尖閣諸島の領有権問題      「参考資料(1) 論文・書籍14」



尖閣列島−中国及び台湾の領有権論拠批判



  AFAシリーズ
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     尖閣列島
一中国及び台湾の領有論拠批判−
                                            昭和54年     
                               奥原 敏雄

     潟Aジア親善交流協会



尖閣列島 中国及び台湾湾の領有論拠批判

一、尖闇列島の法的地位

 尖閣列島は国際法上の先占によってわが国が領有権を取得したものである。国際法
上の無主地である尖閣列島に対してわが国が領有意思を持ち始めたのは明治一二年
(一八七九年)頃からであるが、正式に日本の領土に編入したのは明治二八年(一八九
五年)であった。
 領土編入以後わが国は平隠かつ継続的を実効的支配を尖閣列島に及ぼしてきた。尖
閣列島に対するわが国の実効支配の程度は、列島の置かれた地理的位置、自然環境
などを考えた場合すでに
た。
 戦後尖闇列島はサンフランシスコ平和条約第三条にとって、琉球列島、大東諸島を含
む北緯二九慶以南の南西諸島とともに、アメリカ合衆国の立法、司法、行政上の管轄下
に置かれてきた。そのため米国が、施政権を認められた期間、尖閣列島に対する実効的
支配を日本に代って
昭和四六年(一九王二年)六月一七日、日本と米国は沖縄返還協定に署名した。その付
属合意議事録『第一義に閲し』において、同協定第一条第二項に定義する「琉球諸島及
び大東諸島」の範囲が緯度及び経度で示されたが、これが昭和二八年(一九五三年)二
月二五日付米民政府布告第二七号に示された区域と一致し、そのなかに尖閣列島も含
まれていた。同様に、同協定付属の『了解覚書』においても、A表で返還後米国に継続使
用を認める軍用基地名の記載リストのなかに、黄尾嶼(久場島)と赤尾嶼(大正島)を明
示していた。
 沖縄返還協定にしたがって昭和四七年(一九七二年)五月一五日に返還された尖閣列
島に対して再びわが国が実効的支配を及ぼし、現在にいたっている。
 尖閣列島が日本の領土であったことは、一九七一年に中国と台湾が公式の外交部声
明を発して日本に抗議するまでの七六年間、両国を含め世界のいかなる国からの反対
もなかったことでも分かる。そればかりでなく中国の中華人民共和国も、台湾の中華民
国も、それ以前においては、尖閣列島が日本の領土叉は琉球諸島の一部であることを
積極的に認めてきた。
 すなわち、サンフランシスコ平和条約の発効した(一九五二年四月二八日)約八ヵ月後
の一九五三年一月八日、中国の人民日報は「琉球群島人民の米国占領に反対する闘
争」と題する重要な評論記事を掲載した。この記事は日本人民の独立と反米帝反軍事
基地闘争を支持したものであつたが、その冒頭で琉球群島を定義していた。それによれ
ば、琉球群島は中国の台湾の東北から日本の九州西南の海上に散在する七組の島嶼
からなるとされていたが、そのなかに「包括尖閣諸島」として尖閣列島を明示的に含めて
いた。
 この人民日報記事が掲載された五毎後の一九五八年一一月、北京の地図出版社編
集部の作成した地図(日本の部)においても、尖閣列島は、明らかに日本の領土の一部
として示されていた。この地図では、魚釣島と赤尾嶼だけが名称(原文通り)を付されて
おり、また全体として尖閣群島の名を用いていた。一九六四年に中国で出版された「中
華人民共和国分省地図」でも、 台湾省の最北端は彭佳嶼(尖閣列島より一五〇キロ台
湾に近い島嶼)とされ、尖閣列島を除いていた。
 台湾省の.北限を彭佳嶼としている点では、台湾の中華民国の文献も同様である。す
なわち、一九六五年一一月一二日台湾省政府によって発行された「台湾省地方自治誌
要」において、台湾省の極北を彭佳嶼の北端としていた。一九六八年一〇月の「中華民
国年鑑」も同様に極北を彭佳嶼、極東を綿花嶼と記していた。
  さらに一九六五年一〇月に出版された台湾の国防研究院と地学研究所にょる世界地
図集第一冊(東亜諸国)において、尖閣列島は「尖閣羣島」の名称を与えられ、個々の島
嶼名も付されていた。釣魚台は日本名の「魚釣島」と記され、わざわざ和音をローマ字で
綴っている。黄尾嶼、赤尾嶼についても、それぞれカツコのなかで日本名である久場島、
大正島を併記し、黄尾嶼と赤尾嶼を和音で読めるようにロ〜マ字ナイズしている。北小
島、南小島にはローマ字の綴りを付していないが、いずれもわが国で用いられている名
称である。尖閣羣島もまたSENNKAKU GUNTOと和音で綴つている。
 この他、一九七〇年の中華民国国民中学校地理科教科書において尖閣列島(原図で
は尖閣羣島)は、明らかに「大琉球羣島」の一部とされ、魚釣島、北小島、南小島といっ
た和名を付している。明代及び清代の中国の古文書では、沖縄を大琉球、台湾を小琉球
と呼んでいたから、大琉球羣島とは沖縄諸島のことであり、尖閣列島をその一部とのべ
ているわけであるから、これを沖縄諸島の一部とみていることになる。もっとも、中華人
民共和国の場合と異なり、中華民国は依然として清朝と同様、琉球列島の中国領有権を
公式に主張する立場にある。したがって、大琉球羣島を中国の一部とみるかぎりにおい
て、尖閣列島も中国の領土の一部とみていることになる。しかし、尖閣列島を台湾の付
属諸島とみなしていない点で一九七〇年以後の台湾における尖閣列島に対する領有論
拠と明らかに異なる。



二、紛争の発端及びその背景
 (一) 東シナ海の海底資源問題
 一九六九年五月国際運合アジア極東経済委員会(エカフェ)は、その前年六八年一〇
月一二日から一一月二九日にかけて行った黄海及び東シナ海の大陸棚に対する沿岸
鉱物資源の共同調査報告書を公表した。この報告書においてエカフェは、東シナ海大陸
棚の下底及び黄海下の堆積物に石油及び天然ガスの保留されている可能性の大きいこ
とを指摘するとともに、とりわけ、台湾の北方に広がり台湾島の広さに数倍する浅海底の
地域が、将来一つの世界的産油地域となりうることを示唆した。
エカフェ報告の発表によって、尖閣列島周辺の大陸棚に対する一般的関心が日本と台
湾において急速に高まるとともに、関係沿岸国との間の利害の対立意識が鮮明をものに
なっていった。すなわち、台湾の中華民国政府は、六九年七月一七日に行政院声明を発
し、「中華民国の海岸に隣接する領海以遠の大陸棚に存在する天然資源に対して、すべ
ての主権的権利を行使しうる」とした。さらに、行政院声明満一カ年目の七〇年七月一七
日、中華氏国政府は、中国石油公司(PCP)と米系パシフィック・ガルフ社との間の石油探
査契約を承認した。
 この契約によれば、ガルフ社は、北緯二五度から二七度、東経一ニ一度から一二五度
の間の大陸棚について、鉱区と石油探査権を与えられたことになるが、その緯度・経度
のなかに尖閣列島が含せれていた。このこともあって、七〇年八月一〇日、わが国の愛
知外相は、参議院沖縄及び北方問題特別委員会において、「国府が東シナ海大陸棚に
対してとったような一方的措置は、国際法上無効」であり、また尖閣列島は「わが国南西
諸島の一部である」との意見を表明した。
 (二) 列島海域での台湾漁民の操業
 愛知発言は、わが国の立場からすれば当然であり、国際法上にも十分理由のあるもの
であった。しかし、尖閣列島が戦後種々の理由によって無人島となっていたこと、そのた
め一九五〇年代の末頃から台湾漁民による列島周辺での不法操業が次第に増加する
にいたったが、米民政府が、そうした領海侵犯行為を事実上放置してきたこともあって、
台湾漁民自身は単純な無人島と考えて、不注意識をもたないままに操業を維続し、その
かぎりにおいて彼らの重要な生活の場となっていた。
 このようを事情もあったためか、参議院沖特委における愛知外相発言は、尖閣列島付
近で操業を行ってきた宜蘭県蘇澳地方の漁業関係者に大きなショックを与えるとともに、
将来の列島での操業が不可能になるのではないかといった不安が高まっていった。この
ような時期に、たまたま謝石角基隆漁業組合理事長が、中央日報(一九七〇・八・三〇)
紙上で、一九四四年の日本の最高裁の判決において釣魚台列島を台北州の管轄に属
すると決定したことがあると発言したため、尖閣列島を台湾の領土とする主張が漁業関
係者の間で急速に広まった。謝石角発言は、その後漁業関係者だけでなく、香港・台湾
のほとんどの新聞・雑誌が、その信憑性を確かめることなく、客観的な証拠であるかのど
とく扱ってきたため、台湾の世論及び海外の華僑に大きな影響を与えた。

 (三) 大陸棚条約の批准(国府)
 尖閣列島のようを海面に突出した礁嶼や小嶼は大陸棚の一部であるにすぎないとする
主張は、一九七〇年八月二〇日の国府立法院における大陸棚条約批准に際して、同条
約第六条一項及び二項の留保についての補充説明で明らかにされた。もっとも、このと
きの説明では、大陸棚の一部にすぎないような礁嶼が大陸棚自体の権利を主張しえない
というものであって、大陸棚の一部であるから尖閣列島に対する領土主権も国府に帰属
すると主張していたわけではなかった。しかしながら、国際法上の島嶼の要件を無視し
て、尖閣列島を大陸棚の一部であるとみなしたこと自体、間接的に、同列島に対するわ
が国の領有権を否定していたということはできよう。
 大陸棚条約を国府が批准して以来、台湾内部において急速に尖閣列島の自国領有を
主張する動きが高まっただけでなく、同条約批准二週間後の九月四日には、魏道明外
交部長自身が立法院の秘密会で同列島の国府帰属を証言するに至った綬繹からみて
も、大陸棚条約批准に際してなされた立法院での尖閣列島大陸棚一部論が結果として
大きな役割を果したことは否定できない。

