると認めている。反対に、この時期の中国および台湾の文献および地図に
おいて、積極的に尖閣列島を中国領であるとしたものは、今のところ見当たらない。
尖閣列島を中国領としてあつかったり、文献あるいは地図などにおいて中国領として明
示するようになったのは、一九七一年にはいってからのことである。すなわち、この年の
一月中華民国は、これまでの国民中学地理教科書を改訂し、尖閣列島を台湾省の一部
としてあつかうとともに、列島名を釣魚台列島と改称し、またこれまでの魚釣島、北小島、
南小島を釣魚台、北小礁、南小礁と改名した。
さらに今年の二月一〇日、台湾の■■県庁は行政院によって尖閣列島が同県の管轄に
属すべく決定された旨の通知を受領したと公表(二月一一日中央日報)するとともに、二
月一日付の「教二字第一四二四〇号」の公文書をもって台湾省政府教育庁が、各県、市
政府、各種学校に通達了承せしめたことをあきらかにした。
これまで明らかに尖閣列島の日本領、あるいは琉球群島の一部であることを認めてきた
中国と台湾が、一転して自国の領有権を主張するに至った背景は何か。それはいうまで
もなく東支那海大陸棚の石油資源問題である。







隔週刊紙「サンデーおきなわ」昭和47年7月15日
尖閣列島と領有権問題A

石油資源の可能性
エカフェの調査結果で判明

領有権紛争の発端

一九六九年に大規模調査

 一九六九年五月、国際連合アジア極東経済委員会(エカフェ)は沿海鉱物資源共同調
査団(CCOP)の調査結果をあきらかにした。同調査は、前年一〇月一二日から一一月
二九日まで、黄海及び東支那海大陸棚を中心にしておこなわれたものであった。
 エカフェによってあきらかにされた調査報告の内容は、ほぼ、次のようなものであった。
 東支那海海底の地球物理学的調査は、一九六八年一〇月一二日より同年一一月二
九日の間、R/V F・V・HUNT(筆者注=米海軍海洋調査船F・V・ハント号、八五〇d)
によりおこなわれた。この調査には、エカフェのアジア沿海鉱物資源共同調査団として、
中華民国、大韓民国、日本及びアメリカ合衆国の科学者が参加したが、その調査海域
は、米国ならばテキサス、オクラホマ、ニューメキシコ州をあわせたものか、アジアならば
ベトナム、ラオス、カンボジア、タイ国などをあわせた広さに相当した。
 沖合鉱物資源(主として石油及び天然ガス)開発にとって、地球物理学的調査の結果
は重要である。今回の調査の結果、この海底にはほとんど平行して発達した一連の海底
隆起地形があって、そのそれぞれが広大な支那大陸から揚子江、黄河などの流れによ
り運ばれてきた堆積物にとって、えん堤(ダム)の役割を演じて堆積がおこなわれてきた
ように思われる。
 このうち最北の隆起は、山東半島に沿う前カムブリア紀の変成岩と火成岩である。黄河
によって勃海湾に運ばれたものは、この隆起部でつかまった。次の隆起は、黄河を通過
する前カムブリア紀から中世代に至る地層で構成される地塊である。この地塊により少
なくとも二百万立方`の堆積物がたまり、これは主として新第三紀層に属する。次の海
洋側の隆起は、火成岩および皺曲(しゅうきょく)している水成岩よりなり、台湾と日本とを
結ぶ大陸棚の縁辺に沿うもので、いわゆる“台湾一■道皺曲帯”に相当する。陸側にあ
る堆積物は百万立方`、これが新第三紀層に考えられるいわゆるスパーカー(海上地震
探査方法の一方式)の連続記録による特徴、島嶼の露頭陸上および海底からの採取岩
石の特徴によるものである。


堆積物の厚さは九`も

 大陸棚を離れると琉球隆起がある。琉球隆起は古生代、火成岩および皺曲した新第三
紀の地層よりなり、沖縄海淵中の堆積帯のえん堤を形成している。
 琉球隆起の東側の斜面中途に琉球隆起に同一源の構成と考えられる小隆起があり、
これによって一連の数千bの深さの広い深海段丘面を形成している堆積帯がある。この
面は土佐深海段丘として知られているものの一部分と考えられる。最後に、琉球隆起の
斜面の基部は琉球海溝であり、ここには零bから数百bの堆積物があるにすぎない。
 大陸棚の下底と黄海下にある堆積物には、石油及び天然ガスの保留されている可能
性が大きい。台湾島の広さに数倍する広い地域が台湾の北方に広がり、そこでの堆積
物の厚さは二`b以上に達していることが明らかであるが、恐らく台湾で知られている
九`の厚さにも達するかも知れない。そしてこの堆積物は新第三紀層に属すると考えら
れるが、台湾ではこの地層から石油を産出している。ここでも背斜軸、断層などが調査中
にこの堆積中で認められている。地震反射波の特徴からみて、この堆積物は■岩ばかり
でなく、砂岩を含んでいる。
 台湾と日本との間に横たわる浅海底は、将来一つの世界的産油地域となるであろうと
期待される。しかし、改めて詳細な地震探査が必要である。最後に沖合鑿井(さくせい)
により最終的な試掘が望まれる。


日本と台湾の動き活発に

 このエカフェ調査報告が公表される前後ころから沿岸各国、とりわけ日本と台湾の動き
が活発となってきた。わが国においては、同年五月三〇日から七月一八日にかけて、第
一次学術調査団(新野弘団長)を尖閣列島周辺海域に派遣、次いで翌年五月二五日か
ら六月二七日にかけて、同水域での第二次学術調査をおこなった。
 他方、台湾においては尖閣列島に対する領有権に対する関心が急速に高まっていた。
エカフェ調査の公表される前月(四月)二一日、中国時報は「海底宝■採掘/石油の争
い」と題する胡■■記者の署名入り記事を掲載した。この記事はエカフェ調査船の調査
のいきさつを述べるとともに、尖閣列島の領有権に関心を寄せ、次のように述べている。
 わが国大陸棚の近くにあるいわゆる「尖閣諸島は」、事実上数個の海中無人島で、付
近航行の軍艦の標的に利用されることもあり、また日ごろは各国漁船の休み場ともなっ
ている。したがってこのような琉球近海に散在する取るに足らない無人島の宗主権は確
定的ではない。聞くところによれば、琉球鉱業界の東支那海大陸棚海底資源の開発に
対する積極さの程度はすでに興味の範囲を超えている模様であるが、管理面における
帰属権についていかにして適当な理由を見つけ出すことができるかは疑問である。






