尖閣諸島の領有権問題





公平に釣魚台列島問題を論じるために
  http://www.roc-taiwan.or.jp/news/diao/index.html


_____________________釣魚台列島の地理環境

釣魚台列島は東経123度30分27秒から124度34分9秒、北緯25度44分25秒から
25度56分21秒の間に分布する。日本ではこれを尖閣諸島と称するが、八つの小島
(釣魚台、黄尾嶼、赤尾嶼、北小島、南小島、沖北岩、沖南岩、飛瀬)から成り、台湾の
北東つまり沖縄の南西に位置し、南は台湾北部の基隆市から120海里、北は沖縄の那
覇から230海里離れている。 
釣魚台は面積4.5平方キロメートルの釣魚台列島最大の島で、383メートルの切り立っ
た険しい丘があり、遠くからもよく見えるため古来より船舶航行の重要な目印となってき
た。英国人はそれが尖塔のように見えることから、この島を「Pinnacle Islands」と呼び、
日本人もこれを訳して「尖閣諸島」と呼ぶようになった。 

釣魚台列島は経済的に非常に高い価値を有する。大陸沿岸を流れる海流と黒潮が同列
島付近の海域で一つとなって大きな渦を生じ、海底の有機物を絶えず循環させるため、
魚のえさが非常に豊富な一大漁場となっており、古くから台湾の蘇澳および基隆の漁民
の主要な漁場であった。さらに1968年、国連極東経済委員会(ECAFE)の調査によ
り、付近の海域に豊富な石油資源がある可能性が高いことも明らかになっている。 

大陸沿岸の海流は、黒潮と合流してから沖縄海溝に沿って北上し、釣魚台列島最東端
の赤尾嶼沿岸に到達する時には時速4海里(7.2キロメートル)に達し、海上は激しく波
打ち、中国と沖縄の「天然の境界線」を形成する。また台湾と釣魚台列島は同じ季節風
の通路にあたり、台湾の漁民が同列島に行くのは順風、順流となるため比較的容易であ
るが、沖縄の漁民にとっては逆風、逆流になるため非常に困難である。このことは、釣魚
台列島を発見、命名、使用したのが中国人であって、沖縄や日本の住民ではないことの
理由であり、また釣魚台列島が台湾の不可分の重要な領土であることの根拠でもある。 
 


  日本が釣魚台列島を占拠した経過とその主張の論拠

日本は、国際法上の「先占(occupation)」の原則に則って釣魚台列島の主権を有すると
主張している。言い換えれば、1895年以前、釣魚台列島は「無主地」であったとみなし
ているのだが、実際には、清の康煕40(1701)年に琉球特使、蔡鐸が著した『中山世
語』および付図に示された琉球の領土36島の中には、釣魚台は含まれていない。康煕
58(1719)年、清の琉球冊封副使、徐葆光が琉球の公的文献に基づいて編纂した『中
山傳信録』およびその付図でも同様である。このほか、日本が琉球を併合した1879年
前後に出版された琉球に関する著作あるいは地図、例えば明治6(1873)年の「琉球
諸島全図」、明治10(1877)年の『沖縄誌』(『琉球志』とも言う。伊地知貞馨著)、明治
19(1886)年の『南島紀事外篇』および付図「琉球三十六島之図」、「内地沖縄支那朝
鮮図」(当時の沖縄県令であった西村捨三著)などにも釣魚台列島は含まれていない。 
さらに重要なことは、逆上って1785年(天明5年、清の乾隆50年)に、日本人の林子平
が刊行した『三国通覽図説』の付図「琉球三省併三十六島之図」において、釣魚台列島
は明らかに中国の版図に含まれ、色刷りの地図の中で中国本土と同じ薄紅色で示され
ており、琉球36島の薄黄色や日本の灰緑色とは異なっている点である。このことから
も、日本が釣魚台列島を占拠する以前は、同列島は琉球の一部ではなく、また「無主地」
でもなかったことがわかる。つまり、日本が言うところの「先占」は、「先占は無主地を対
象とする」という国際法の原則に合致しないのである。 

日本は1879年に正式に琉球を併合してから、積極的に領土拡張に乗り出した。明治1
8(1885)年より、日本の内閣は釣魚台列島の占拠を企て、まず沖縄県令に同列島の
踏査を命じ、日本領であることを示す国標を立てようとした。しかし踏査の結果、同列島
がすでに中国人によって発見、命名され、史書にも記録されていることがわかり、また国
力が十分でなかったことから清朝の抗議を恐れて直ちに軽挙妄動に出るわけにはいか
ず、「他日の機会」を待つことになった。 

1894年7月、日清戦争が勃発し、1895年1月、日本は海陸両戦で決定的な勝利を得
た。日本はこれを絶好の機会ととらえ、釣魚台に標杭を立てることを閣議決定し、また沖
縄県知事が1896年4月に「尖閣諸島」を八重山郡に編入した。しかしこのことは、正式
には公表されず、このため一般には(政府高官を含めて)同列島のいわゆる「先占」につ
いてまったく知られていなかった。これもまた「先占」に関する国際法の原則に反するも
のである。 

