尖閣諸島の領有権問題

尖閣諸島問題の概要

目次

(1) 尖閣諸島の場所
(2) 尖閣諸島の名前の由来
(3) 五つの島と三つの岩からなる尖閣諸島
(4) 写真
(5) 地図
(6) 地籍・地名
(7) 領土編入の経緯
(8) 古賀辰四朗氏の開拓事業
(9) 中国の言い分
(10) 台湾の言い分
(11)
(12) 存在しなかった尖閣諸島の領土問題
  (イ) 中華民国駐長崎領事が石垣村民に贈った「感謝状」
  (ロ)尖閣諸島を日本領土と認めていた中国・台湾の教科書・地図
  (ハ)牡丹社事件−「日清両国間互換議定書」に書かれたこと−
  (ニ)再び、中国も台湾も尖閣諸島を日本領であると認めていた
(13) 国際法は領有権をどう規定しているか
(14) 最後に
その他
(15) 琉球人の先導と駕乗導引を必用とした冊封船
(16) 尖閣諸島の開拓者・古賀辰四郎氏のこと
(17) 古賀氏における尖閣諸島のその後














1、 尖閣諸島の場所

尖閣諸島は東支那海にあり、一番大きい魚釣島まで、沖縄本島より東へ410km、
石垣島から北北西へ170km、台湾からは石垣島と同じく170km、
中国大陸までは330kmの位置にあります。

(図・第11管区海上保安部)





2. 尖閣諸島の名前の由来

黒岩恒

 尖閣諸島の名前は黒岩恒(当時沖縄県師範學校博物農業教師教諭、後国頭郡組合
立農学校長)の命名に由来する。明治33年古賀辰四郎が永康丸を尖閣諸島に派遣し
た時に氏は校命により調査にと同行し、魚釣島の調査にあたった。この調査結果を発表
した地學雑誌第140巻「尖閣列島探検記事」(明治33年)の中に次の文がある。

總論
茲に尖閣列島と稱するは、我沖縄島と、清國福州との中央に位する一列の小嶼にし て、八重山列島の西表(いりおもて)島を北に距る大凡九十哩内外の位置に在り、本 列島より沖縄島への距離は二百三十哩、福州への距離亦略相似たり、臺灣島の基隆 へは僅々一百二十余哩を隔つ、帝國海軍省出版の海図(明治三十年刊行)を案ずる に、本列島は、釣魚嶼、尖頭諸岐(※1)、及び黄尾嶼より成立し、渺たる蒼海の一粟な り。左れど其位置上の関係よりして、古來沖縄縣県人に知られ居れり、而して此列 島には、未た一括せる名稱なく、地理學上不便少なからざるを以って、余は窃か に尖閣列島なる名稱を新設することとなせり−後略−

尖閣諸嶼 (※2)
−前略− 尖閣或は尖頭(※3)なる名稱は本島の處々に見る所の突岩に基くもの にして、南小島の東部に屹立する者頗る大なり。余は之に新田の立石なる名稱を附せ リ、(仝僚教諭・新田義尊氏に因む)又北小島の西端なる三尊岩(新稱)の如きも、尖 閣の名に負かさるなり、−後略−
※1「岐」は間違い、正→「嶼」
※2黒岩は釣魚嶼の東方に位する二小島と、数個の岩礁の総称を「尖閣諸嶼」 と名付け
るに当たって、日本帝国海軍水路部が作成した「日本水路誌」の「ピンナクル諸嶼(尖頭
諸嶼)」と英海軍水路誌にある「The Pinnacle group」を参考にしているが、北小島と南小
島の二島だけでなく魚釣島・久場島などを含む列島全体を「尖閣」としたのは北小島や南
小島の様相が影響している様である。
※3「尖頭」とは日本水路誌にあるピンナクル諸嶼(尖頭諸嶼)のこと。






3. 五つの島と三つの岩からなる尖閣諸島


尖閣諸島とは東シナ海に浮かぶ5つの島と3つの岩からなる島嶼のことです。
5つの島とは、魚釣島、北小島、南小島、久場島、大正島のことであり、
3つの岩とは、飛瀬、沖ノ北岩、沖ノ南岩のことです。
最も大きな島の魚釣島でも広さが約3,6平方キロほどしかありません。

上図は第11管区海上保安部のものに飛瀬(とびせ)を加筆したものです。
(書き加えたのは飛瀬の位置を明らかにする為です)
これは第11管区海上保安部が位置図を変更する前のものです。
現在のものは沖の北岩・沖の南岩の名前もないので更新前のものを採用しました。




4、 写  真

代表的な島の写真を上げてみました。
全ての島嶼の写真を見るには「尖閣諸島の写真と地図集」をご覧下さい。

    
魚釣島_____________________________________________________________________________北小島・南小島
(写真:第11管区海上保安部)ーーーーーーーーーーーーー(写真:第11管区海上保安
部)


全景(南小島、北小島、魚釣島)_
(写真:第11管区海上保安部)
_
 ーーーーーーーー
______久場島__________________________________________________________________________大正島 ____________________
(写真:海保航空基地の業務)________________________________________(写真:webサイト)______
____




5、 地  図

(1) 魚釣島




黒岩恒氏が作製した地図


H.KUROIEWAは作者で沖縄師範学校の黒岩恒(くろいわひさし)氏のこと。
地図名はGEOLOGICAL MAP OF HOA-PIN−SU. BY H.KURIWA 「釣魚嶼地質圖図」と
なっている。

日本の支配下にあった琉球だが、中国に対しては表向き属国として朝貢しており、
公式文書は漢文である。その歴史の名残りが見て取れる「釣魚嶼 」の名称である。
日本編入後も沖縄がどういう名称を使っていたとしても、日本の尖閣諸島領有に疑念は
生じない。明治28年日本が尖閣諸島を編入して以後、1970年代に石油の埋蔵が
確認されるまで中華民国政府も中国共産党政府も異議を唱えていない。あまつさえ
中華民国は、福建省恵安県の漁民が遭難したのを魚釣島の住民に助けられた際、
感謝状を贈っていて、その中にハッキリと
「日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島の和洋島(魚釣島)」と書かれており、
中華民国駐長崎領事馮冕の文字と中華民国駐長崎領事印と書かれた公印もある。


国際法も国内法も後に最後に決定されたものが有効となる。
1970年代以降の台湾と中国の領有権主張は一方的なもので日本政府は承認していな
い。
従ってこの石油の埋蔵が発見されるまで抗議がなかった事実と感謝状の存在だけでも
国際法は明確に尖閣諸島の日本領有を支持するのである。



魚釣島地名入り図
地學雑誌明治33年9月第12輯第141巻にある黒岩恒氏製作の
釣魚嶼地質圖(地学雑誌明治33年卷・)geological map of hoa-pin-suの地名を
魚釣島青白図に書き加えたものです。



魚釣島の地名の由来
上の地図の様に黒岩恒氏は尖閣の名前の他に山や渓流にも色々と名
前を付けている。釣魚嶼の最高峰(362メートル)を奈良原岳は当時の
奈良原繁沖縄県知事から、北面の東谷の道安渓は八重山島司野村道
安氏から、安藤岬は沖縄師範学校安藤喜一郎校長、南小島の西岸に
伊沢泊とあるは伊沢弥喜太氏から。伊沢氏は明治二十四年に漁民と
ともに石垣島から魚釣島と久場島に渡航している。南小島の東部にあ
る「新田の立石」は黒岩氏の同僚新田義尊氏から。北小島と釣魚嶼と
のあいだの西よりの佐藤水道は永康丸の佐藤和一郎船長から。永康
礁は大阪商船会社汽船永康丸から。
(管理人)






(2) 地名が記された久場島の地図
黄尾島之圖(宮嶋幹之助作成・明治33年)

 今は全て無人島ですが、かつて魚釣島・久場島・南小島には鰹節工場があり、明治40
年には99戸、248人が住んでいました(奥原敏雄)。上図は明治34年出版の地学雑誌
第13集(東京地学協会)に掲載された上図 「黄尾島之図」ですがはっきりと 「古賀村」と
書かれています(拡大図)。。






6、 地籍・地名




 石垣市が建立した地籍表示のための標柱です(左)。
背面には石垣市字登野城2392番地と記されています。


5つの島には全て地籍があり、住所は沖縄県石垣市登野城2,390〜2,394番
地です。今は全て無人島ですが、魚釣島や久場島には古賀村があり、多分南小島
の工場の分も加えてだと思われますが、多い時は99戸、248人が住んでいました
(下の「古賀辰四郎の尖閣諸島開拓」に当時の尖閣諸島で暮らした人々の写真
を掲載しています)。
(尖閣諸島の以前の地籍は明治41(1908)年までが沖縄懸八重山郡大浜間切登野
城村、大正4(1914)年から沖縄懸石垣村登野城、昭和元(1926)年から沖縄懸石垣
市登野城に変更されています。番地は大浜間切登野城村の時の2,390〜2,39
4番地のままです。)

島名 地籍 所有者 高さ 面積・石垣市土地台帳 面積・国土地理
院の資料
沖縄県土地
対策課
海岸線の延長 大きさ(※管理者の推定)
魚釣島 石垣市登野城2、392番地 栗原國起 海抜362m 3641983平方メートル 3.82平方q 3.825ku 9.68q 最も広いところで(以下同)、横約3550m縦約1330m。
(※尖閣列島ノート:面積=4、32平方キロメートル、周囲=1
1、128m)
飛瀬
官有 海抜3、4m
0.01平方q 0.01ku 0.39q
沖の北岩 土地台帳に記載なし 官有 海抜24m
0.05平方q 0.05ku 0.81q 3個の大きな島は、左が横約150m 縦約80m、中央は横約
150m縦約50m、右は底辺約180m 高さ約150mの三角
形。
沖の南岩 土地台帳に記載なし 官有 海抜5m
0.01平方q 0.01ku 0.42q 横約185m 縦約45m
北小島 石垣市登野城2、391番地 栗原國起 海抜129m 258842平方メートル 0.31平方q 0.31ku 3.12q 横約880m 縦540m
周囲=3、164m 
南小島 石垣市登野城2、390番地 栗原國起 海抜148m 324628平方メートル 0.35平方q 0.40ku 2.61q 横約1、120m 横約520m
周囲=2、509m
久場島
(黄尾嶼)
石垣市登野城2、393番地 栗原國起
海抜118m
874049平方メートル 0.87平方q 0.91ku 3.54q
横約1、342m 横約1096m
面積=1、08平方キロメートル
周囲=3、491m
大正島
(赤尾嶼)
石垣市登野城2,394番地 官有 海抜84m 41368平方メートル 0.81平方q
0.98q 横約190m 横約610m

※注 面積などは資料によって数値が若干異なります。上図の数字は牧野清著「尖閣諸
島・日本領有の正当性」124・125ページの「(十二)尖閣列島の諸元」1996年(平成
8年)10月現在によるものです。
 
その中に次の記事があります。
(7)大正島を除く他の島々は近年まで古賀氏の所有であったが、現在は埼玉県の実業
栗原國起の所有です。
(8)ホアピンサは、英国サマラン号(1843〜1845年来琉)の琉球訪問記に記された
島名である。

※ 島々に番地が付けられたのは一九〇二(明治三十五)年である。八重山大浜間切登
野城村に編入された。
一九一四(大正三)年には石垣市登野城に改められた。
※ 最後の項目の縦横の数値は凡その大きさを推定してもらうために地図から計算した
もの。従って非常に不正確である。
※ 沖縄県土地対策課のものは土地対策課の島嶼別面積http://www.pref.okinawa.jp/
tochi/toukei/tousyo.htmlによったものでいある。




尖閣諸島の島名について
島名 分類classification 日本 黒岩恒 沖縄の名前 台湾 英語
尖閣諸島 諸島・islands 尖閣諸島・尖閣列島・
閣諸嶼・尖閣群島
尖閣列島 イーグンクバジマ 釣魚台列嶼 Senkaku Islands、 Senkaku-Shoto、Pinnacle group 
Diaoyu Islands、Diaoyu dao(中国)、
Diaoyutai Lieyu(台湾)
魚釣島 島・island 魚釣島・和平山・和洋島 釣魚嶼 イーグン 釣魚嶼・釣魚台 Uotsuri-jima、Diaoyu Dao、Chiwei Yu、Red Tail、Hoa 
pin su
久場島 島・island 久場島・黄尾嶼 黄尾嶼 クバジマ 黄尾嶼 Kuba-jima、Huangwei Yu 、Yellow Tail
大正島 島・island 大正島・赤尾嶼
赤尾嶼・赤嶼 Taisho-jima、 Chiwei Yu、Red Tail
北小島 島・island 北小島 尖頭諸嶼・北小島
北小島 Kita Kojima、 Beixiao Dao、Northern Islet
南小島 島・island 南小島 尖頭諸嶼・南小島
南小島 Minami Kojima 、Nanxiao Dao、Southern Islet
沖ノ北岩 岩・rock 沖ノ北岩 尖頭諸嶼・数箇の巨石
Northern Rocks of the Open Sea
沖ノ南岩 岩・rock 沖ノ南岩 尖頭諸嶼・数箇の巨石
Southern Rocks of the Open Sea
飛瀬 岩・rock 飛瀬
Tobise、Flying Shoal
中国(北京)語はこのホームページの設定では表記できないので中国名は記さなかっ
た。


我が国政府はこういう在野の者の優れた見識や努力に報いる気持ちが少しもない。とい
うのは尖閣諸島の地図にこれらの地名は何一つ記されていない。大正10年(1921年)7
月25日、赤尾嶼を「国有地」編入するに際して、「大正島」と改称します。にもかかわら
ず、つい最近まで国土地理院の地図に赤尾嶼とあり、久場島は沖縄の住民が昔から使
っていた久場島ではなく、黄尾嶼と書き続けていました。

いいえ未だに民間の地図にはまだ幾らも残っています(平成15年時)。日本の領有に横
やりを通しているのが中国でなかったらいいのですが、相手が中国の場合は必ずそのス
キをつかれます。たとえば下に引用した北京週報もそうです。

今ではインターネットでは多くのサイトで、大正島・赤尾嶼、久場島・黄尾嶼、東支那海・
東海、魚釣島・釣魚島と二つの名を並記し、その上に「領有権争いがある」と書いている
ものまである始末です。