 (四) 中華民国政府の主張
 台湾の中華民国政府外交部が尖閣列島の領有権についてはじめて公式な主張を行っ
たのは七一年二月中旬とされ、台北の日本大使館を通じて、わが国に「釣魚台列嶼は台
湾に属すべきであり、日本政府の主張には同意できない」旨を伝達してきた。
 国府外交部がこの時期に日本に対して自国の立場を明らかにしたのは、前年の七〇
年一二月四日に中華人民共和国政府が、北京放送(新華社通信)及び人民日報を通じ
て、黄海及び東シナ海の共同開発を目的とした日韓華連絡委員会設立の動きを激しく非
難するとともに、はじめて尖閣列島の中国領有を主張することによって外交的イ二シャテ
ィブを取り始めたことに対応するためだったといえよう。また中華人民共和国の尖閣列島
に対する領有権主張は、後述するように単にこの問題だけでなく、国府外交部としては,
台湾に対する北京政府の統一戦線工作として利用されており、これが在米中国人留学
生などの激しいデモとなって現われていると判断し始めたことも、日本に対する国府外交
部としての見解を明らかにした理由の一つといえる。
 国府外交部は、七一年四月一〇日及び四月二〇日にも外交部スポークスマン談話と
して、尖閣列島の領有権に言及している。そのうち前者は、米国政府に向けられたもの
であった。すなわち、四月九日米国務省プレイ・スポークスマンが 「米国は七二年に尖
閣列島を含む南西諸島の施政権を日本に返還する」とのべたことに関連して、魏U孫国
府外交部スポークスマンは「釣魚台列嶼はわが国領土の一部であり、国府に返還きれる
べきである」との見解を明らかにした。
 また後者の場合は、第二次世界大戦終了時に尖閣列島の返還を国府が要求しなかっ
たことに対する一種め弁明を行ったものであった。この点に関連して魏外交部スポーク
スマンは「第二次世界大戦後釣魚台列嶼が米国により軍事占領されているのは、当時
わが国政府が共同で防衛する必要にもとづく措置を認めたからである。ついで米華双方
は、.パトロールの範囲の画定について協議を達成した。以来わが国漁民は同地域で作
業を続けている」とのべた。
 沖縄返還協定調印節一週間前の七一年六月一一日、国府は公式の外交部声明(中
華民国政府外交部声明)を発し、米国が日本に返還しょうとしている琉球のなかに「わが
国の領土の一部である釣魚台列嶼を包含させていることは、絶対に承認できない」と主
張した。同趣旨のことが沖縄返還協定調印日の六月一七日、魏外交部スポークスマン
談話でも再確認され、「中華民国政府と人民はその領土主権を有する釣魚台列嶼が今
回琉球群島と併せて日本に返還されることについては、絶対に承認できない」とした。
 なお、同日米国政府も、プレイ・スポークスマン談話としてこの問題に言及し、「米国政
府は、尖閣列島の主権について、中華民国政府と日本との間に対立があることを承知し
ている。米国はこれらの島々の施政権を日本へ返還することは、中華民国の根本的な
主張をそこなうものではないと考える。米国はこれらの島の施政権移行によって、日本が
従前から同諸島に対して持っていた法的権利に口をさしはさむことはできないし、また中
華民国の権利が減少するということもできない」としてこの問題に局外中立の立場をとる
ことを強調した。

 (五) 中華人民共和国外交部声明
 一九七〇年二月四日の新華社報道及び人民日報が「日本が釣魚島をどの島々を含む
中国に属する一部の島と海域を日本の版図に入れようと企画している」とのべることによ
って、中華人民共和国政府も尖閣列島の中国領有を主張する立場をはじめて非公式に
明らかにした。
 人民日報は一二月五日、一二月二三日、一二月二九日にも同じ立場を確認する記事
及び評論を掲載したが、そこでは台湾との関連でその付属諸島としての尖閣列島が強
調された。すなわち、一二月五日の人民日報『労農兵戦地J欄では「台湾は昔から中国
の神聖な領土である」とのべることによって中国の神聖な領土としての台湾を位置づけ、
次いで、「台湾省とそれに付属する島々‥‥が当然中国に属し‥‥」とのべることによっ
て、台湾の付属諸島である尖閣列島が当然に中国に属するとしている。もっとも一二月
五日及び一二月二三日の人民日報は、尖閣列島に直接言及したものではなかった。前
後の文脈から台湾の付属諸島が尖閣列島を意味することは確かであったとしても、間接
的を表現をとっていたにすぎない。しかし、一二月二九日の人民日報評論『米日反動派
がわが国の海底資源を略奪するのを決して許さない』では、尖閣列島が台湾の付属諸
島であると明規していた。そればかりでなく、それ以前の人民日報記事で台湾だけにか
かっていた「神聖な領土」を尖閣列島にも直接かけるようになった。
 「神聖な領土」としてだけでなく、一二月二九日の人民日報は、尖閣列島が「台湾と同じ
く古くから中国の領土である」として、歴史的領土たる地位を台湾と同列に論じている。
 尖閣列島の領有権に言及した上述した人民日報の主張の論理から、中国にとってのこ
の問題の重要性は、尖閣列島が台湾の付属諸島であることを強調することにあったとい
えよう。台湾の付属諸島としての尖閣列島を強調することによって、かつ、歴史的領土と
しての台湾と尖閣列島を同列に置くことによって、台湾問題とこの問題を一体のものとす
ることが、中国にとって必要であった。またそうすることによって尖閣列島の領有権問題
を介して台湾に対し統一戦線工作を行うことができる。
 全米各地、香港などの中国人学生及び華僑を中心としたデモが人民日報による尖閣
列島の中国領有主張記事をきっかけに活発化したのも、その間の事情を裏づけたものと
いえる。
 在米中国人留学生による釣魚島保衛の動きは、一九七〇年一〇月頃から始まったと
いわれる。この運動のために組織された「釣魚島行動保衛委員会」は、当初国府系留学
生を主体としていたといわれているが、人民日報によって尖閣列島の中国領有が主張し
始めて以来かれらのデモが急速に活発、過激なものとをるとともに、次第に中共系学生
が運動の幹部として表面に出てくるようになった。このため七一年春頃から、この委員会
の国府系幹部と中共系幹部との間に対立抗争が生じただけでなく、国府側によって、委
員会の十数名の幹部が中共の工作員であったことが指摘されて以来、分裂抗争へと発
展した。
 国府側によれば、これら十数名の中共系幹部(学生)が七一年九月、北京に赴き、そ
のうち半数が帰米し、ひきつづき在米中国人留学生及び華僑に対して、釣魚島保衛運動
を通じて、中共の統一戦線工作を働きかけたとされている。
 こうした経緯もあって台湾の中央日報は、七一年一一月二七日に「中共の釣魚台保衛
運動に対する陰謀は明白になった」とする記者報道、及び二月二八日の「中共の釣魚台
保衛運動に対する陰謀は失敗した」と題する社説を掲載した。
 中央日報が報じたような釣魚台保衛運動に中共の「陰謀」があったかどうかはともかく
として、釣魚台保衛行動委員会が分裂し,国府系学生は「反共愛国会議」(七一年一二
月二五日結成)、中共系学生が「民族和平統一行動委員会」を結成することによって、運
動の性格自体がかわり、以後釣魚台保衛連動は急速にしぼんで行く。台湾内部での学
生をどのこの間題に対するデモについては、すでに米国での釣魚台保衛行動委員会内
部の対立抗争が表明化した七一年四月に、国府が学生等の学園復帰を促すとともに、
この問題が短期間で解決できるものでないこと、及び国際法の「紛争の平和的解決」の
原則に従ってこの問題を処理する姿勢を明らかにする一方、七二年二月に国府行政院
が尖閣列島を宜蘭県に編入するなどの措置をとったことから、鎮静化した。
 他方、中国内部の働きについては、尖閣列島の領有権主張は、常に他の明確な政治
的攻撃目標と関連してなされてきた。日韓華大陸棚共同開発、米帝国主義、日本軍国主
義、防空識別に尖閣列島を含めようとすること、日清戦争のどさくさにおける日本の盗取
行為などに対する非難、反対として、尖閣列島問題が常に論じられてきた。台湾の場合
と異なり、文化大革命期にあつた中国においては、多分に日本及び米国、台湾、韓国な
どに対する政治的攻撃の武器として、この問題が利用されたといえる。
 この問題に関する中華民国政府外交部声明が日米による沖縄返還協定の調印に関
連してなされたのに対し、中華人民共和国政府外変部声明は、わが国の国会がこれを
承認可決させた直後の七一年一二月三○日に発せられた。なお、中国は公式の外交部
声明以後も、し、尖閣列島の領有権問題に言及し、国連の海底委員会(七二年三月三
日及び三月一〇日)をどで激しく日本を非難した。