隔週刊紙「サンデーおきなわ」昭和47年7月22日
尖閣列島と領有権問題B

「大陸ダナの一部」
国府が「国土の延長」を主張

紛争の経緯@

“国際法上の無主地

 前回引用した中国時報の記事は、かならずしも尖閣列島に対する台湾の領有権を主
張したものではなかった。むしろ、この記事の中で胡■■記者の提起した問題は、尖閣
列島が国際法上の無主地ではないかといった疑問であった。そうして、このことは「琉球
近海に散在する取るに足らない無人島の宗主権は確定的でない」とか「琉球鉱業界が
管理面における帰属権について如何にして適当な理由を見つけ出すことができるかは疑
問である」とのべているところからも推測することができる。
 しかし、たとえ中国時報の記事が尖閣列島の台湾領有権を直接的に主張していないま
でも、戦後台湾(同様に中国も)の文献や地図などにおいて、明示的に琉球諸島の一部
として認められてきた尖閣列島の同諸島への帰属に疑念を表明したことは、その後の同
列島をめぐる台湾側の領有権問題に対する姿勢を示唆したものとして重要である。
 このように、尖閣列島の領有権に対する台湾側の関心は、エカフェの調査結果を待た
ず微妙なものがあったが、しかし尖閣列島の台湾領有を直接かつ明示的に主張すると
いった動きは、それから約一年三ヵ月を経過している。

日本の領有権を否定

 尖閣列島の台湾領有を明示的に主張したおそらく最初のものは、一九七〇年八月二
三日の華僑日報であると思われるが、同列島の台湾領有に対する明示的主張とともに、
あるいは若干それ以前から、尖閣列島の台湾領有を間接的に主張するという動きも活
発になっていた。
 その第一は、同年八月一六日の国府監察院動■にみられる日本の尖閣列島に対する
領有権主張を非難する理由としてあげられたものであった。それによれば、日本はポツ
ダム宣言およびサンフランシスコ平和条約によって、かつての海外領土要求を禁じられ
ている、というものであった。
 その第二は、同年八月一六日の中国時報常勝君記事および同八月一九日の民族晩
報楊尚強記事にみられる、尖閣列島を大陸棚の一部とみなす主張である。この主張を要
約すれば、尖閣列島およびその周辺の大陸棚は国府陸地の自然の延長部分であり、そ
うして大陸棚に対する沿岸国の主権は観念上の占有または公告明示などの手段をもっ
てその要件となすものではないから、国府によって同列島が占有されていないとしても、
同国が尖閣列島に対し主権を行使することを妨げない、というものであった。

大陸棚条約を根拠に

 尖閣列島のような海面に突出した礁嶼や小礁が大陸棚の一部であるにすぎないとする
主張は、さきの民族晩報記事の出た翌日(八月二〇日)の国府立法院における大陸棚
条約批准に際して、同条約第六条一項および二項の留保についての補充説明でもあき
らかにされた。もっとも、このときの補充説明においては、大陸棚の一部にすぎないよう
な礁嶼が大陸棚自体の権利を主張しえないというものであって、大陸棚の一部であるが
故に尖閣列島に対する領土主権も国府に帰属すると主張していたわけではなかった。し
かしながら、国際法上の島嶼の要件を無視して、尖閣列島を大陸棚の一部であるとみな
したこと自体、間接的に同列島に対するわが国の領有権を否定していたということはでき
よう。大陸棚条約を国府が批准して以後、台湾内部において急速に尖閣列島の自国領
有を主張する動きが高まっただけでなく、同条約批准二週間後の九月四日には、魏道明
外交部長(外相)自身が立法院の秘密会で、同列島の国府帰属を証言するに至った経
緯をみても、大陸棚条約批准に際してなされた立法院での尖閣列島大陸棚一部論が結
果として大きな役割を果したことは否定できない。

愛知外相発言で硬化

 大陸棚条約批准以後における台湾内部での尖閣列島領有を支持する動きは、さきの
華僑日報(八月二三日)に続いて、国民大会代表全国連誼会決議(八月二七日)、基隆
漁業組合(理事長謝石角)決議(八月二九日)、基隆市長蘇■良談話(八月二九日)、宣
蘭県議会決議(九月二日)、監察院外交委員会による研究小組の組織と政府宛決議(九
月八日)、澎湖県議会決議(九月九日)、台湾全国工商団および台湾区工鉱輸出業公会
合同決議(九月一二日)、谷正■談話(九月一二日)、中国青年党中央執行委員会声明
(九月一七日)、■■■行政院長(兼副総統)立法院施政報告(九月二五日)、台湾省議
会決議(九月三〇日)等全国的な規模で展開するに至った。
 尖閣列島の領有権帰属をめぐって台湾の世論を硬化させた今一つのものは、同年八
月一〇日参議院沖縄及び北方問題特別委員会における、いわゆる愛知外相の発言で
あった。同特別委員会での愛知外相の発言は、国府が七月一七日、ガルフ社に対し、尖
閣列島周辺を含む東支那海大陸棚の探査権を与えたことに関連してあきらかにされた









