尖閣諸島の領有権問題      「参考資料(1) 論文・書籍02」


有信堂

島の領有と経済水域の境界確定

 はしがき

別的とはいえ、当該の島に関連する条約の有無や、歴史的な権原を根拠にしているかな
ど、一定程度の類型化は可能であり、本書では、日本のからむ島の領有争いに関連する
典型的な事例を取り上げた。そうしたものとした先ず挙げられるのは、オランダ領インドネ
シアと米国領フィリピンの間に浮かぶ孤島パルマス島をめぐって今世紀初めに争われた
オランダ・米国関のパルマス島事件であり、英仏海峡のフランス沖にある英領チャンネル
諸島とフランスのブルターニュ地方との間の二群島の小島・岩礁であるマンキエ=エクレ
オの領有が国際司法裁判所で争われたマンキエ=エクレオ事件である。これらのうちマ
ンキエ=エクレオ事件については比較的多くの研究が日本にはあるので、本書では、最
後に補章としてパルマス島事件の仲裁判決を紹介し、また、竹島と同じく無人島の事例と
して、メキシコの南西六七〇カイリに浮かぶ無人島の領有をメキシコとフランスが争った
クリッパートン島事件を参考までに取り上げた。

 なお、歯舞諸島、色丹島、択捉島、国後島のいわゆる北方領土については、日露両国
の水域の領界画定に対する島の及ぼす影響・効果という問題は議論の対象に上がって
おらず、まさに領有そのものが正面から問題なのであり、また、無人の尖閣諸島や竹島
と異なり、一八五五年の日露通好条約、一八七五年の樺太・千島交換条約、一九〇五
年のポーツマス条約、一九五一年のサンフランス平和条約等の関連する条約があり、問
題の性格も交渉の在り方も異なるので、本書の対象とはしなかった。海洋法の動向を抑
え、尖閣諸島及び竹島の領有と海の境界画定に関わる問題をとりあえず知りたいという
読者には、序章を読んだ後直ちに第二章六及び第三章に向かわれることをお勧めした
い。また、島の領有権問題に関心をもたれる読者は、直ちに第三章に取り組まれるのが
よいであろう。

一九九八年九月二三日
             
                                        六甲台の研究室にて

                                        芹田 健太郎





目次

序章  大陸棚制度・漁業水域制度の確立と排他的経済水域制度の誕
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一
  一 問題の意味   (1)
  二 一九七七年漁業水域暫定措置法   (5)
    1 はじめに(5)    
    2 二〇〇カイリ漁業水域登城に至る海洋法の動向(6)
    3 国際法上の一方的行為(12)  
    4 日本の一九七七年漁業暫定措置法の国際法的評価 
    5 おわりに(20)
  三 一九九六年排他的経済水域・大陸拿棚法と国連海洋法条約     (22)
     1 国連海洋法条約の成立(22)   
     2 拝他的経済水域規定の内実(24)
     3 一九九年拝他的経済水域・大陸棚法(26)

第一章  島と大陸棚境界画
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・三三
  一 はじめに   (33)
  二 第三次国連海洋法会議と島の制度――各国提案   (38)
  三 若干の国家慣行と島の取り扱い   (49)
     1 基点として認められる島(完全効果) (49)   
     2 基点として無視される島(無効果 )(52)   
     3 部分的効果を認められる島(54)   
     4 領海を制限された島(55)
  四 国際判例と島の取り扱い   58
     1 北海大陸棚事件(59)   
     2 英仏大陸棚事件(61)
  五 おわりに   70


第二章衡平な境界確定と等距離=特別の事情原
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・七三
  一 はじめにーー北海大陸棚事件   (73)
  二 英仏大陸棚事件仲裁判決   (75)
    1判決の概要(75)   
    2 英領シリ-―諸島仏領ウェサン島のもつ効果(86)
  三 チュ二ジア・リビア大陸棚事件判決について   121
    1はじめに(121)  2 紛争の経緯と海底の地形(122)  3 判決主文(124)
  四 衡平原則=関連事情の考察における主観性の拡大――国際判例の個別化傾向
   158
    1 はじめに(158)   
    2 リビア・マルタ大陸棚事件(159)   
    3 メイン湾事件 サンピエール=ミクロン事件――単一の境界線を求めた事件―
―(163)
    4 ギニア・ギニアビサウ事件,ヤンマィエン事件――単一の境界線を判示した事件
(170)
    5 若干の評価(178)
  五  国際判例の読み方   179
  六  国連海洋法条約の発効と境界画定―排他的経済水域制度と大陸棚制度の併
                      存・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・185
     1 問題提起(185)
      2 日本近海の事例研究(186)


第三章  尖閣諸島・竹島の領有問題と排他的経済水域の画
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 一九五
  一 はじめに   195
  ニ 尖閣列島問題   196
    1 はじめに   
    2 中国側の主張とその根拠の検討(196)   
    3 日本側の主張の検討(215)   
    4 最終的解決までの扱い(222)
  三 竹島問題225
    1 はじめに(225)   
    2 韓国側の主張とその根拠の検討   
    3日本側の主張の検討(235)   
    4 最終的解決までの扱い(237)
  四 排他的経済水域の境界画定の困難性    239
    1 問題の所在(239)   
    2 日韓間の主張の隔たり(240)   
    3 日中間の主張の隔たり(242)
  五 日本海・黄海・東シナ海における資源・環境保護の国際制度の設立―望ましい解
決法     243
     1 日・中・韓・台による共同漁業水域の設定(243) 
     2 尖閣列島・竹島自然保護区の設定(249)


補章   島の領有権をめぐる仲裁判決の研
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・二五五
   一 はじめに   (255)
   二 パルマス島事件仲裁判決   (256)
     1 地理(256)   
     2 コンプロミーおよび手続(256)
     3 判決(262)
     4 研究(315)
   三 クリッパートン島事件仲裁判決  (316)
     1 地理  (316)  
     2 コンプロミー (317)  
     3 判決 (318)  
     4 研究 (323)

 あとがき   (325)

地図一覧
  日本海・東シナ海の大陸棚・排他的経済水域境界線、暫定水域、仮想中間線等(見
返し)
日本近海海底地形図(浮き彫り式)(見返し)
   地図1  漁業水域設定時における外国漁船の操業確認海域(4)
   地図2  日本の直線基線(26)
   地図3  島根県沖(28)
   地図4  長崎県沖(29)
   地図5  イタリア=チュ二ジア=マルタ境界線(50)
   地図6  インドネシア=マレーシア間のボルネオ海の境界画定(51)
   地図7  ぺルシア(アラビア)湾の境界線(53)
   地図8  チュ二ジァ=イタリア境界線(54)
   地図9  北海大陸棚の境界線(125)
   地図10 英仏間大陸棚の境界線(61)
   地図11 チュニジア=リビア大陸棚境界線(125)
   地図12 小田反対意見(156)
   地図13 リビア=マルタ境界線(161)
   地図14 メイン湾境界線(166)
   地図15 サンビエ-ル=ミクロン沖境界線(168)
   地図16 ギニアビサウ=ギニアの各境界線(172)
   地図17 グリーンランド=ヤンマイエン間境界線(175)
   地図18 日韓大陸棚協定国(188)
   地図19 旧日韓漁業協定国(191)
   地図20 尖閣諸島位置図(197)
   地図21 進貢船コース(207)
地図22 竹島の位置(226)


第八部内陸国(リスト9)
第九部shelf-locked 国および狭い大陸棚または短い海岸線しかもたない国の権利・利
益(リスト10)
第十部群島(リスト16)
第十一部 閉鎖海と半閉鎖海(リスト17)
第十二部人工島と人工の施設(リスト18
第十三部島の制度(リスト19)
(4)Aegean Sea Continental Shelf, Judgement, I.C.J., Report 1978, p.3.なお、仮保全措
置の問題について、皆川洸「エーゲ海大陸棚事件」国際法外交雑誌第七六巻三号参照
(5) A/AC./SC.II/L.9(16 July 1973). “4.the provisions applicable for the determination 
of the continental shelf and the zones of national jurisdiction of the continental part 
of the State are as a general rule applicable to islands.”
(6)  Cf.AC.138/SC.II/L.31 and L.32.
(7)  チュニジアとイタリアの大陸棚境界画定条約については、本文五四頁参照。
(8)Report of the Committee on the Peaceful Uses of the Sea-Bed and the Ocean 
Floor beyond the Limits of National Jurisdiction,GAOR.,28 Seas.,Suppl. Vol. III,p.106.
(9)Cf.E.D.Brown, “Rockall and the limits of national jurisdiction of the UK; Part I 
“Marine Policy July 1978, p.206.
(10)  GAOR.,28th Sess., No21(A/9021), Vol.III, p. 98.
(11)  同旨D.E.Karl, “islands and the Delimitation of the Continental Shelf:A 
Framework for Analysis, “71 AJIL 642,646.647(1977)
(12)各国草案のテキストは、The Third United Nations Conference on the Law of the 
Sea, Official Record Voiume III  所収。
(13)  「衡平な解決」「合意により行う」ということの具体的意味内容の確定の難しさに
ついて、小田滋、前掲『注解国連海洋法条約上巻』ニ四三頁参照。














以下本文

第一章  島と大陸棚境界画定
  三 若干の国家慣行と島の取り扱い   49ページ
   島が大陸棚の境界画定に対してどのような効果を有するか、ということについては、
第三次国連海洋法会議における諸提案からも分るように、完全な効果(full effect)をも
つという一方の極と、島が完全に無視されて境界画定される、つまり、無効化(no effect)
という他方の極があり、この二つの間に、英仏大陸棚境界画定事件判決で裁判所がシリ
ー諸島に対して認めた半分効果(half effect)を含む各種の部分的効果(partial effect)を
島に対して認める例が国家慣行の中には見られる。