私達の先人が付けた名前は誰も使用してくれません。地名で言えば魚釣島には奈良原
岳(ならはらだけ)、屏風岳(びょうぶだけ)、道安渓(どうあんだに)、大渓(おおたに)、小
渓(こたに)、尾瀧渓(おたきだに)、阿蘭陀曲(おらんだまがり)、安藤岬(あんどうさき)、
東岬(あがりさき)、西岬(いりさき)、北岬(きたさき)、佐藤水道(さとうすいどう)、永康礁
(えいこうしょう)、和平泊(わへいどまり)、千畳岩(せんじょういわ)などがあり、北小島・
南小島には、三尊岩、イソナノセト、伊沢泊、新田の立石がありますし、久場島には千歳
山、永康山、満川原、赤川原、馬追原、東岬、西岬などがあるのです。

日本政府がいくら「領有権問題は存在しない」と言っても、世界ではどんどん中国主導の
流れが強くなっています。「自分たちの国土は犠牲を払っても守る」という覚悟と努力が
なければ尖閣諸島はいずれ中国の手に落ちます。その後で何を言っても何をやっても遅
いのです。無知であったという反省が残るだけで、尖閣諸島は二度と私達の元に返って
きません。
 

北京週報の日本語版(http://www.pekinshuho.com/04-15/15-diaoyudao.htm)
1996年10月18日付 「人民日報」第8面で鐘厳は、「釣魚島問題について」の中で
下の様に書いています。
日本の地図や公文書ではかつて、「釣魚嶼」「黄尾嶼」「赤尾嶼」など中国
名とと同じ漢字がを正式に使用されていたことがある。このことは琉球王
国の公文書が漢文で書かれていたことと関係するのでのであって、中国
と同じ漢字が使用されていることが、琉球王国が尖閣諸島を中国の領土
と認めていたことを証明するものではない。統計によると、1935年から
1970年にかけて日本で出版された地図21種類および大百科事典の3分
の2に「尖閣列島」の記載がなく、「魚釣島」と記載しているものもあったと
言われている。

日本では釣魚島に属する島々の呼び方は混乱している。日本が最初に
呼ぶようになった「尖閣列島」は、沖縄師範学校の黒田岩恒教諭が1900
年5月、イギリス人が呼んでいた「尖頭諸島」から名づけたという。日本政
府は1921年7月25日、同島の「国有地」編入に際して、赤尾嶼を「大正
島」と改称したが、日本政府はこの名称を長い間正式に使用しなかった。
第2次世界大戦後に日本が連合国司令部に提出した、海上保安庁水路
部の海図は、依然として中国が命名した黄尾嶼、赤尾嶼を使用している。
米軍占領下の沖縄県が1969年に発した正式文書や掲示でも、黄尾嶼、
赤尾嶼などの島名が使用されている。1969年5月に釣魚島海域に石油が
埋蔵されているとの情報が流れると、沖縄県は石油会社から相次ぐ調査
申請を受け、同県石垣市長の命令で釣魚島に目印となる杭を建設、黄尾
嶼を「久場島」、赤尾嶼を「大正島」と再度改称した。

しかし、これら島々の名称は勅令による命名を経ていないため、1972年
以前の日本政府は各島の島名を出して領有権を主張せず、漠然と「尖閣
列島」または「尖閣群島」と呼んでいた。中国・台湾が領有権を主張しだし
た後も、これらの島に中国名を使用している日本地図も依然存在してい
たのは事実である。平凡社が1984年に出版した『世界大地図帳』には、
はっきり漢字と日本語読みで「魚釣島(うおつりじま)」、「黄尾嶼(こうびし
ょ)」、「赤尾嶼(せきびしょ)」と表記されている。また、日本政府や沖縄県
の正式文書でも黄尾嶼、赤尾嶼という呼称を使用していた。防衛庁が
1995年2月に衆議院予算委員会に提出した「防衛庁資料」でも、中国名
の黄尾嶼、赤尾嶼が使用されている。


どうでしょうか。私がこのホームページの「初めに」の中で言っている、「尖閣諸島の政府
独占は危険だ」というのが事実だとお分かりになってもらえたでしょうか。私は日本政府
に尖閣諸島は管理できないと考えています。政府が管理すれば中国の思いのままにな
る。尖閣諸島は危険であると断定します。尖閣諸島を民間に開放し、日本経済に組み込
む案を在野の賢人に仰ぐべきです。そしてその構造を守る為に政府は行動すべきです。







7、 領土編入の経緯

 我が国が尖閣諸島の領有意志を明確にしたのは、一八八五年(明治十八年)沖縄県
知事西村拾三が、尖閣群島を同県の所轄として国標を建設したい旨大政大臣宛に上申
して以来のことです。
 上申を受けた井上外務郷は、尖閣諸島が清国福建省境に近いことから、清国との間に
問題の起こる事を恐れ、これを退けました。中国人はこれをもって「日本は中国の領土と
分かっていたから奪う機会を狙っていたのだ」と言います。それは邪推というもので、自
分たちだったらそうする(現代の南沙諸島も尖閣諸島に対するやり方を見れば明白)か
ら、日本人も同じだと考えているだけのことです。併し今の日本を思えば当時の日本政
府が何でそういう態度に出たのか当然理解できると思います。当時清国は大国で日本は
完全な小国です。明治の日本が領有権を表だって主張できなかったことは当然です。併
しそれは尖閣諸島が清国の領土だと認めていたからではなく、あくまで当時は大国であ
った清国との間に問題の起こることを恐れた結果にすぎません。

 併し沖縄県では、その後も尖閣諸島近辺において漁獲や探検を試みる者があったよう
で、沖縄県知事は明治23年(1890年)、明治26年(1893年)と相継いで同県の所轄
方と標杭の建設を、内務および外務両大臣に上申しました。下に引用した「久米赤島久
場島及魚釣島版図編入経緯」の中にそのことが書いてあります。

 明治28年(1895年)3月14日、閣議で魚釣島・久場島を沖縄県の所轄と認め、沖縄
県知事の上申通りに所轄標杭を建設することを決定(勅令十三号)し、その旨を沖縄県
知事に指令しました。翌明治29年4月1日、沖縄県知事は勅令十三号に基づき同列島
を八重山郡に編入させる借置をとりました。この尖閣列島に対する国内法上の編入借置
により尖閣列島は正式に我が国の領土に編入されたのです。

 日本は清国と戦争になって初めて尖閣列島領の意志を表明できたのです。それまでは
清国との争いを恐れ明らかにできませんでした。日清戦争で日本は尖閣諸島を奪い取っ
たと言われるのはこのためです。ですが、よく考えて下さい。当時の世界には未発見の
土地があってそれを発見した国が領土に編入した時代です。そして、いつでもどこでも本
当のことが言えるというのは大国の論理です。百年後の現在も本音を言えない民族や国
家が沢山あります。戦後の敗戦小国の日本は再び三度事なかれ主義に陥り何も言えな
い、言わない時代が続きました。今もそうです。経済大国となり尖閣諸島を領有している
現在ですら政府は中国との争いを恐れ尖閣諸島に上陸し領土を侵犯した中国人を中国
の圧力に屈し法律で罰することなく帰国させました。こういう態度が中国や台湾につけ込
まれるスキを与えてしまい、問題をこじらせてしまっているのです。


「久米赤島久場島及魚釣島版図編入経緯」(『日本外交文書』第十八巻版図関係雑件)
沖縄県ト清國福州トノ間ニ散在スル久米赤島(久米島ヨリ未申ノ方大凡七十里ヲ距テ
アリ清國福州ヲ去ル或ハ二百里ニ近カラン歟)久場島(久米島ヨリ午未ノ方大凡百里
ヲ距テ八重山島ノ内石垣島ニ近接セル大凡六十里余ニ位ス)及魚釣島(方位久場島
ト同一ニシテ唯十里程遠シ)ノ三島ハ別ニ清國所属ノ證跡見エス且ツ沖縄所轄ノ宮古
八重山島等ニ接近セル無人島嶼ナルヲ以テ國標取建ニ関シ沖縄県知事ヨリ上申アリ
タルヲ以テ右ノ詮議方太政大臣へ上甲スルニ先チ明治十八年十月九日山県内務卿
ヨリ井上外務卿へ意見ヲ徴シ来レリ外務卿ハ熟考ノ結果本島嶼カ清國國境ニ接近セ
ルコト叢爾タル(筆者注小さい)島嶼ナルコト当時清國新聞紙等ニ於テ本邦政府カ台
湾近傍ノ清国所属島嶼ヲ占拠セシ等ノ風説ノ掲載セラレ清国政府ノ注意ヲ促シ居ル
コト等ノ理由ニ拠リ國標ノ建設島嶼ノ開拓ハ他日ノ機会ニ譲ル方然ルヘキ旨十月二
十一日回答セリ依テ十二月五日内務外務両卿ヨリ目下建設ヲ要セサル儀ト可心得
旨沖縄県知事へ指令アリタリ
明治二十三年一月十三日沖縄県知事ヨリ本件島嶼ハ従来無人島ナルヨリ別ニ所轄
ヲ定メス其儘ニ為シ置キタル所近時水産取締ノ必要ヨリ所轄ヲ定メラレ度キ旨八重山
島役所ヨリ伺出アリタルニ付旁管轄所定方内務大臣へ上申アリタリ
明治二十六年十一月二日更ニ沖縄県知事ヨリ当時ニ至リ本件島嶼へ向ケ漁業等ヲ
試ムル者アルニ付之カ取締ヲ要スルヲ以テ同県ノ所轄ト為シ標杭建設シタキ旨内務
外務両大臣へ上申アリタリ依テ二十七年十二月二十七日内務大臣ヨリ本件閣議提
出方ニ就キ外務大臣ヘ協議アリタルモ異議ナカリシヲ以テ閣議ヘ提出ノ上明治二十
八年一月二十一日閣議ノ決定ヲ経テ内務外務両大臣ヨリ曩ニ上申中ノ標杭建設ノ件
聞届ク旨沖縄県知事へ指令アリタリ

(一)
魚釣島外二島ノ所轄決定ニ関シ伺ノ件
甲第一号
管下八重山群島ノ内石垣島ニ接近セル無人島魚釣島外二島ノ儀ニ付十八年十一月
五日第三百八十四号伺ニ対シ同年十二月五日付ヲ以テ御指令ノ次第モ有之候処右
ハ無人島ナルヨリ是迄別ニ所轄ヲモ不相定其儘ニ致置候所昨今ニ至リ水産取締ノ必
要ヨリ所轄ヲ被相定度旨八重山島役所ヨリ伺出候次第モ有之候此際管下八重山島
役所々轄ニ相定度此段相伺候也
明治廿三年一月十三日
知  事









8、 古賀辰四郎の尖閣諸島開拓

古賀辰四郎
62才、安政3..1.18-1856大正7.8.15-1918 
「危機迫る尖閣諸島の現状」116ページより


(ア) 一八九五年六 月十日付で野村靖内務大臣にだした古賀氏の
「官有地拝借御願

高橋庄五郎著 「尖閣列島ノート」・古賀辰四郎という人より
私儀国内諸種ノ事業ノ日ニ月ニ盛ニ赴キ候割合ニ大洋中ニ国ヲ為ス国柄ナルニモ係ラ ス水産業挙ラサルハ予テ憂ヒ居候次第ナレハ自ラ帆楫ノ労ヲ取リ明治十二年以降十 五年ニ至ルマテ或ハ琉球ニ朝鮮ニ航シ専ラ海産物ノ探検ヲ致候以来今日マテ居ヲ沖 縄ニ定メ尚ホ其業ニ従事致至候

更ニ業務拡張ノ目的ヲ以テ沖縄本島ノ正東ニ在ル無人島ニシテ魚介ノ群常ニ絶ヘサ ル大東島ニ組合員ヲ送リ一方ニ以テハ農事ヲ勤メテ日常食糧ノ窮 乏ヲ防キ一方ニ以 テ大ニ其地海産物ノ捕漁ヲ為サントシ己ニ明治廿四年十一月廿日時ノ沖縄県知事丸 岡莞爾氏ニ同島開墾ノ許可ヲ得タル次第ニ御座候

是ヨリ以前明治十八年沖縄諸島ニ巡航シ船八重山島ノ北方九拾海里ノ久場島ニ寄セ 上陸致候処図ラスモ俗ニバカ鳥ト名ノル鳥ノ群集セルヲ発見致候止マリテ該鳥ノ此島 ニ棲息スル有様ヲ探求仕候処秋来タリ春ニ去リ巣ヲ営ムヲ以テ見レハ全ク此期間ハ其 繁殖期ニシテ特ニ該島ヲ撰テ来ルモノナル事ハ毫モ疑無御座候

予テバカ鳥ノ羽毛ハ欧米人ノ大イニ珍重スル処ト承リ居候間試ニ数羽ヲ射殺シ品見本 トシテ其羽毛ヲ欧州諸国ニ輸送仕候処頗ル好評ヲ得其注文マテ有之候是ニ依テ考ヘ 候ニ右羽毛ハ実ニ外輸出トシテ大ニ価値アルモノト信セラレ申候尤モ輸出品トシテ海外 ノ注文ニ応スルニ足リル数量ナルヤ否ヤヲモ探究仕候処捕獲ノ方法ニ因リテハ相当ノ 斤量ニ於テ多年間輸出致候ニ差支無キ見込有之候

以上ノ次第柄ニ付直ニ其捕獲ニ従事致度考ニテ候処甲乙ノ人々ニ聞知セラレ競フテ乱 殺候様ノ事ニ立チ至ベク自然多人数間ニ分チテ輸出ノ業ヲ営ミ候ハ相互ノ利益ニアラ ス所謂虻蜂共ニ獲ラレザル結果ニ成行キ可申恐有之候間バカ鳥羽毛輸出営業ノ目的 ヲ以テ久場島全島ヲ拝借候様出願ニ可及ノ処右久馬島ハ未タ我邦ノ所属タル事判明 無之由ニ承知仕候故今日マテ折角ノ希望ヲ抑制致居候是レ見本送達ノ際欧州ノ注文 アリタルニ係ラス之ニ応スル能ハサリシ以所ニ御座候然ルニ這度該島ハ劃然日本ノ所 属ト確定致候趣多年ノ願望ニ投ジ申候
(改行は私がしたものです−管理人)



(イ) 古賀辰四郎の開拓事業


久場島の古賀村(宮嶋幹之助作成・明治33年)
古賀氏は魚釣島・


魚釣島にはかつて古賀氏が建設した鰹節工場跡がありますが、他に久場島・南小
島の3カ所にも工場跡が残っています。多い時は99戸、248人がいたとあります
が住む古賀村と呼ばれた村落がありましたが、これは当時の資料や現在の跡地
から考えると3島全体の数字 と思われます。

古賀氏は福岡県八女郡山内村(今は八女市山内)の人間で、一八五六(安政三)
年の生まれ。一八七九(明治十二)年に二十四歳で那覇に渡り、寄留商人として茶
と海産物業の古賀商店を開いています。