隔週刊紙「サンデーおきなわ」昭和47年7月29日
尖閣列島と領有権問題C

国府が一方的措置
ガルフ社と石油探査契約

領有権紛争の経緯A

事実上日本の領有を否定

 一九七〇年七月一七日、国府は中国石油公司(PCP)とパシフィック・ガルフ社との間
に結ばれる予定となっていた石油探査契約を承認した。この契約にもとづいて、ガルフ社
は北緯二五度から二七度の間、及び東経一二一度から一二五度の間の東支那海海域
の大陸棚に対する石油探査権を得た。そうして、この海域内に尖閣列島も位置してい
た。もっとも、ガルフ社とPCPとの契約によれば、この海域内に存在するすべての島につ
いて、その沿岸三カイは鉱区外とされていた。したがって、尖閣列島の領海三カイ以内
は、形式的にはガルフ社の探査範囲から除外されていた。
 そこで、同年八月三日の経済日報(台湾)のごとく、中国石油公司とパシフィック・ガル
フ社との試掘契約は日本の鉱区を侵害していないので、日本政府はこれに干渉する権
利はない、といった主張もでてきた。この場合に経済日報が「日本の鉱区を侵害していな
い」としているのは、おそらく尖閣列島の領海三カイ以内をガルフ社との契約で鉱区外と
している事実を指摘しているものと思われる。
 だが、このような主張は、同列島の日本領有を認めているとしても、尖閣列島の存在を
根拠に日本がその隣接大陸棚に対し開発のための主権的権利を主張しえない、と論じ
ているに等しかった。なぜならば、国際法上にいう大陸棚とは、領海の外にある海底の
区域の海床及び地下(上部水域の水深が二〇〇bまでのもの、またはその限度をこえ
る場合には、上部水域の水深が海底の区域の天然資源の開発を可能とするところまで)
であって、領海内のそれではないからである。

台湾の漁民は操業を継続

 上述したごとく経済日報は、尖閣列島に対するわが国の領有権を認めた上で以上のこ
とを論じているようにみえるが、少なくともガルフ社と中国石油公司との契約内容からみ
るかぎり、同列島に対する日本の領有権を認めた上でその周辺三カイを鉱区外としたも
のであるか否かはあきらかでない。なぜならば、この契約では尖閣列島のみならず台湾
の基隆市に行政的に所属している綿花嶼、花瓶嶼、彭佳嶼といった島々の周辺三カイ以
内も、同様に鉱区の外においていたからである。
 同年八月一〇日、参議院沖縄及び北方問題特別委員会で、この問題に関連して愛知
外相は、尖閣列島がわが国の南西諸島の一部であること、また国府が東支那海大陸棚
に対してとったような一方的措置は国際法上無効である、との見解を表明した。愛知外
相の発言は、わが国の立場からすれば当然でもあり、またこれを正当づける十分な理由
を有していた。
 しかし、尖閣列島が戦後種々の理由によって無人列島と化していたこと、そのため一九
五〇年代の末ごろから、台湾漁民による列島周辺での不法操業が次第に増加するに至
ったが、米民政府がこれら領海侵犯行為を事実上放置してきたこともあって、台湾漁民
自身は単純な無人島であると考えて、不法意識をもたないままに操業を継続し、そのか
ぎりにおいて彼らにとって重要な生活の場となっていた。
 加えて一九五五年の魚釣島領海内での銃撃事件(第三清徳丸事件。この事件で三人
の乗組員が行方不明となった)と、久場島が米軍の射■場に指定され(一九五五年以前
から使用されていた)永久立入禁止区域となっていたこともあって、沖縄漁民の列島付
近での操業は、五〇年代の後半から急激に減少していた。そのため五〇年代の末ごろ
から列島海域に出入するようになった台湾漁民などは、事実上彼らの漁場として行動す
ることを可能としてきた。

謝石角発言の波紋広がる

 このような事情もあったためか、愛知外相の参議院沖縄及び北方問題特別委員会に
おける発言は、尖閣列島付近で操業をおこなってきた宜蘭県■■地方の漁業関係者に
大きなショックを与えるとともに、将来の列島での操業も不可能になるのではないかとい
った不安が彼らの間で急速に高まっていった。
 このような時期に、たまたま謝石角基隆漁業組合理事長が、中央日報(八月三〇日)
紙上で、一九四四年の日本の最高裁の判決において釣魚台列島を台北州の管轄に属
すると決定したことがあると発言したため、尖閣列島を自国領とする主張が漁業関係者
の間で急激に高まっていた。謝石角発言は、その後漁業関係者ばかりでなく、香港・台
湾のほとんどの新聞・雑誌が、その信憑(しんぴょう)性を確かめることなく、客観的な証
拠であるかのごとく扱ってきたため、台湾の世論及び在外華僑の間にも非常な影響力を
与えてきた(もっともごく最近になって丘宏達台湾国立政治大学客員教授によって、これ
の誤りなることが指摘されて以来、謝石角発言を引用する傾向も弱まっているようであ
る。しかし、わが国においては、尖閣列島の中国領であることを主張する人々の一部の
間でまだこれが有力な証拠の一つであるとして用いられているようである)。














隔週刊紙「サンデーおきなわ」昭和47年8月5日
尖閣列島と領有権問題D

正当性論証しえず
日中台三国の領有権主張

紛争の経緯B

中国も領有主張始める

 国府立法院秘密会における魏道明外交部長証言(尖閣列島の国府帰属を主張)から
三ヵ月後の十二月四日(一九七〇年)、北京放送は「日本が釣魚島などの島々を含む中
国に属する一部の島と海峡を日本の版図に入れようと企図している」との報道を、新華
社通信の情報として伝えた。さらに同月二十九日付人民日報もまた同紙評論員の評論
というかたちで「釣魚島、黄尾嶼、赤尾嶼、南小島、北小島などの島々が台湾と同じく古く
から中国の領土である」点を指摘した。
 新華社報道および人民日報評論は、中国が非公式にではあるが、はじめて列島の領
有権を主張するようになったことをあきらかにしている点で重要である。またこれらの報
道は、在米中国人留学生などによる釣魚台保衛運動(人民日報評論が発表された一ヵ
月後の一九七一年一月二十九日、学生などによる最初のデモがロサンゼルスでおこな
われ、以後全米各地、および香港などにまで拡大されていった)にも、非常な影響を与え
た。
 もっとも、新華社報道および人民日報評論は、その主張の力点を、その前月(十一月)
十二日ソウルで開かれた日韓華連絡委員会によって決議された東支那海大陸棚の共
同開発を非難し、かつこれを阻止することにおいていたためもあってか、尖閣列島の領
有権についての主張そのものは、抽象的であり、また一般的な用語で言及していたにす
ぎなかった。