−中略−



第三章  尖閣諸島・竹島の領有問題と排他的経済水域の画定

      一    はじめに
 
 日本のかかえる領土問題は、周知のように,日露,日中、日韓の間にあり、ロシアが支配
する歯舞諸島、色丹島、択捉島、国後島の所謂北方領土の返還を日本が求め、日本が
支配している尖閣列島(中国名釣り魚諸島)の領域権を中国が主張し、又韓国が支配す
る竹島(韓国名独島)については日本が領有権を主張している。このうちいわゆる北方
領土は、日露間の水域の境界画定に対する島の効果という問題は問題の対象ではなく、
まさに島の領有そのものが正面から問題なのであり、また、無人島である尖閣諸島や竹
島と異なり、定住人口があり、さらに、北方領土の場合には、一八五五年の日露通好条
約、一八七五年の樺太・千島交換条約、一九〇五年のポーツマス条約、一九五一年の
サンフランシスコ平和条約等の関連条約・国際文書があり、問題の性格も外交交渉のあ
り方も異なるので、とりあえず、本書の分析対象からは外した(幕末・明治期における日
本の周辺領域の確定と其の後の拡大などの日本の領域の変遷については、芹田健太
郎「日本の領土の変遷」、国際法事例研究会・日本の国際法事例研究会(3)『領土』(一
九九〇年、慶応通信)所収参照)。


      二 尖閣列島問題
1 はじめに
 
尖閣諸島は、魚釣島、北小島、南小島、久場島(黄尾嶼)大照島(赤尾嶼)、沖の北岩、
沖の南岩、飛瀬の総称であり、総面積は約六・三平方キロメートルで、最大の島である
魚釣島が約三・六平方キロメートルである。この尖閣列島は、ある時期に日本人が定住
したことがあるほか、昔も今も無人島でありとくにこれといった天然資源はないとされて
いたため、とくに世人の注目を浴びることもなかった。しかし、昭和四三年(一九六八年)
秋、日、韓・台の科学者が中心としてエカフェが東シナ海一帯にわたって行った地球物理
学的調査により、台湾のほぼ北東約二〇万平方キロメートルの海底区域に石油資源が
豊富に埋蔵されている可能性が指摘され、にわかに諸外国の注目を集め、昭和四五年
(一九七〇年)後半になって中国側による領有権主張がみられることとはったことは周知
のとおりである。一九八〇年代までのところ、民間での議論が先行しており、中国政府が
公式に尖閣列島に対する領有権を主張したのは、昭和四六(一九七一年)一二月の「外
交部声明」が最初であり、これに尽きている。また日本は翌年三月八日「外務省基本見
解」を発表した。従って、本書ではこれらを中心に分析する。



  2 中国側の主張とその根拠の検討
(1)沖縄返還協定の「返還区域」への組入は不法であるとの主張の検討
一九七一年一二月三〇飛の中華人民共和国政府外交部声明は次のように始まる。
日本佐藤政府は近年来、歴史の事実と中国人民の激しい反対を無視して、中国の領土
釣り魚島等の島嶼に対して「主権をもっている」と一再ならず主張するとともに、アメリカ
帝国主義と結託してこれらの島嶼を侵略・併呑するさまざまな活動を行ってきた。このほ
ど、米日両国の国会は沖縄「返還」協定を採決した。この協定のなかで米日両国政府は
公然と釣り魚などの島嶼をその「返還区域」に組み入れている。これは、中国の領土と主
権に対するおおっぴらな侵犯である。これは中国人民の絶対に容認できないものであ
る。
 さらに同声明はこれを敷衍して次のように言う。・
  第二次世界大戦ののち、日本政府は不法にも、台湾の付属島嶼である釣り魚島など
の島嶼をアメリカに渡し、アメリカ政府はこれらの島嶼に対していわゆう「施政権」をもって
いると一方的に宣言した。これは、もともと不法なものである。・・・・いま、米日両国政府
はなんと不法にも、ふたたびわが国の魚釣り島など島嶼の授受をおこなっている。中国
の領土と主権に対するこのような侵犯行為は、中国人民のこのうえない憤激をひきおこ
さずにはおかないであろう。
 この中国の主張は、サンフランシスコ平和条約に即して整理すれば次のことを前提にし
た主張となる。すなわち、尖閣列島は、サンフランシスコ平和条約によって日本の領土か
ら最終的に切り話されることとなった台湾等の地域(第二条)に含まれていたのであっ
て、南西諸島のように引き続き日本領土として残されるが当面は米国の施政権下に置か
れる地域(第三条)に含まれたものでない、しかも、その領域権は一九七一年六月一七
日の沖縄返還協定調印時(翌七二五月一五日発効)にも存続している、とするものであ
る。
最も、中国は、台湾等の地域については、日本が一九四五年八月一四日にポツダム宣
言を受託した直後に、同宣言のりょうど条項の規定する「台湾・澎湖島」の中国へ「返還」
に着手し、八月二九日には早くも台湾省行政長官兼警備総司令を任命し、九月二日ノ日
本降伏文書調印直後の台湾省行政長官組織条例を公布、一〇月には具体的に台湾摂
取に着手し、一〇月二五日に「受降典礼」なる正式の摂取手続きを行って、これを正式に
自国領として回復した、としたのである。そして、中国は、他の自国領土と同じ行政をそこ
に敷いたのであり、台湾等の地域の場合は、このように、ポツダム宣言の領土条項に関
連して、中国かぎりの国内的処理によって、中国領編入が平和条約に先立っておこなわ
れていた(入江啓四郎『日本講和条約』(一九五一年板垣書店)六一―六四頁参照)。サ
ンフランシスコ平和条約は最終的に法的にいわばこれを確認したのである。従って、尖
閣列島は、サンフランシスコ平和条約締結時には、すでに中国領土であった、とするの
がより厳密な中国の法的主張と    いえよう。このことは、一九七一年一二月三〇日
の北京放送からも読みとれる。次のようにお述べる。 
アメリカが沖縄[返還]協定にもとづいて、かれらに占領さていた中国の領土魚釣島などの
島嶼を「返還区域」のなかに入れるというにいたっては、いよいよデタラメもはなはだし
い。第二次世界大戦後、日本帝国主義は台湾と澎湖列島を中国に返還した。ところが台
湾に付属する島嶼である魚釣島などの島嶼は日本によってアメリカの占領にゆだねられ
た。これはもともと不法である。
なお、沖縄占領については、米軍は、一九四五年三月二六日、慶良間諸島に、ついで四
月一日に沖縄本島に上陸し、日本の降伏後、一二月に宮古群島に、翌年一月に奄美大
島群島に占領を展開したのであり、宮古、八重山、奄美の各群島について、米国海軍政
府が布告一号のA「南西諸島及びその近海居住民に告ぐ」を公布したのは、一九四五年
一一月ニ六日であり、実際に軍政が施行されたのは、宮古群島一二月八日、八重山群
島同二八日であった。
この沖縄の軍事占領において、米国は旧沖縄縣の行政地域をそのまま引継ぎ、たとえ
ば、一九四六年一月ニ九日付きの連合国司令官総司令部による「外郭地域の行政分離
に関する覚え書」に対して日本の外務省が非公式に連合国総司令部に提出した「南西
諸島観」の南西諸島一覧には、「尖閣諸島」を赤尾嶼、黄尾嶼、北島、南島、魚釣の島名
をあげ列記して、沖縄県の範囲に含めている。これら一連の事実は、中国による台湾等
の中国領編入後のことである。
 こうした事実に対して、しかしながら、同じ連合国の一員として十分に知っていたと思わ
れる中国が何等かの抗議を申し入れた形跡は全くない。一九七一年四月二〇日の台湾
の魏外交部スポークスマン談話では、「同列島嶼は米国による軍事占領が行われたが、
当時和が政府は共同防衛の安全からみてこれを必要な措置であると考えた」と説明して
いおる。これについての証拠は全く示されない(亞東関係協会副代表を務めていた林金
茎『戦後の日華関係と国際法』(一九八七年、有斐閣)一八二頁も同旨を引用しているが
典拠は示していない)。
また、中国側は、一九七二年三月八日のわが国外務省基本見解に対する反駁を同年四
月北京週報に発表し、「周知のように、第二次世界大戦後、日本政府は勝手に、台湾の
付属島嶼釣り魚島などの島嶼をアメリカに引渡し、アメリカ政府はこれらの島嶼にたいし
『施設権』をもっと一方てきに宣言した。これは元々不法なものである。中国政府と中国
人民はこれまでそれを承認したことはない」と述べている。しかし、ここでも、尖閣列島が
米国の「占領地域」の中に含められ、さらに、米国の「施政区域」に引き継がれたたこと
に対する抗議を行ったことの証拠ないしこれを承認しなかったことの証拠は全く示されて
いない。もとより、「施政権返還区域のなかに」尖閣列島が含まれていることは、日本が
これらの島嶼に対し領有権をもつ根拠にはならない。沖縄返還協定締結時に勝手に日
本に組み入れたのであれば、中国側の抗議は正当であるからである。
ところで、尖閣諸島は、中国の主張するように、第二次世界大戦後沖縄返還協定締結時
に至るまで、引き続き、中国領であったのであろうか。この中国の主張の最大の弱点は、
尖閣所要が、戦前、行政的に属していた沖縄縣八重山群島に対する米国の軍事占領が
始る約二か月前の一九四五年一〇月二五日には中国による台湾等の領土編入措置が
終了しており、しかも、戦後、台湾省で偏修された文献は、台湾ほんとうからやや北の彭
佳嶼をもって台湾省最北端としていることである。台湾及び北京で発行された地図も、尖
閣諸島を中国領の範囲から除外し、琉球群島の一部としている。この事実は、中国側に
尖閣諸島が自国領であるという認識がなかったというにとどまらず、より積極的に、尖閣
諸島は日本領であるという認識があったことを示すものであろう。なぜなら、もし、中国側
に尖閣諸島が中国領であるという認識があれば、つまり、尖閣諸島がカイロ宣言に言う
「満州・台湾及澎湖島のような日本国が清国人から盗取したすべての地域」に含まれる
ものであると言う認識であれば、台湾等につき戦後直ちに領土編入措置をとったことに
みられるように、戦勝国中国が尖閣諸島を中国領に編入することに関して何らかの困難
や障害があったとは思われないからである。
翻って、日本は、米国による軍事占領に続く米国施政権下のおいても、琉球列島米国民
政府、琉球政府の行為という形で有意な数々の行為を行っていた。
先ず、群島組織法(米合衆国軍政府布令第二二号)、琉球政府章典(米国民政府布令
第六八五号)琉球列島の地理的境界(米国民政府布告第二七号)は、琉球列島米国政
府、琉球政府等の管轄区域を緯度、軽度で明示し、尖閣列島は当然のこととしてこの区
域内に含ましめていた。
次に、一九五一年黄尾嶼及び赤尾嶼に米海軍の爆撃演習海域が設立され、黄尾嶼は
特別演習地域に指定された。国有地である大正島(赤尾嶼)は、一九五六年四月一六日
以降、演習地に指定されたが、民有地である久場島(黄尾嶼)については、米国民政府
は琉球政府を代理人として所有者古賀善次氏との間に一九五八年七月一日軍用地基
本賃貸契約(Basic Lease GRI Nr.183-1)を結び、古賀氏に賃貸料を支払った。琉球政
府は古賀氏所有の四島に対し、固定資産税(註)を賦課徴収してきた。また、あらたに久
場島の軍用地使用地用収入にさいしても源泉徴収を行っている。なお、大正島、久場
島、の射撃場は、沖縄返還交渉の日米両国政府間の了解に従い、日米政府は、復帰
後、日米安保条約及び日米地位協定に基づき、これを「施設・区域」としって日本政府か
ら在日米軍に提供することとなった。
(註)私自身の一九八三年三月三日の石垣市財務課からの聴取によれば固定資産税は
次のようであった。大正島(亜子島嶼)(石垣市字登野城二三九四番地※間違い)は国
有地であり、当時縄氏在住の古賀善次氏は一九七四年六月ニ一日埼玉県大宮市在住
の栗原国起氏に対し魚釣り島(石垣市字登野城二三九二番地)、北小島(ニ三九一番
地)、南小島(同二三九〇番地)ヲ売却していたので、久場島(黄尾島嶼)(同二三九三番
地)分として古賀氏九万円、其の他三島分として栗原氏四五万円の固定資産税あった。