第二次世界大戦における敗北で日本は無条件降伏を受け入れ、米軍が正式に沖縄を
委託統治することになった。1951年のサンフランシスコ講和会議において、日本は米
国に対し、将来沖縄および小笠原諸島を返還するよう要求し、米国は日本がいわゆる
「残余主権(residual sovereignty)」を保留することを認めた。1953年、米進駐軍の沖縄
民政府は沖縄の地理境界を詳しく定め、釣魚台や黄尾嶼をその領域に含めたが、台湾
の漁民の操業を妨害することはなかった。これらのことから、日本は「米国は1971年の
日米間の『沖縄返還条約』に基づき、1972年5月に釣魚台列島を南西諸島とともに日
本に返還した」と日本は主張している。 
 


 _____わが国が釣魚台列島に主権を有するという論拠
__________歴史的背景 地理関係と地質構造 使用実績 法的根拠

歴史的背景

1.発見と命名および領土としての認識

 釣魚台列島は古来より中国の固有の領土の一部である。1368年に明の太祖が即位
してから500年もの間、琉球は中国と交流を持ち、朝貢をおこなって中国の属国となって
いた。琉球で新しい王が即位する際には、明清両朝は勅使(冊封使)を派遣し、琉球王と
して封じた。勅使が大陸の福州と那覇の間を往来する際には、必ず釣魚台を航行の目
印とした。書物の中に初めて釣魚台の名が登場したのは、15世紀初め(明の永楽元年、
1403年)に刊行された『順風相送』で、このことからも同列島を最初に発見し命名、使
用したのが中国人であることがわかるだろう。
 また明の嘉靖35(1556)年に鄭舜功が著した『日本一鑑』の中では、「釣魚台は小東
の小嶼なり」と明記されている。「小東」が台湾を指すことは付図で明らかであり、これに
よって釣魚台列島が台湾に属する島嶼であることがさらにはっきりと証明される。明清両
朝で計23名の冊封使が琉球を訪れているが、このうち清の汪楫は康煕22(1683)
年、『使琉球雑録』の中で、釣魚台東南の海域は「中外之界」、つまり中国と外国の境界
である、とはっきり指摘している。また同治2(1863)年、湖北巡撫により刊行された『皇
朝中外一統輿図』においても、釣魚台は明らかに中国の版図に含まれている。

2.海上防衛区域への組み込み

 明の嘉靖年間、中国の南東沿海では倭寇の被害が甚大であった。嘉靖41(1562)
年、明の倭寇防衛の最高統帥、胡宗憲が『籌海図編』の「沿海山沙図」の中に釣魚台列
島を加え、同列島が初めて正式に中国の南東海域の海防区域に組み込まれた。さらに
清の康熈年間になると、台湾水軍の巡視ルートに釣魚台が含まれ、このことは黄淑ケイ
(王+敬)の『台湾使槎録』(康煕61年、1722年)、范咸の『重修台湾府志』(乾隆12
年、1747年)および『続修台湾府志』(乾隆29年、1764年)にも記載されており、釣魚
台列島がわが国の固有の領土であるという最も直接的かつ有力な証拠である。
 上述した通り、さまざまな歴史的文献に記載された事実はすべて釣魚台列島が明、清
の時代にはすでにわが国の領土であり、決して「無主地」などではなかったことを証明し
ている。よって、日本の主張する「先占」にはまったく根拠がないことになる。  

地理関係と地質構造

 釣魚台列島は基隆の北東に位置し、基隆からわずか120海里の距離にある。これに
対し、沖縄の那覇からは230海里も離れ、しかも水深2000メートルにも達する沖縄海
溝によって隔てられている。地質的に言うと、釣魚台列島は東海大陸棚の縁にあり、新
生代第三紀岩層による火山島である。台湾北部の大屯山や観音山脈の地層が海底に
張り出した部分にあたり、地質的には台湾の北東にある三つの小島(綿花嶼、花瓶嶼、
彭佳嶼)と同じものである。釣魚台付近の水深は200メートルにも満たないが、東にある
南西諸島とは沖縄海溝によって隔てられている。沖縄海溝は最も深い所で水深2717メ
ートルにも達し、海水は黒く海は激しく荒れ、歴史的文献には「黒水溝」と記されており、
その地質的構造は「海洋地殻(oceanic crust)」に近く、東海大陸棚の「大陸地殻
(continental crust)」とは明らかに異なっている。 