沖縄返還署名で活発化

 中国が直接尖閣列島を対象として、しかもある程度の具体的な根拠を提示してその領
有権を主張するにいたるのは、まだそれから一年後のことであった。すなわち一九七一
年十二月三十日、中国は外交部声明を発し、やや具体性に欠けてはいたけれども、若
干古文書の存在などを指摘して尖閣列島の領有権を主張した。
 この外交部声明が発表されるまでの約一年間、中国は主として日本の領有権主張の
根拠を批判するというかたちで、自国の領有権主張を間接的に立証しようとする態度をと
っていたように思われる。
 日本の領有権主張の根拠に対する人民日報などの批判は、米国が沖縄返還協定の
返還区域に尖閣列島を含めることをあきらかにしたころ(同年四月十二日)から、沖縄返
還協定が日米の間で署名された日(同年六月十七日)の前後にかけて、とくに活発であ
った。
 この点はまた台湾も同様であった。国府外交部は、すでに同年二月中旬在台北日本
大使館を通じて、釣魚台列嶼が国府に帰属すべきであることを公文書をもって日本政府
に通達していたが、沖縄返還協定の署名される六日前の六月十一日、同外交部は声明
を発し「釣魚台列嶼が歴史上、地理上、使用上、法理上の理由に基づき中華民国の領土
であり、したがって同列嶼に対する米国の管理が終結したときは、中華民国に返還され
るべきである」と主張した。国府外交部はまた尖閣列島が沖縄返還協定の中に含まれる
べく決定した前後二回(四月十日および四月二十日)にわたってスポークスマン談話の
かたちで、同様の態度をあきらかにしている。

三つどもえの国際紛争

 かくして台湾との関係では、一九七一年二月中旬(正確な日付不明)の国府公文書お
よび同年六月十一日の国府外交部声明によって、尖閣列島をめぐる領有権紛争は、日
本との間で正式な国際紛争となった。
 また中国との関係では、日本は目下のところ同国と外交関係を有していないけれども、
同様に一九七一年十二月三十日の中国外交部声明以後、両国間に事実上の国際紛争
が発生しているといえよう。
 このように尖閣列島の領有権帰属をめぐる対立は、現在、日本と中国および台湾との
間で、公式あるいは事実上の国際紛争となるにいたっているが、すでに述べてきたごと
く、中国と台湾が列島の領有権を主張する公式の理由あるいは根拠といったものは、未
だ十分にあきらかでない。この点は日本についても同様であり、今年三月八日の外務省
公式見解もまたわが国の主張すべき根拠のアウトラインを示しているにすぎない。

かなり詳細な論議展開

 もっとも、非公式および民間レベルでおこなわれている日中台三国(ここでは便宜上に
三国として扱う)の領有権主張は、各々の根拠を示しながらかなり詳細に論じられてきて
いる。
 すなわち、台湾の領有権主張を理論づけたものとしては、中国文化学院琉球研究所長
である■■■氏の論文と、すでに紹介した台湾国立政治大学客員教授(兼台湾大学政
治学研究所兼任教授)である丘宏達氏の論文が代表的なものである。
 中国の領有権主張を理論づけたものとしては、香港「七〇年代社」が出版した「釣魚台
事件真相」に掲載されている「国際法からみて釣魚台の主権は誰に属するか」と題する
論文および歴史学研究二月号(一九七二年)と中国研究所月報六月号(同)に掲載され
た升上清氏(京都大学教授・日本史)の論文が、代表的なものである。
 そこで、次回以後四回にわたってこの諸論文を中心に尖閣列島の中国領有を主張す
る論者(台湾領有論も含む)の論拠をあきらかにしていくこととする。








隔週刊紙「サンデーおきなわ」昭和××年×月×日
尖閣列島と領有権問題E

古文書引用し説明
中―琉間海上航路の指標

中国領有論の論拠@

楊仲揆論文 本論文「尖閣群島問題」は中央日報一九七〇年八月二十二日、二十三日
の二回に分けて掲載されたものであり、中国領有論を主張する論文としてはおそらく最
初のものである。

赤嶼は琉球とを界する山

楊仲揆氏によって尖閣列島の中国領有を証明するものとして示された資料は、陳侃「使
琉球録」(一五三四年)、郭汝■使録(一五六一年)、向象賢(羽地朝秀)「中山世鑑」(一
六五〇年)、程順則(名護寵文)「指南広義」(一七〇八年)、林子平「三国通覧図説琉球
国部分図」である。
 楊氏は、冊封使録である陳侃使録と琉球側の古文書である中山世鑑および指南広義
から、尖閣列島が中国領であったことは側面的に証明されているとする。また楊氏は、
郭汝■使録(冊封使録)中の「赤嶼は琉球地方とを界する山なり」の文言は、赤嶼が中
国と琉球との接する山という意味であると解釈する。さらに三国通覧図説の琉球国部分
図を検討して、楊仲揆氏は尖閣列島が琉球に属さないことが側面的に説明されている、
とのべている。
 この点は今後の論文を検討する上で重要であるから、以下楊仲揆論文のこの部分を
抄訳紹介しておくこととする。