 第三に、一九六八年八月に南小島において台湾人が沈船解体作業を行っていたこと
に関連してとられた措置がある。八月一二日琉球政府法務局出入管理庁係官は台湾の
サルベージ会社興南工程所がテント小屋や起重機を設置して沈船の解体作業をおこな
っているのを発見し、業者が入城許可証等を持参していなかったため直ちに不法入城者
に退去命令と入城手続きの申請の勧告を行った。これら台湾人労働者は、一丹南小島
から退去し、南小島への入城手続を行い、同年八月三〇日付および翌年四月二一日付
をもって琉球列島高等弁務官の許可を得て入城が認めれた。これらの台湾人の労働者
にたいする入場許可は一九六八年八月一日から翌年一〇月三一日までの期限とされ、
作業期限が遡及して認められたほかは、若干の設備や施設も高等弁務官の入場許可
に基づいて認められた。こうしたことについていずれの国からもいかなる抗議もなかっ
た。なお、同サルベージ会社の責任者は国府逓信省の解体免許証等のほか台湾守備
隊本部の出国許可証を所持していた。このことは、いかなる抗議も無かったことと合わせ
て、台湾当局が南小島を自国領と意識していなかったことを推測させるに十分である。
さて、琉球政府は一九七〇年七月八日から一三日にかけて尖閣諸島に領域表示板を建
立した(これに対しては翌七一年一二月三〇日の北京放送が「これらの島嶼を『領有』す
る規制事実を作りあげようとした」と非難する報道をしている)が、中国は同年一二月四
日非公式ながら、新華社報道が日台韓三国の東シナ海大陸棚資源合同開発を非難し、
はじめて尖閣諸島に対する領有権を主張し、続いて同月ニ九には人民日報は「日本が
釣魚島など中国に属する一部の島嶼や海域をも日本の版図にくみいれようとしている」
ことを伝え、「釣り魚島、黄尾島嶼、赤尾島嶼、南小島、北小島、などの島嶼は、台湾と同
様、大昔から中国の領土である」と報道した。つまり、中国は、一九七〇年までは、一九
四五年以降全く領有主張せず、何ら有効な講義もしてこなかったのである。裏返せば、
日本は、戦後の二五年の間、尖閣諸島に対して、平和的に、かつ、継続的に、国家権力
を発現してきたのである。
以上のことから、少なくとも、サンフランシスコ平和条約締結時に尖閣諸島はすでに中国
領であり、沖縄返還協定締結時にも、引き続いて中国である。という中国の主張は、はな
はだ根拠薄弱なものと言わざるを得ないであろう。
(2)尖閣諸島は台湾の付属島嶼であるという主張の分析
一九七九年一二月三〇日の中華人民共和国政府外交部声明は次のように言う。
  釣魚島などの島嶼は昔から中国の領土である。はやくも明代に、これらの島嶼はすで
に中国の海上防衛区域のなかに含まれており、それは琉球、つまり今の沖縄に属するも
のではなくて、中国の台湾付属島嶼であった。中国と琉球とのこの地区における境界線
は、赤尾嶼と久米島との間にある。中国の台湾の漁民は従来から釣魚島などの島嶼で
生産活動に携わってきた。日本政府は中日甲午戦争を通じて、これらの島嶼をかすめと
り、さらに当時の清朝政府に圧力をかけて一八九五年四月、「台湾とそのすべての付属
島嶼」および澎湖列島の割譲という不平等条約―「馬関条約」に調印させた。
一九七一年一二月三〇日の北京放送はこれを敷衍して次のように述べている。
  中国の明朝は倭寇の進入・撹乱に対抗するため、一五五六年胡宗憲を倭冦(わこう)
討伐総督に任命し、沿海各省のおける倭寇討伐の軍事的責任を負わせた。魚釣り島、
黄尾島嶼、赤尾島嶼などの島嶼は、当時、中国の海上防衛範囲に含まれていた。中国
の明、清両王朝が琉球に派遣した使者の記録と地誌についての史書の中では、これら
の島嶼が中国に属し、中国と琉球との境界は、赤尾島嶼と古米島、すなわち現在の久米
島との間にあったことが、いっそう具体的に明らかにされた。
 一八七九年の中国の清朝の北洋大臣李鴻章は、日本と琉球の帰属の問題について
交渉したとき、中日双方は琉球が三六の島からなり、魚釣島などの島嶼は、全然そのう
ちに含まれていない事を認めている。
 魚釣島などの島嶼が中国に数百年も属してきたのち、日本人はようやく一八八四年に
なって、これらの島嶼を「発見」した。日本政府はただちに、その侵略・併合をたくらんだ
が、当時はあえて、すぐさま手を着けようとはせず、一八九五年、甲午戦争で清朝政府の
敗北が、確定的となったときに、これらの島嶼をかすめとった。つづいて、日本政府は清
朝政府に圧力をかけて「馬関条約」を締結させ、「台湾とそのすべての付属島嶼」および
澎湖列島を日本に割譲させた。
 さて、これらの中国政府外交部声明お呼び北京放送にみられる主張は、分析すれば、
次の四点に要約される。これら四点について以下において個別的に検討する。
(イ)尖閣諸島が早くも明代に「中国の海上防衛区域」に含まれており、中国の台湾の付
属島嶼であった。
(ロ)歴代の冊封使録等から明らかなように、中国と琉球の境界は赤尾島嶼と久米島と
の間にあった。
(ハ)日清間のいわゆる琉球問題についての交渉の折、双方ともに「琉球三六島」に尖閣
諸島が含まれていないことを認めていた。
(ニ)日本人が尖閣諸島を見つけたのは、これらの島嶼が中国に属するようになってから
数百年もたった一八八四年のことであり、一八九五年に日清戦争で清朝政府の敗北が
確定的になった時に、これを「かすめとった」。そのあとすぐ日本政府は馬関条約にむり
やり調印させ、台湾およびすべての付属諸島と膨湖列島を日本に割譲させた。
(3)  中国側主張の個別的検討
(イ)中国政府外交声明は尖閣諸島が明代に中国「海上防衛区域」に含まれていたことを
立証する明代の古文書をあげてはいないが、各種の研究から推察すれば、一六世紀中
葉に編纂された胡宗憲撰『壽海図編』がそれであろう(井上清『尖閣列島』一九七二年、
現代評論社、三二頁。尾崎重義「尖閣諸島の帰属について(下の二)」『レファレンス』二六
三号、(一五八頁ほか。なお、尾崎重義はこの論文の歴史的検討の部分を加筆補正した
「尖閣諸島の国際法上の地位」筑波法政第一八号(その一)を一九九五年三月に発表し
た)。
  井上清によると、同書の巻一「沿海山沙図」の「福七」〜「福八」にまたがって、福建省
の羅源県、寧徳県の沿海の島々が示され、「鶏籠山」、「膨加山」、「魚釣嶼」、「化瓶山」、
「黄尾山」、「撤檻山」、「赤嶼」がこの順に西から東へ連なり、これらの島々が福州南方
の海に台湾の基隆沖から東に連なるもので、「魚釣諸島をふくんでいることは疑いな
い」。「この国は、釣魚諸島が福建沿海の中国領の島々の中に加えられていたことを示し
ている。『壽海図編』の巻一は、福建のみでなく倭寇の襲う中国沿海の全域にわたる地
図を、西南地方から東北の順にかかげているが、そのどれにも、中国領以外の地域は入
っていないので、魚釣諸島だけが中国領でないとする根拠はどこにもない」。
 ところで、この井上清の主張は充分維持できるであろうか。尾崎重義によると、『壽海図
編』巻四には、「福建沿海総図」があり、それには澎湖島は記載されているが、台湾、台
湾北東の基隆嶼、彭島嶼や尖閣諸島はいずれも記載されておらず、「この方が当時の実
情に即している」。『壽源県志』(明代一六一四年)、『寧徳県志』(清代一七一八年)(い
ずれも官製の地方志)などを見ると、尖閣諸島が当時福建省のこれらの県の行政範囲に
含まれていなかったことが知られるし、また同じく官製の『重纂福建通志』(清代一八三
八年)の巻一にある「福建海防全図」にも、尖閣諸島は全く記載されていない。なお、奥
原敏雄によれば、『壽海図』を引用するのであれば、[同書巻一の一七「福建界」が当時
の福建省の境界をしめすうものとして適当であるといえよう](福奥原敏雄「尖閣諸島領有
権の根拠」『中央公論』一九七八年七月号)が、この地図に示されているのは膨佳山ま
でであって、台湾、尖閣諸島は描かれていない。つまり、尖閣諸島は福建省に属していな
かったのである。
 胡宗憲が倭寇討伐総督に任命されたのは『壽界図編』が著される数年前の一五五六
年のことである。倭寇の歴史の中で、倭寇がもっとも猛威をふるったのは、一五五三年
から一五五九年の間であり、中国は本土沿岸の防衛に汲々とする有様で、膨湖島にさえ
明の防衛力は及んでおらず、倭寇の方は、中国本土と琉球、とくに宮古、八重山諸島の
間をかなり自由に往来していたようであるが、明の軍船が倭寇を追って琉球まで来たと
いう事実は中国側や琉球の史料によって確認されていない。一五五三年に数十群の倭
寇を糾合した王直は、胡宗憲の同郷人で有ったため、うまく故郷におびき出されて一五
六〇年に処刑された。こうしたことをも考慮すれば、「沿海山沙図」にのみ尖閣諸島が記
されているのは、これらの島嶼が倭寇の襲来する際の針路にあたり、また付近が倭寇の
出没する海域であるので、本土防衛上注意すべき区域であることを示しているに過ぎな
いであろう。『壽海図編』の本文には、当時尖閣諸島が倭寇防衛範囲に入っていたという
記述はないが、仮に、これまでの研究によっては知られていない別の典拠があって、中
国外交部声明が言うように、尖閣諸島が早くも明代に「中国の海上防衛区域」に含まれ
ていたとしても、すでに述べた事情から、現実に尖閣諸島に中国の何らかの支配が及ん
でいたとは到底考えられない。
 さて、それでは、尖閣諸島は明代に中国の台湾付属島嶼であったのであろうか。『明
史』では、台湾は東蕃として「外国列伝」に入れられており、台湾北部の鶏籠山(今の基
隆)も「外国列伝に含まれている。このように、明代には、尖閣諸島はもちろんのこと、台
湾の北部(基隆)や台湾北東の彭佳嶼、花瓶嶼、綿花嶼、などに中国の支配は及んでお
らず、また、中国は領有の意志も持っていなかった。台湾は、隋や元の遠征を受けたこと
はあったが未開の地であり、明代になって倭寇の根拠地ができ、明末一七世紀初頭に
はオランダ人が南部にゼーランジア城などを築き、スぺイン人がマニラから来て北部の基
隆などを貿易の根拠地にしたが、間もなくスペイン人はオランダ人に追われ、約四〇年の
オランダ人支配が続いた。
 一六四四年に明を滅ぼし北京に入城した清は一六八一年には華南も平定した。しか
し、清朝に抵抗する鄭成功は一六六一年台湾に渡ってオランダ人を駆逐し、ここを根拠
にさらに続けたが、一六八三年、台湾に出兵した清軍の軍門に降り、ここにはじめて清
は台湾を中国の版図に入れ、福建省所属の台湾府を置いたのである。従って、明代に
尖閣諸島が「中国の台湾付属島嶼」であった事実はない。なお、胡宗憲の前任者の姪に
より日本に渡り国情・地理を内定し、帰国後その資料に基づき一五五六年に『日本一鑑』
を著した鄭成功は、同書中の「万里長歌」で、釣魚嶼「小東之小嶼也」と言っているが、こ
れは魚釣島が地理的に小東(台湾)に付属(又は近接)する小嶼であるよ鄭が理解して
いたことを示している。もっとも、清による台湾の版図編入が尖閣諸島をふくむものであ
るかどうかは、すでに述べた事情から否定的であるが、明確でははない。いずれにしろ
『日本一鑑』を著した時は鄭は一私人であった。