使用実績

 釣魚台列島は基隆に近く、その海域は黒潮北流の影響を受け、台湾の漁民が漁をす
るのに有利である。釣魚台列島は100年来、一貫して台湾北東部の漁民の伝統的漁場
であり、漁民は風を避けたり漁船や漁具を補修したりするため、長期にわたり同列島を
使用してきた。また台湾の薬師(漢方の薬剤師)が同列島で薬草を採取した例や、付近
で沈没船を引き上げる際に立ち寄った例もある。また40年代には、中華民国軍が舟山
群島から撤退する時に同列島に駐屯したこともあった。 

法的根拠

  1.釣魚台列島は「無主地」ではなく、日本は「先占」を主張できない。

 上述の歴史的事実が証明するように、釣魚台は明代にはすでにわが国の官民によっ
て発見、命名、使用され、また海上防衛区域にも組み込まれており、決して「無主地」で
はなかった。よって、日本が国際法上の「先占」に基づいて主権を主張することは、もとよ
り不可能である。1895年以前の300年以上、釣魚台列島は台湾に付属する島嶼であ
り、決して琉球の一部ではなかった。日本が釣魚台列島の主権を得たのは、日清戦争に
おいて清軍を破った後、その戦勝に乗じて同列島を占拠し、沖縄県に編入してからであ
る。このため釣魚台列島は、日清戦争によって日本に割譲された台湾と同列に論じなけ
ればならない。

2.釣魚台列島は台湾とともにわが国に返還された

 1943年11月、「カイロ宣言」は「日本が占拠した中国のあらゆる領土、たとえば東北
四省、台湾、澎湖群島などは中華民国に返還すべきである。このほかの日本が武力によ
って得た土地からも日本を退去させる」と定めた。
 1945年7月、連合国側は「ポツダム宣言」において「カイロ宣言の条件は必ず実行さ
れる。また日本の主権範囲は本州、北海道、九州、四国およびわれわれが決定するそ
のほかの小島に限定する」と規定した。同年9月2日、日本は降伏する際の「降伏文書」
においてポツダム宣言の受諾をはっきり宣言し、1952年、台北において結ばれた「中
日講和条約」第2条においても、日本は台湾および澎湖の主権を放棄した。このことか
ら、ポツダム宣言は日本に対し国際法上の拘束力を有している。
 釣魚台列島は、日本が日清戦争後に台湾とともに占領した中国の領土であり、カイロ
宣言、ポツダム宣言、日本の降伏文書および中日講和条約に基づき、当然わが国に返
還されるべきものである。  


______日本の釣魚台列島占拠がわが国に与えうる影響

釣魚台列島近海の大陸棚には大量の石油資源が存在すると見られている。日本は釣魚
台列島を日本の領土であるとし、ここを基点としてわが国の領海との境界を定めようとし
ており、東海大陸棚とその中の石油資源については、中間線によって当分に分けるよう
主張している。 
戦略的価値について見ると、釣魚台列島を掌握すればわが国の領海を広げることがで
き、台湾の海上防衛線が拡張され、国防上大きなプラスとなる。戦略的意義については、
釣魚台列島は国際航路に近く、西太平洋諸島につながり、南西諸島と台湾を結ぶ重要
地点にあり、また日本および沖縄よりも、台湾および中国大陸に近いため、ここを掌握す
ることは、わが国の海洋権および太平洋への進出にも大きな影響を与える。よって、国
防全体を視野に入れた防衛的価値から見ても、海洋権発展の戦略的意義から見ても、
欠くことのできない非常に重要な地域である。 

釣魚台列島近海で漁をおこなうわが国の漁民は、基隆、宜蘭、台北県各地の小規模な
漁船から、大型巻編み漁船およびトロール漁船までを含み、その数は非常に多い。もし
これら漁民の同海域における権益が侵害されれば、わが国の近海漁業および全国の漁
民の生活は深刻な影響を受け、毎年の損失は漁獲量で54000トン以上、漁獲高で15
億1400万元(約60億6000万円)に及ぶとみられる。 
 


______釣魚台列島の主権問題に対するわが国の処理の原則

中華民国は国連憲章および国際法の規定する紛争の平和的解決の方式および1982
年の国連海洋法条約第74条の200海里排他的経済水域に関する「臨時措置」の規定
に則り、釣魚台列島における主権を確保するという前提のもと、この問題の解決のため
に日本側と交渉をおこなってきた。しかしこの交渉は、1970年から現在まで27年以上
もの間結論を得ず、おそらく短期内に解決することは困難であり、長期的な準備が必要
である。わが政府は、国家にとって最大の利益を勝ち取るために、1996年9月12日、
日本側との交渉における四原則を公布した。その四原則とは、 
@主権の堅持、
A平和的処理、
B漁民の権益の優先、
C北京との協力はしない、
の四点である。 
民間の釣魚台保護の行動に対しては、合法的かつ理性的であるものに対しては、政府
は基本的にこれを認め、過激な行動に対しては制止するものである。釣魚台列島の主権
の争いは、「持久戦」であると同時に、政府と国民が十分に協力してこそ、勝利を勝ち取
ることができるのである。 
 



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