宮古、八重山は琉球だが

 『尖閣列島の中の釣魚島、黄尾嶼、赤尾嶼は、わが明清両朝の琉球諸天子に対する
冊封の記載にはじめて見出される。中国の琉球冊封は明の洪武元年にはじまるが、完
全な記録として保存されているのは、嘉靖一三年の陳侃からである。陳侃の「使琉球録」
によれば、この年五月「一〇日、南風は強く、船は飛ぶごとく走る。しかも海流に沿って下
るのであまりゆれない。平嘉山を過ぎ、釣魚嶼を過ぎ、黄尾嶼(筆者注、黄毛嶼の誤り)
を過ぎ、赤嶼を過ぐ。目接する暇なし。……一昼夜で三日分の航程を走った。夷国の船
は帆が小さく、追いついてくることができず、後に見失った。一一日夕、古米山がみえた。
これすなわち―琉球に属する―ものなり」(仲■琉球親日正史之一「中山世鑑」は、陳侃
使録のこの数段を掲載している)。
 次に嘉靖四一年、郭汝■が琉球に使した際に、次のように記している。「五月二九日、
梅花にいたって海が開ける。……三〇日黄茅をすぎ、閏五月一日釣魚嶼をすぎ、三日赤
嶼にいたる。赤嶼は琉球地方とを界する山なり……」
 たいてい冊封使は福州から出発し、まず基隆を目標(すなわち■■山)として、その後
東に向い、順次彭家山(平嘉山、彭佳山)、花瓶嶼、釣魚嶼、黄尾嶼など、いわゆる尖閣
列島地区を通った。
 また清初の琉球籍の華商学者程順則氏は、?(福建)琉球双方の老年の船乗りを訪問
して談合したところにもとづき「指南広義」を著しているが、その中で「福州から琉球へ行
くには、?安鎮より五虎門を出で、東沙の外側で海岸に向って走る。単辰(南東)針あるい
は乙辰(東南東)針を用いて一〇更進み、■■頭、花弁嶼、彭家山を目印にとる。■■頭
山を山の北側よりみて、それがみえれば船はここを通過させる。以下の諸山も皆同じで
ある。乙卯(東南東)針並に単卯(東)針を用いて一〇更進み、釣魚台を目印にとる。単
卯(東)針を用いて四更進み、黄尾嶼を目印にとる。寅(東北東)あるいは卯(東)針を用
いて一〇更または一一更進め、赤尾嶼を目印にとる。乙卯(東南東)針を用いて六更進
み姑米山―琉球南西側の境界の山―であるを目印にとる」。
 日本の天明五年、清の乾隆五〇年、林子平は「三国通覧図説琉球国部分図」を描き、
宮古、八重山、釣魚台、黄尾山、赤尾山などをくわしく加え、とりわけ宮古、八重山の二ヵ
処は支配権が琉球に属すると説明しているが、側面の説明では、釣魚台などは琉球に
属さないとしている。
 以上のべたことおよびその他の中日学者の研究資料から、われわれは次の三点を理
解するであろう。
 一、いわゆる尖閣列島は、古来から中国、琉球間の海上航路の標識となっており、もっ
ともはやくは中国の史籍にみえる。
二、中国の天子の記載と清初の琉球学術著作(指南広義)は、すべて前後してあるいは
側面から釣魚島などの島々はもともとわが国の所有であることを指南ないし説明してい
る。したがって諸家は姑米山が琉球の境界と説明し、郭汝■が「赤嶼は琉球地方とを界
する山なり」とのべているのは、赤嶼がわが方と琉球の接する山という意味である(三は
略)。』

海図に釣魚台列嶼記載

 楊仲揆はその後「文芸復興」一九七〇年六月号と同誌一九七一年一〇月号に、それ
ぞれ「琉球日本史籍所見釣魚台列嶼」「従史地背景看釣魚台列島」と題する論文を発表
しているが、前者は右の中央日報掲載論文に新しいものを付け加えていない。
 後者の論文においてはさらに■■年間(一四五六年―一五六七年)の海図及び「■■
■雑■」の中に釣魚台列嶼が見出されることを指摘している。






隔週刊紙「サンデーおきなわ」昭和××年×月×日
尖閣列島と領有権問題F
尖閣列島と領有権問題F

古図の色分け同一
地図に見る中国と釣魚台

中国領有権の論拠A

井上清論文 井上清氏(京都大学教授・日本史)は、今年にはいって、主として歴史的見
地から、尖閣列島の中国帰属を主張するいくつかの論文を発表しておられるが、その中
でも次の二つの論文が代表的なものといえよう。

「中山世鑑」にも言及

 その一つは「釣魚列島(尖閣列島等)の歴史と帰属問題」と題する「歴史学研究」二月
号(第三八一号)の論文であり、いま一つは「釣魚諸島(尖閣列島など)の歴史とその領
有権(再論)」と題する「中国研究月報」六月号(第二九二号)に載った論文である。
 井上論文は、前回に紹介した楊仲揆論文において援用されている陳侃及び郭汝■の
使録(冊封使録)、向象賢の「中山世鑑」、程順則の「指南広義」、林子平の「三国通覧図
説」にも言及するとともに、さらに■■の「使琉球雑録」(一六八二年)、周煌の「琉球国
志略」(一七五六年)、井上氏によって胡宗■■■とされている「■海図編」(一五六二
年)、鄭舜功の「日本一鑑」(一五六五年ころ)などにも触れている(琉球国志略と■海図
編は中国研究月報所蔵の論文中に、また日本一鑑は同上論文のあとがきの部分で、雑
誌「学粋」(台湾)第一四巻第二期における論文中の史料の紹介として、指摘している)。
 井上論文の特徴は、以下の諸点に要約しうるといえよう。

「界」は中国とを界する

 まず第一に、郭汝■使録中の「赤嶼ハ琉球地方ヲ界スル山也」の部分の解釈である。
この部分の解釈にあたって井上氏は、一定の前提を付している。すなわち冊封使たちは
「まぎれもなく中国領の台湾の北を通り、やはり中国領であることは自明の花瓶嶼や彭
佳礁を通り、やがて釣魚、黄尾を過ぎて赤尾に到った」のであるから、郭汝■使録で「琉
球地方ヲ界スル」とのべている場合の「界」とは、中国とを界するものでなくてはならな
い、とする。(楊仲揆論文は、このような前提を付していない)
 第二は、三国通覧図説に添付されている「琉球国部分図」についてである。井上氏はこ
の地図における釣魚台などの色を問題とする。この点は楊仲揆氏と異なるところである。
かれはむしろ、この地図に記載されている註を問題としている。すなわち楊氏は、宮古、
八重山などについて右の地図は、註で「支配権が琉球に属する」と明示しているのに対し
て、釣魚台などについてはそのような註の存在しないことから、釣魚台などが琉球に属さ
ないことを側面的に説明している、とする。
 井上氏が「琉球国部分図」の「色」を問題とするのは、釣魚台などが中国本土と同じ色
(桜色)となっている点である。井上氏は、この色の同色なることを理由に、釣魚台などが
中国領であることはあきらかである、と断定する(もっとも歴史学研究における論文で
は、右の地図の「色」については言及しないままに「地図上に釣魚、黄尾、赤尾の名はあ
るが、琉球三十六島とは明らかに区別している」とのべるにとどまっていた)。