(ロ)歴代の冊封使録等から明らかなように、中国と琉球の境界は赤尾島嶼と久米島の
間にあった、と中国は主張する。
さて、琉球国と中国とが始めて正式に交渉をもったのは、明の太祖(宋元璋)が元を亡ぼ
して即位した直後の一三七二年に、使節を琉球に派遣し、天下の統一を告げるとともに、
その帰順を促し、この「招諭」と称する通告に応じて琉球中山王が使節を派遣したときで
ある(なお、同年使節は室町幕府にも遣わされ、将軍義満は、琉球国同様、その招諭を
受諾し「日本国王臣源某」と称して忠誠の意を誓った)。このような招諭を受理し、近隣四
周の小国がそれぞれ使節を派遣して忠誠の意を表すると、明朝ではこれを入貢・朝貢オ
称し、その進物を貢物または方物などと唱えて、派遣船・派遣使節を朝貢・入貢・進貢船
(使節)等の名で呼んだ。こうした朝貢・入貢の礼式に対し、明朝では、これら諸国の国
王に冊封を唱えて、爾を封じて某国国王と為す、との勅書を与えていた。この朝貢・冊封
関係が漸次具備形式化されてくると、沖縄では一つの国事としての準備と形式が重んじ
られ、先王崩御の二年後に請封使を中国に派  遣するのを慣例とした。冊封の礼式
は、先王祭り(諭祭)、新王を封ずる(冊封)というニ大儀礼を礼とした。こうした冊封使
は、洪武五年(一三七二年)から、明治一二年(一八七九年)に明治政府関係が琉球藩を
廃止し、沖縄縣を置き琉球の中国との冊封関係を禁止するまでの五〇〇年間に、ニ三回
派遣された。うち明代に一五回、清代に八回であった。これに対し、琉球側からは、進貢
船のほか、とくに明代には、冊封船が福建省の首府福州を発つ前にこれを向かえに福州
まで行った接封船、冊封船が琉球から帰国するときに同行した謝恩船とか、慶賀船など
さまざまな名目の使船が派遣され、琉球からは、明代に、実に一七一回も使船が派遣さ
れている。このように、琉球船が中国に赴くことの方が圧倒的に多く、また明代の琉球
は、朝鮮、南洋諸国とも交易を行い、貿易の中継地として栄え、従がって琉球近海の航
路、とくに琉・中間の航路については琉球人の熟知するところであった。
 ところで冊封使は、その渡航に際して、琉球国に関する一切の知識を吸収することはも
ちろんのこと、帰国後には、自らの見聞・体験等を通して、航海の事情や一切の儀礼、琉
球国の国情等についても記録し、その使録とし、後世の冊封使等の指標に供するのを慣
例とした(喜舎場一隆「尖閣諸島と冊封使録」『季刊沖縄』六三号)。現在見ることのでき
る冊封使録は、平和彦によると、魚釣島嶼、黄尾嶼、赤尾嶼などについての記述がはじ
めて現れる陳侃の『使琉球録(一五三五年)に始まり、琉球最後の中山王尚泰を冊封し
た超新までの一三の使録である(「中国史籍に現われたる尖閣(釣魚)諸島」『アジア・ア
フリカ資料通報』一〇巻四号・六号)。
(1)陳侃『使琉球録』(一五三四年度渡琉)。
(2)郭如霖『重刻使琉球録』(一五六一年渡琉)。
(3)蕭崇業・謝杰『使琉球録』(一五七九年渡琉)。
(4)夏子陽・王士禎『使琉球録』(一六〇六年渡琉)
(5)胡靖『杜天使冊封琉球眞記危観』(正使は杜三策・副使楊?。胡靖は正使の従客。一
六三三年渡琉)。
(6)張学礼『使琉球記』(一六六三年渡琉)。
(7)汪楫『使琉球雑録』(一六八三年渡琉)。
(8)徐葆光『中山伝信録』(正使は海宝・副使徐葆光。一七一九年渡琉)。
(9)周郊煌『中琉球国志略』(正使は全魁・副使周煌。一七五六年渡琉)。
(10) 李鼎元『使琉球記』(正使は趙文楷・副使李鼎元。一八〇〇年渡琉)。
(11) 斎鯤・費錫章『続琉球国志略』(一八〇八年渡琉)。
(12) 冊封正使林鴻年、副使高人鑑は一八三八年に渡琉したが、その使録は、この時
の針路が次の使録に引用されているほか、現在は無い。
(13) 趙新・干光甲『続琉球国志略』(一八六六年渡琉)。
  これらの使録のうち、他の使録に与えた影響やその利用度の上からみると、後世使
録の原録敵勝と一応の指標的存在であった明代の陳侃の『使琉球録』と、わが江戸期
の冊封使録の代表的存在として、また多くの学者・知識人の指標ともなってきた徐葆光
の『中山伝信録』のニ書がとくに重要な意味をもっている(喜舎場前掲論文)。
 これら使録の記述の中で、その論文が北京の光明日報や人民日報(一九七二年五月
四日)に全訳掲載された井上清が重要視するのは、陳侃使録「十一夕、見古米山、乃属
琉球者」や郭徐林使録「赤島者、界琉球地方山也」であり、清代の汪楫使録ニ十五日、
見山、応先黄尾、後赤嶼、無何遂至赤嶼也。薄暮過郊(或作溝)、風涛大作。・・・・・問郊
之義何取。曰。中外之界也。界於何辨。曰。懸揣耳。」であり、徐保光使録「取姑米山(琉
球西南方、界上鎮)」等である(井上清『尖閣諸島』一九七二年、現代評論社。なお、平、
喜舎場掲論文参照)。人民日報などが井上論文を全訳掲載していることから考えると、あ
るいは中国外交部声明にみる主張の根拠もこれらの記述にあるのであろう。
  これらの記述のみから判断すれば、確かなことは久米島が琉球領内にあることのみ
である。尖閣諸島は一見琉球領外にあると思われる。然しながら、これらの記述を十全
に理解するには、当時の航路の事情や使録にしても往路のみならず帰路の記述にも注
目しなければならず、史料としての厳格な検討も要求される。そうすれば、必ずしも、中国
側に有利とばかりは言えない。
  先ず、当時の副州・琉球間の航路をみると、今日の台湾島を通過して後は、久米島に
至るまで、その間の諸島嶼はいずれも無人島であり、実用的効用をもった活用も全くな
かった。久米島に至ってはじめて人間の居住する島が存在し、しかも、当時の琉球国の
領民の居住地も、この福琉間の海路上においては、久米島をもってその西南界としてい
たのである。当時の琉球国の版図、おわゆる琉球三六島は、人居の地と首里王庁への
貢納の義務を負っていることが条件であり、これら条件を満たした島嶼のみが王府領と
明記されていたのである。こうした事情からも、久米島は西南界に相当し、また八重山群
島中の波照間島や与那国(尾崎前掲島は極南の地でもあった(喜舎場前掲論文)。尖閣
諸島が居住や、貢納を条件とする琉球版図内に入っていなかったという事実と同様に、
明代および清代の福建省の地方志や、台湾が中国の版図に入り台湾府が設置された
後の清代の地方志は、いずれも、尖閣諸島が福建省または台、湾省の行政範囲に含ま
れていないことを示している(尾崎前掲論文(下の二)一六〇)。つまり、行政的な観点か
ら論じれば、尖閣諸島は、琉球にも、また福建省や台湾省にも編入されたという確たる
証拠はない、というのが真実である。従がって、各使録に登場する魚釣り島など当時の
福琉間の航海上の目標となった島嶼として記載されたとするのが、もっとも自然な見方
であろう。
  次に、こうした見方を裏つけるものとして、冊封使の帰国時における航海記の記述で
ある。那覇港を出た封船は、馬歯・姑米の両山を過ぎ、赤尾・黄尾・釣り魚の諸島および
小琉球を南にとって、南把・鳳尾・魚・台・里麻などの諸山を北にして福建の定海所に入
り、閣安鎮に進むのであったが、徐葆光『中山伝信録』の「進路」の項で、この南把山を
望見したところではじめて淅江温州に属すると明記しており、来球時の姑米山をもって陳
侃が「乃属琉球者」と述べた文脈文勢に対比できる。また徐芳光一行は、一七二〇年二
月一六日に帰国の途についているが、同月ニ四日の条に「日出用単申一更、至魚山及
鳳尾山、二山皆属台州、封舟回閑針路、本取温南把山、此二山又在南把北五百里」と
あり、この両山に至る海路上に在る今日の尖閣諸島の島嶼については、あえてその版
図などについては全く言及するところなく、むしろ魚山及び鳳尾山にいたってはじめて「二
山皆属台州」と記載しており、来球時に冊封使等が久米島を琉球西南界と付記していた
ことと全く同趣の内容をもつものと言えよう。また、一八六六年に来球した最後の冊封使
趙新は、一八三八年の先代冊封使などの帰路の事情を述べ、同年一〇月一二日に那
覇港を出た冊風船が「十八日、小丑風、乃用西戌針。辰刻見中華外山、未刻見南把山、
用未申針。十九日、午刻、過定海、未刻進五虎門。」とあり、一二日に那覇港をでて、翌
一三日に姑米山を通過し、一八日の辰刻に「見中華外三。未刻見南把山」と述べている
が、この中華の外山に至るまでの回路上に在る諸島嶼については此れを説明する割注
なども全くなく、今日の台湾島周辺諸島は別として、尖閣諸島についての記載は帰航時
の記録中には全くない。「温州南把山」とか「中華外山」などは、歴史学者喜舎場の言う
ように、「乃属琉球者」とか「琉球西南方界上鎮山」「界琉球地方山也」の表記に等しく、
全く表裏一体となすものである。このように、これら両方の発着・到着地に程近い島嶼
は、航海者にとってどうしても最終的に確認しなければならない島であって、一つの航路
目標である。従がって、これらを領域上の明瞭なる分岐点を示すものとして使録中の記l
述に根拠を求めるのは適当ではないであろう。なお、汪楫使録にみられる「郊、溝」すな
わち「中外の界」も、喜舎場が詳細に検討しているように(前掲論文七一頁以下)、当時
の航海や航路を横切って流れる黒潮の存在や当時の海上信仰等を考慮して各使録等を
検討すれば、国の内外の境界としての領域意味をもつものではなく、むしろ水徑の意を
言うものであったと思われる。
  以上の検討からあきらかになったことは、歴代の冊封使録等から中国と琉球の境界
が赤尾嶼ト久米島との間にあったのは明らかである、という中国の主張の根拠が脆弱な
ものであり、必ずしも明らかなことではないことである。