三、中国及び台湾の領有論拠

 (一) 中  国
   l 中華人民共和国政府外交部声明  この声明において中華人民共和国政府は、
「釣魚島などの島嶼が昔から中国の領土である」こと、及びこれらの島嶼が「台湾の付属
島嶼」であったこと、ならびに「中国と琉球とのこの地域における境界線が赤尾嶼と久米
島との間にあった」ことを指摘するが、これを立証する具体的を証拠を一切示していな
い。ただ「はやくも明代にこれらの島嶼はすでに中国の海上防衛区域のなかに含せれて
いた」とか、「中国の台湾の漁民は従来から釣魚島などの島嶼で生産活動にたずさわっ
てきた」とのべることによって、きわめて抽象的かつ間接的なかたちで、証拠の体裁を整
えているにすぎない。
 まず第一に、明代に海上防衛区域に含せれていたことを示す古文書の名前すらあげて
いない。したがって古文書の内容、証拠価値及び証拠能力なども、この声明からでは判
断しえない。当然のことながら、明朝が設定したとされる海上防衛区域の目的及び防衛
責任者に与えられた当該区域に対する権限の性質及び権限の内容、尖閣列島を海上
防衛区域に含めた意図とその領土意識との関係などを検討することも不可能である。
 第二に、中国の台湾の漁民が「従来から」釣魚島などの島嶼で生産活動にたずさわっ
てきたとする主張のなかにみられる「従来から」の意味が不明である。台湾の漁民が明
代から生産活動にたずさわってきたのであれば「明代から」とか「古来から」といった表現
を用いたであろうことを考えれば、「従来から」が歴史的意味を持つほどの期間を指すも
のでないことは想像されるが、その内容を意識的に抽象化していることが伺える。
 第三に、右の事実を指摘することの意味である。釣魚島をどで台湾漁民が生産活動に
従事してきた事実をもって、釣魚島をどを中国の領土とみなす証拠としているのか、ある
いは台湾の付属諸島であることを強調する事実として指摘したものなのかはっきりしな
い。台湾漁民などの行為が国際法上に領有権効果をもつものか否かの検討を行う以前
の問題として、この点の曖昧さを指摘する必要がある。
 第四に、中国と琉球との境界線が赤尾嶼と久米島との間にあったとする歴史的証拠を
あげていない。そうした事実を立証する古文書の名前、古文書の書かれた年代、古文書
の関係部分の文言などが示されないままに、赤尾嶼と久米島との間が中国と琉球との境
界であったとしているにすぎない。
  2 人民日報などの報道記事  中華人民共和国政府外交部声明の出された翌日〈七
一年一二月三一日)の人民日報は前日の政府外交部声明の内容を補足する新華社の
報道を次のように伝えていた
 「中国の明朝は、倭寇の侵略かく乱に抵抗・反撃するため、一五五六年に胡宗憲を倭
寇討伐総督」に任命し、沿海各省における倭寇討伐の軍事責任を持たせた。釣魚島、黄
尾嶼、赤尾嶼をどの島嶼は、当時中国の海防の範囲内把あった。中国の明、清の両王
朝が琉球に派遣した使者の記録・歴史の書は、一層具体的にこれらの島嶼が中国に属
するものであり中国と琉球との境界は、赤尾嶼と古米島、つまり久米島との間であること
がはっきりのべられている」。
 新華社報道は、明朝の海上防衛区域が倭寇の取り締まりのためのものであったこと、
明及び清代の冊封ゥ使録に赤尾嶼と久米島との間に琉球・中国との境界があったこと
を書いてある事実を指摘した点で、政府外交部声明よりもいくらか具体的であるが、それ
以外の先に指摘した事実及び凝間点にはまったく触れていない。
 人民日報はこのほか七二年三月一〇日、同三月三〇日及び三月三一日にもほほ同じ
趣旨内容の記事を掲載したが、若干表現を具体的又は補足した部分もある。たとえば、
「早くも中国の明の時代・西歴一五〜一六世紀にこれらの島嶼はすでに中国の海防区
域に含まれており‥‥」(七ニ・三・一〇、国連海底委員会における安致遠中国代表発
言)、「当時琉球に派遣された使者が久米島到着を琉球の領土に入ったしるしとしている
ことがはっきりと記載されており、……」(七二・三・三〇)、「釣魚嶼の島嶼はずっと中国
の領土台湾の付属島嶼であって、早くも一五、六世紀の頃から中国の海上防衛区域に
組み入れられており、琉球に属したことはをい」(七二・三・三一)のごとく、部分的にいく
らか内容を具体化していた。
 なお、中国自身の領有論拠というよりも日本の主張に対する批判として触れた部分で、
後に筆者の反論として言及する必要があると思われる箇所が、人民日報その他でいくつ
かみられる。その一つとしては、日本が尖閣列島を発見したのはこれらの島々が中国に
属するようになってから数百年もたった一八八四年としていること(七一・一二・三一・人
民日報)であり、いま一つは、日本が甲午戦争(日清戦争)で武力によって中国から台湾
を ・・
奪いとったあと、不法に一方的に釣魚島の島々を日本の版図に組み入れた(七一・五・
一・人民日報)としている点である。ただし、七二年三月三〇日の人民日報以後は、後者
については「甲午戦争のあと」でなく、「甲午戦争で清朝政府の敗局が定まったとき」と訂
正している。
最後に、中国への台湾の領土帰属の歴史が尖閣列島の領有権問題との関連で、中国
側にとって重要になるが、この点を説明する重要な中国側資料として、七一年一一月二
日の北京週報第四四号に転載された『台湾は昔から中国の神聖な領土である』と題する
「新華社資料」がある。
 これによれば「一三世紀の中ば、当時の元朝政府は澎湖に巡検司を設けて、台湾など
の島嶼を管轄させた。この巡検司は泉州路の同安県のもとにおかれた。それ以来台湾
は正式に中国の版図に組み入れられたのである」とされるととも「一六二四年と一六二
六年にヨーロッパの植民地国オランダとスペインはわが台湾省の台南と基隆をそれぞれ
侵略・占領し、この二地を中心として侵略活動を拡大した。‥‥その後この両侵略者は
台湾北部で激しい争奪戦を展開した。一六四二年スペイン軍はその争いに破れて、台湾
から退いた。明朝末期、民族英雄鄭成功は一六六一年、大軍をひきいて台湾に入り、地
元人民の密接な協力のもとに、たちまちオランダの侵略者を追い出して台湾を奪回し
た。一六八四年清朝政府は台湾府を設け、福建省の台湾厦門道に隷属させた。一八八
五年台湾は正式にわが省の一つとなった」としている。
 右の新華社資料で注目すべきところは、台湾が正式に中国の版図に入った時代を一
三世紀中葉の元代としている点である。なお、この点についての批判は後にのべるが、
この資料でも、釣魚島をどの島々がいつ台湾の付属ゥ島となったか、台湾府及び台湾省
の行政轄区の北限がどこであったなどには、まったくふれていない。
  3 井上清論文  尖閣列島の中国領有を支持する学者として、京都大学の井上清教
授がわが国において代表的をものであるが、井上教授(日本史)は主として歴史的見地
からこの問題を講ずるや同教授によって発表された著書及び論文としては、『釣魚列島
(尖閣列島等)の歴史と帰属問題』(「歴史学研究」第三八一号、一九七二年二月)、『釣
魚諸島(尖閣列島など)の歴史とその領有権へ再論)』(「中国研究月報」第二九二号、
一九七二年六月)、『「尖閣列島」─釣魚諸島の史的解明』(現代評論社、一九七二年一
〇月九日)がある。
 井上論文は後に紹介する楊仲撥論文に援用されている陳侃『使琉球録』(一五三四
年)及び郭汝霖『重刻使琉球録』(一五六一年)の二つの冊封使録、向象賢(羽地朝秀)
『中山世鑑』(一六五〇年)、程順則(名護寵文)『指南広義』(一七〇八年)、林子平『三
国通覧図説』(一七八五年)のほか、汪楫『使琉球雑録』(一六八二年)、周U『琉球国志
略』(一七五六年)、胡宗憲編纂『籌海図編』(一五八二年)、鄭舜功『日本一鑑』(一五五
六年)などに触れている。井上論文の特徴は、以下の諸点に要約しうるといえよう。
 まず第一に、郭汝霖使録中の「赤嶼ハ琉球地方ヲ界スル山也」の部分の解釈である。
この点について井上教授は一定の前提を付している。すなわち、冊封使たちは「まぎれ
もなく中国領の台湾の北を通り、やはり中国領であることは自明の花瓶嶼や彭佳嶼を通
り、やがて釣魚、黄尾を過ぎて赤尾に到った」のであるから、郭汝霖使録で「琉球地方ヲ
界スル」とのべている場合の「界」とは、中国とを界するものでなくてはならない、とする。
 第二は、林子平『三国通覧国説』に添付されている「琉球国部?図」についてである。井
上教授は、この地図における釣魚台などの色を問題とする。井上教授がこの地図の色を
問題にするのは、釣魚台などが中国本土と同じ色(桜色)になっている点である。同教授
はこの色の同色なることを理由に、釣魚台などが中国領であることはあきらかであると断
定する。ただし、「歴史学研究」の論文では、右の地図の色に言及しないままに、「地図
上に釣魚、黄尾、赤尾の名はあるが、琉球三十六島とは明らかに区別している」とのべ
るにとどまっていた。
 第三は、汪楫の『使琉球雑録』にみられる「中外ノ界ナリ」の文言を「中国と外国との界
である」と解し、それ故に、井上教授は赤嶼を過ぎた所(郊あるいは溝)が当時中国と琉
球との境界であった」とする。
 第四は、「籌海図編」について、井上教授は、同書の巻−は「福建のみでなく、倭寇の
おそう中国沿海の全域にわたる地図を、西南地方から東北地方に順にかかげている
が、そのどれにも中国領以外の地域は入っていないので、釣魚諸島だけが中国領でな
いとする根拠はどこにもない」ということを理由に、「この図は、釣魚諸島が福建沿海の中
国領の島々の中に加えられていたことを示している」と結論づける。
 中華人民共和国政府外交部声明の出された二カ月後に最初の井上論文が発表され、
その論文で『籌海図編』が指摘されたことは重要である。何故ならば、右の外交部声明
では「はやくも明代にこれらの島嶼はすでに中国の海上防衛区域のをかに含せれてい
た」とのべるだけで、これを立証する明代の古文書をあげていなかったのに対して、井上
論文は、これが『籌海図編』であることを指摘しただけでなく、外交部声明のこの部分をさ
らに補足説明することによって、尖閣列島の中国帰属を正当化しょうと試みているからで
ある。
 第五は、『日本一鑑』である。井上教授は中国研究月報における論文の「あとがき」で
台湾の雑誌「学粋」第一四巻第二期(七二年二月一五日)に発表された方豪『「日本一
鑑」和所記釣魚嶼』中の史料を引用するかたちで、この部分を論ずる。
 すなわち、同書の第三部にあたる『日本一鑑桴海図経』に、中国の広東から日本の九
州に到たる航路を詠唱した「万里長歌」があるが、そのなかに「或自梅花東山麓 鶏籠
上開釣魚目」という一句があり、これ鄭(筆者注。鄭瞬功)自身が注釈を加えている。
 その注解文中に、「梅花ヨリ澎湖ノ小東ニ渡ル」「釣魚嶼ハ小東ノ小嶼也」とある。小東
(台湾)は明朝の行政管轄では、澎湖島の巡検司に属し、澎湖島巡検司は福建に属して
いるが、その台湾の附属の小島が釣魚嶼であると、鄭舜功は明記)ているのである。こ
れによって井上教授は、釣魚島の中国領であることは明確であると結論づける。「台湾
が明朝の行政管轄では澎湖島の巡検司に属し‥‥」この部分は、すでに紹介した新華
社資料(北京週報第四四号)とほとんど同じ内容のものとなっている。