古賀氏は福岡県からお茶の商売で那覇に渡り、夜光貝などの貝殻をボタンの材料
として、神戸に売って(年間一八○トンから二四○トン)金をもうけて、石垣に支店を
だした。その翌々年の一八八四(明治十七)年に尖閣列島を探検して、その有望性
を認め、ただちに鳥毛、フカのひれ、貝類、ベッ甲などの事業に着手。一八九五年、
古賀氏は本籍を福岡から沖縄に移し、「沖縄県琉球国那覇西村二十三番地、平民
古賀辰四郎」となり、本格的に事業にとりくんだのである。



古賀辰四郎氏の息子の善次氏(一九七八年六月五日、八十四歳で死去)は、雑誌
『現代』一九七二年六月号でこう語っている。
 当時八重山の漁民の間で、ユクンクバ島は鳥の多い面白い島だという話が伝 わっておりまして、漁に出た若者が、 途中魚をとるのを忘れて鳥を追っていたと いうような話がよくあったようです。おやじもそんな話を聞いたんですね。そ こで生 来冒険心が強い人間なもんですから、ひとつ探検に行こうということになったんで す。明治十七年のことですがね。

 この探検の詳細な記録は残っておりませんが、何か期するところがあったので しょう。翌明治十八(一八八五)年、 父は明治政府に開拓許可を申請しています。 しかし、この申請は受理されませんでした。当時の政府の見解として、まだこの島 の帰属がはっきりしていないというのがその理由だったようです。 

 ところが、父の話を聞いた、当時の沖縄県令西村捨三がたいへん興味を持ちま して独自に調査団を派遣しました。 調査の結果、島は無人島であり、かつて人が 住んでいた形跡もないことがはっきりしまして、以後西村は政府に日本領とする ようしきりに上申しまた。
 
 明治政府が尖閣列島を日本領と宣言したのは、父の探検から十一年後の明治 二十八(一八九五)年です。父の探検から西村県令の上申もあったのでしょうが、 日清戦争に勝ち台湾が日本領土となったということが、宣言に踏み切らせた理 由と思います。 

古賀辰四郎は明治三○(一八七九)年、沖縄県庁に開拓の目的をもって無人島 借区を願い出て三○年間無償借地の許可をとると、翌明治三一年には大阪商船 の須磨丸を久場島に寄航させて移住労働者二八名を送り込むことに成功し、さら に翌明治三二(一八九九)年には大阪商船の永康丸で男子一三名女子九名を 送り込んだ。この年の久場島在留者は二三名となり古賀村なる一村を形作るま でになった。これらの労働者がいつごろまでいたかは明らかでない。説によると 大正の中期ごろまで続いたといわれる(奥原敏雄論文『日本及日本人』一九七○ 年新年号)。

 古賀氏は数十人の労働者を同列島に派遣、これらの干拓事業に従事させた (注 明治三十「一八九七」年五十人、明治三十一「一八九八」年同じく五十人、 明治三十二「一八九九」年二十九人の労働者を尖閣列島に派遣、さらに明治三 十三「一九○○」年には男子十三人、女子九人を送りこんだ)・・・・・・。

 大正(一九一八)年、古賀辰四郎氏が亡くなった後、その息子古賀善次氏によ って開拓と事業が続けられ、事業の最盛期には、カツオブシ製造の漁夫八十人、 剥製作りの職人七〜八十人(筆者注上地龍典氏によれば八八人)が、魚釣島と 南小島に居住していた(尖閣列島研究会「尖閣列島と日本の領有権」『季刊沖 縄』第五十六号)。

 明治三十(一八九七)年、二隻の改良遠洋漁船をもって、石垣島から三十五人 の労働者を派遣し、翌三十一年には更に五十人を加えて魚釣島で住宅や事業 所,船着場などを建設して、本格的に開拓事業を始めたのである(牧野清論文 「尖閣列島小史」)。

 石垣島で尖閣列島の話を聞いた古賀氏は、明治十七(一八八四)年人を派遣し て、列島の探検調査に当たらせ、翌三十(一八九七)年から、毎年、三○人、四 ○人と開拓民を送りこんだ。こうして最初の四年間に島に渡った移住者は、一三 六人に達しそのなかには女性九人も含まれていた。明治三十六(一九○三)年 には内地から剥製職人一○数人が移住し、明治四十二(一九〇九)年の定住者 は、実に二四八人に達し、九九戸を数えた。南海の無人島・尖閣列島は、古賀氏 の力によってすっかり変貌をとげた(上地龍典著『尖閣列島と竹島』)。以上の移 住の状況を書いている人たちのなかには,島名を挙げずに尖閣列島とだけいっ ている人がいるが、 それは魚釣島だったのか、あるいは久場島だったのか、どう もはっきりしていない。

 尖閣列島研究会によれば魚釣島と久場島であるし、奥原教授によれば久場島 である。また牧野清氏によれば魚釣島である。黒岩恒氏のいったように、沖縄の 人たちが魚釣島と久場島をアベコベにしていとするとどうなるのか。この島名をア ベコベにしていたことについては、奥原敏雄教授も井上清氏教授も知っている。 一九四〇(昭和十五)年になっても、沖縄県警察本部は「魚釣島(一名クバ島無 人島)」といっている。古賀辰四郎氏が一八九五(明治二十八)年に久場島といっ たのはじつは魚釣島ではなかったのか。古賀善次氏がカツオブシ製造と海鳥の 剥製作りをしたのは魚釣島と南小島であった。

 古賀辰四郎氏が事業を開始されたのは,久場島からではなかったのかといっ ているが、その理由は、久場島は魚釣島ほど地形が複雑でなく、地質も単純であ り、土壌は肥沃のようで、島の南西面には数ヘクタールと思われる砂糖キビ畑も 船から望遠され、同行の者がパパイヤの木も見受けられたと言うし、古賀辰四郎 氏は柑橘類も移植したといわれるからだとしている。

 また正木任氏は魚釣島に飲料水があるから、古賀辰四郎氏は魚釣島を根拠地 にして事業を始めたようだといっている。そして一九三九年現在、久場島に飲料 用天水貯水槽が三つ残っていたという。だが、よく考えてみなければならないこと は、古賀辰四郎氏が久場島を借りたいと願いでたのは、じつは海鳥を捕まえて、 これを外国に売るためだった。そして黒岩恒氏「恍惚自失、我の鳥なるか、鳥の我 なるかを疑がわしむ」といわせたのは南小島と北小島の海鳥どもであった。南、 北小島は魚釣島に近い。そして南小島の西側にひろがる平坦地は近代工業の 敷地になりそうだという(高岡大輔氏)しかし、それも水があってのことである。

どんな事業か
では古賀氏は尖閣列島でどんな事業をおこなったのか。これも、概略引用しただ けでもまちまちである。

 国有地の借用許可をえた古賀氏は、翌年の明治三十(一八九七)年以降大規 模な資本を投じて、尖閣列島の開拓に着手した。すなわちかれは魚釣島と久場 島(傍点著者)に家屋、貯水施設、船着場、桟橋などを構築するとともに、排水溝 など衛生環境の改善、海鳥の保護、実験栽培、植林などをおこなってきた(注 こ の功績によって政府は一九〇九「明治四十二」年、古賀氏に対し藍綬褒章を授 与している)(前掲尖閣列島研究会論文)。

 開拓事業と並行して、アホウ鳥の鳥毛採取、グアノ(筆者注 鳥糞)の採掘等の 事業をおこなった(前掲尖閣列島研究会論文)。

 大正七(一九一八)年古賀辰四郎が亡くなった後、その息子古賀善次氏によっ て開拓と事業が続けられ、とくに魚釣島と南小島で、カツオブシ及び各種海鳥の 剥製製造、森林伐採が営まれてきた(前掲尖閣列島研究会論文)。古賀善次氏 が国から民有地として払い下げを受け戦前まで魚釣島にカツオブシ工場を設け て、カツオブシ製造をおこなったり、カアツオドリやアジサシその他の海鳥の剥製、 鳥糞の採集などを営んでいた(奥原敏雄論文『日本及日本人』一九七〇年新年 号)。


次は上地龍典著「尖閣列島と竹島」(中国・韓国との領土問題)時事問題解説NO.
95 >

その後、尖閣列島の改革は、古賀氏の情熱と、大規模な資本の投下によって、
飛躍てきな発展をとげる。まず彼 は、開拓民の移住を計画、列島借用の許可が
下がった翌30年から、毎年、30人、40人と開拓民をおくりこんだ。そして最初
の4年間に、島に渡った移住者は、136名に達し、そのなかには女性9名も含
まれていた。 古賀氏は、魚釣島と久場島に、家屋や貯水設備、船着場をつくっ
た。明治36年(1903)には、内地から剥製職人10数名が移住し、海鳥の剥製
工場がつくられた。さらに、カツオ節向上、べっ甲、珊瑚の加工場も建設された。
こうした海産物関連の事業に力を入れる一方、彼は、おびただしい鳥糞が燐鉱
石状なったグアノ(肥料用)の採掘にも着手、止まるところのない多角経営がは
かられたのである。彼が偉大な構想をめぐらせていたことは、住民の島内での
時給自足をめざしたことでも分る。彼はジャングルを伐り拓き、草地を開墾して、
穀物、さつま芋、野菜類を栽培、そのうえ、牧畜、養蚕にまで手をのばした。






アサヒグラフ・昭和53年5月5日号15頁下


以下は高橋庄五郎著「尖閣列島ノート」の第7章尖閣列島のあれこれ(6)日清戦
争とバカ鳥の島からの抜き書きです。
 古賀辰四郎氏及び善次氏によっておこなわれた事業は、この他フカの鯖、貝
類、べっ甲などの加工、海鳥の缶詰製造がある。ただしアホウ鳥の鳥毛採取は
乱獲と猫害などのため大正四(一九一五)年以降、またグアノの採掘と積出し
は、第一次大戦によって船価が高騰し、採算が取れなくなり中止された。その他
の事業も、太平洋戦争直前、船舶用燃料が配給制となり、廃止された(前掲尖閣
列島研究会論文の注)。

 尖閣列島は古賀辰四郎さんの無人島探検によって明治十七に初めて開拓に
着手されたわけです。その古賀さんが労務者と共にまず黄尾嶼にわたって、羽
毛、亀甲、貝類等の採取に着手し、その後魚粉の製造あるいはかつお節工場を
現地にたてて経営しましたけれども、大正の中ごろから事業不振のため全部引
揚げ、その後現在にいたるまでも無人島になっている(桜井×氏)

 古賀辰四郎は明治十七(一八八四)年、労務者を久場島に派遣し、羽毛、べッ
甲、貝類の採取を初め、その後、古賀氏は日本政府から魚釣島、久場島に派遣
し、羽毛、ベッ甲、貝類の採取を初め、その後、古賀氏は日本政府から魚釣島、
久場島、 北小島、南小島の四島を三〇年の期限付きで借地権を獲得した。そし
てカツオドリ、アジサシなどの海鳥の剥製、鳥糞の採集、カツオ業を拡張したが、
それらの事業がいつごろまで続いたかについては明確な記録もなく、善次氏の
話によれば、大正の中期ごろから事業が不振になったらしい(高岡大輔論文「尖
閣列島周辺海域の学術調査に参加して」参照)。

 古賀辰四郎氏は魚釣島と久場島に家屋や貯水、船着場をつくった。さらにカツ
オ節工場、ベッ甲、珊湖の加工工場も建設された。そのほかグアノ採掘にも着手
した(上地龍典氏)。黄色嶼で明治四〇年代、古賀辰四郎氏は二年間燐鉱採掘
したが、その後台湾肥料会社に経営権を渡した(正木任論文「尖閣列島を探る
(抄)」『季刊沖縄』第五十六号参照)。

古賀商店は戦争直前まで伐木事業と漁業を営み、(琉球政府声明「尖閣列島の
領土権について」)。

 黄尾嶼を古賀氏が開拓し、椿、密柑など植え,旧噴火口には密柑,分旦、バナ
ナ等があった。さつまいもやさとうきびは野生化していた。魚釣島の古賀商店の
旧カツオ節製造所の跡に荷物を運んだ。魚釣島の北北西岸に少しばかり平地
があって、そこに与那国からの代用品時代の波に乗ってか、はるばるとクバ葉
脈を採取のため男女五三名という大勢の人夫が来て、仮小屋を作り合宿してい
た(前掲正木任論文参照)。

 正木氏のリポートにある与那国の人たちは、古賀商店の多田武一氏が連れて
行った人たちであろう。クバの葉脈でロープや汽船や軍艦のデッキ用の×(筆者
注 ブラシという人もいる)をつくった。またクバの幹で民芸品などもつくったとい
われている。与那国にもクバはあったがそんなに多くなかった。戦争によって物
資が不足してくると、クバの繊維はシュロ椰子の代用品につかわれたのであろ
う。

 多田武一氏は与那国の人であり,クバの葉を求めて家族とともに魚釣島に渡
った。これが、琉球政府声明にある古賀商店の伐木事業なのかもしれない。し
かしこれは季節的一時的なもので、古賀善次が政府から四島を買いとったとき
には、四島はふたたび無人島になっていた。


一枚の写真
ここに一枚の写真がある。一九七八年五月五日号『アサヒグラフ』は,尖閣列島
は無人島ではなかったという「証拠の写真」を八枚掲載した。(管理者注:開拓時
代当時の古い写真に掲載したものであろう。このページの下にも2枚ほど掲載し
た)それは古賀善次未亡人花子さんがもっているものだが、そのなかの一枚は
筆者が一九七一年に入手したものと全くおなじものである。筆者のもっている写
真は,一九〇一年二月に黄色尾島で生まれたという伊沢弥喜太氏の長女真伎
さんのもっている明治四十年頃の写真である。そして、おなじ一枚の写真を古賀
花子さんは魚釣島のものだといい,伊沢真伎さんは黄色島(黄色嶼、久場島)の
ものだという。この写真には事務所の責任者として、日の丸のポールのところに
伊沢弥喜太氏がおり、その右六人目のところに白い着物を着て帽子をかぶり、 
ステッキをついているのが古賀辰四郎氏である。いったいどちらが本当なのか。
辰四郎氏と弥喜太氏の二人が写っているのである。古賀花子さんのもっていな
いもう一枚の写真(これは古賀辰四郎氏の自慢のカメラで写したものであろう)
の中央に弥喜太氏が次女を膝の上に乗せているのがある。それには「黄尾島古
賀開墾・・・・・・」と紙に書いたものを門柱に貼り付けてある。これは写真をとるた
めに書いたものであろう。なかなかよい字である。