釣魚諸島は中国の領土

 第三は、■■の「使琉球雑録」に記載されている「中外ノ界ナリ」の文言を「中国と外国
との界である」と解し、それ故に井上氏は赤嶼を過ぎた所(郊あるいは溝)が当時中国と
琉球との境界であった、と解する。
 第四は「■海図編」について氏は、同書の巻一は「福建のみでなく倭寇のおそう中国沿
海の全域にわたる地図を、西南地方から東北地方に順にかかげているが、そのどれに
も、中国領以外の地域は入っていないので、釣魚諸島だけが中国領でないとする根拠は
どこにもない」ということを理由に「この図は、釣魚諸島が福建沿海の中国領の島々の中
に加えられていたことを示している」とされる。

釣魚嶼は台湾附属小島

 第五は、日本一鑑である。すでに指摘してきたごとく、井上氏は中国研究月報における
論文の「あとがき」で、雑誌「学粋」第一四巻第二期(本年二月一五日)に掲載されている
論文(方■「『日本一鑑』和所記釣魚嶼」)中の史料を引用するというかたちで、論ずる。
 すなわち、同書の第三部に当る「日本一鑑■海図経」に、中国の広東から日本の九州
にいたる、航路を説明した「万里長歌」がある。その中に「或ハ 自■■梅花東山ノ 麓 
■■上ニ 開■ 釣魚ノ 目」という一句があり、それに鄭(筆者注。鄭舜功)自身が注釈
を加えている。
 その注解文中に、「梅花ヨリ澎湖ノ小東ニ渡ル」「釣魚嶼ハ小東ノ小嶼也」とある。小東
(台湾)は明朝の行政管轄では、澎湖島巡検司に属し、澎湖島巡検司は福建に属してい
るが、その台湾の附属の小島が釣魚嶼であると、鄭舜功は明記しているのである。それ
故に井上氏は、釣魚島の中国領であることはこれによってもまったく明確である、と結論
づける。
 (「指南広義」における「姑米山」(筆者註久米島のこと)琉球西南方界上■山)の文言
は、井上氏によれば「中山■信録」中の徐■光の■であるとされる。この点については
井上氏の指摘があるいは正しいかも知れない)。













隔週刊紙「サンデーおきなわ」昭和××年×月×日
尖閣列島と領有権問題G

五つの論拠で主張
丘宏達氏の台湾領有論

中国領有論の論拠B

今年六月論文を公刊

 丘宏達論文 丘宏達氏(台湾国立政治大学客員教授・国際法)は、昨年一二月以来い
くつかの雑誌に「日本対釣魚台列嶼主権問題的論拠分析」と題する論文を発表している
が、さらに今年六月の「政大法学評論」第六期に、「釣魚台列嶼問題研究」と題する重要
な論文を公刊している。
 この論文において丘氏は、はじめて尖閣列島に対する台湾の領有権論拠をあきらかに
している。すなわち本論文中で、丘氏は、地理及び地質構造上の理由以外に、次の五つ
の論拠を指摘して、自国の領有権を主張する。
 一、歴史的理由。ここでは釣魚台列嶼を発見、命名したものが中国人であったことを証
明する資料として、一五世紀の「順風相送」書(筆者未見)の関係部分と、一六世紀以後
の歴代冊封使録の名前があげられている。もっとも丘宏達氏は、発見それ自体は一種
の原始的権利(Inchoate title)(日本では一般に未成熟権原と訳されている)を取得せし
めるにすぎず、領域に対する完全な主権を得るにはそれだけでは不十分であることを認
める。

「日本一鑑」の明示を指摘

 二、使用実態。そこで丘氏は、戦前から台湾漁民が、釣魚台列嶼及び付近海域を常に
使用してきた事実をあげる。ただし丘氏は、戦前における同列嶼の利用が日本の台湾統
治以後であることを認めている(戦前の列嶼利用を証明するものとして、大正四年の台
湾総督府殖産局「台湾の水産」、また戦後のものとして一九七〇年九月一八日付「読売
新聞」の記事をあげている)。
 さらに丘氏は、釣魚台における台湾人の薬草採取及び沈船解体工事、国府遊撃隊の
一時立寄り(舟山群島撤退当時)の事実を指摘するとともに、一九五五年の第三清徳丸
事件を引合いに出して、琉球船が釣魚台領海内に 侵入したのに対して、中国の帆船が
砲撃し、乗組員三名が行方不明になったことを日本自身認めていると主張する。
 三、釣魚台列嶼が台湾の附属諸島であることについて。丘論文は、地質構造のみなら
ず明代嘉靖年間出版の「日本一鑑」において明示的に「釣魚嶼・小東小嶼也」とされてい
ることを指摘、その小東とは台湾を意味することが右の文献からあきらかであるとのべて
いる。
 次いで丘論文は、陳侃及び郭汝■の冊封使録に言及し、それらによって釣魚嶼などの
琉球に属さないことが証明されているとする。(楊仲揆及び井上清論文では、釣魚台など
が中国に属することを証明する文献として、郭汝■使録を扱っている)
 さらに丘宏達氏は、清代の周煌「琉球国志略」を引用し、同書が釣魚台以南の海をあき
らかに「中外ノ界」(溝と称する)と記述していることを理由に、釣魚台より北方の島が中
国領であったとみることができる、と主張している。
 四、琉球及び日本の史料。ここでは明治二八年以前の琉球及び日本における若干の
史料に触れ、それらのすべてに釣魚台列嶼についての記載がないが、同列嶼の琉球帰
属があきらかにされていない点を指摘した後、林子平の「三国通覧図説」について言及
する。丘氏もまた井上清氏と同様にこの図説に添付されている地図の「色」を問題として
いる。もっとも丘氏は井上氏と異なり、釣魚台列嶼及び中国とともに無人島とカムチャッカ
半島(堪祭加半島)も同色の赤色となっている点に注目するが、結局、この場合の無人
島とは、小笠原群島を意味する固有名詞であると解し、釣魚台などは無人島として赤色
になっているのではなく、中国領であることを示すために赤色とされている、と断定する。