 (二) 台  湾
  1 中華民国政府外交部声明  七一年六月一一日に出された外交部声明におい
て、「中華民国政府は、釣魚台列嶼が台湾省、に付属して中華民国領土の一部分を構
成しているとのべたあとで、地理位置、地質構造、歴史連携ならびに台湾省住民の長期
にわたる継続的使用の理由にもとづき、すでに中華民国と密接につをがっている」として
いる。右の外交部声明はまた別の個所で、「同列嶼が歴史上、地理上及び法理上の理
由にもとづき、中華民国の領土であることは疑う余地がない」とのべている。後の部分で
は「法理上」が加えられ、反対に「地質構造」が除かれている。
 「中華民国と密接につながっている」がたんなる事実の強調に過ぎないのか、領有権と
いう法の効果を意識したものなのか、はっきりしない。「中華民国の領土であることは疑う
余地がない」とのべた部分であげている理由が領有権の論拠を示すものであれば、地質
構造上の理由と台湾漁民の継続的使用の理由は、法的な論拠ではないことになる。他
方、「密接につながって示る」とのべたところであげた理由も領有権の論拠であれば、台
湾漁民の継続的使用が法理上の理由を具体化したものなのか、それとも、別個に法理
上の理由があるものとして論じているのか、これまた曖昧である。後者であるにしても、
法理上の理由とするものが不明である。
 中華民国政府の外交部声明も、中華人民共和国政府のそれと同様、きわめて抽象的
で、具体性を欠いたものとなっている。ただ中華民国の場合は、歴史的な理由だけが、
領有権の論拠とされていない。地理上、地質構造上などの理由がこれに加っている(もっ
とも先にのべた曖昧さは残るが)。

 2  丘宏達論文  台湾国立政治大学の客員教授である丘宏達氏は国際法学者であ

が、同教授の論文の特色は、中華民国政府外交部声明にみられる領有論拠を理論的に
精緻
なものとしていることである。台湾側の領有論拠が同教授によって分析・整理され、これ
が外交部声明に反映されたとみて差しつかえないように思われる。それだけに、丘教授

論文は、台湾のみならず、中国領有論を知る上で最も重要である。
 丘教授は七一年一二月以来いくつかの雑誌に『日本対釣魚台列嶼主権問題的論拠分
析』
と題する論文を発表しているが、七二年六月の「政大法学評論」第六期に掲載された
「釣
魚台列嶼問題研究』が、代表的なものである。
 この論文で丘教授は、はじめて尖閣列島に対する台湾側の領有論拠を明らかにしてい
る。すなわち、本論文中で丘教授は、地理及び地質構造上の理由以外に、次の五つの
論拠を指摘して、中華民国の領有権を主張する。
  (1) 歴史的理由  ここでは釣魚台列嶼を発見命名したものが中国人であったことを
証明する資料として、一五世紀のものと称する『順風相送』書の関係部分と、一六世紀
以後の歴代冊封使録の名前があげられている。もっとも、丘教授は、国際法学者の立場
から、発見それ自体は一種の原始的権利(inchoale title )(日本では一般に未成熟権原
と記されている)を取得せしめるにすぎず、領域に対する完全を主権を得るには、それだ
けでは不十分であることを認める。

 (2) 使用実態  そこで丘教授は、戦前から台湾漁民が釣魚台列嶼及び付近海域を
常に使用してきた事実をあげる。もっとも、丘教授は、戦前における同列嶼の利用が日
本の台湾統治以後のことであることを認めている。さらに丘教授は、釣魚台における台
湾人の薬草採取及び沈船解体工事、国府遊撃隊の一時立寄り(舟山群島撤退時)の事
実を指摘するとともに、一九五五年の第三清徳丸事件を引き合いに出して、琉球船が釣
魚台領海内に侵入したのに対して、中国の帆船が砲撃し、乗組員三名が行方不明にを
ったことを日本自身認めていると主張する。

 (3) 釣魚台列嶼が台湾の付属諸島であることについて、丘論文は、地質構造のみな
らず、明代嘉靖年間出版の 『日本一鑑』において、明示的に「釣魚嶼、小東小嶼他」とさ
れていることを指摘、この小東とは台湾を意味することが右の文献から明らかである、と
する。
 次いで丘論文は、陳侃及び郭汝霖の冊封使録に言及し、それらによって釣魚嶼などの
琉球に属さないことが証明されているとのべている(井上論文及び後に紹介する楊仲撥
論文では、釣魚台などが中国に属することを証明する文献として、両冊封使録を扱って
いる)。
 さらに、丘教授は、清代の周U 『琉球国志略』』(一七五六年)を引用し、「中外ノ界」
(溝と称する)と記述していることを理由に、釣魚台より北方の島が中国領であったとみ
ることができると、主張する。

 (4) 琉球及び日本の資料  ここでは明治二八年以前の琉球及び日本における若干
の史料に触れ、それらのすべてに釣魚台列嶼の記載がないか、琉球帰属が明らかにさ
れていない点を指摘した後に、林子平の 『三通覧図説』 に言及する。丘教授もまた井
上教授と同様この図説に添付されている地図の「色」を問題にする。もっとも、丘教授は
井上教授と異なり、釣魚列嶼及び中国大陸だけでなく、無人島とカムチャッカ半島(堪察
加半島)とも同じ赤色となっている点に注目するが、結局、この場合の無人島とは、小笠
原群島を意味する固有名詞であると解し、釣魚台などは無人島として赤色になっている
のではなく、中国領であるための赤色である、と断定する。