 ところが弥喜太氏や辰四郎が書いた日誌も記録もない。辰四郎氏は久場島拝
借願いを出して借り受けたのに、どうして「黄色島古賀開墾・・・・・・」としたのだろ
うか。黄色島を島の固有の島名と考えたのであろう。しかし、黒岩恒氏が書いて
いているように、当時沖縄の人たちが黄尾嶼と魚釣島(釣魚島)をアベコベに考
えていたとしたらどうなのであろうか。伊沢真伎さんは黄尾島では飲み水がない
ので妻帯者は弥喜太氏一人であったといっている。写真にある婦人労働者は、
すべて独身で土佐のカツオブシ工場から連れてこられたものであり、子供労働
者はとさや沖縄から買われきたものであったという。

 黄尾島で弥喜太氏の娘が二人生まれた。長女の真伎さんは久米村小学校に
三年生までいて、一九一〇(明治四十三)年に弥喜太氏の故郷熊本県に帰った
が、そのご、父弥喜太氏の故郷熊本県に帰ったが,その後、父弥喜太氏ととも
に台湾に行き、そこで結婚し、敗戦で日本にかえった。大城立裕著『内なる沖
縄』によれば、久米島の住人は、中国からの帰化人の子孫で、旧王朝時代は中
国語を常用していた向きもあったようだという。

 古賀花子さんは夫の古賀喜次から聞いたたことを話しているのであり、伊沢真
伎さんは父弥喜太氏から昔きいたことを 話しているのだから記憶がうすれたこ
とも誤りもあるだろうと思う。しかし正木任氏によれば黄尾嶼(久場島)には飲み
水がなく雨水を貯える水槽が三カ所つくられ、それでも飲料水が不足したときは
サバニで魚釣島まで水取りに出掛けたというから、真伎さんの生まれたのは確
かに黄尾嶼であった。ではカツオブシ工場は魚釣島にあったのか。それとも黄尾
嶼(久場島)にあったのか。あるいはまた魚釣島と黄尾嶼の両方にあったのかど
うもはっきりしない。しかし伊沢真伎さんは黄尾嶼でカツオブシ工場をつくり、土
佐から職人を入れて経営していたというし、また黄尾島では貝殻の採取とアホウ
ドリの羽毛の採取をやっていたといっている。弥喜太氏は「八方ころび」とよばれ
たまん丸な真珠を品評会にだして賞金三百円をもらい、皇后陛下に献上するた
めに東京に行くのに支度金がかかり赤字をだしたという。真水がなくともカツオブ
シがつくれるのかどうか宮城県気仙沼の古いカツオブシ業者にきたら、それはつ
くれるという。


辰四郎と弥喜太
二人がどこで、どのようにして知りあったのかはわからない。出資と経営について
どのような話があったのかもわからない。わかっていることは、古賀辰四郎氏は
金をだしても細々したことはいわない太っ腹の人だったということである。伊沢弥
喜太氏は一八九一(明治二十四)年、漁民とともに石垣島から魚釣島と久場島
に渡航した。このとき弥喜太氏は海産物とアホウ鳥を採取して帰った。そしてま
たこのとき、弥喜太氏は中国人の服装をした二つの遺体をほら穴のなかで発見
している。黒岩恒氏は一九〇〇年の尖閣列島探検記事のなかで、同行の人夫
が山中に白骨ありといったが、夕方なので無縁の亡者を弔うことができなかった
といっているが、それは釣魚島のことである。弥喜太氏は一八九三年再度渡航
している。石が井島に支店をだしていた辰四郎氏は当然、弥喜太氏と知りあった
と思う。弥喜太氏は読み書きのできる当時インテリであった。

 一九〇〇年五月に古賀辰四郎氏は永康丸をチャーターし、宮島幹之助理学士
(北里研究所技師を経て慶應大学医学部教授)に頼んで久場島(黄尾嶼)の調
査をしてもらうことにした。沖縄師範学校教諭黒岩恒氏(一八九二年に沖縄に赴
任)は校長の命令で同行し、また野村道安八重山島司も一諸に行った。

 宮島幹之助理学士の黄尾嶼での調査は、風土病,伝染病、ハブ、イノシシその
他の有害動物の有無や飲料水の適否などであった。調査の結果、マラリヤ,伝
染病はなく、ハブ、イノシシは棲息せず、また飲み水がないことがわかった。

 宮島理学士が黄尾嶼で調査をしているあいだ黒岩氏は、永康丸を釣魚嶼に向
け、五月十二日午後四時、古賀辰四郎、野村道安氏とともに釣魚嶼に上陸した
だけで船にもどり、二日後に迎えにくるからといって黄尾嶼に帰った。黒岩氏の
釣魚嶼の探検記事には「教導(伊沢氏)一名、人夫三名」をもって探検隊を組織
したとある。教導とは案内役のことである。この伊沢氏というのは伊沢弥喜太で
ある。弥喜太氏は釣魚嶼のことを知っていた。「午後尾滝谷に着す、此地古賀氏
の設けたる小舎一、二あり屋背屋壁皆蒲葵葉を用い」と黒岩氏は書いているが、
ここは「秋来たりて春に去る」アホウ鳥を捕獲するために設けられたもので、屋
根も壁もみなクバの葉でつくられていた。尖閣列島の仕事に実際に携わった責
任者は弥喜太氏である。では、釣魚嶼の開発はクバの葉でつくった小舎からど
んな発見をしたのだろうか。

 辰四郎は一九○一年には、沖縄県技師熊蔵工学士の援助を受けて、釣魚島
に防波堤を築き、漁船が着岸できるようにした。辰四郎氏が描いた明治四十年
代の魚釣島事業所建物見物配置図がある。(上地龍典著「尖閣列島と竹島」教
育社刊、五四頁)。この配置をみると漁師の住まい、カツオブシ加工労働者の住
まい、婦人労働者の住まい、 子供労働者の住まい、カツオ切り場、カツオ釜など
があり、又火薬庫もある。

 バカ鳥の乱獲と本土資本の進出で、弥喜太氏の経営はゆき詰まり、弥喜太氏
は家族とともに台湾に行き一九一四年に花蓮港で死んだ。

この年に第一次世界大戦が始まり、日本軍は山東省に上陸した。そしてその四
年後に辰四郎が死んだ。この二人が死んでしまうと、正確な記録がないために
事実関係がよくわからない。辰四郎氏のあとを善次氏が継いだが、尖閣列島の
「黄金の日日」はそのころまでだったと上地龍典氏は書いている。

 どうもややこしい問題である。しかし、そこには「天日ために光を滅する」ほどの
海鳥がいて、北上するカツオ、マグロ、カジキなどの回遊漁の一部は必ず尖閣列
島海域を通過する。そして古賀辰四郎氏の尖閣列島開発事業があったことは、
まぎれもない事実である。古賀商店の一九○七年の産物価格は一三万四、○○
○余円というから、これは当時としてはたいへんな金額である。
(※管理者注、古賀氏については別項に「尖閣諸島の開拓者・古賀辰四郎」を儲けてい
ます)


アサヒグラフ・昭和53年5月5日号



第11管区海上保安本部の「尖閣諸島」の記事には
開発の痕跡」として以下のことが記載されている。


○ 今も残る開発の痕跡

___________________
カツオ節工場の跡1 (写真・海上保安庁)   __________ 船着き場跡(写真・海上保安庁)
   

 尖閣諸島が我が国の領土に編入された明治28年に、民間人である古賀辰四郎から
魚釣島、久場島、南小島、北小島の4島に対し国有地借用願が出されました。翌年、明
治政府は同人に対しこれら4島を30年間無料で貸与することを許可し、島には延べ数
百人の労働者が送り込まれ、桟橋、船着場、貯水場などが建設され、開拓が進められま
した。
  当時、魚釣島と南小島ではカツオ節、海鳥の剥製などの製造が行われ、現在も石垣
を積み上げたカツオ節工場跡が残っています。

 昭和7年(1932年)には開拓者から魚釣島、久場島、南小島、北小島の4島の払い下
げが申請され、有料で払い下げられました。
 現在は無人島となっていますが、昭和44年に石垣市により地籍表示のための標柱が
建てられました。また不法上陸する台湾人があったために米国民政府と相談の上米国
民政府が予算を出して警告版も建てられています。















(9) 中華人民共和国(中共)政府の言い分

中華人民共和国政府外交部声明  (1971年12月30日) 

 日本佐藤政府は近年らい、歴史の事実と中国人民の激しい反対を無視し
て、中国の領土釣魚島などの島嶼(しょ) にたいして「主権をもっている」と
一再ならず主張するとともに、アメリカ帝国主義と結託してこれらの島嶼を
侵略・併呑するさまざまな活動をおこなってきた。このほど、米日両国の国
会は沖縄「返還」協定を採決した。この協定のなかで、米日両国政府は公
然と釣魚島などの島嶼をその「返還区域」に組み入れている。これは、中国
の領土と主権にたいするおっびらな侵犯である。これは中国人民の絶対に
容認できないものである。 

 米日両国政府がぐるになってデッチあげた、日本への沖縄「返還」という
ペテンは、米日の軍事結託を強め、日本 軍国主義復活に拍車をかけるた
めの新しい重大な段取りである。中国政府と中国人民は一貫して、沖縄
「返還」の ペテンを粉砕し、沖縄の無条件かつ全面的な復帰を要求する日
本人民の勇敢な闘争を支持するとともに、米日反動派が中国の領土釣魚
島などの島嶼を使って取引をし、中日両国人民の友好関係に水をさそうとし
ていることにはげしく反対してきた。 

 釣魚島などの島嶼は昔から中国の領土である。はやくも明代に、これらの
島嶼はすでに中国の海上防衛区域のなかに含まれており、それは琉球、
つまりいまの沖縄に属するものではなくて、中国の台湾の付属島嶼であっ
た。中国と琉球とのこの地区における境界線は、赤尾嶼と久米島とのあい
だにある。中国の台湾の漁民は従来から釣魚島などの島嶼で生産活動に
たずさわってきた。日本政府は中日甲午戦争を通じて、これらの島嶼をか
すめとり、さらに当時の清朝政府に圧力をかけて1895年4月、「台湾とそ
のすべての付属島嶼」および澎湖列島の割譲という不平等条約−「馬関条
約」に調印させた。こんにち、佐藤政府はなんと、かつて中国の領土を略奪
した日本侵略者の侵略行動を、釣魚島などの島嶼にたいして「主権をもっ
ている」ことの根拠にしているが、これは、まったくむきだしの強盗 の論理
である。 

 第2次世界大戦ののち、日本政府は不法にも、台湾の付属島嶼である釣
魚島などの島嶼をアメリカに渡し、アメリカ政府はこれらの島嶼にたいしてい
わゆる「施政権」をもっていると一方的に宣言した。これは、もともと不法な
ものである。中華人民共和国の成立後まもなく、1950年6月28日、周恩
来外交部長は中国政府を代表して、アメリカ帝国主義が第7艦隊を派遣し
て台湾と台湾海嶼を侵略したことをはげしく糾弾し、「台湾と中国に属する
すべての領土の回復」をめざす中国人民の決意についておごそかな声明を
おこなった。いま、米日両国政府はなんと不法にも、ふたたびわが国の釣
魚島など島嶼の授受をおこなっている。中国の領土と主権にたいするこの
ような侵犯行為は、中国人民のこのうえない憤激をひきおこさずにはおかな
いであろう。 

 中華人民共和国外交部は、おごそかにつぎのように声明するものであ
る。一釣魚島、黄尾嶼、赤尾嶼、南小島、 北小島などの島嶼は台湾の付属
島嶼である。これらの島嶼は台湾と同様、昔から中国領土の不可分の一
部である。米日両国政府が沖縄「返還」協定のなかで、わが国の釣魚島な
どの島嶼を「返還区域」に組み入れることは、まったく不法なものであり、そ
れは、釣魚島などの島嶼にたいする中華人民共和国の領土の主権をいさ
さかも変えうるものではないのである、と。中国人民はかならず台湾を解放
する! 中国人民はかならず釣魚島など台湾に付属する島嶼をも回復す
る! 



要旨は次の5点である。

(1) 釣魚島などの島嶼は昔から明代に中国の海上防衛区域のなかに含まれていた。
(2) 釣魚島などの島嶼は琉球に属するものではなく台湾の付属島嶼である。
(3) 中国と琉球との境界線は、赤尾嶼と久米島とのあいだにある。
(4) 日本政府は日清戦争を通じて釣魚島などの島嶼をかすめとった。 
(5) 第2次世界大戦後日本政府は釣魚島などの島嶼をアメリカに渡し、アメリカ政府は
これらの島嶼にたいして「施政権」をもっていると一方的に宣言したが、これはもともと不
法なものである。

それにしてもこの汚い言葉の羅列が一国の声明文というのだから恐れ入
る。とても文明国とは思えない。ヤクザまがいの恫喝ではないか。こういう国
がその本音を隠して、微笑み外交を続け、経済大国、軍事大国になり、更に
どんどんふくれあがって世界の覇権国家をねらうところまで来た。これは彼
等が明確な意志をもって何十年も継続し一歩ずつ努力してきた結果である。
その中国の動きを見ていると本当に空恐ろしいものを感じないではいられな
い。正直言って日本政府が対応できるような相手ではないと思うのだが、日
本に生まれ育った人間としての誇りが、我が国が中国の支配下に陥ること
を見逃す訳にはいかないのである。


以下各項目ごとに論じていこう。

(1) 釣魚島などの島嶼は昔から明代に中国の海上防衛区域のなかに含まれていた。
  この根拠になっているものは鄭若曾(ていじゃくそう)『籌海図編(ちゅうかいずへん)』
だと思われます。鄭若曾は井上靖氏は同書巻一の「福健沿海山沙図」をもち出して、そ
の中に釣魚台などの見出されることをもってこれらが中国領の島嶼とみなされていたとさ
れる。