「三国通覧図説」にも言及

 五、日清講和条約第二条との関係。丘論文は日清講和条約第二条の領土割譲範囲
(台湾及びその附属諸島嶼)に、釣魚台列嶼も含まれていた、と解している。ただし丘氏
は、日清講和会議の経緯に照して、その事実を立証しているわけではない。丘論文の指
摘している点は第一に、尖閣列島の日本領土への編入決定と日清戦争との事実関係で
あり、第二に、日本が日清講和条約を待たずにこれらの島々の編入をおこなったのは、
地質的に同質であるため釣魚台列嶼を台湾の附属諸島であると公然と認定できたから
であり、第三に、このような日本の措置に清朝が抗議をおこなわなかったのも、右のよう
な理由から、法的に抗議をおこなう意味をもたなかったからである、とする。

間接的方法での論断

 このように丘氏は、間接的もしくは推定的方法で、日清講和条約第二条と釣魚台列嶼
の関係をのべているにすぎない。丘氏が昨年一二月の論文において「少なくとも部分的
には」とか「ある程度までは」といった表現を用いてその関係を説明しているのも、このた
めであろう。もっとも丘氏は、あらかじめかかる関係のもつ意味を補強させるべく、地理的
接近の原則とか、歴代冊封使が常時航路目標として使用してきた事実とか、一八九三年
に西太后が盛宣懐に釣魚台などを下賜した事実を指摘し、これらによって釣魚台列嶼に
対する台湾の領有権は確定しているという立場をとっている。










隔週刊紙「サンデーおきなわ」昭和××年×月×日
尖閣列島と領有権問題H


「主権行使」を強調
釣魚台発見の“証拠”を提示

中国領有論の論拠C

 「七〇年代社」論文 「国際法からみて釣魚台の主権は誰に属するか」と題するこの無
署名論文は「七〇年代社」出版の「釣魚台事件真相」に掲載されたものである。

衡平の原則で主権帰属を

 本論文は、次の四つの論拠をあげて、釣魚台などの中国領有権を主張している。
 (一)日本は、台湾島とこの列島を一体のものと考え、かつ清政府が割譲したものとし
て、甲午戦争(筆者注。日清戦争)の翌年になって、ようやく釣魚台島に対する古賀氏の
借地権申請を認めた。
 (二)一九四一年、日本が占拠していた時代の台北州は、釣魚台漁場を保有するため
に沖縄(琉球)郡と裁判で争い、一九四四年日本の裁判所は、判決で、釣魚台列島が台
北州の管轄下にあることを確定した。右の日本の裁判所の判決により、日本の明治二
八年の内閣決定(筆者注。同年一月一四日沖縄県所轄とする旨の閣議決定)は、その
法律上あるいは行政上の効力を失っている。
(三)戦後中国は、一貫して同列島に対して主権を行使してきた。たとえば、数十年来台
湾漁民は常に多数をなしてこれら列島の三浬以内の海域で操業しており、列島の断崖を
避風港として利用している。また台湾水産試験所の試験船が長年にわたって、列島の海
面での魚群調査をおこなっている。さらに龍門工程実業公司は、台湾「政府」の許可を得
て、数年来この一帯の海面で、沈没船の引上げ作業をしており、しかも釣魚台と黄尾嶼
に作業員の寮をたて、トロッコ道などの工事をおこなっている。これらはすべて中国がこ
の列島に絶えず主権を行使している事実である。
(四)仮に上記論証がいずれも存在しないとして、国際法上で釣魚台列島の主権がいっ
たい誰に属するかを判定する根拠のない場合、衡平の原則が本紛争を解決する補助的
手段となるべきである。衡平の原則にもとづいて本件をはかるならば、紛争発生前の一
時期内に紛争国と列島の関係が疎遠であったか近密であったか、紛争国とこの紛争地
域の利害関係の軽重、紛争地域と紛争国の地理関係はどうか、などの事項を考慮して、
主権の帰属を決定すべきである。

密接な中国との隣接関係

 ところで第二次大戦終了後、釣魚台列島海域で操業する漁民はすべて台湾からきてお
り、かつ毎年同海域からの漁獲量は、台湾の毎年の漁獲量の重要部分を構成してい
る。これに反して、釣魚台列島と日本あるいは琉球とはとりたてるほどの関係は何もな
く、いわんや地理上この列島と台湾島はともに中国大陸棚の東縁にあり、中国との近隣
関係も日本あるいは琉球よりもはるかに密接である。一九五八年大陸棚条約の「隣接
の原則」は、衡平観念の下で列島の主権帰属決定に対して、日増しに重要となってきて
おり、かつ地質学上からみると、釣魚台列島は、中国大陸棚から海面に突き出た八つの
大小の礁石であるのであるから、この一帯の大陸棚の資源開発権が隣接国(すなわち
中国)にあるだけでなく、衡平原則の下で、この大陸棚上の岩礁列島も、中国に帰属す
べきである(本論文はこのほか「順風相送」航海図を指摘し、列島を最初に発見したのは
中国である、としている。もっともそのことが中国の領有権確定にいかなる法的効果を有
するかについて、本論文は、直接には、触れていない)。