 (5) 日清講和条約第二条との関係  丘論文は日清講和条約第二条の領土割譲範
囲(台湾及びその付属島嶼)に、釣魚台列嶼も含まれていたと解する。ただし、丘教授
は、日清講和会議の経緯からその事実を証明しているわけではない。丘論文が指摘す
る点は第一に、尖閣列島の日本領土への編入決定と日清戦争との事実関係であり、第
二に、日本が日清講和条約を待たずにそれらの島々の編入を行ったのは、地質釣に同
質であるため、釣魚台列嶼が台湾の付属諸島であると公然と認定できたからであり、第
三に、このような日本の措置に清朝が抗議を行わなかったのは、右のような理由から、
法的に抗議を行う意味をもたなかったからである、とする。
 このように丘論文は、間接的もしくは推定的方法で、日清講和条約第二条と釣魚台列
嶼の関係をのべているにすぎない。丘教授が七一年一二月の論文で「少くとも部分的に
は」とか「ある程度までは」といった表現を用いてその関係を説明しているのも、そのため
であろう。もっとも、丘教授は、あらかじめかかる関係のもつ意味を補強させるべく、地理
的接近の原則とか、歴代冊封使が常時航路目標として使用してきた事実とか、一八九三
年に西太后が盛宜懐に釣魚台などを下賜した事実を指摘し、それらによって釣魚台列嶼
の台湾領有権は確定しでいるとの立場をとる。
  3 楊仲撥論文  台湾の歴史学者楊仲撥氏によって尖閣列島の中国領有を証明す
るものとして示された資料は、陳侃及び郭汝霖の両冊封使録、琉球の文献で羽地朝秀
(向象賢)『中山世鑑』、同じく名護寵文(程順則)『指南広義』、日本の文献で林子平『三
国通覧図説琉球国部分図である。
 楊氏はこれらの文献から尖閣列島の中国領であったことが側面的に証明されたとする
が、特に、郭汝霖使録中の「赤嶼ハ琉球地方ヲ界スル山也」の文言は、赤嶼が中国と琉
球との接する山という意味であると解釈する。また『三国通覧図説琉球国部分図』を検討
して、尖閣列島の琉球に属さざることが側面的に説明されているとする。
 以下楊仲撥論文のこの部分を抄訳紹介しておくこととする。
 『尖閣列島の中の釣魚島、黄尾嶼、赤尾嶼は、わが明清両朝の琉球諸天子に対する
冊封の記載にはじめて見出される。中国の琉球冊封は明の洪武元年にはじまるが、完
全な記録として保存されているのは、嘉靖一三年の陳侃からである。陳侃の「使琉球録」
によれば、この年五月一一○日、南風ハ強ク、船ハ飛ブゴトク走ル。然モ海流ニ沿ツテ
下ルノデ、余リ揺レナイ。平嘉山ヲ過ギ、釣魚嶼ヲ過ギ、黄尾嶼ヲ過ギ、赤嶼ヲ過グ。目
接スル暇ナシ。
……一昼夜デ三日分ノ航程ヲ走ツタ。夷国ノ船ハ帆ガ小サク、追イツクコトガデキズ、後
ニ見失ツタ。一一日夕、古米山ガ見エタ。コレ即チ=琉球ニ属スル=モノ也」(仲按琉球親
日正史之一「中山世鑑」は、陳侃使録のこの数段を掲載している)。
 次に、嘉靖四一年郭汝霖が琉球に使した際に、次のように記している。「五月二九日、
梅花ニ至ツテ海ガ開ケル。‥‥三〇日黄茅ヲ過ギ、閏五月一日釣魚嶼ヲ過ギ、三日赤
嶼に至ル。赤嶼ハ琉球地方トヲ界スル山也。…・」
 大抵冊封使は福州から出発し、まず基隆を目標(すなわち鶏籠山)として、その後東に
向い、順次彭家山(平嘉山、彭佳山)、花瓶嶼、釣魚嶼、黄尾嶼など、いわゆる尖閣列島
地区を通った。
 また清初の琉球籍め華裔学者程順則氏は、?へ福建琉球双方の老年の船乗りを訪問
して談合したところにもとづき「指南広義」を著しているが、その中で「福州カラ琉球へ行ク
ニハ、?安鎖ヨリ五虎門ヲ出テ、東沙ノ外側デ海洋二向ッテ走ル。単辰(南東)針或ハ乙
辰(東南東)針ヲ用イテ一〇更進ミ、鶏籠頭花弁嶼、彭家山ヲ目印二取ル。鶏籠山ヲ山ノ
北側依リ見テ、其レガ見レバ船ハココヲ通過サセル。以下ノ諸山モ皆同ジデアル。乙卯
(東南東)針並二単卯(東)針ヲ用イテ一〇更進ミ、釣魚台ヲ自印二取ル。単卯(東)針ヲ
用イテ四更進ミ、黄尾嶼ヲ見印二取ル。寅(東北東)或ハ卯(東)針ヲ用イテl O更又ハ一
一更進メ、赤尾嶼ヲ目印ニ取ル。乙卯(東南東)針ヲ用イテ六更進ミ、姑米山−琉球南西
側ノ境界ノ山ーデアルヲ目印ニ取ル」
 日本の天明五年、清の乾隆五〇年、林子平は「三国通覧図説琉球国部分図」を描き、
宮古、八重山、釣魚台、黄尾山、赤尾山をどを詳しく加え、とりわけ、宮古、八重山の二ヵ
処は支配権が琉球に属すると説明しているが、側面の説明では、釣魚台などは琉球に
属さない、としている。
 以上のべたこと及びその他の中日学者の研究資料から、我々は次の三点を理解する
であろう。

 (1)いわゆる尖閣列島は、古来から中国、琉球間の海上航路の標識とをっており、もっ
ともはやくは中国の史籍にみえる。

 (2)中国の天子の記載と清初の琉球学術書作(指南広義)は、すべて前後してあるい
は側面から釣魚島などの島々はもともとわが国の所有であることを指摘ないし説明して
いる。したがっで、諸家は姑米山が琉球の境界と説明し、郭汝霖が「赤嶼ハ琉球地方トヲ
界スル山也」とのべているのは,赤嶼がわが方と琉球との接する山という意味である(三
は省略)』(楊仲撥 『尖閣群島問題』 中央日報七〇年八月二二日及び八月二三日)。
 楊仲撥氏はこのほか「文書復興」七〇年六月号と同誌七一年一〇月号」、それぞれ 
『琉球日本史籍所見釣魚台列島嶼』、『従史地背景着釣魚台列島』と題する論文を発表
しているが、前者は、右の中央日報論文に新しいものを付け加えていない。後者の論文
においては、さらに嘉靖年間(一四五六年〜一五六七年)の海図及び「郭開陽雑著」の
中に、釣魚台列嶼の見出されることを指摘している。

  4 その他  このほか台湾側の文献として重要なものは、『国際法からみて釣魚台の
主権は誰に属するか』と題する「七〇年代社」出版の『釣魚台事件真相』に掲載された無
署名の論文及び 『魚台主権と大陸棚劃定問題』と題する「学粋」第一四巻第二期(一九
七二年)に発表された陶龍生論文、並び台北「僑訊半月刊社」から出版された『釣魚台
列嶼問題釈疑』(七一年五月刊)と題する無署名論文である。
   イ、「七十年代社」論文  本論文法、次の四つの論拠をあげて、釣魚台などの台湾
領有を主張している。

   (1) 日本は、台湾島とこの列島を一体のものと考え、かつ清政府が割譲したものと
して、甲午戦争の翌年になって、ようやく釣魚台島に対する古賀氏の借地権申請を認め
た。

  (2) 一九四一年、日本が占拠していた時代の台北州は、釣魚台漁場を保有するた
めに沖縄(琉球)群と裁判で争い、一九四四年日本の裁判所は、判決で、釣魚台列島が
台北州の管轄下にあることとを確定した。右の日本の裁判所の判決により、日本の明治
二八年の内閣決定(筆者注。同年一月一四日沖縄県所轄とする旨の閣議決定のこと)
は、その法律上あるいは行政上の効力を失なっている。

  (3) 戦後中国は一貫して同列島に対して主権を行使してきた。たとえば、数十年来
台湾漁民は常に多数をなしてこれら列島の三浬以内の海域で操業しでおり、列島の断
崖を避国港として利用している。また、台湾水産試所の試験船が長年にわたって、列島
の海面での魚群調査を行っている。さらに龍文工程実業公司は、台湾「政府」の許可を
得て、数年来この一帯の海面で、沈没船の引上げ作業をしており、しかも、釣魚台と黄尾
嶼に作業員の寮をたて、トロッコ道などの工事を行っている。これらすべて中国がこの列
島に絶えず主権を行使している事実である。

  (4) 仮に上記論証がいずれも存在しないとして、国際法上釣魚台列島の主権がい
ったい誰に属するかを判定する根拠のない場合、衡平の原則が本紛争を解決する補助
的手段となるべきである。衡平の原則にもとづいて本件をはかるならば、紛争発生前の
一時期内に紛争国と列島の関係が疎遠であったか近密であったか,紛争国とこの紛争
地域の利害関係の軽重、紛争地域と紛争国の地理関係はどうか、などの事項を考慮し
て、主権の帰属を決定すべきである。
 ところで第二次大戦終了後、釣魚台列島海域で操業する漁民はすべて台湾からきてお
り、かつ毎年同海域からの漁獲量は、台湾の毎年の漁獲量の重要部分を構成してい
る。これに反して釣魚台列島と日本あるいは琉球とはとりたてるほどの関係は何もなく、
いわんや地理上この列島と台湾島はともに中国大陸棚の東縁にあり、中国との近隣関
係も、日本あるいは琉球よりはるかに密接である。
 一九五八年大陸棚条約の「隣接の原則」は、衡平観念の下で列島の主権帰属決定に
対して、日増しに重要となってきており、かつ地質学上からみると、釣魚台列島は、中国
大陸棚から海面に突き出た八つの大小の礁石であるから、この一帯の大陸棚の資源開
発権が隣接国(すなわち中国)にあるだけでなく、衡平原則の下で、この大陸棚上の岩
礁列島も、中国に帰属すべきである。この論文は、このほか「順風相送」航海図を指摘
し、列島を最初に発見したのは中国である、としている。ただし、そのことが中国の領有
権確定にどのような効果をもつかについては触れていない。
   ロ、陶龍正諭文  本論文の著者は、中国が列島の主権を得する前の同島が無人
小島であったことを指摘し、野際法上において無人島の主権を取得する最も重要な方法
は、発見と発見後の官憲の確認であるとする。そこで陶氏は一五五五年の『日本一鑑』
(鄭舜功)のなかで釣魚台が「台湾の小島」と記載されている事実を、中国人による釣魚
台発見の歴史的証拠であるとし、さらに中国政府の確認について清末(明治二六年)西
太后が釣魚台を盛宜懐に賜与したと称する文書を、右に該当する証拠であると主張す
る。
 陶龍生氏は、ここで一九三三年のクリッパートン島仲裁判決を採用し、完全に人の住ん
でいないょうな土地に対しては、これを占有する国家が現われたときは、右の土地に対す
る当該国家の処分を争うことはできず、したがってこのとき以後、占有はすでに完成した
とみることができるとする。
 かくして論者は、日本人あるいは琉球人が釣魚台を侵入した当時は、単純な無人島嶼
ではなく、法律上中国に属するものであったこと、原始的発見の原則が確立して以後釣
魚台に対して、中国は法律上の基本証拠を有し、その他の国家がもし列島に対し権利を
主張する場合には、かならず挙証責任を負うこととなると結論づけている。
  ハ、 「僑訊半月刊社」  『魚台列嶼問題釈疑』 と題するこの無署名論文は、論文第
三節「当事国及び関係国の釣魚台列嶼の主権に対する主張と見解」の第三項「わが国
政府の主張と態度」において、中華民国政府外交部声明が列挙した領有論拠に内容的
を補足説明を加えたものとなっている。
 その第一は歴史的浬由であるが、論旨において楊仲撥論文と異なるところはない。た
だこの論文で注目すべきところは、楊仲撥氏が冊封諸使録の文言の解釈から尖閣列島
が中国の領土であったと結論づけるのに対して、本論文はそうした解釈を直ちにとらず、
監察使(筆者注。冊封使のこと)の記録中に「釣魚台は中国の領土であるとは述べてい
ない」ことを認めた上で、だが、「釣魚台は絶対に琉球の一部ではなく、赤尾礁から東に
行ってやっと琉球の一部であるということがすでに明白に表示されている」とする。
 第二は地理的理由をのべるが、ここでは、台湾と釣魚台、中国大港沿岸の各島嶼の地
質構造がみを同一であることを指摘するとともに、東シナ海海底の地形の状況を説明
し、結論として、「急降下じている琉球海溝は、地質構造と地理的位置からみれば、釣魚
台列嶼と台湾・中国との関係の方が、琉球と比較してはるかに深いことを強調する。
 第三は実際的使用の理由をのべているが、台湾漁民の操業と列島の利用に関するこ
こでの言及は、七〇年代社論文のそれと大同小異である。
 最後に法理上の問題にに触れているが、中国側からの法理というよりは、日本の主張
に対する中国側の法理上の反駁を行っている。しかし、この部分の論旨もその大部分は
これまでに論じられた域を出るものではない。ただここでは、日本の尖閣列島の領土編
入が明治二八年一月一四日の閣議決定でなく、日清戦争終結後の明治二九年四月一
日の勅令一三号によったと誤った前提に立っているため、厚関条約第二条の規定によ
って台湾とその付属諸国が日本に割譲された後に、釣魚台列嶼を領土編入したにすぎ
ず、したがってこの種の日本政府のとった内部行政区分はいかなる国際的効力も具えて
いないと結論づける。