1.魚釣島が明国の領土であった事実はない。
 「尖閣諸島は明代に中国の台湾付属島嶼であったのであろうか。『明史』では、台湾は
東蕃として「外国列伝」に入れられており、台湾北部の鶏籠山(今の基隆)も「外国列伝
に含まれている。このように、明代には、尖閣諸島はもちろんのこと、台湾の北部(基隆)
や台湾北東の彭佳嶼、花瓶嶼、綿花嶼、などに中国の支配は及んでおらず、また、中国
は領有の意志も持っていなかった。台湾は、隋や元の遠征を受けたことはあったが未開
の地であり、明代になって倭寇の根拠地ができ、明末一七世紀初頭にはオランダ人が南
部にゼーランジア城などを築き、スぺイン人がマニラから来て北部の基隆などを貿易の根
拠地にしたが、間もなくスペイン人はオランダ人に追われ、約四〇年のオランダ人支配が
続いた。
 一六四四年に明を滅ぼし北京に入城した清は一六八一年には華南も平定した。しか
し、清朝に抵抗する鄭成功は一六六一年台湾に渡ってオランダ人を駆逐し、ここを根拠
にさらに続けたが、一六八三年、台湾に出兵した清軍の軍門に降り、ここにはじめて清
は台湾を中国の版図に入れ、福建省所属の台湾府を置いたのである。従って、明代に
尖閣諸島が「中国の台湾付属島嶼」であった事実はない。
芦田健太郎著「島の領有と経済水域の境界確定」第三章尖閣諸島・島の領有問題と排
他的経済水域の画定


(2) 釣魚島などの島嶼は琉球に属するものではなく台湾の付属島嶼である。
(3) 中国と琉球との境界線は、赤尾嶼と久米島とのあいだにある。
(4) 日本政府は日清戦争を通じて釣魚島などの島嶼をかすめとった。 
(5) 第2次世界大戦後日本政府は釣魚島などの島嶼をアメリカに渡し、アメリカ政府は
これらの島嶼にたいして「施政権」をもっていると一方的に宣言したが、これはもともと不
法なものである。




  井上京大教授の尖閣諸島中国領有論
 井上京大教授(日本史)の尖閣諸島中国領有論というのは、周恩来が日中国交回復
の際に「尖閣列島の問題にもふれる必要はありません。竹入先生も関心が無かったでし
ょう。私も無かったが石油の問題で歴史学者が問題にし、日本でも井上清さんが熱心で
す。この問題は重く見る必要はありません。」と公明党の竹入委員長に発言したことから
注目されたものです。

 以来その著書「釣魚諸島の史的解明」などが大きく取り上げられることになったもので
ある。併し既に国際法の立場から国士舘大学の奥原敏雄教授が詳細に尖閣諸島の日
本領有の正当性を証明しており、国際法関係者の中では現在も奥原教授の論文が支持
されいる。にも係わらずの奥原教授の論文等はマスコミから無視された。井上教授(歴史
学)の著書を読んで頂いたら一目で解ってもらえるが、中国共産党の「日本がアジアを侵
略した、中国を侵略した」という日本帝国主義侵略史論のイデオロギー的色彩の強いも
ので、今では中国共産党政府のご用学者若しくは共産主義イデオロギー学者であること
がハッキリしている。「居直り強盗とか帝国主義的強盗の論理をむき出しにしたもの、故
意に歴史を無視している、佐藤軍国主義政府、反中国の日共、軍国主義と二セ愛国主
義」をあおりたてることにやっきになっている」と罵倒し、冷静に真実の人類史を見ていな
いし、国家間の関係を規定する基本法である国際法すら帝国主義理論だと否定してい
る。

 学問の人とは思えぬ暴言暴論であり、そこに真実も学問に携わる者の真摯な姿勢はど
こにももない。時代錯誤のイデオロギーの徒の罵倒の言葉である。田中邦貴氏(尖閣諸
島問題)や私が日本の尖閣諸島領有に問題がないことを証明するサイトを始めた時、未
だインターネットの世界では井上教授の「釣魚諸島の史的解明」だけが巾をきかしていた
時でした。今では井上教授の理論は全く相手にされなくなりましたが、一部の人間達は
周恩来やケ小平秘録の言葉と共に熱心に引用しています。


井上清京大教授の主張の要旨は次の通りかと思います。

(1) 歴代冊封録などの古文書には久米島と赤尾嶼(大正島)の間が中国と琉球の「界」
と書かれている。
(2) 林子平の『三国通覧図説』古代地図には尖閣諸島が中国本土と同じ色に色別され
ている()
(3) 鄭舜功の『日本一鑑』には台湾の付属嶼として記されている(。
(4) 清朝の西太后が、釣魚台(魚釣島)を盛宣懐に下賜した記録がある。


 ここには国家間の関係を規定する国際法の見地はどこにもありません。初めて読んだ
時、私はこれは歴史的見地と言うより中国人民民主主義共和国(=中共)を守る為の論
理を振り回す御用学者だと感じました。今でも彼を支持する意見は多くありますが、その
殆どが間違ったイデオロギー史観を基本とする人たちです。

私が奥原敏雄国士舘大学教授(国際法)の論文を数多く引用しているのは、我が国も含
め如何なる国も国際法という存在を認めない限りこの世界から争いのない世界を実現す
ることができないからです。従って我が国も中国も国際法が出した結論には従わなくては
ならない。その意味で中国政府は酷さ裁縫に従うつもりがない。その姿勢は世界にとっ
て非常に危険です。欧米先進国はノー天気な我が国と比べればきちんと見ているけれど
も、今以上に真剣に中国の拡張主義と対決しないと、弱肉強食の帝国主義を復活させて
しまうことになる。


  崩れ去った論拠

 つぎに、前項であげたこれら中国領有説の論拠に対する反論を要約してみよう。
(1)は、『使硫球録』(一五三四)と『重編使琉球録』(一五六一)に、「古米山(久米島)か
らは琉球に属する」あるいは「赤嶼(大正島)が琉球との境界」と解される文言があること
から、「従ってそれまでの島は中国領である」との判断である。が、しかし、この論拠を証
拠だてるには当然、それまでの航路上にある台湾ならびに花瓶嶼、彭佳嶼などの諸島が
すべて中国領であることを前提としなければならない。ところが、清朝の古文書では、台
湾が中国領になったのは、この二つの古文書から約百二十年ないし百五十年後の一六
八三年になってからである。さらに花瓶、彭佳などの諸島が台湾行政編入されたのは、
それから約ニ百二十年後の、日清戦争以後である。
 このことから、尖閣列島が当時中国領であったという論拠は成り立たなくなる。  (2)
は、林子平の『三国通覧図説』(一七八五)の中の二つの地図に、魚釣り台と中国大陸
の“色”が、同色の「赤」で描かれており、従って中国領である、との説である。しかし、こ
の「図説」の色別は、領土を表すものではなかった。もしこれが領土を示すとしたら、当時
はすでに中国領んあっていた台湾は、朝鮮領‘黄色)となり、旧満州(緑色)は日本領でな
ければならなくなる。
(2)は、郭舜功の『日本一鑑』(一五五六)に、「釣魚嶼は小東(台湾)の小嶼也」とあると
ころから、台湾の付属島嶼だ、とするものだが、この著者は、かつて密偵だったのが、後
年失脚するなど人物に信頼性がなく、この文書も当時の明朝の公文書でないため、記l述
には信ぴょう性があまりない。 (4)は、清朝の西太后(慈禧太后)が釣り魚台などを、盛
宣懐(子孫の盛毓度氏は現在東京で中華料理店を経営)に」下賜した、と称する文書が
あり、同島に対する統治行為、すなわち実効的支配の証拠だとする論があるが、その文
書そのものについての裏付けもなく、信ぴょう性にとぼしい。
  以上の反論は、主として奥原敏雄国士舘大学教授の論文によった(「明代および清
代における尖閣列島の法的地位」沖縄第六三号、ならびに「尖閣列島領有権の根拠」中
央公論53・7月号)。

  この中華人民共和国政府の声明は、同じ年の六月十七日に、日米両国が調印した
沖縄返還協定への抗議に論点が置かれたもので、この協定を「米日両国がグルになっ
てデッチあげたペテンだ」 と、激しく攻撃した。この中国の主張が、歴史的な事実をわい
曲したものであることは、これまで述べてきたなかでも指摘された通りである。
 




















(10) 中華民国の言い分

中華民国政府外交部声明(1971年6月11日) 

 中華民国政府は近年来、琉球群島の地位問題に対し、深い関心を寄せつ
づけ、一再ならずこの問題についての意見およびそのアジア太平洋地域の
安全確保問題に対する憂慮を表明し、関係各国政府の注意を促してきた。

 この度、米国政府と日本政府が間もなく琉球群島移管の正式文書に署名
し、甚だしきに至っては、中華民国が領 土主権を有する釣魚台列嶼をも包括
していることを知り、中華民国政府は再びこれに対する立場を全世界に宣明
し なければならない。


(1) 琉球群島に関して− 中、米、英など主要同盟国国は1943年に共同
でカイロ宣言を発表しており、さらに1 945年発表のポツダム宣言にはカイ
ロ宣言条項を実施すべきことが規定され日本の主権は本州、北海道、九州、
四国および主要同盟国が決定したその他の小島だけに限られるべきと定め
ている。したがって琉球群島の未来の地位 は、明らかに主要同盟国によっ
て決定されるべきである。

 1951年9月8日に締結されたサンフランシスコ対日平和条約は、すなわち
上述両宣言の内容要旨に基づいたも のであり、同条約第3条の内容によっ
て、琉球の法律地位およびその将来の処理についてはすでに明確に規定さ
れている。中華民国の琉球の最終的処置に対する一貫した立場は、関係同
盟国がカイロ宣言およびポツダム宣言に基づいて協議決定すべしとするもの
である。この立場はもともと米国政府が熟知している。中華民国は対日交戦
の主要同盟国の一国であり、当然この協議に参加すべきである。しかるに米
国はいまだにこの間題について協議せ ず、性急に琉球を日本に返還すると
決定し、中華民国はきわめて不満である。


(2)釣魚台列嶼に関して−、中華民国政府は米国の釣魚台列嶼を琉球群島
と一括して移管する意向の声明に対し、とくにおどろいている。

 同列嶼は台湾省に付属して、中華民国領土の一部分を構成しているもの
であり、地理位置、地質構造、歴史連携 ならびに台湾省住民の長期にわた
る継続的使用の理由に基づき、すでに中華民国と密接につながっており、中
華民 国政府は領土保全の神聖な義務に基づき、いかなる情況下にあって
も、絶対に微小領土の主権を放棄することはで きない。

これが故に、中華民国政府はこれまで絶え間なく米国政府および日本政府
に通告し、同列嶼は歴史上、地理上、 使用上および法理上の理由に基づ
き、中華民国の領土であることは疑う余地がないため、米国が管理を終結し
たと きは、中華民国に返還すべきであると述べてきた。

 いま、米国は直接同列嶼の行政権を琉球群島と一括して日本に引渡そうと
しており、中華民国政府は絶対に受け入れないものと認め、かつまたこの米
日間の移管は、絶対に中華民国の同列嶼に対する主権主張に影響するも
のではないとも認めるため、強硬に反対する。

 中華民国政府は従来通り、関係各国が同列嶼に対するわが国の主権を尊
重し、直ちに合理、合法の措置をとり、アジア太平洋地域に重大結果を導く
のを避けるべきである、と切望する。



(1) 1943年のカイロ宣言及び1 945年のポツダム宣言には日本の主権は本州、北
海道、九州、四国および主要同盟国が決定したその他の小島だけに限られるべきと定
めている。したがって琉球群島の未来の地位 は、明らかに主要同盟国によって決定され
るべきである。

 1951年9月8日に締結されたサンフランシスコ対日平和条約は、すなわち上述両宣
言の内容要旨に基づいたも のであり、同条約第3条の内容によって、琉球の法律地位
およびその将来の処理についてはすでに明確に規定されている。中華民国の琉球の最
終的処置に対する一貫した立場は、関係同盟国がカイロ宣言およびポツダム宣言に基
づいて協議決定すべしとするものである。この立場はもともと米国政府が熟知している。
中華民国は対日交戦の主要同盟国の一国であり、当然この協議に参加すべきである。
しかるに米国はいまだにこの間題について協議せ ず、性急に琉球を日本に返還すると
決定し、中華民国はきわめて不満である。


(2)釣魚台列嶼に関して−、中華民国政府は米国の釣魚台列嶼を琉球群島と一括して
移管する意向の声明に
対し、とくにおどろいている。

 同列嶼は台湾省に付属して、中華民国領土の一部分を構成しているものであり、地理
位置、地質構造、歴史連携 ならびに台湾省住民の長期にわたる継続的使用の理由に
基づき、すでに中華民国と密接につながっており、中華民 国政府は領土保全の神聖な
義務に基づき、いかなる情況下にあっても、絶対に微小領土の主権を放棄することはで
きない。




 台湾の主権問題棚上げ論 [編集]
台湾の場合、尖閣諸島は台湾島に付随する諸島の一つであったが、1895年の植民地化
以来、日本に領有権を奪われており、抗弁の機会すら与えられなかったとする考えが強
く、日本の植民地責任論や尖閣諸島沖の漁業権問題も絡んでいる。中華民国(台湾)の
台湾独立派の政党で李登輝率いる台湾団結連盟(台連)は、尖閣諸島は日本固有の領
土であると主張しているが、台湾では少数派にとどまっている。

ただ、台湾側は、2008年秋ころ、尖閣諸島の主権問題の棚上げ・周辺海域の共同資源
開発を提案し、漁業権交渉を優先させる方針を明らかにしている。中国の海洋調査活動
について「問題を複雑化する」と牽制し、日本との間にトラブルに対処する緊急連絡窓口
を設けることで合意するなど、中国とは一線を画する立場に傾きつつある。


















  

(11)   逃げるアメリカ

 2009年3月、アメリカのオバマ政権は、「尖閣諸島は沖縄返還以来、日本政府の施政
下にある。日米安保条約は日本の施政下にある領域に適用される」とする見解を日本政
府に伝えた。だが同時に、「アメリカは尖閣諸島の領有権(主権)については最終的に判
断する立場にない、領有権問題は当事者間の平和的な解決を期待する」として、中立的
な立場を強調している。すなわち、アメリカは、尖閣諸島に対する日本の「施政権」を認め
ているが「主権」を認めたわけではない、ただ、日本の施政下にある尖閣諸島が武力攻
撃を受けた場合は(日米安保条約5条に基づき)共同防衛行動をとる、というものである。
この見解は、クリントン政権時の1996年と、ブッシュ政権時の2004年に、米政府高官
が示した見解と変わらないとされる。















(12) 存在しなかった尖閣諸島の領土問題

 尖閣諸島の領土問題とか領有権問題とか言いますが、それは昭和四十三(一九
六八)年にエカフェ(国連アジア・極東経済委員会)が、東シナ海の大陸棚に、膨大
な石油資源が埋蔵されている可能性のあることが指摘してからのことで、本来は存
在しなかった問題なのです。その存在しなかったはずの尖閣諸島の領有権問題が
何故にこれほどの大問題となっているのでしょうか。