(ハ)日清間のいわゆる琉球問題についての交渉(琉球の帰属をめぐる日清交渉につい
て、英修道「沖那覇帰属の沿革」国際法学会編「沖那覇の地位」ニ〇―四〇頁参照)の
折、双方ともに「琉球三六島」に尖閣諸島が含まれていないことを認めていた、と中国は
主張する。
  いわゆる琉球三六島の意味するところについては、すでに述べたように、当時の琉球
国の版図が、人居の地でありかつ、首里王庁への貢納の義務を負っていたことから、こ
れらの条件を満たす島嶼のみが琉球史料や使録類に明記されてきたことを示しているに
過ぎないことを想起しないわけにはいかない。尖閣諸島は,明代や清代の福建省や台湾
省の地方志からみる限り、福建省や台湾省の行政範囲にふくめられておらず、また、人
居の地・貢納の義務という条件を満たす琉球三六島に含まれていないという点で、同じく
琉球の行政範囲にも含まれていなかったのである。従がって、尖閣諸島が「琉球三六
島」に含まれていなかったという事実は、尖閣諸島の領域帰属の問題に対して何らかの
意味をもっているとは思えない。尖閣諸島が中国領であったことの決定的証拠にはなら
ないのである。

(ニ)  中国はまた次のように主張する。日本人が尖閣諸島を見つけたのは、これらの
島嶼が中国に属するようになってから数百年もたった一八八四年のことであり、一八九
五年に日清戦争で清朝政府の敗北が確定的となったときに、これを「かすめとった」。そ
のあとすぐ日本政府は清朝政府に馬関条約にむりやり調印させ、台湾およびすべての
付属島嶼と澎湖列島を日本に割譲させた、と。
 中国の言う「日本人が発見した一八八四年」については明確ではないが、明治一八年
つまり一八八五年九月ニニ日の沖那覇県令西村捨三から内務卿山縣有朋への上申書
では次のように述べている。「本県ト清国福州間ニ散在セル無人島取調之儀ニ付先般在
京森本県大書記官へ御内命相成候趣ニ依リ取調致し候概略別紙ノ通ニ有之候抑モ久
米赤島久馬及魚釣島ハ古来本県ニオイテ称スル所ノ名ニシテシカモ本県所轄ノ久米宮
古八重山等ノ群島ニ接近シタル無人ノ島嶼ニ付沖名覇県下ニ属セラルルモ敢テ故障有
之間敷ト被存候得共過日御届及候大東島(本県ト小笠原島ノ間ニアリ)トハ地勢相違中
山伝信録ニ記載セル釣魚台黄尾島嶼赤尾島嶼ト同一ナルモノニ無之哉ノ疑ナキ能ハス
同一ナルトキハ既ニ清国モ旧中山ヲ冊封スル使船ノ詳悉セルノミナラス夫夫名称ヲモ附
シ琉球航海ノ目標ト為セシ事明ラカナリ依テ今回大東島同様踏査直ニ国標取建候モ如
何ト懸念仕候間来十月中旬両先島ヘ向ケ出帆ノ雇汽船出雲丸ノ帰便ヲ以不取敢実地
踏査可及御屈候条国標取建等ノ義尚御指揮ヲ請度此段兼テ上申候也」。この報告を受
けた内務卿は、「無人島久米赤島外ニ島ニ国標建立ノ件」を太政官会議(現在の閣議に
相当)に提案するため、次のような上申案をまとめた。「沖縄県ト清国福州トノ間ニ散在セ
ル無人島久米赤島外ニ島取調べ之儀ニ付別紙之通同県令ヨリ上申候処右諸島ノ儀ハ
中山伝信録ニ記載セル島嶼ト同一ノ如く候ヘ共只針路ノ方向ヲ取タル迄ニテ別ニ清国所
属ノ証拠ハ少シモ相見ヘ不申且ツ名称ノ如キハ我ト彼と各其唱フル所ヲ異ニシ沖縄所
轄ノ宮古八重山等ニ接近シタル無人の島嶼ニ有之候ヘハ同県ニオイテ実地踏査ノ上国
標相建候儀差支無之ト相考候間至急何分ノ御詮議相成候様致度別紙相添此段相伺候
也」。従ってこれらの公文書からも、また、すでに述べた中琉間の冊封関係の実態から
も、日本人が尖閣諸島を発見したのは一八八四年であるという中国の主張には全く根拠
がない。もっとも、私人古賀辰四郎が明治二八年(一八九五年)六月一〇日提出した「官
有地拝借願」で述べるように、尖閣諸島ノ経済的利用価値の発見という意味であれば、
それは日本人による一八八五年のことである。古賀は言う。「明治一八年・・・・・・久場島
二寄セ上陸致候処図ラスモ俗ニバカ鳥ト名ノル鳥ノ群集セルヲ発見致候・・・・・・バカ鳥ノ
羽毛ハ欧米人ノ大ニ珍重スル処ト承リ候・・・・・・・右羽毛ハ実に海外輸出品トシテ大イニ
価値アルモノト信セラレ申候・・・・・・」と。
 ところで、明治一八年の国標建設の件については、内務卿は上申案の提議に先立って
同年一〇月九日外務卿井上馨と協議し其の意見を求めた。一〇月二一日の井上の回
答は、これらの島嶼が清国國境にも接近しており大東島に比してもごく小さな島であり、
「殊ニ清国ニハ其ノ島名モ附シ有之候ニ就テハ近時清国新聞等ニモ我政府ニオイテ台
湾近傍清国所属ノ島嶼ヲ占拠セシ等風説ヲ掲載シ我国ニ對シ猜疑ヲ抱キ頻ニ清政府ノ
注意ヲ促シ候モノモ有之際ニ付此際遽ニ公然国標ヲ建設スル等ノ処置有之候テハ清国
ノ疑惑ヲ招キ候間実施ヲ踏査セシメ港湾ノ形状並ニ土地物産開拓見込有無詳細報告セ
シムルニ止メ国標ヲ建テ開拓ニ着手スルハ他日ノ機会ニ譲候方可然存候・・・・」というも
のだった。ここにみられるのは、当時の小国日本の大国清国に対する外交上の配慮で
ある。明治一八年以後、古賀等の私人による渡島のほか、明治二〇年には軍艦「金剛」
により、また明治二五年には軍艦「海門」による尖閣諸島の実地測量が行われたといわ
れる。しかし、これらに対する清国からの抗議の事実もなく、清国における新聞論調は、
井上馨の回答にみられたように、日本に対し批判的であったにもかかわらず、清国政府
は何らの行動もとったようには見られない。このことは、クリッパ-トン島事件(本書補章
三参照)において、メキシコが砲艦デモクラータを派遣したことを知ったフランスが間髪を
入れずに抗議を申し入れていることのとの対比からすれば、清国に尖閣諸島が自国領
である、という認識がなったことを推察させるに充分であろう。少なくとも一九七一年にな
ってからこれを「かすめとった」と非難しても、法的には何の意味もない。
 さて、最後に井上馨も触れている「島名」の問題について若干触れておかねばならない
であろう。
 沖縄の島々の名は「沖」のつくものをはじめ、伊江島、水納島、瀬底島、与那国島、西
表島、来間島、久高島というように明らかに和名である。一八七九年にいわゆる琉球処
分を明治政府が行ったとき琉球王が中国の助けを求め、これに応じ何如障中日公使は
琉球が中国のものであると主張した(いわゆる琉球処分との関係で、大山梓「琉球帰属
と日清紛議」同著『日本外交史研究』(一九八〇年、良書普及会)一〇七―一五一頁参
照)が、その折、沖縄出身の歴史学者東恩納寛惇は、命名された方に触れ、固有の名称
が和名であって中国名でないという事実をあげ、反論した。こうしたことから、逆に、日本
国際貿易促進協会常務理事高橋庄五郎は、黄尾嶼、赤尾嶼、釣魚嶼という島の固有の
島名は明らかに、台湾の花瓶嶼、綿花嶼、彭佳嶼、という島々の系列に入る命名法であ
って、中国名であり、中国領であったことを物語る、と主張する(『尖閣列島ノ-ト』一九七
九年、青年出版社)。しかしながら、これについては、沖縄の人々に早くから「イーブン・ク
バシマ」とか「ユクン・クバジマ」おか「ユクン・クバ」などの呼称があったことが、東恩納寛
惇や藤田元春らの戦前から戦後にかけての研究によって知られており、また戦前の宮
良当社の『八重山語録』の研究や、冊封使陳侃の「盖琉球不習漢字、原無誌書、華人未
嘗親至其地」と言う記述にみられる当時の琉球の事情等を勘案すれば、琉球伝承の「イ
ーグン(又はユクン)」等が冊封使一行に加わる琉球人舟夫によって冊封使により採録さ
れ、中国語として定着してきたことも」十分考えられる。(尾崎、前掲〈下の一〉参照)。い
ずれにせろ、国際法上は島名は係争中の島の同定のためには重要な意味をもつが、領
域帰属をきめるための決定打にはならない。因みに、フランス・メキシコ間で争われたクリ
ッパ-トン島は、一八世紀初頭にそこを避難所にしていたイギリス人冒険家の名をものと
考えられているし、オランダ・米国間で争われたパルマスト島(本書補章ニ参照)には発
見者スペインではなく、ポルトガル名さえみられ、また、英仏間のマンキエ・エクレオ事件
(同一参照)で争われたこれらの島嶼群の島名は明らかにフランス語系であり、語られる
言語も、今でこそこれらチャンネル諸島では一般に英語であるが、儀式ではフランス語で
ある。それにもかかわらず、これらのことは領域帰属問題の決定に関し何ら決定的意味
をもたなかった。従がって、尖閣諸島の島々が黄尾嶼、赤尾嶼と中国名であるにしても、
そのこと自体で帰属問題につき中国ぐぁに有利に働くというものではない。