四、中国及び台湾の領有諭批判
 (一) 国際法の観点からの批判
 尖閣列島の帰属に関する中国領有論(中華人民共和国及び中華民国によって主張さ
れる領有論)は、すでに明らかなように、二つの相異なる方法によって、すなわち、一つ
は、歴史的観点からの方法によって、いま一つは国際法の観点からの方法によってなさ
れこている。もっとも、この方法に対する力点の置き方は、中国と台湾では異なってい
る。すをわち、中国が歴史的観点と圧倒的な力点をおいているのに対して、台湾は歴史
と国際法の観点の両者を交錯ないし相互補完させる方法にとって領有権を主張する。
 ところで本論を進めるにあたっての問題の焦点は、一八九五年(明治二八年)以前にお
ける尖閣列島の法的地位である。日本が国際法上の無主地とみなしてきたことはすでに
のべた通りである。これに対して中国と台湾はすでに中国であったと主張する。
 中国と台湾にとっで尖閣列島が一八九五年以前に中国領であったことを立証しえない
場合、日本は自国の領土であったと主張しているわけではないから、その結果として国
際法上の無主地であったということになる。このようにみてくると、この間題に関するかぎ
り、立証責任は、中国と台湾にあるといえよう。
 他方、日本の場合は、一八九五年(明治二八年)一月一四日の閣議決定によってわが
国の領土(沖縄県)に正式編入して以後の尖閣列島に対して、領有権確定に必要な国際
法上の先占の要件を満たしてきたかが問題になる。しかし、この点については、すでに本
稿の冒頭(尖閣列島の法的地位)で触れた通り、である。
 ここで各論に入る前に、総論的な問題としてわが国の領有主張を批判するにあたって、
中国領有論者によって、大別二つのことが指摘される。その一つは、井上教授によって
主張されるものであるが、先占の法理を殖民地主義、帝国主義の法理として無効論を展
開していることである。いま一つは、中国領有論者のすべてによって、若干のニューアン
スのちがいはあるが、日本が領土編入した時期をとらえて、日清戦争の勝敗が確定した
ときにその勝機に乗じて、台湾の付属諸島の一つであった尖閣列島を清国から盗取した
とする主張である。

  1 先占の法理の有効性  そこでまず第一の問題に関して批判を加えるとすれば、
実効的支配を要件とする先占の法理は、現代の国際法の下でも依然として有効をもので
あるということである。国家実行、国際判例及び学説のいずれもこの法理の有効性を否
定していない。
 先占の法理が成立した動機(ヨーロッパ諸国による植民地獲得の過程において成立し
たこと)を理由に、このようを法を認めないとする主張は、法の成立動機とその法の効力
とを混同した議論である。もしこのような主張に法的効果を与え現実の国際社会に適用
すれば、アメリカ合衆国、カナダ、ラ米諸国の大部分、オーストラリア、ニュージーランドな
どは、国家としての法的存在さえ否定されることになる。中国もまた台湾、チベット、内蒙
古、東北地方(旧満州)のかなりの部分、日本も北海道、南千島、小笠原諸島などに対す
る領有権を認められないことになる。
 第二次大戦後A・A地域の大部分は旧殖民地本国の支配から脱し、主権国家としての
地位を獲得したが、旧殖民地本国との主権譲渡協定によって決定された領域の範囲
は、若干の例外はあるが、旧植民地本国が先占の法理よって取得し、行政的な範囲を
定めていたところに準じている。仮に、アフリカ地域に対して適用された先占の法理が無
効ということになれば、旧オランダ領、イギリス領、フランス領、ポルトガル領、スペイン領
など(旧植民地諸国のアフリカにおける領域範囲は人為的をものであり、先占の法理に
したがったものである)の区別なく、独立したアフリカ諸国自身によってそれぞれの領域
範囲を決定しなければならなくなる。
 だが、このような主張はとうていアフリカにおける国際法秩序の安定にとって耐えられ
るものではない。アジア・アフリカ諸国自身もそうした主張をおこなってきたわけではな
い。反対に、中印紛争にみられるごとく、インドは、旧植民地本国であったイギリスの先占
にもとづく行為(たとえば、マクマホン・ライン)を理由に、自国の領有権を主張している。
 さらに、歴史的観点に立ったとされる尖閣列島に対する中国領有論の大部分は、いわ
ゆる発見、命名、領有意思の存在だけで,領有権の帰属が決定されるとする主張に等し
い。だが、そうした主張の歴史的淵源自体、初期の先占の法理に存在したものである。
歴史的主張であってもこれによって法の効果=領有権の帰属=を期待するのであれば、
やはり広義において法の主張であるが、そのような法の背景にあるものは、初期の植民
地獲得の法理として威力をふるった先占の法理の内容と、実体において等しいことにな
る。

  2 日清戦争との関係   わが国が尖閣列島を領土編入した明治二八年一月一四日
という時期は、すでに日清戦争において日本の勝利が確定的となり、講和予備交渉が始
まろうとしていた時期である。台湾を日本に対して割譲することについて、列国の承認も
取り付けていた時期である。そうした時期に政府が尖閣列島の沖縄県編入を認めるに至
った背景に、台湾をも失なうことを認めた清国政府が、無主地の取るに足らない諸島嶼
(尖閣列島)の帰属をめぐって争うことはないであろうとの政治的判断があったことは想
像にかたくない。尖閣列島のわが国領土編入に日清戦争も勝敗の帰趨が関係していた
ことは事実であったといえよう。
 しかし、そうした時期に日本が尖閣列島を領土編入したことが、ただちに中国の領土を
盗取したということにはならない。そのためには当時尖閣列島が中国であったことが立
証されなければならない。中国の領土でもなかったものを日本が盗取しうるはずがない
からである。むしろ、日本が日清和条約の成立を待たず尖閣列島を沖縄県の所轄として
決定したこと自体が、これを中国の領土とみなしていなかったことを示しているといえよ
う。
 何故らば、日本の側に少しでも尖閣列島が中国領であるとの疑念を抱いていたのであ
れば、尖閣列島を日清講和条約第二条における「台湾の付属諸島」として扱い、清国に
対しこれを条約上の明確な義務としてわが国に割譲せた方が、領土の国際法上の処理

て賢明であると考えたであろうからである。
 他方、清国の側からすれば、日清講和条約第二条の台湾の付属諸島として尖閣列島
を扱わなかった場合─そうして事実日本はそのようなものとして扱わなかった─、当該条
約によって割譲された領土の範囲に含まれなかったことになる。それ故、清国政府とし
て、先占による自国の領土であるとして、又は、日本の領土編入に対して反対の意思を
表明することを、日清講和条約に拘束されることなく、いつでも可能なものとしていたこと
になる。 仮に、当時の清国政府が右のような国際法の手続きをとっていたのであれば、
少くとも、その後の七六年に及ぶ日本の平隠裡な実効的支配をその時点で中断させるこ
とができたことになる。今日のように尖閣列島の中国帰属を主張するにあたっても、その
ことが中国にとって大きなプラスになっていたであろう。しかし、当時の清国政府はこれす
らも怠ったのである。
 3 領有意思(発見、命名)  丘宏達教授は、尖閣列島の島々を発見、命名したものが
中国人であっことの証拠として『順風相送』書をあげる。丘教授によればこれが十五世紀
のものとされているが、そのことはかなりの疑問があるといえよう(詳細は省略)。ただ、
同書にみられる『福建往琉球』の三通りの針路のうち、第三の針路について「梅花から
の開洋」としでいることから、一六六三年以前のものであることは確かなようである(それ
以後は土砂などの流入によって梅花からの関洋が困難になったため、五虎門に移る)。
 もっとも、『順風相送』書がいつ出されたかは、あまり重要ではない。十六世紀に陳侃の
冊封使録があり、釣魚台などを記載した最古の文書としてこれを扱っても、それ以前に釣
魚台などを記載した流球側の古文書はないからである。ただ、釣魚台などを記載した最
初の古文書が中国側にあることは、かならずしも、釣魚台などが中国人によって発見さ
れたとか,中国人によって命名されたことにはならない。また、単に釣魚台などの文字が
文書に残されでいることをもって、中国の領有意思を証明するものでもない。陳侃などの
古文書はすべて針路の目標としてこれらの島々を記載したに過ぎず、発見とか命名が自
分たちによってなされたことを指摘していない。釣魚台などに対する領有意思の表明も、
まったくなされていない。なお、この点についてはさらに歴史上の論拠批判のところで補
足説明することにする。
 釣魚台などが中国人によって発見、命名されたとするのは丘安達教授だけではない。
陶龍生氏もまた同様の立場をとる。ただ、陶氏は、一五五大年の『日本一鑑』をその歴
史的証拠とする。陶氏が陳侃使録(一五三四年)をそうした証拠として扱わなかった理由
は明らかではない。もっとも、陶氏は発見・合名の事実だけでは不十分であり、中国政府
の確認を要するとする。、このことから、陶氏が『日本一鑑』の「釣魚嶼は小東の小嶼也」
をもつにしても、釣魚嶼に対する中国の領有意思は証明されていないとみていることが
分かる。陶氏がそうした考えを持った理由としては、同書は公文書でないとする認識があ
ったのであろう(そうしてこの点はまさに正しい)。他方、陶氏は、中国政府による確認の
事実として、慈禧太后(西太后)が釣魚台などを盛宜懐に下賜したと称する文書をあげて
いる。