 それには幾つかの原因があります。 
1、経済的要因  東シナ海に石油・ガスが埋蔵すること。経済発展は13億の人口
を有する中国にとって死活問題であり、東シナ海の石油とガスの独占は、絶対的命
題であります。

2、軍事的要因 中国海軍は東シナ海を既に収め、我が庭となしました。更に黄海
から太平洋に出る道を確保し海洋国家の実現を目指しています。それは安全保障
の確保の為です。その場合、尖閣を日本が領有すれば、尖閣は中国に対する棘と
なります。
 何故彼らは黄海から太平洋に至る道を確保しようとしているのでしょうか。それは
アジアに於ける覇権の確立と台湾解放とに関係があります。アジアに於ける覇権
確立は中国の完全なる独立確保が狙いです。米国にも他国にも一切嘴を挟ませ
ぬ立場を確保する為にアジアでの覇権確立が必用なのです。ですが、それは、アジ
ア諸国にとって自らの独立が危うくなることです。台湾解放は中華人民共和国建国
以来の課題であり、これは何としてでも達成しなければならぬ課題です。でないと、
中国共産党はその地位を脅かされかねないのです。その為には彼らは何でもしま
す。今自制しているのは台湾問題に米国が絡んでいる為です。中国が台湾解放を
決意した場合、尖閣諸島は台湾軍の押さえ場所として何が何でも自国のものにし
ておく必用があります。

3、政治的要因 東シナ海の石油・ガス資源を独占することは、中国の経済発展に
欠かせぬだけでなく、これを日本に半分取られることは、日本が資源国となること
であり、日本を追い落として、アジアでの覇権を握ろうとしている中国にとって、甚だ
不利な立場に陥るからです。更に言えば、東シナ海と南シナ海を完全に我が庭とな
し、太平洋に至る道を中国が確保すれば、中国は大きく自国の安全を確保できると
同時にアジアの覇者への一歩を踏み出すことが出来るということです。逆に日本か
ら見れば、それは独立を脅かされ、アジアに於ける日本の地位は非常に危うくな
る。アジアから見れば中国の作り出す秩序の下でしか独立を確保できなくなるとい
うことです。
 中国が、「侵略戦争をした」、「南京虐殺をした」、「細菌戦争をした」、「強制連行を
した」と言えば、政府も国民もマスコミもぐうの音も出ない状態であり、中国からすれ
ば、これを自国の国益獲得に利用しない手はない。人の弱みにつけ込んで根こそ
ぎ奪うのは、中華思想の染みついた中国からすれば当然のことで、彼らからすれ
ば、それを知らない日本こそ馬鹿だということになる。

 本来は存在しないはずの日中・日台間の尖閣諸島領有権問題が何故に斯くまで
大問題になるのでしょうか。その最大の理由は、日本政府も日本国民も日本マスコ
ミも中国から、「侵略戦争をした」、「南京虐殺をした」、「細菌戦争をした」、「強制連
行をした」と言えば、何の反論もできない、正論すら分からなくなる、言えなくなる惨
めな戦後の状況にあります。そういう状況は異常です。その状況は洗脳された人間
が陥る状況と同じです。戦後の日中関係には嘘があります。
 そうでなくても、戦争のことは日中平和条約締結時に解決した問題です。平和条
約を結ぶということは、これから仲良くしていきましょうという約束であって、過去の
恨み辛みはここで水に流し、これからは対等に付き合いましょう、互恵平等で行き
ましょうというものです。それを中国の政府高官も国民も今になって過去は水に流
せないという。
 これでは互恵平等の外交は実現できません。日本政府は対中姿勢を根本から改
めるべきです。アジアに覇権を求める中国に反省と転換を求めるべきです。それが
アジアの平和と世界の平和につながる様にするのが我が国の課題です。それが出
来ないというなら対中外交は危険度の強いものと断定し、政治的経済的軍事的攻
撃を仮定して、これらに対抗できる処置を検討した外交関係に改めるべきである。
というより、実はそれが世界に於ける外交の基本なのであるが・・・

 さて、本来は存在しないはずの日中・日台間の尖閣諸島領有権問題。問題が生
ずる以前はどうだったのでしょうか。



  私が本当は領土問題はなかったというのは、東シナ海の資源問題が発する19
68年〜70年以前は、中国・台湾は日本の尖閣諸島領有に異論を挟まなかった
し、尖閣は日本の領有する土地であると認めていたからです。

 先ずそこから述べたいと思います。






(イ) 中華民国駐長崎領事が石垣村民に贈った「感謝
状」

石垣村長の豊川善佐氏に贈られた感謝状:石垣市立八重山博物館所蔵
  (平成22年11月12日に石垣市内の豊川氏宅で発見された)


全体



     感 謝 ?
   中華民國八年冬福建省恵安縣漁民
   郭合順等三十一人遭風遇難飄泊至
   日本帝國沖縄縣八重山郡尖閣列島
   内和洋島承
   日本帝國沖縄縣八重山郡石垣村長
   豐川善佐君熱心救護使得生還故國
   洵屬救?恤鄰當仁不讓深堪感佩特
   贈斯?以表謝忱
     中華民国駐長崎領事馮冕  (印)
   中華民国九年五月二十日 (印)

※ 一TOKでは全字が表記できるが、それ以外では「?」と
  表記される文字がある。「感謝?」の「?」は「状」の別字。
  「斯?」も同じ。「救?恤鄰」の「?」はウ冠に火である。

石垣村長豊川善佐氏への「感謝状」が平成22年11月12日に
豊川宅にて発見され、石垣市八重山博物館の鮮明な画像が入手
出来るようになり、これまでよく解らなかった文字が明確になり、
豊川善佐氏と玉代勢孫伴氏への感謝状の内容に幾分かの違いが
あることも解った。2枚の感謝状を照らし合わせて、それぞれに
書かれている文字はほぼ判明出来たと考える



石垣村職員の玉代勢孫平氏に贈られた感謝状:石垣市立八重山博物館所蔵

  (平成6年に同氏の長男、冨田孫秀氏が今年一月、
自宅に飾っていたものを石垣市に寄贈した。
資料:産経新聞平成6年9月23日
http://homepage2.nifty.com/tanimurasakaei/syasin.htm



全体


感謝状
中華民國八年冬福建省恵安縣漁民
郭合順等三十一人遭風遇難飄泊至
日本帝國沖縄縣八重山郡尖閣列島
内和洋島承               
日本帝國八重山郡石垣村雇玉代勢
孫伴君熱心救護使得生還故国洵属
救災恤鄰當仁不譲深堪感佩特贈斯
状以表謝忱               

   中華民国駐長崎領事馮冕 (印) 
中華民国九年五月二十日  

※ 豊川善佐氏のものが「救?恤鄰」となっているのに対し、
  玉代勢孫伴氏のものは「救災恤鄰」となっている。


− 説明 −
漢文に詳しくない管理人の読み下しであるから当てにしないで読んでもらいたい。 


【現代語読み下し】

感 謝 状
中華民国八年の冬、中華民国福建省恵安県の漁民              
郭合順ら三十一人が風に遭(あ)い難に遇(あ)う。飄泊(ひょうはく)し、  
日本帝国沖縄懸県八重山郡尖閣列島内和洋島に至る。           
日本帝国沖縄県八重山郡石垣村の職員玉代勢孫伴君は           
熱心に救護し、故国に生還するを得さしめた。洵(まこと)に         
                      救災恤鄰(きゅうさいじゆつりん)に属す。
當(まさ)に仁たり、深感佩(かんぱい)に堪えず。特にこの          
状を贈り以て謝忱を表(あらわ)す。         

    中華民国駐長崎領事馮冕(ひょう・めん)                    
  中華民国九年五月二十日




【現代語訳】


外務省

【参考:中華民国駐長崎領事の感謝状】(仮訳)

 中華民国8年冬,福建省恵安県の漁民である郭合順ら31人が,強風のため遭難し,日
本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島内和洋島に漂着した。
  日本帝国八重山郡石垣村の玉代勢孫伴氏の熱心な救援活動により,彼らを祖国へ生
還させた。救援において仁をもって進んで行ったことに深く敬服し,ここに本状をもって謝
意を表す。

中華民国駐長崎領事 馮冕
 中華民国9年5月20日

感 謝 状
中華民国八年の冬、中華民国福建省恵安県の漁民              
郭合順ら三十一人が強風のため遭難。飄泊して、                
日本帝国沖縄懸県八重山郡尖閣列島中の和洋島(=魚釣島)に至った。 
日本帝国沖縄県八重山郡石垣村の職員、玉代勢孫伴君は          
熱心に救護し、(彼らを)故国に生還させた。洵(まこと)に救災恤鄰に属す。
これこそ仁愛の見本である。深く感激に堪えない。特にこの       
感謝状を贈り以て感謝の気持ちを表(あらわ)す。      

   中華民国駐長崎領事馮冕(ひょう・めん)                    
中華民国九年五月二十日
                              

【感謝状の贈られた事情】 
 大正九年(1919年)の冬、魚釣島近海で中国人が遭難しているのを古賀氏が見つけ
て救出。八重山島庁(当時)、石垣村役場も総出で救援活動を行い、31名を無事本国に
帰還させた。このことに対して中華民国の長崎領事が感謝状を贈った。石垣市在住の元
同市助役で郷土史家牧野清氏によると感謝状は玉代勢氏のほか、石垣村長(当時)の豊
川善佐氏、古賀善次氏、与那国島出身の通訳松葉ロブナストさん計四人に贈られた。現
存するのは、玉代勢氏あてたこの一枚だけである(※注)。同氏の長男、冨田孫秀氏が
石垣市に90年頃に寄贈された。

 また魚釣島の所有者古賀善次氏は、「それに、中国もかつてははっきりと日本領土と
認めているんです。事実もありますよ。大正八年、中国福建省の漁船が、尖閣列沖合い
で難破しました。そのとき、たまたま私の船がそれを発見し、難破船と三十一人の乗組員
を助けて石垣島へつれてきて、手厚い保護をしました。私だけでなく、石垣の人たちも彼
等を親切にもてなし、修理をおえた船とともに中国へ帰してやったのです。翌年ですよ、
中国政府から私をはじめ石垣の関係者に感謝状が送られてきましてね。その宛名は、日
本帝国沖縄県八重山郡島尖閣列島でしたよ。いま中国がいっている魚釣台ではなく、ち
ゃんと尖閣列島になっています。個人からの手紙ではありません。政府としての感謝状な
んです。ええ、いまでも保存してありますよ。」『現代』(講談社)第6巻第6号(1972年6月)
142-147頁、「毛さん、佐藤さん、尖閣諸島は私の所有地≠ナす」(「れっきとした証拠」
持ち出し名乗りあげた地主≠フ言い分)


この感謝状の中で中華民国長崎領事は、魚釣島のことを
日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島内和洋島」と
記し、救助した島民を
日本帝国沖縄県八重山郡石垣村雇玉代勢孫伴君」と明記している。

「和洋島」というのは魚釣島の日本名である。(牧野清著「尖閣諸島・日本領有の正当
性」124・125ページ)
 つまり、当時の中国政府は、魚釣島のことを日本国の八重山郡尖閣列島内和洋島(魚
釣島の日本名の一つ)と間違いなく認識していたのである。今中国を代表する政府は、
中華民国政府から中華人民共和国に替わっていますが、政府が替わったからと言って、
この認識をなかったと否定することを国際法は認めていません。







(ロ) 尖閣諸島を日本領土と認めていた中国・台湾の教科
書・地図

次に、一九七二年五月に外務省情報文化局が出した、「尖閣諸島について 」の中にこう
いうことが書いてあります。

中国側が尖閣諸島を自国の領土と考えていなかったことは、サン・フラン
シスコ平和条約第三条に基づいて米国の施政の下に置かれた地域に同
諸島が含まれている事実(昭和二十八年十二月二十五日の米国民政府
布告第二十七号により緯度、経度で示されています)に対して、従来なん
らの異議をとなえなかったことからも明らかです。のみならず、先に述べま
したように、中国側は、東シナ海大陸棚の石油資源の存在が注目される
ようになった昭和四十五年(一九七〇年)以後はじめて、同諸島の領有権
を問題にし始めたにすぎないのです。現に、台湾の国防研究院と中国地
学研究所が出版した『世界地図集第一冊東亜諸国』(一九六五年十月初
版)、および中華民国の国定教科書『国民中学地理科教科書第四冊』(一
九七〇年一月初版)(別添1)においては、尖閣諸島は明らかにわが国の
領土として扱われています(これらの地図集および教科書は、昨年に入っ
てから中華民国政府により回収され、尖閣諸島を中華民国の領土とした
改正版が出版されています)(別添2)。また、北京の地図出版社が出版し
た『世界地図集』(一九五八年十一月出版)(別添3)においても、尖閣諸
島は日本の領土としてとり扱われています。
中華民国59年(1970年)1月初版国民中学地理教科書では、
尖閣諸島を日本領土と認めた地図が掲載されています。



「尖閣羣(群)島」となっている。


全ての教科書は撤去され新たにこの地図が掲載された。
「釣魚台列嶼」となっている。


 中国は、尖閣諸島は日本帝国主義により掠め取られたもので、中国が歴史上ずっと尖
閣諸島を自国領土としてきたと言いますが、それは以上のことから事実とは違うと断言で
きます。何故なら、もしそれが事実ならば、かくの如く「掠め取った」と、他国を盗人や泥棒
の如くののしる国が、それまで放置してきた筈がないからです。はっきり言えばこれは嘘
です。嘘を言って力で強弁して押し切ろうとしているのです。その背景には「中華艇庫主
義」の復活が懸念されます。




 (ハ) 牡丹社事件  −「日清両国間互換議定書」に書かれ
たこと−
 明治4年(1871年)に牡丹社事件というものがありました。那覇に行った宮古島の貢
納船がその帰りに暴風雨で遭難し、台湾南部に漂着、乗員69人のうち3人が水死、残り
は台湾原住民族・パイワン族の集落、牡丹社に救助を求めたが、54人が殺害された。
生き残った12人は翌年、中国・福建省を経由し那覇に命からがら帰ったという事件で
す。
 外務卿副島種臣は1873年に北京を訪れ、清国政府と直接交渉しましたが、清国政府
は、台湾の住民は「化外の民」で「教化の及ばぬところ」と事件に対する責任を拒否した
のです。清国政府が台湾に住む部族のしたことを、我が国の教化の及ばぬ者達が為し
たことであるから、自分たちに何も責任はない、我は関知しない、責任は取らぬというの
です。これは台湾は我が国の領土ではないと世界に対して発言したものです。台湾の住
民すら「化外の民」であると言う国が、どうして尖閣諸島を自国の領土と考えていたでしょ
うか。誰だって甚だ疑問があると言わざるをえません。さて、この通知を受けた明治政府
は1974年、自力(日本の国家主権の行使)で牡丹社を懲罰する為に「台湾出兵」をしま
す。