   3  日本側の主張の検討
 
 一九七二年三月八日の外務省基本見解「尖閣諸島の領有権問題について」は次のよ
うに述べており、日本の主張は先占による領域取得ということに尽きるようである。
  尖閣諸島は、明治一八年以降政府が沖縄縣当局を通ずるなどの方法により再三に
わたり現地調査を行い、単にこれが無人島であるのみならず、清国の支配が及んでいる
痕跡がないことを慎重確定の上、明治二八年一月一四日に現地に標杭を建設する旨の
閣議決定をおこなって正式にわが国の領土に編入することとしたものである。(以下略)
 一九七八年一月の外務省資料「尖閣諸島について」は、一九七二年の外務省情報文
化局発行の冊子「尖閣諸島について」とほぼ同じである。二本の領土に編入された経緯
について次のように記している。
(一)慎重な編入手続き
  明治政府は明治一二年(一八七九年)に琉旧藩を廃止し、沖縄県を設置した後、明治
一八年(一八八五年)依来一〇年間もかけて数回に亙り沖縄縣当局を通じる等して尖閣
諸島を実地に調査し、尖閣諸島が清国に所属する証拠がないことを慎重に確定した後、
明治二八年(一八九五年)一月一四日の閣議決定により、尖閣諸島を沖縄県の所轄とし
て、標杭を建てる事をきめました。
  このようにして尖閣諸島は、わが国の領土に編入されたのです。(この編入は、日清
戦争後、台湾の割譲等を定めた下関条約の調印された(明治二八年(一八九五年)四月
一七日より以前であり、 尖閣諸島が台湾の一部としてあつかわれたことは、これまで一
度もないのです)(以下略)
さて、明治二八年一月一四日の閣議決定は、すでに触れた明治一八年の沖縄縣知事か
らの上申のほか、明治二三年一月一三日の「魚釣島外ニ島ノ所轄決定ニ関シ伺ノ件」さ
らに明治二六年一一月ニ日三度にわたる上申の結果、「内務大臣請議沖縄縣八重山群
島ノ北西に位スル久場島魚釣島ト称スル無人島ヘ向ケ近来漁業等ヲ試ムルモノ有之為
メ取締ヲ要スルニ付イテハ同島ノ儀ハ沖縄縣ノ所属ト認ムルヲ以テ標杭建設ノ儀同県知
事上申ノ通許可スベシトノ件ハ別ニ差支モ無之ニ付請議ノ通ニテ然ルヘシ」と決定したも
のであり、一月ニ一日付で「標杭建設ニ関スル件請議ノ通」と沖縄縣知事に指令した。沖
縄県がこの指令に基づき現地に標杭を建設した事実は確認されていないが、こうして日
本領編入が行われた。
ところが、いわゆる尖閣諸島は、閣議決定が言及する魚釣島、久場島(黄尾嶼)のほか、
沖縄で久米赤島という名で知られる赤尾島嶼と魚釣島周辺に南北二小島や岩礁があ
る。南小島、北小島や飛瀬、沖の南岩、沖の北岩の岩礁は魚釣島、久場島(黄尾嶼)とほ
ぼ一体をなしており、とくに閣議決定による言及がなくとも、これらの小島也岩礁も領域
編入の対象となったと考えられる。明治二九年四月一日の勅令によって沖縄縣に群制が
施行され、魚釣島、久場島の両島はまもなく八重山郡に編入され、南小島、北小島ととも
に国有地に指定された。ところが、久米赤島(赤尾嶼)が国有地に指定され、国有地台帳
に記載されたのは、大正一〇年(一九に一年)七月二五日のことえあり、この時に島名も
大正島と改称された。このことは、一部論者の言うように、久米赤島(赤尾嶼、大正島)の
日本領編入が一九二一年であることを示しているのであろうか。しかし、そのように考え
るのも不自然であり、明治二八年の閣議決定が沖縄縣「知事上申ノ通」ニ上申に基づき
行われたものであって、明治一八年、同二三年の上申が「魚釣島外ニ島」として赤尾嶼
もふくめている以上この閣議決定からとくに赤尾嶼を区別して除外する理由はない、と考
えるのが自然であろう(ただし、明治二六年の沖縄縣知事の上申は必ずしもあきらかで
ない)。こうして久場島(黄尾嶼)の開拓を開始した古賀は、明治三三年五月には赤尾嶼
に渡り同地に標木を建てている。赤尾嶼の国有地指定が遅れたのは、この付近海域で
は帯状の黒潮が赤尾嶼を包含した形で過流状の潮流となり、流速も二〜三ノットの急流
であって、通常の晴天の日ですら上陸は困難となるほどであり、しかも、見るべき資源も
なく全島岩山で居住不適であるため開拓の対象とされなかったことによるのであろう。
ところで、尖閣諸島の領域編入は、日本の其の他の島嶼の領域編入の際に用いられた
「通告」とか「告示」とか「勅令」とかの形式(これらについては、国際法事例研究会・日本
の国際法事例研究(3)『領土』(一九九〇年、慶応通信)参照)がとられておらず、また、
標杭が建てられた事実も確認されていないので、不整規なものである、とされるであろう
か。
周知の通り、国際法上、先占が有効となるためには、国家が領有の意志をもって、無主
の土地を実効的に占有することが必要である。つまり先占の主観的要件としての国家の
領有意志の表示と先占の客観的要件としての実効的占有が問題である。領有為志は、
通常、当該地域を国家の版図に編入スル旨の宣言、立法上又は行政上の措置、他国へ
の通告などによって表示される。アフリカの分轄に関して一八八五年のベルリン会議一
般議定書第六章第三四条が定めたように、通告を先占完成のための必須条件とする説
もあるが、同議定書は調印国限りの義務を定めるものであり、一般国際法とは言えず、
パルマス島事件判決にもみられるように、通説はこれを否定する(この点については、本
書の次節「竹島問題」において再論する)。通説は、通告がなされていなくとも、それ以外
の手段で領有意志が表明されておれば充分である、としている。そして、日本の領有意
志は、国際判例や通説の説く意味で、確認することができる。
実効的占有の意味については、土地の現実の使用とか定住といった物理的占有の意味
に解する説と、当該地域に対する支配権の確立という社会的占有の意味に解する説と
がある。パリマス島事件判決、東部グリーンランド事件判決、マンキエ・エクレオ事件判
決等、国際判例はすべて社会的占有説を支持している。無人島の場合には、従がって、
単に此れを発見し、其の上に国旗を掲揚するなどの象徴的な領域編入行為を行っただ
けでは有効な先占とはならない。パルマス島事件判決の言うように、通説は発未成熟の
権原を認めているが、実効的先占有がその後に続かなければ領域取得は成立しない。
これは一九世紀依頼の国際法である。標杭が建てられていたとしても、単にそれのみで
は日本の先占ハ完成しない。一九世紀の国際法によれば、軍艦や公船による定期的巡