 4 実効的支配  丘宏達教授もまた西太后の御墨付を問題にする。ただし、丘教授は
この文書を陶龍生氏のように単に領有意思確認の証拠としてではなく、清朝による釣魚
台などに対する統治行為−実効的支配の証拠として扱っている。丘教授は、西太后が
「釣魚台などを盛宜懐に下賜した行為をもって、「釣魚台列島に対して清朝が統治にいた
らざるとはいえない」証拠として、ごくわずかな行政行為しか行なっていなかったとしても、
このようないくつかの無人の小島に対して、多くの統治権を行使することが事実上不可
能である点を強調する。
 丘教授が西太后の御墨付を実効的支配の証拠としたのは、発見それ自体は一種の原
始的権利を取得せしめるに過ぎず、領域に対して完全を主権を得るには、それだけで不
十分であると認識していたことによろう(事実教授自身によってこの点が指摘されてい
る)。そうしてこの点は、陶龍生氏と見解を異にする。陶氏は、一九三三年のクリッパート
ン島事件(フランス対メキシコ)の仲裁裁定を引用し、完全に人の住んでいないような土
地に対しては、領有意思だけで十分である、としている。
 しかしながら、そのためには、最初に領有意思を表明した国が、後に占有を行うとした
国に対して合理的期間内に抗議を行う必要があるのであって、西太后の御墨付下賜か
ら七十八年間も、日本あ尖閣列島に対する実効的支配を黙認してきた場合にあてはま
るものではない。
 だが、このことを別にして陶龍生氏が西太后の御墨付を実効的支配の証拠とみなさな
かったことは興味がある。しかも、陶氏が領有意思の表明だけで領有権が確定する法理
を展開したことによって、陶氏自身一八九五年以前に、中国が尖閣列島を実効的支配し
ていた事実のなかったことを認める結果となった。他方、丘教授は先にのべたように西
太后御墨付を実効的支配の証拠としているが、そのことはとりも直さずこれ以外に中国
側に実効的支配と称し得る証拠のないことを間接的に示したことになる。
 しかも、この西太后の御墨付と称するものの信憑性自体がきわめて疑わしい。この点
は丘教授も問題にし慎重に調査中であると断わっている。だが、仮にこれが真正なもの
であったとしても、尖閣列島に対するわが国の領有権を左右しうるようなものでないとい
えよう。何故ならば、先にのべたこの間題に関連する批判に加えて、この程産の事実を
もって国家の統治行為をみなすのであれば、日本は西太后の御墨付下賜(一八九三年)
の八年前にすでに尖閣列島に対していっそう明確かつ直接的な主権を行使していたから
である。すなわち、明治一八年(一八八五年)政府は、沖縄県に対して尖閣列島について
の事情聴取を命ずるとともに、沖縄県の要請にもとづいて、列島の港湾などの形状なら
びに開拓たどの見込みについての現地調査を許可、これによって沖縄県は出雲丸を派
遣して実施踏査を行ない、その調査報告書(出雲丸船長林鶴松ならびに沖縄県五等属
石沢兵吾報告)を政府に提出している。
 このほか丘教授を含む台湾の論文には、中国人による尖閣列島の利用行為として、
(イ)冊封使による航路目標としての利用行為、(ロ)台湾漁民による列島での操業行
為、(ハ沈船解体工事とこれに付随する若干の施設構築などをあげている。もっとも、こ
の場合の利用行為を実効警配の証警して指摘しているかについては一間慧雪。しかし、
これを実効的支配の証拠と考えていないのであれば、こうした事実を強調することは法
的にはあまり意味がないことになる。だが、仮に、実効的支配の証拠として扱ったと考え
てみた場合でも、(ハ)についてはごく最近の事実であり、(ロ)ついても、丘教授によって
指摘されるように日本の台湾統治時代以後のことであるから、いずれも、尖閣列島がわ
が国に領土編入されて以後の行為である。したがって、一八九五年以前のものとして
は、(イ)だけである。(ロ)(ハ)については、そうした行為が国際法上の実効的支配とみ
なされるかについては完全に疑わしいが、仮にそのことを無視するとしても、わが国の実
効的支配の事実と比べて、領有権の優越的主張を行いうるようなものでは全然ない。そ
れ故、まったく問題にならない。
さらに、航路の目標として利用したという事実が、国際法上の実効的支配となりえないこ
とはいぅまでもない。島に浮標や照明を設置する行為すら、そうし行為を行った国家の領
有意思を十分に証明しえないとする国際判例(一九五三年マンキェ及びエィクレフ諸島事
件に対する国際司法裁判所判決)からみて、たんに物理的に存在していたという理由で
航路の目標にしえたに過ぎない行為が、実効的支配となりえないことはいうまでもない。

  (二) 歴史的観点からの批判

 1 明代における台湾などの法的地位  歴史的観点からの中国領有論の論拠は様々
であるが、尖閣列島の島々が明代から中国領であったこと、赤嶼と久米島の間が中国と
琉球との境界であったとする点で共通する。そこからいま一つの共通する論理の前提が
存在する。それは福州かを開洋する明、津両朝の冊封船が琉球の久米島にいたるまで
の航路上に位置する台湾、鶏籠嶼、綿花嶼、花瓶嶼もまた当時においてすでに中国領で
あったとする前堤である。釣魚台などの島々を記載した最初の古文書は陳侃の『使琉球
録』であるが、これは一五四三年に書かれたものであるから、右にのべた島々はこれよ
り前から中国領であったことでなければならない。
 もしこの前堤が崩れた場合、赤嶼が中国の極東の界=琉球との境界とする解釈は成
り立たたないことになる。同様にそのような前提に立った上での釣魚台などが中国領で
あるとする論理解釈も破綻をきたすことになる。それ故、釣魚台などが中国領であった
か、赤嶼と久米島の間が中国と琉球との境界であったかを検討する前に、中国領有論
者に共通するそうした前提そのものの検討を行わなければならなぃ。
 この点に関連して指摘しておく必要があるのは、井上論文である。井上清教授は、釣魚
台をどの手前にある台湾を「まぎれもない中国領」であるとし、また花瓶、彭佳嶼などを
「自明の中国領」であるとしている。これに対して台湾の楊仲撥氏や丘宏達教授はこの
点まったく触れていない。ただ、台湾の歴史学者方豪氏が『日本一鑑』における「釣魚嶼
は小東の小嶼也」に言及した際に、小東」(台湾)に触れ、小東は明朝の行政管轄では
澎湖島巡検司に属し、彭湖島巡検司は福建に属していたとのべて、台湾が福建省に隷
属していたことを間接的に指摘している。井上教授はこの方豪論文を鵜呑みにし、先の
論理を展開したのである。
 他方、すでに紹介した中国の新革社資料(七一年一一月二四日北京週報第四四号)
は、「一三世紀の中葉、当時の元朝政府は彭湖に巡検司を設けて、台湾などの島嶼を管
轄させた。この巡検司は泉州路の同安県のもとにおかれた。それ以来台湾は正式に中
国の版図に組み入れられたのである」とのべて、台湾が明の前の元の時代に澎湖の巡
検司のもとにおかれていたとする。
 だが、台湾が元又は明代に中国の版図に編入されていたとする事実は中国の古文書
には見当らない。戦後の台湾の公文書なども台湾の版図編入を清朝以後として扱ってい
る。
 元来の至元年間に潜湖に巡検司がおかれたことは事実である。その澎湖が福建省同
安県に隷属していたことも事実である。しかし、澎湖の巡検司が台湾をも管轄下におい
ていたとするのは事実に反する。しかも、澎湖の巡検司制自体が一三八八年に廃止され
ている。これは、この地域が倭寇などの潜入地となっていたため、住民を強制退去させ、
福建省の?泉二府の間におき監視することとなったためである。したがって、明代には澎
湖の巡検司制度さえなかった。
 台湾が中国の版図に編入された年は、一六九六年の高洪乾撰『台湾府志』によれば、
康煕二十年とされている。すなわち、『台湾府志』は「台湾自康煕二十年始入版図」「上
二十一年特命晴海将軍俟施公、師率討平之、始入版図、置部邑」と記している。この『台
湾府志』はその「序」でそれ以前の台湾について解説し「台湾孤懸海外、歴漢唐宋元所
未聞伝、自明季天啓間方有倭奴」と誌し、十六世紀中葉までの台湾が原住民以外に若
干の倭寇、海寇がごく一部の地域(鶏籠と台南の一部)に蕃拠していた程度で、いかなる
国家の支配も及ばざる地域であった。
 もっとも、『台湾府志』が版図編入を康煕二十年としたことは後に訂正され、一七六五
年の余文儀撰『続修台湾府空』似後の清朝公文書は、康煕二十二毎としている。したが
って台湾が中国の版図に始めて編入されたのは一六八三年ということになる。次に、綿
花、花瓶、彭佳三嶼の台湾への行政編入の時期についてであるが、第二次大戦後の一
九五四年に台湾で刊行された基隆市文献委員会編『基隆市志』によれば、光緒三一年
(−九〇五年)のことで、この年轄区の再調整が日本政府によって行われ、これらの
島々を行政編入したことを明らかにしている。同様に、一九六五年の『台湾省地方自治
誌要』も、日清戦争前の台湾省の北限が鶏籠喚であること、影佳喚をどが台湾省の範囲
に入れられたのは、日本が台湾を統治していた時代であると説明している。