征討軍はまず厦門に立ち寄り、清国の福州総督に出兵の告知をし、その上
で台湾に上陸します。牡丹社を制圧し宮古島民の53柱を回収し、更に他の
台湾部族との戦いも7月には終わり、57部族と和議をします。
 清国とは10月31日、駐清国イギリス公使ウェードの調停で、「日清両国
間互換議定書」が調印されます。
 清国は日本の行為を「民を保つ義挙」と認めて先住民に害された者の遺
族に見舞金10万両を、台湾の現地に日本の征討軍が設置していた施設
や道路を清国が買い上げるという名目で40万両を支払うという内容です。
(これはあるWebサイトの要約です)

 「民を保つ義挙」の民とは遭難した宮古島の者のことであり、それを日本政府との外交
文書で示したということは、宮古島の人間は日本国民であると清国政府が正式に認めた
ということです。つまりこの「日清両国間互換議定書」(日清両国間互換条款?)により、
清国は琉球は日本領土であると認めたのです。ここで沖縄は日本の支配する領土だと
日中間でも国際法の上でも決定したのです。

下は台湾のあるサイトの記事です。
滿清政府也昏庸到底,以賠銀五十萬兩外,在和約中確定「日本此次聲稱 為保護琉民而進兵入臺,中國不指為不是」,這是更大的損失,等於承認日 本有權保護琉球,中國無形中喪失了對琉球的宗主國地位。同時展現在世 界各國面前是大清帝國願意賠款,而不敢作戰。
於十月三十一日,由駐北京英國公使.威綏瑪(Thomas Wade)居中調停,和 約成立,日軍在登陸地的龜山建碑紀念後,退出台灣。這件日本藉口牡丹 社事件侵犯台灣,滿清政府賠了夫人又折兵的情況下於是告終。
この中に、「這是更大的損失,等於承認日本有權保護琉球」とあります。私は漢文を読
めないので大体しか分かりませんが、およそ、「(清国政府は)大失敗をやらかしてくれ
た。これは日本が琉球を保護する権利があると承認したに等しい」と言っているようで
す。

 これで、中国の中にある、「沖縄は本来清国の属国であり、尖閣諸島が沖縄に属してい
たとしても、琉球そのものが清国に属していたのだから、尖閣は当然中国のものだ」とい
う議論は成立しません。


 「日清両国間互換議定書」で清国は、「琉球は日本の領土である」と認め
たのです。これは今でも覆りません。政府が替わっても、これを覆すことは
国際法では認められないのです。明治政府は江戸幕府が結んだ不平等条
約をいやでも受け継がねばならなかったのはその為です。これは誰でも守
らなくてはならないのです。そうでなくては世界は力で国際間の紛争を解決
するしかなく、混乱の坩堝に陥ってしまいます。
 併し中国は今これを覆そうとしています。「戦後の日本による米国からの
琉球接収は国際法上の根拠を欠き、その地位は未確定のままだ」という最
近の主張は、過去に清国が認めたことなど関係ないという、国際法を無視し
た暴論です。マスコミはこれを日本側に対する揺さぶりなど言っています
が、そうではなく、何故ハッキリと沖縄に手を付けるなと言わないのでしょう
か。かかる主張は我が国の主権を侵害する行為だと何故批判しないのでし
ょうか。それだから中国は何も気にせずに際限なく我が国の東シナ海に於
ける主権を侵害してくるのです。
 しかもこれは揺さぶりでしょうか。揺さぶりではないかも知れません。尖閣
諸島に手を付ける、或いは東シナ海から日本を追い出しガスと石油を独占
する。又、日本がガス田の試掘に入れば力で阻止する。そして更に東アジ
アを支配下に置くための、前触れ、予告かも知れません。それは正に侵略
であります。私はこれを単なる揺さぶりとのみ考える訳にはいきません。






 (ニ) 再び、中国も台湾も尖閣諸島を日本領であると認めて
いた
 次に奥原敏雄教授(国士舘大学・国際法)の、「尖閣列島問題と井上清論文」(アジアレ
ビュー)における指摘を引用したいと思います。

−前略−
 まして尖閣列島の場合、中国も台湾も日本領であることを明示的
に認めてきたのである。少なくとも70年以前頃にお いてはそうであっ
た。たとえば53年1月8日付『人民日報』は「琉球群島人民の米国占
領に反対する闘争」と題する重要な論説記事をかかげているがその
中で琉球群島の定義をおこない、尖閣列島を、明示的に、この中に
ふくめている(この定義では「包括尖閣列島」という言葉を用いてい
る)また58年11月北京の地図出版社が作成した地図でも「日本の
部」において、尖閣列島は扱われ、魚釣島(今日呼ばれている釣魚
台とか釣魚嶼ではない)、赤尾嶼の名前を明示するとともに、尖閣群
島という総称を与えている。
 同様に台湾においても、63年10月の国防研究院と地学研究所によ
って出版された世界地図集第一冊(東亞諸国)において、尖閣羣島
という名称で列島の存在を明記するとともに、各島名を和音のロ-マ
ナイズしたものとして示している。たとえば釣魚台は日本名の魚釣島
とされ、黄尾嶼、赤尾嶼もそれぞれカッコのなかで久場島、大正島の
名前を併記し、さらに黄尾嶼、赤尾嶼を中国音でなく和音で読めるよ
うにロ-マナイズしている。尖閣羣島もまた正確にSENKAKU・GUN
TOとつづっている。その他、0年の中華民国国民中学校地理科教
科書でも、尖閣列島では、尖閣羣島)は、あきらかに『大琉球群島』
の一部とされ、魚釣島、北小島、南小島といった和名を付している。
 さらに台湾の付属諸島の範囲についても、64年の「中華人民共和
国分省地図」は最北端を彭佳嶼と明記し、同様に65年台湾省地方
自治誌要」68年の「中華民国年鑑」も彭佳嶼の北端を台湾省の極
北と明示している(極東は綿花嶼)。
 このように70年以前の中国や台湾の公文書・文献(地図を含む)な
どで、尖閣列島を中国領と明示したり、台湾省の一部に含めていた
事実は、一つも見当たらない。反対に54年の如く『基隆市志』(基隆
市文献委員会)は、彭佳嶼、綿花・花瓶両嶼が、台湾に編入された
のは一九〇五(光緒31)年であった事実を明記しているものさえあ
る(右の文献によると、この年、轄区の再調整が日本政府によってお
こなわれ、彭佳嶼外二島が台湾の範囲に含まれたと説明されてい
る)。 

中国と台湾はこれだけの事実を無視して、尖閣諸島は古来より我が国の領土だと強弁し
ているのです。彼らの領土に対する感覚は、私達日本人とも世界の常識とも全く違いま
す。彼らが中華思想を持つ覇権国家であることを私達は一瞬とも忘れてはならないので
す。中国を相手に、油断をしたり、相手を疑ることは良くない事だとか、善人であろうとし
たり、共同開発などという甘い言葉に惑わされれば、尖閣諸島は彼らに奪い取られ、永
遠に我々のもとに帰らなくなるでしょう。




(13) 国際法は領有権をどう規定しているか

書きかけ
常設国際仲裁裁判所の判例
1928年4月4日確定

<パルマス島事件>
パルマス島は、ミアンガス島などともいう。米国のフィリピン群島に属するミンダナ島のサ
ン・オーガスチン岬とオランダ領東印度諸島に属するナヌサ群島の最北端の島との中間
に位置する1つの孤島である。

米国の提督が、1906年の1月21日にそこへ訪問したことから始まる。彼は、そこが米国
領土だと信じていたところ、オランダ国旗が翻っているのを見て驚き、この旨を米国陸軍
長官に報告した。そして、同年3月31日からオランダと米国との外交交渉が、開始した。
しかし、解決せず1925年1月23日に仲裁裁判所に付す旨で合意した。

<当事者の主張>
・米国は1898年の米国・スペイン間のパリ条約でスペインからフィリピンを譲り受けた。
→フィリピン群島の一部であるパラマス島も含まれるから米国のもの
 そこで、その島がスペインのものであったのかを証明してみる必要がある
パルマス島は、スペインが発見
このことは、多くの地図で確認でき、また1648年のミュンスター条約で承認されている。
パルマス島は、フィリピンの地理上の一部を構成しているので隣接性の原則 により、米
国の主権に属する。

・オランダは、スペインによる発見、その他の取得も立証されていないことを主張。。主要
な主張は1677年からまたは、1648年以前から今日まで主権の諸権利 を保有しかつ行
使している。

<判旨>
発見による領域権原は、継続的かつ平穏に国家的機能を行使することで取得される領
域権原に優先しない。また、隣接性の原則は、領域権原にはならない。したがって、米国
の主張は、退けられた。

つまり国際法は、「島の発見による領有権主張より、継続的且つ平穏に
主権行為を行ってきた国家の領有権主張が優先される」というこきとが
1928年に既に決定していたのである。

 明治5年(1871)政府は琉球王国を琉球藩となし日本に組み入れました。このことに王
族が反対し清国も反発しました。併し日本政府は当時の東アジアの大国であり盟主であ
る清国との関係よりも「西洋」と「万国公法」を主体とする世界に属する道を選択しまし
た。鎖国を解除した日本政府は自国やアジアを基本とするのではなく、世界の中のアジ
アの一員として生きる道を決意したのです。これが後で日本と清国や朝鮮との紛争の火
種になります。
 明治12年(1879年)、明治政府は軍隊と警官を派遣して琉球藩の廃止を宣言し、鹿児島
県に編入しました。同年中に沖縄県を設置。沖縄も清国も反発はしましたが結局はこれ
を受け入れます。既に書きました様に、大正9年(1920年)に台風で遭難した中国人を尖
閣諸島で働いていた日本人が救出に当たったことに対して中華民国政府は4通の感謝
状を贈りましたが、其処には日本帝国沖縄県八重山郡尖閣諸島和平山という文字が記
載されています。遺言書と同様に国家間の関係を定める国際法は後の証拠が優先しま
す。従ってこれ以前の発見記載などを根拠とする中国の領有の主張は消滅します。また
中華民国から中華人民共和国に変わってもその法的根拠は次の政府に受け継がれる
ことを国際法は保証しています。


【沖縄編入について】
 今から顧みれば問題はあったかも知れませんが、賢明な判断だったと言わざるを得ま
せん。何故なら琉球が日本に編入されていなければ、西洋は琉球に手を付ける可能性
が高かったからです。そうなれば当時の日本も中国も琉球を守れません。そうなると今日
の東アジアが果たして存在できたかどうか疑わしいものです。柳田国男によると沖縄の
言葉は古事記や日本書紀といった大和朝廷設立以前の日本のルーツを示しておると言
います。琉球国は古来より日本語圏の国であり、琉球の日本編入は沖縄のためにも日
本の為にもアジア・世界のためにも最も良かったと判断します。但しそれは日本に組み
入れられた後の沖縄に対する日本政府の治世に問題が無かったと言うのではありませ
ん。沖縄県民も我々も共に日本国の一員として協力し合い、尊敬し合い日本という国を
形成していかねばならないのです。











(14) 最後に

 このホームページの最初に書きましたが、私は尖閣諸島の領有権問題を解決する方
法は、直ちに尖閣諸島の政府独占を排除し、尖閣諸島を広く民間に開放し、これを日本
経済に組み入れることだと考えております。それも大至急にです。これが最も優先される
べきことなのです。国際法の認める領有の意思と実体は、国民が現に居住し、生活を営
み、その国の経済に組み入れられていることに勝るものはありません。尖閣諸島を民間
に開発させる行動は既に遅きに失していますが、中国が尖閣諸島に対する支配意思を
明確に示している以上、それは尖閣諸島を領有する国家として当然なしてよいことでせ
あり、且つ為さねばならぬ行為なのです。そうしなければ、その領有意思と根拠を世界か
ら疑われます。その当然の行為をなした上で、国民の経済生活と身体と財産が中国・台
湾によって脅かされる恐れがならば、その時に直ちに、広く世界に彼の非を唱え、堂々と
国民の生命と財産を護るために自衛隊を駐屯させればよいのです。中国政府と台湾政
府が尖閣諸島の領有意思を明らかにし、尖閣に向かう国民の取り締まりをなさない現状
では、その為の準備は公然と堂々と当然なされてしかるべきです。事が起きないのを頼
むのではなく、事が起きたら直ちに確信をもって的確な対応ができる為の備えを為すこと
が、独立国のなすべき対応であります。 こせこせとした今の政府の態度は国内的にも国
際的にも良くありません。

 尖閣諸島の島々はいずれも国際法で言う島嶼であり、そこに領海と排他的経済水域を
有する国際法上の島嶼であります。それは国連海洋法という国際法に定められていると
ころのものです。

 併し尖閣諸島を守るものは国際法ではなく、私達の日本人としての気概です。独立国
家に生きるものとしての自負心です。それがなければ、いずれ尖閣諸島は中国のものに
なります。私達は尖閣諸島は当然日本の領土だから、これを中心として領土と排他的経
済水域を東シナ海に有していると思っていますし、自分たちの考えは絶対に正しいのだ
から国際法と国際世界は日本の尖閣諸島領有を支持すると考えています。ところが気が
付いてみると、今尖閣諸島に対する我が国の領有権は世界的に見れば支持する国がど
れだけいるでしょう。日本の国連に於ける常任理事国入りを支持する国より少ないのが
現実かも知れません。

 我が国政府は怠慢に過ぎました。併しそれだけが原因ではありません。そこには国民
の無知と油断もありました。そして、何より中国の三〇数年に及ぶ飽くなき努力があった
からです。このままでは我が国はとても中国に太刀打ちできません。

 我々の頭の中には尖閣諸島は当然我が物という考えがあります。そこに油断があった
のです。正しければ世界が守ってくれる。仲良くしていれば必ず理解してもらえる。悪いこ
とをしなければ憲法が守ってくれる。それが油断を生じさせたのです。中国は私達と違
い、国家戦略として東シナ海を我が庭となそうとしており、尖閣諸島を日本から奪うことは
絶対に必用であるとして、手に入れる為の方法を国内・国外に着実に実行してきました。
日本を支援する国々を離脱させるという、地道な作業を着実にこなして、日本の目に見え
ないところで外堀を埋めていたのです。
 現行憲法は我が国の生存を、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」保持し
ようと決意しています。併し、中国は我が国の平和など愛していません。世界の平和も愛
していません。愛するのは、自分たちの安全と生存と発展の為に自分を犠牲にして中国
の安全と生存と発展に貢献する日本です。自分たちの考える安全と生存と発展を支持す
る世界の平和です。そんなものが平和でしょうか。併し彼らはそういう平和と秩序構築を
目指し、95年からの僅か10年の間に国防費を3倍増させているのです。これは何を意
味しますか。