視などで無人島には国家機能をおよぼしていなければ先占が実効的とは言えないから
でる。
尖閣諸島は、先に見たように、明治二八年一月一四日に閣議決定によって日本領に編
入され、同年六月一〇日、古賀辰四郎が「官有地拝借御願」で国有地借用願を申請し、
翌二九年九月に政府は、魚釣島、黄尾嶼、北小島、南小島の四島を三十年間、開拓奨
励のため、無料で古賀に貸与することを許可した。ところが、この間の二八年四月一七
日日清講和条約調印、五月八日批准書交換、そして、六月ニ日には台湾の受け渡しが
完了していたのである。確かに、尖閣諸島に対する日本の実効的支配は明らかである。
そのほとんどは日本が台湾の割譲お受けた後の台湾統治時代のものである。そのた
め、中国からの抗議はないものの、無主地先占をした島嶼に対する支配なのか、割譲さ
れた地域に含まれる島嶼に対する支配なのか、必ずしも分明にすることができないかも
しれない。その意味では、敗戦の一九四五年(昭和二〇年)八月一四日までの日本の行
為は、いわば凍結され、実効的占有として意味在る行為はせんごのものに限られてしも
うかもしれない。しかし、幸か不幸か、中国が尖閣諸島の領有を争って抗議をはじめてた
のは一九七一年になってからのことでる。この点からは、いわゆるクリチカル・デ-ト
(critical date  決定的期日。其の日までの事実は国際裁判所によって証拠として採用
され得るがそれいごのものは審査の対象にならないので、証拠許容限界期日とも訳され
る)を一九七一年六月一七日の沖縄返還協定調印の日とすることができる(この点、松
井芳郎葉最も適切かつ公平なクリチカル・デ-トは中国または)台湾の最初の抗議または
請求の日であろうと思われるし。それを、一九七一年二月中旬とする。
MATSUI Yosiro, “International Law of Territorial Acquisition and the Dispute  
over the Senkaku(Diaoyu) Islands” The Japanese Annual International Law,  
No.40(1997), p.8.)。
  それでは、尖閣諸島はそもそも明治二八年二先占の対象となる無主地であったので
あろうか。中国は昔から中国領であったとして歴代の使録等を証拠として主張する。中国
の主張とその根拠については、すでに述べた検討の通りであり、中国は中琉間の境界
は赤尾島嶼と久米島との間にあると主張するが、冊封使の帰路の記述には、魚山と鳳
尾サンにつき「二山皆ゾ記台州」とか「中華外山」などもみられ、福琉間の航路上の尖閣
諸島は航路目標として歴代使録に記されたとみるのが自然であろう。また、中国は航路
の安全のための措置等を何ら取ってこなかったが、たとえ何らかの措置を取った証拠が
あるとしても、マンキエ・エクレオ事件で、フランスがマンキエにかんして水路測量のため
の実地調査、灯火やブイの設置、実地調査のための暫定的な標識の設立、という事実を
主張したが、これに対し、国際司法裁判所は「暗礁の外測にブイを設置する等のフランス
の行為はフランス政府がマンキエに対して主権者として行為する意図をもっていたことの
十分な証拠とはみなしえない。また、これらの行為は、マンキエに対する国家権力の表
示と考えられる性質のものではない」(I.C.J.Reports 1953. p.71.)と述べており、船舶の
安全に関わる国家の行為は、通常、それに関連する島嶼にたいする領有意志とは無関
係になされることが多く、主権の権原の直接的証拠となりにくいものであり、こうしたこと
から推察すると尖閣諸島は無主地であったと考えられる。
 次に、仮りに、中国側の豊富な文献から押して、尖閣諸島が中国旅雲であることを明確
に証明するものが今後発見された場合でも、パルマス島事件判決が言うように、「権利
の存続」とは区別しなければならない。その点、尖閣諸島が明・清代に経済的に利用さ
れていた事実はなく、発見から生じる原始的権原が仮りに中国にあり、その中国の権に
未成熟なものとしていまだ存在していたとしても、未成熟の権原は他の国家による継続
的かつ平和的な権力の発現には優先しない。従がって、日本の尖閣諸島に対する領域
主張の根拠は、先ず、無主地先占であり、クリチカル・デートを一八九五年(明治二八年
原が一八九五年(明治二八年)にとるにしても、これまでの民間による研究によrかぎりで
は日本に有利に思えるが、クリチカル・デートを沖縄返還協定締結の一九七一年六月一
七日にもってくることにより、日本にとって実効的支配の事実の多くなる一八九五年〜一
九七〇年の間の行為を証拠能力あるものとすることができるので、無主地先占のほか
に、代替的に、「継続的,かつ平和的な主権の発現」という権原(パルマス島事件)を主張
すべきであろう。少なくとも、中国側が沖縄返還協定締結により「返還区域」の中に尖閣
諸島を組み入れことを不法なことと非難し、中国の尖閣諸島に對する領域権の存続を主
張しているかぎりで、クリチカル・デートを沖縄返還協定締結時に設定することが当    
   然と思われるからである。其の場合、日本が一八九五年以降七五年間「継続的」
に、しかも、中国からのいかなる抗議も無く、つまり「平和的」に国家権能を発現してきた
ことは、十ニ分に立証されるであろう。
   しかし、尖閣諸島が無主地でなかったとして、もし下関条約によって台湾等と一緒に
日本に割譲されたのであればパルマス島事件で、マックス・フーバー判事が「継続的か
つ平和的な主権の発現」と呼ぶ終局的権原を論じる余地はない。より明瞭な割譲という
権原に座を譲ったことになるからである。尖閣諸島は本当に下関条約の台湾付属諸島
嶼の中に含まれていなかったのであろうか。
   明代、清代の福建省や台湾省の地方志によれば、各行政範囲に尖閣諸島が見あ
たらないことについて、すでに言及した。下関条約は明治二八年五月八日に批准書が交
換され、同条約五条により、六月ニ日、日本側全権委員か樺山資紀と清国側全権委員
李徑方との間で「台湾受渡ニ関スル公文」に署名され、この折、日本側水野弁理公使と
清国側李経全権委員の間で、台湾付属諸島嶼の範囲について、次のような会話が交わ
された(伊能嘉矩『台湾文化志』下、九三六―七頁)。