  2 古文書の検討  以上の検討によって陳侃(一五三四年)の渡琉−四九年後、ま
た郭汝霖(一五六一年)の渡琉一二一年後に台湾がはじめて中国の版図に入ったことが
明らかになった。また、汪楫が冊封誌として渡流した翌年帰国の年に台湾が版図編入さ
れている。このほか鄭舜功 『日本一鑑』(一五五六年)、鄭若曽 『籌海図編』(一五六二
年)の時代にも、台湾は中国の版図に入ってなかった。一方、林子平『三国通覧図説』
(一七八五年)の時代には、すでに台湾は中国の版図に入っていたが、当時の古文書、
たとえば、周鐘?『諸羅県志』(一七一七年)巻一「疆界」は、台湾県の北界を大鶏籠山と
記し、同様に、陳培桂『淡水廳志』(一八七一年)巻一「封域志・疆界」も大鶏租山を沿海
の極北の地としていたことから、釣魚台などは勿論のこと、綿花、花瓶、彭佳嶼も中国領
ではなかったことが明らかである。
 中国領有論者によって指摘された古文書についての一般的な批判は右にのべたごとく
であるが、以下、各古文書について、さらに補足批判することにする。
  イ  陳侃及び郭汝霖使録  陳侃は冊封使録のなかで久米島にいたって「すなわち
琉球に属する者ばり」と書いているが、その後を続けて「夷人は船で鼓舞して家に達した
ことを喜んでいる」とのべている。つまり、陳侃は、琉球人が家に帰れたと喜んでいる様
子をみて、この島が琉球領であることを実感としても理解しえた。これが「乃属琉球者」と
なって残されたのであろう。他方、厳従簡『殊域周沿録(一五八二年)巻四「琉球国」によ
って、陳侃が琉球人に久米島のことを質問して、そこが琉球領であることを知った、とさ
れている。これによって陳侃はたんに実感としてだけでなく、正確を期するために琉球人
に質問していたこととなる。
 このようにみてくると陳侃は、福州から那覇にいたる間に散在する島々のどこからが琉
球領であるかについて、琉球人に聞くまでまったく知らなかったことが分かる。このこと
は、裏を返していえば、赤嶼までが中国領であるといった認証もまたなかったことを示唆
している(そうした認識があれば、次の島が琉球領であることを理解していたはずである
から、琉球人に久米島のことを聞く必要もなかったことになる)。
 同様に、次の郭汝霖が赤嶼のところで「赤嶼者界琉球地方山也」と書いているのも、こ
の島が琉球と中国とを界するものであると考えたからではなかった。郭汝霖が右のよう
な文言を残したのは、おそらく、次のような理由によるものであろう。すなわち、汝霖は陳
侃の二八年後に琉球へ赴いたのであるが、かれ以前に冊封使録は陳侃しかなかった。
それ故郭汝霖が陳侃使録を手引として琉球へ渡ろうとしたとしても不思議ではなく、むし
ろ当然であったといえる。実際にも、かれの使録(巻一)には、福州から渡洋して那覇へ
いたるまでの陳侃使録が転載されている。その陳侃使録に「久米島が琉球に属する」と
書いてある。すでにのべたように陳侃は琉球人よりそのことを知ったが、汝霖は、陳侃が
そのことを使録に残していたので、福州を出港するときから知識としてその事実を知って
いた。したがって、汝霖は赤嶼にいたるや次の島から琉球領に入ることを認識すること
ができた。それとともに、それをらば赤嶼はあたかも琉球領を界するかたちになっている
と考えたのであろう。汝霖が右の文言を残したのはこの理由によってあったと想像しうる
のである。

  ロ 鄭舜功『日本一鑑』  同書は当時の明朝の公文書ではない。鄭舜功は、かって
密偵としての任務を持つ者であったが、『日本一鑑』をまとめた当時は胡宗憲の前任総
督の失脚とともに、配者のうきめをみていたわけであるから、公文書を書き得る地位にな
かった。しかも、鄭舜功は同書をまとめるにあたって、寧波に館をかまえていた多数の日
本人から海上知識の大部分を得たことを明らかにしている。鄭舜功はそのようにして得
られた知識から「釣魚嶼が小東の小嶼」であることを知ったにすぎない。明朝が釣魚嶼を
公的にそのようなものとして扱っていたから、そのように記述したということではない。鄭
舜功の依拠した文献が陳侃使録であったことも、陳侃の理解の域を出るものではなかっ
た。

  ハ 郭若曽『籌海図編』  井上教授は同書巻一「福建沿海山沙図」をもち出して、そ
の中に釣魚台などの見出されることをもって、それらが中国の島嶼とみなされていたとす
る。だが、大体、沿海図といった性格のものは、かならずしも、自国の領土だけでなく、そ
の付近にある島々や地域を含めるものであって、たとえば、日本の沿海図であれば、朝
鮮半島の南端の一部が含まれることもあるし、台湾省の海図では、与那国島や石垣島
をども示されるのが普通である。
 むしろ、『籌海図編』を引用するのであれば、同書巻一の一七「福建界」が当時の福建
省の境界を示すものとして適当であるといえよう。そうして、この地図に示されているのは
澎佳山(澎湖諸島)までであって、小琉球(台湾)、釣魚台などは描かれていない。

  ニ 汪楫『使琉球雑録』 同書にみられる「中外之界」は、当時一般に「溝」(黒水溝)
ど呼ばれていたところを船上で「郊」と呼ぶものがおり、そこで汪楫が「郊」とはどういう意
味かを問い、これに相手が「中外之界」と答えたところに出てくる。舟子たちが「溝」を「中
外之界」と名付けていたことは、汪楫以前の二人の冊封使録=夏子陽『使琉球録』(一
六〇六年)及び張学礼『使琉球記』(一六六三年)にも明らかにされていた。
 そうしてこの二つの冊封使録では、丹子たちが「中国からもはやそんなに遠くない」「大
洋に入った」「分水洋を過ぎた」とのべているところで「中外之界」が出てくることから、そ
れが東シナ海の浅海(?海)と琉球の西を北東に流れる黒潮との境にあたる潮の流れの
段差を示す部分を指すことは明らかである。この点は、後に周Uが「琉球国志略」(一七
五六年)で「琉球の周囲は皆海であり、西方の海は黒水溝によってへだてられており、黒
水溝は?海との境をなしている」とのべることによって十分明らかにされている(この点は
李鼎元『使琉球記』でも指摘されている)。
 汪楫は、舟子との問答をそのままで記述するかたちで「中外之界」に触れているだけで
あって、汪楫自身の考えをのべたものではない。汪楫は、むしろ「何をもって界とする」か
を疑問に思い、相手に問い、その相手が「懸揣(けんたん).するのみ」(推定するだけで
あると、答えにならない答をしたことをも客観的に記述している。いずれにせよ、「中外之
界」をめぐる汪楫と舟子との問答は、冊封船の往路上でなされたものであり、その時期台
湾は、まだ清朝の版図に入れられていなかった(台湾の版図編入は翌年の汪楫帰国の
年)。したがって、この点からも、「中外之界」が領域界を意味するはずがなかった。

  ホ  林子平『三国通覧図説』   同書で問題にされたところは、そのなかにある「琉
球三省扞三十大島之図」と「三国通覧輿地路程全図」である。この二つの地図に釣魚台
をどが示され、かつ、その色が中国大陸と同色の「赤」とされている。だが、『三国通覧図
説』の地図の色は、決して領土の帰属を識別したものではない。仮にそのように理解した
場合、釣魚台などは中国領となるが、同様に、旧満州(緑色)が日本領、北緯道(褐色)
は琉球領)になってしまう。この書物が出版された時期台湾はすでに清朝の版図に正式
に編入されていたにもかかわらず、朝鮮領(黄色)ということになる。林子平が出鱈目な
知識しか持っていなかったか、地図の色が領土を識別したものでないかのいずれかでな
ければならない。もし前者であれば、釣魚台などを中国領としたことの信憑性もきわめて
疑しいことになる。
 林子平が『三国通覧図説』をまとめるにあたって依拠した原典が、徐葆光の 「中山傳
信録」(一七一九年)であったことは、子平自身が「題初」のなかで明らかにしている。そ
の『中山傳信録』には二枚の地図が付されている。−つは「針路図」(巻一)であり、いま
一つは「琉球三十六島之図」である。林子平の「琉球三省扞三十六島之図」が、右の二
枚の地図を参考にして作られたことは、一見して、明らかである。しかしながら、同書の
「針路図」はZ、州と那覇とを往復するにあたって、航路目標とされる島嶼の大体の位置
と名称、島嶼間の所有時間、次の島嶼にいたる針路方向を記載するにとどまる。針路図
には「琉球三十大島之図」に示されている馬歯山(慶良間諸島)、姑米山(久米島)なども
記載されているが、これらの島嶼が琉球に属するとのべているわけではない。もちろん
「色」分けを行っているものでもない。『中山傳信録』からは、いかなる意味においても、
釣魚台などが中国領であることを明らかにしていない。


  (追 記)
 本資料の収集、執筆は国士舘大学(国際法)奥原敏雄教授によってなされたものであ
る。





































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尖閣列島と日本の領有権