 「いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、
政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持
し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務である」(憲法前文)とは中国も北朝鮮も
信じてなどいないのです。これでは日本が太刀打ちできる筈がありません。

 日本が尖閣諸島を永遠に領有することを世界も国際法も認めますが保証はしません。
況や日本のために行動してはくれません。最後は国家間の意志のぶつかり合いです。そ
れが現実世界です。常に努力しない者を守るほど世界も国際法も甘くはありません。最
後に自国を守るものは、世界でも、国際法でもなく、日本国政府と日本国民の自らの国
土は自ら守るという覚悟です。それがなければ世界も国際法も日本の尖閣領有を積極
的に支持できないのです。私達は法的には日本の領土である筈の竹島を韓国に、北方4
島をロシアに現実に奪われているではないですか。それらは未だに帰ってきていないで
はないですか。国際司法裁判所に訴えたくても国際司法裁判所の規定では相手国の同
意がないと裁判は開かれません。世界はそういう段階なんです。その現実を見れば我が
国の為すべき道は自ずから明らかとなります。

 戦後日本の人間観・世界観が間違っているのです。我が国の憲法が正しく、世界が間
違っているというのは、それこそが間違いです。思い上がりもいい加減にしてもらいた
い。これほど日本人のむ思い上がりと無知を示すものはありません。憲法そのものが間
違っている。この憲法は人間と日本人を侮辱するものである。それすら日本人には分か
らない。私が他国の人間なら、「どうぞ日本はそのまま生きて下さい。そして憲法と共に滅
んで下さい。ただし私達に迷惑がかからないように亡国の民となってください。亡くなって
から世界に救いを求めるのだけは止めて下さい」と言うだろう。「ただし、資金援助はまだ
まだして下さいよ」とだけは付け加えるであろう。

 即ち、憲法が間違っているだけではない、それ以上に、日本人の心根が間違っている
のである。この憲法の本質が占領基本法である。にも関わらず、平和憲法であると言う
が如き日本人の心根が間違っているのである。重箱の隅をほじくるとはこのことかと言い
たくなる。重箱全体の食物が腐っているのに、必死で腐っていないご飯一粒を見いだし
て、「この弁当は大丈夫だ、美味しいぞ、美味しぞ」と大声で人々に叫んでいるアホな人
間に日本人が思えてくる。

 私達は35年前に台湾と中国と韓国が尖閣諸島の領有権を主張した時に彼らに対して
ハッキリと言わねばならなかったのだ。「尖閣諸島は我が日本の領土である。これを君ら
が自国のものだと言うことは決して許さない。我が国の領土を侵すが如き行動を為すな
らば断固たる処置を取る」と。

 今からでも、遅くはない。「日本政府と日本国民は必ず尖閣諸島を守る。我が国の権益
を不法に侵すことは絶対に認めない。犯すことあらば国民の血を流してでも必ずこれは
守る」と明言すべきである。それが出来ないなければ、尖閣諸島の帰属問題は今後も揺
れ動くし、時間と共に尖閣諸島の帰属は中国の意思次第という事態になっていくであろ
う。




















その他の事





1、琉球人の先導と駕乗導引を必用とした冊封船

さて、本題に戻ります。
 奥原敏雄教授(国士舘大学・国際法)は、先に引用した「尖閣列島問題と井上清論文」
(アジアレビュー)の中で、明治以前の琉球国人と中国人との尖閣の認識について興味
ある文章を書いておられます。
(■人とは福建省の人間のことだと考えて下さい)

 第二に、尖閣列島とその航路についての琉球人と中国人の熟知程度
であるが、これについては、陳侃『使琉球録』(一五三四年)巻一が十分
あきらかにしている。すなわち人の方がこの海路に熟知していないこ
と、そのために陳侃は人だけの航海に非常な不安を覚えていたこと、
それだけに渡琉前年の11月に琉球の進貢船が入港したことを知り、航
海の詳細を聞く事ができると非常に喜んでいた事を右の使録は誌してい
る。
 また琉球の次期国王(世子=尚清)は冊封船を操る術に人が十分
慣れていないことを心配して、看針通事(中国語のできる針路士)と舟を
十分に扱いうる琉球人三〇人を乗せた迎接船を福州まで派遣し、冊封
船の先導と操船にあたらせたことを記し、そうして陳侃自身これを非常
に喜んだことをあきらかにしている。
 右の陳侃の記述は井上氏の主張と完全に反対の事実を明らかにして
いる(井上氏によれば尖閣列島は、琉球人には何の関係も無かったし、
従って琉球人には列島に関する知識は、まず中国人を介してしか得られ
ず、また彼らが独自に列島に関して記述できる条件のほとんどなかった
し、またその必要も殆どなかったとされている)。
 井上氏はどうも冊封船が往路復路とも琉球船の先導と琉球人の駕乗
導引を得ている事実をご存じないらしく、現存する史料に記録として残さ
れただけでも二八一回琉球船(進貢船、謝恩船、迎接船など)が福州へ
赴き帰途尖閣列島の航路を通っていたこと、さらに琉球の勘合符船が陳
侃以前に既に九八回、安南・シャムなどとの交易に従事していた事実
(これらの琉球船も帰路尖閣列島を通っていたことはほぼ間違いない)
にも通じておられないように思われる。
 これに対して陳侃以前には一〇人の冊封使が琉球に赴いていたにす
ぎず、しかもこれ以外に中国から琉球への公船が派遣されたことはなか
った。かくして琉球船に対する中国船の派遣率は、実に、三二分の一に
すぎない。しかも陳侃の場合は前使黄旻との間に五五年、陳侃と郭汝霖
との間はニ八年というように,非常に大きな空白があった(その後の冊
封使も同様で、張学礼・林鴻年各三十年、徐葆光・周煌各三七年、李期
元四〇年、夏子陽・社三策各ニ七年、汪楫一九年、超新ニ八年。これに
対して琉球船は陳侃以前に毎年約二隻)。■(※注2)人が尖閣列島の
航路に不慣れであったり、操舟の術に不安があったのも、経験不足か
ら、いわば当然であったといえよう。
 そうしてそれ故に往路復路とも常に琉球船(往路は、一年一貢制のと
きは帰国の新貢船、二年一貢制以後は迎接船=陳侃がその最初の
例、復路は謝恩船)の先導と、琉球人の冊封船への移乗および駕乗導
引が必要であったのである。井上氏の誤りは、尖閣列島を記載した流球
と中国との文献の数を、単純に比較し、他方、琉球通交史に関する史
料・文献にあたらなかった結論による。
 かくして、冊封使たちは駕乗している琉球人が進路目標として尖閣列
島をとったこともあって、冊封船上からこれを望見したにすぎない。
 尖閣列島を記載した最も古い文献として陳侃使録は有名であるが、こ
の使録において列島の島嶼を陳侃が命名した事実もなければ、何らか
の文献を引用した形跡もない。それ故、陳侃は船上の琉球人等からそ
の名前を聞いて使録に残したとみるのがむしろ自然であろう。
 陳侃は、厳従簡『殊域周資録』によれば、久米島すら、それが琉球であ
ることを、琉球人に質問してはじめて知ったとされている。陳侃が、井上
氏の主張されるように、久米島より手前の島々を中国領であると意識し
て「乃属琉球者」と記したものでないことは、この事実によっても分るし、
上述した歴史的事業とも一致する。
 ■は表示することの出来ない文字です。 漢字で、門の中に虫です。このホームペー
ジ制作ソフトではこのの漢字がコードにないらしく表されません。

辞典によると、福建省は古代人の領域であり、戦国時代に楚に滅ぼされた越王族が
に逃げ込んだため、越と呼ばれるようなった。紀元前221年秦帝国に征服され、
中郡が設置されたが、秦末の動乱期に越国として独立した。とありますし、福建省の
略称はとあります。



私もそうであったように、これを読んでハッと気が付かれる人が多いのではあるまいか。
中国人は、自分たちが尖閣諸島を発見し命名した」のだ言っているが、真実は違うじゃな
いか。本当は、中国人は島の名を書き残しただけで、実際は琉球人が案内した航路でこ
れを見ただけの冊封使が、報告書に勝手に釣魚嶼と書き記しただけのことで、尖閣諸島
近海は琉球人が最も知悉し、琉球人だけが往来する海であったのだ。
 従って、中国の言う、「釣魚台は自分たちが発見し、命名したのであり、釣魚台は自分
たちのものだ」という発言は歴史的事実ではないのである。

 既に書いたように、中国・台湾との尖閣諸島の帰属問題の処理は、この様な古い歴史
にさかのぼる必用はない。明治後の歴史だけで十二分なのである。それは国際法が19
28年の判例以来、発見だけでは領有権が生じないとしているからで、しかも、歴史をさ
かのぼってもこの様な状況なのである。

 これで分かることは、特に中国の尖閣諸島の領有権主張は、事実に基づいた主張では
なく、政治的・軍事的・経済的必要性と欲求から主張なのである。これを世界では覇権主
義と言う。古くは中華思想と言った。この様なことがまかり通るならば、世界は、特に我が
国も含めて東アジア諸国は、中国との互恵平等の関係も、国家の自主独立も保つことが
出来なくなる。中国の決める平和の下での国家運営しかできなくなる。国々は自主的精
神を発露できなくなる。従って、日本は決して中国の尖閣諸島領有や尖閣諸島の共同領
有・共同開発、我が国の排他的経済水域での共同開発という要求に屈したり与してはな
らない。妥協もしてはならない。日本政府と日本国民は中国に対してよい子であってはな
らない。「彼らは普段は優しくても、道理を破ることを決して認めない」と思われなくては駄
目なのである。そうでなくては我が国の独立は脅かされる。またアジアの国々は中国の
影響圏下におかれ、自主的政策・決定できなくなる。尖閣諸島問題・東シナ海に於ける
我が国の排他的経済水域の問題はその分岐点である。






2.古賀氏における尖閣諸島のその後

(高橋庄五郎氏著「尖閣列島ノート」より)
古賀氏の開拓事業は、一九四〇年(昭和十五年)頃まで継続されていた。 
 さる大戦後はアメリカの統治下に入り、群島組織方により尖閣諸島は八重山郡島に包
括あれ(年表53)、また琉球
政府章典(年表55)dも尖閣諸島は琉球政府の管轄となる。 
 一九五五年、久場島は米軍の演習地としえ使用(年表57)。翌一九五六年には国有
地大正島も米軍の演習地と 
なる(年表58)。 
 石垣市は土地借賃安定法に従い、土地等級設定の為係員十一名を派遣調査せしめた
(年表60)。一九六八年、 
米軍は南小島に不法上陸の上陸四十五名に対し退去命令(年表61)また不法入域者
(台湾漁船)がいるので米軍 
は航空機によるパトロール、琉球政府には巡視艇による巡視実施する(年表62)。 
 一九六九年、石垣市は尖閣諸島の行政管轄を明示するため、各島にコンクリート製の
標識を建立(年表63)。 
 一九七〇年、琉球政府は久場島にたいする巡検を実施。 不法入域者十四人に対し
退去命令(年表64)。 
 同年米民政府は不法入域者に対し処罰する警告板を魚釣・久場・大正・南北小島の五
島に設置(年表65)。 
 一九七〇年以降、中国、台湾から『尖閣列島は中国領土である』との度々の抗議に対
し、日本政府は『日本固有 
の領土である』と繰り返し反論した(年表参照)。 
 日本間の沖縄返還協定により尖閣諸島も南西諸島の一部として、他の島々とともに日
本に返還された(一九七二 
年五月十五日)。アメリカの沖縄統治は二十七年間も続いた(年表106)。 
 一九七二年、古賀善次氏は南小島・北小島を埼玉県の実業家栗原国起氏に譲渡(年
表112)。 
 一九七八年、古賀善次氏死去。妻花子さんが資産を継承(年表113)。同年花子さん
は魚釣島も栗原氏に譲渡 
(年表114)。 
 一九七八年、中国の抗議船団約200隻が尖閣諸島海域に侵入、十数日も居すわって
尖閣諸島は中国の領土で 
あると抗議した。但し台風接近のため雲散霧消した(年表115)。 
一九七八年十月、中国の再高実力者 ケ小平氏来日、尖閣領有の棚上げ論をのべて日
本国民を唖然とせしめた。 
但し合意したわけではない(年表116) 
 一九七九年、古賀花子さんは石垣市に対し小学資金として金一千万円を寄贈した(年
表117)。 
 一九八八年、古賀花子さん死去。古賀家の資産は遺言により栗原国起氏に贈られるこ
ととなった(年表118) 
 栗原氏は古賀家の遺産をもって財団法人古賀協会を那覇市に設立。 

その果実を沖縄県のスポーツ振興に寄与している。古賀善次氏がテニスの愛好家であ
ったことが因縁のようである 
(年表119)。 
 一九九六年一月、古賀協会(会長栗原佐代子氏)は、石垣市八島町の小公園で父子
二代、生涯を絶海の無人島 
開拓に捧げた稀なる業績を讃えるため『古賀辰四郎尖閣諸島開拓記念碑』を設立した
(年表121)。 
 現在(一九九六年)尖閣諸島の固定資産税などは、一切栗原国起氏が石垣市に納め
ている。 






3.尖閣諸島を借り上げた日本政府


「明治政府は、彼に対してこれら4島を30年間無料で貸与した。古賀氏は、これらの
島々に多額の資本を投下し、棧橋、船着場、貯水場などを建設し、また、海鳥の保護、植
林、実験栽培などを行ない、開拓事業を発展させた。この古賀辰四郎氏が1918年に亡く
なった後、その子息である古賀善次郎氏は、父の開拓事業を引き継ぎ、とくに魚釣島と
南小島でカツオブシ、海鳥の剥製などの製造を行なった。昭和元年(1926年)、古賀氏に
無料で貸与していたこれらの国有地4島の貸与期限が切れたために、政府はその後1
年契約の有料貸与にきりかえたが、1932年、古賀氏がこれら4島の払い下げを申請して
きたので、これを有料で払い下げた。現在民有地となっている魚釣島、南小島、北小島、
久場島の4島を、日本政府が年間約3000万円で所有者から借り上げている」(田中邦貴
氏の「尖閣諸島問題」より)















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