   李「台湾附属島嶼とあるその島嶼の名目を目録中に挙ぐるの必要なきか。何となれ
ば平和条約中には澎湖列島の区域は経緯度を以って明瞭にせられあるも、台湾の所属
島嶼については、これらの区域を明らかにすることなし。故に若しも後日福建省附近に
散在する所の島嶼を指して、台湾附属島嶼なりと謂ふうが如き紛議の生ぜんを懸念すれ
ばなり。」
   水「閣下の意見の如く各島嶼の名称を列記するときは、若し脱漏したるものあるか、
あるいは無名島の如きは、何れの政府ノ所領にも属せざるに至らん。是不都合の一点な
り。また海図及び地図等にも、台湾附近の島嶼を指して台湾所属島嶼と公認しあれば、
他日日本政府が福建近傍の島嶼までも台湾所属島嶼なりと主張する如きこと決して之
なし。小官は帰船の上、この事を特に樺山総督閣下に陳述し置くべし。況や福建と台湾
との間に澎湖列島の横たわりあるにおいてをや。閣下の遠慮は全く杞憂に属するなら
ん。」
   李「肯諾」

明治二九年までに日本で発行された台湾に関する地図、海図の類は、例外なく台湾の
範囲を彭佳嶼までとしており、台湾受渡しの時に問題となった「海図及び地図等で公認し
ある台湾所属島嶼」に尖閣列島が含まれないことは、日清双方の一致して認めるところ
であった。





  4  最終的解決までの扱い
 紛争の解決の進め方について、係争中の島を現に占有しているのがどちら側にあるか
によって限り、尖閣諸島の場合には占有しているのは日本であり、最終定解決に至るま
で   の間、日本は要スルに占有をそのまま維持すればよく、ことさら占有を強化する必
要はない。
さて、ニ〇年前、日中平和友好条約締結交渉が行われていた一九七八年四月一二日の
早朝、尖閣諸島の領海内に多数中国漁船が出現し、折から再開された日中平和友好条
約交渉が一時的に頓挫したことはまだ記憶に新しい。このときは一五日になって耽颱副
首相が「尖閣事件は偶発的なもの。この小さな島のことは解決を将来にゆだねたあ方が
よい」と語り、中国漁船はすべて尖閣領海外に退去した。其の後、交渉は北京で再開さ
れ、八月八日の園田相の北京入り、九日ケ小平副首相との会談を経て、一二日に日中
平和友好条約が調印された。調印後の記者会見の園田外相冒頭発言で、「なお、尖閣
諸島の問題に関しましては、一〇日午後の私とケ小平副首席との会談において私が日
本政府の立場について述べたのに対し、中国側は中国政府として再び先般の事件のよ
うな争いを起すことはないと述べました。」と述べられた。ケ発言についてあh国会におけ
る条約審議のなかでも度々取り上げられ、一〇月一三日の衆院外務委員会では「私の
方から・・・・・尖閣列島に対する日本の立場を述べ、この前のような事件があっては困
る、今後ああいう事件は絶対にやらないようにという強い要請をいたしました。これに対
してケ小平副主席は、このまえの事件は偶発であって、今後あのような事件は絶対にや
らない、こういう話でした」(園田外相、第八五国会・衆外委一号)と述べられ、翌一四日
には「ケ小平副主席は、この前のような事件は、あれは偶発事件であるが今後は絶対に
やらないと公式の会談で明言されたわけであります。これは議事録に載っておりますか
ら、ああいう事件は今後はないと存じます」(同二号)と述べられている。
尖閣諸島の領有権については、日中平和友好条約の批准書交換のめ一〇月二二日か
ら二九日まで来日したケ小平副主席は、日本プレスセンターで内外記者会見を行い、
「中日国交正常化の際も、双方はこれに触れないことを約束そた。今回の平和友好条約
締結交渉の際も同じくこれに触れないことで一致した。・・・・・・・両国政府が交渉する際
は、この問題をさけることがいいと思う。こういう問題は一時タナ上げにしてもよい。一〇
年タナ上げしてもかまわない。・・・・・・」と述べている。こうした中国側の領土問題暫時棚
上げ方針は、日本にとっては幸いである。
ところが、翌七九年一月一六日、森山運輸相が記者会見で「中国と領有権をめぐって最
終的決着がついていない沖縄・尖閣列島に施設をつくるため沖縄開発庁が五四年度に
調査を始めるので、海上保安庁はこれに協力するため同列島魚釣島(無人島)に仮のへ
リポートをつくる方針で沖縄開発庁と協議する」と述べ、これを契機に第八七回国会で再
び尖閣諸島の領有権問題がとりあげられ、三千万円の調査費やヘリポート建設問題に
からんで、園田外相は「静かに現在の有効支配を続けることが日本の実益のためにいい
ことでると考えております。しかし、今度のへリポートが地域の住民なり、漁民の避難場
所であるとか、安全のためにつくられるというおとならばなるべく刺激しないようにやるべ
きであって、これが有効支配の誇示のためにやることであれば大変なことである」(衆内
委、第一四号二三頁)と述べ、さらに、日本の領土であるが、挑発的行動は好ましくない
(衆外委、第一三号、五月三〇日、三〇頁)と答弁した。しかし,五月二九日には沈平中
国外交部アジア局長が駐中国日本大使館の伴臨時代理大使を中国外務省に招き、口
頭で遺憾の意を表明するに及んだ。沈平アジア局長の申し入れを報じた二九日新華社
電の全文は次の通りである。
  中華人民共和国外交部アジア指令長沈平は、本日午前、中華日本臨時代理大使伴
正一と会見し、日本政府が最近巡視船「宗谷号」を派遣し、人員及び機材を中国の釣魚
島に運び仮ヘリポートを設置し、また調査団、測量船を派遣していることについて」話し合
いを行った。
魚釣島等の島嶼は,古来より中国の領土である。一九七一年一二月三〇日、中国外交
部はこれについて声明を発表した。しかしながら、中日双方には魚釣島等の島嶼の領土
帰属問題において意見の不一致がある。中日国交正常化及び平和友好条約の締結の
際、双方は中日友好の大局的見地よりこの問題をそのままにしておき、将来解決するこ
とに同意した。
これに基づき沈平司長は「日本側は明らかに双方の間の上述の了解にそむいている。
われわれは日本側の行為に対し遺憾の意を表明せざるをえないし、またこの行為が法
律上の価値を有するとは認めないことを声明する。」と指摘した。
沈平はまた、「われわれは、日本政府が大局的見地より両国の指導者が魚釣島問題に
ついて達成した了解を守り、両国友好と善隣協力関係を損なう一切の行為を制止するよ
う措置をとることを希望する。」旨表明した。
この抗議申し入れについて、園田外相は「少なくとも相手が抗議を申し入れたことは、こ
えが有効支配の誇示的行動であると受け取られたものであると理解せざるを得ません」
と答弁しており(五月三〇日、衆外委。第一三号三〇頁)、少なくとも政府は、静かに現
在の占有をそのまま維持し続けるというのが日本にとっては最上の策である、考えてい
るように思える。ただその際考慮すべきことは、前述のよう、マンキエ・エクレオ事件にお
いてフランス側が水路測量のための実地調査、灯火やブイの設置、実地調査のための
暫定的な標識の設立などの行為を主張したのに対し、国際司法裁判所が「暗礁の外測
に設置する等のフランスの行為がその性質上マンキエに対する国家権力の表示とは考
えられない」と判示しており、単なる船舶の安全に関する行為のみでは、充分とはいえな
いことである。もっとも、ノルエーとスエーデンが両国間の南部領海の境界を争ったグリ
スバダルナ事件では、標識の設置、海域調査、燈台船の配置などをスエーデンが単に権
利の行使としてのみならず、「義務の履行」としt行うと考えて行為してきたのに対し、ノル
ウェーがこうした点に関し同海域にはほとんど何の関心も示さなかったことも理由となっ
て、グリスバダルナの浅瀬が裁判所によってスエーデンに帰属させられたことを忘れるこ
とはできない。
従がって、げんざいの占有を維持し、ことさらに強化する必要がないというのは、以上の
ことから、尖閣諸島に対して領域主権をもっているので権利行使として何かを行うという
よりも、現在の日中関係すれば、自国領域いじの観点から、業務履行としての種々の行
為を行うということであって、南西諸島施政権が日本に返還された昭和四七年(一九七
二年)五月一月一五日以降、海上保安庁が尖閣諸島を含む沖縄周辺において巡視船お
よび航空機によるパトロールを行い、領域侵犯・不法漁撈の取締りを行っていること等の
行為の継続が今後も望まれるのである。その意味では、近年の中国人民間運動家によ
る海上デモとか強行入域に対する警戒や退去要請などは妥当な措置である。なお、クリ
チカル・デート後の国家行為は証拠として許容されないで、一九七二年の台湾による尖
閣諸島の編入措置とか、尖閣諸島を自国領とする九二年の中国の領海および接続水域
法などは国際法的に意味のある行為とはならないが、民間人の行為といえども放置する
ことは望ましくないからである。




誤字脱字等の間違いの責任は全て管理人に存す
















トップへ
戻る



現代国際法における領域権原についての一考察