「発見と発見後の確認」

 陶龍正論文 右の論文以外にこの論文もまた若干言及する必要があると思われるの
で、最後に簡単に触れることとする。
 「釣魚台主権と大陸棚■定問題」(「学粋」第一四巻第二期)と題する本論文の著者
は、まず中国が列島の主権を取得する前の同島が無人小島であったことを指摘し、国際
法上において、無人島の主権を取得する最も重要な方法は、発見と発見後の官憲によ
る確認である、とする。そこで彼は一五五五年の(日本一鑑)(鄭舜功)の中で、釣魚台
が「台湾の小島」と記載されている事実を、中国人による釣魚台発見の歴史的証拠であ
るとし、さらに中国政府の確認について清末(明治二六年)西太后が釣魚台を盛宣懐に
賜与したと称する文書を、右に該当する証拠であると主張している。
 陶龍生氏は、ここで一九三三年のクリッパートン島仲裁判決を採用し、完全に人の住ん
でいないような土地に対しては、これを占有する国家が現れたとき、右の土地に対する
当該国家の処分を争うことはできず、したがってこのとき以後、占有はすでに完成したと
みることができる、とする。
 かくして論者は、日本人あるいは琉球人が釣魚台を侵犯した当時は、単純な無人島嶼
ではなく、法律上中国に属するものであったこと、原始的発見の原則が確立して以後釣
魚台に対して中国は、法律上の基本証拠を有し、その他の国家がもし列島に対し権利を
主張する場合には、かならず挙証責任を負うこととなる、と結論づけている(論文中の他
の部分については省略)。









隔週刊紙「サンデーおきなわ」昭和××年×月×日
尖閣列島と領有権問題I


先占の法理は有効
政治紛争でなく法的紛争

中国領有論批判@

 尖閣列島の中国領有権を主張する論拠を批判するにあたって、次のことを明確にして
おく必要があるように思われる。

歴史的な主張とは別問題

 まず第一に、尖閣列島をめぐる領土紛争はこの領土の権利帰属をめぐる紛争であると
いうことである。いいかえるならば、本問題は政治的紛争ではなく法的紛争である。
 第二に、この問題は私的な法的紛争ではなく、台湾を含む中国と日本との間の国家間
の法的紛争であるという事実である。
 第三に、それが国家間の法的紛争であれば、当然のことであるが、国家の間を■する
法、すなわち国際法にしたがって問題を解決すべきであるということである。歴史的見地
から尖閣列島の領有権を主張することと、このような主張が法的に認められることとは、
まったく別の問題である。
 第四に、右のことは国際法が歴史的事実を無視することを意味するものではない。領
土紛争が発生した場合、紛争の当事国はしばしば古文書の存在を理由として、自国の
領有権を主張してきた。領土紛争に古文書が持ち出されることは、別段に珍しいことでは
ない。問題は領土紛争を解決するにあたって、紛争の当事国によって提出された古文書
が、国際法上に意味のあるものであるか否かということである。

成立動機と効力との混同

 第五に、実効的支配を要件とする先占の法理は、現代国際法の下でも依然として有効
なものであるということである。学説、国際判例のいずれもこの法理の効力を否定してい
ない。先占の法理が成立した動機(ヨーロッパ諸国による植民地獲得の過程において成
立した)を理由に、このような法を認めないとする主張(井上清論文。なお朝日アジア・レ
ビュー一九七二年夏季号掲載の高橋庄五郎論文)は、法の成立動機とその法の効力を
混同した論議である。もしこのような主張に法的効果を与え現実に国際社会に適用すれ
ば、アメリカ合衆国、カナダ、ラテン・アメリカ諸国の大部分、オーストラリア、ニュージーラ
ンドなどは国家としての法的存在を否定されることとなる。中国もまた台湾、チベット、内
蒙古、東北地方(旧満州)のかなりの部分、同様に日本も北海道、南千島、小笠原諸島
などに対する領有権を認められないこととなろう。
 第二次大戦後アジア・アフリカ地域の大部分は旧植民地国の支配から脱し、主権国家
としての独立を獲得したが、旧植民地国との主権譲渡協定によって決定された領域の範
囲は、若干の例外はあるが、旧植民地国が先占の法理にしたがって取得し、行政的な
範囲を定めていたところに準じている。もしアフリカ地域に対して適用された先占の法理
が無効であるというのであれば、旧オランダ領、イギリス領、フランス領、ポルトガル領、
スペイン領(旧植民地国のアフリカにおける領域範囲は、人為的なものであり、先占の法
理にしたがったものである)の区別なく、独立したアフリカ諸国自身によって決定されなけ
ればならないこととなる。だが、このような主張はとうていアフリカにおける国際法秩序の
安定にとって耐えられるものではない。アジア・アフリカ諸国自身もそのような主張をおこ
なってきたわけではない。反対に中印紛争にみられるごとく、インドは旧植民地本国であ
ったイギリスの行為(たとえばマクマホン・ライン)を理由に、自国の領有権を主張してい
る。
 ここで先占の法理を長々と論じたのは、ともすれば先占の法理無効論が、植民地否定
という現代的正義の思潮と安易に結び付けられある種の説得力をもっているからであ
る。

意思の存在のみでは無効

 第六に、歴史的見地に立つ中国領有論の大部分は、これを法的観点から分析すれ
ば、いわゆる発見、命名、領有意思の存在だけで、領有権の帰属が決定されるとする主
張に等しい。だが、このような主張の歴史的淵源自体は初期の先占の法理にも存したも
のである。発見(国家による領有意思を必要とする。単純な発見、私人による発見を含ま
ない)優先の原則は、ポルトガルとスペインが海上の支配圏を握っていたヨーロッパ近世
初期から一八世紀後半まで有効であった。そうして、この原則はアフリカ大陸を除く大部
分の地域(アメリカ大陸、東南アジアおよび中東地域)に適用された(もっともこの場合の
発見は実際には地域的に限定されたものであり、大陸の一部を発見したことにより大陸
全体の領有権を取得したわけではない。たとえばアメリカ合衆国の独立以前において、
同大陸はフランス、イギリス、スペインなどによって分轄されていたし、またその分轄範囲
も初期においては、すべての地域に及んでいたわけではない。その意味において、土地
の現実的占有という実効的支配の原則がすでに暗黙の中に妥当していたともいえる)。
したがって歴史的見地から領有意思の存在を指摘し、その事実のみによって領有権が
確定すると主張しうるためには、今日においては妥当しないにせよ、かつての先占の法
理(その動機は同じ)の効力を認めなければならないこととなる。


























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