尖閣諸島の領有権問題


我が子に伝える誇りある近代史 

  2)   南方の領土問題   尖閣諸島
http://wwwi.netwave.or.jp/~mot-take/jhistd/jhist4_4_2.htm
 

(1)尖閣諸島

 尖閣諸島は、第1図のようにわが国の領土である南西諸島西端に位置する魚釣島、北
小島、南小島、久場島(黄尾嶼)、大正島(赤尾嶼)の沖の北岩、飛瀬などからなる島々
の総称で、尖閣諸島の総面積は約6.3平方キロメートルで、富士の山中湖を少し小さく
したくらいの面積で、そのうち、一番大きい島は魚釣島で約3.6平方キロメトールある。

 この尖閣諸島は、昔カツオブシ工場などがあり、日本人がある時期住みついたこともあ
るが、現在は無人島となっている。ところが、昭和43年(1968年)秋、日本、中華民国、
韓国の海洋専門家が中心となり、エカフェ(国連アジア極東経済委員会)の協力を得て、
東シナ海一帯にわたって海底の学術調査を行った結果、東シナ海の大陸棚には、石油
資源が埋蔵されている可能性があることが指摘されると、これが契機になって、尖閣諸
島がにわかに関係諸国の注目を集めることになり、さらに、その後、中国側が尖閣諸島
の領有権を突然主張しはじめ、新たな関心を呼ぶこととなった。

 昭和45年(1970年)後半になって、台湾の新聞等は、尖閣諸島が自国の領土である
旨主張し始めるとともに中華民国政府要人も中華民国の議会等で同様の発言をしてい
る旨報道されたが、中華民国政府が公式に尖閣諸島に対する領有権を主張したのは昭
和46年(1971年)4月が最初であり、他方、中華人民共和国も同年12月以降尖閣諸
島は中国の領土であると公式に主張しはじめた。

 このように、尖閣諸島の領有権問題は、東シナ海大陸棚の海底資源問題と関連して急
に注目をあびた問題であり、それ以前は、中国を含めてどの国も尖閣諸島がわが国の領
土あることに異議をとなえたことはなかったのである。

 尖閣諸島は先占という国際法上の合法的な行為によって平和裡にわが国の領土に編
入されたものであって、日清戦争の結果、明治28年5月に発効した下関条約の第2条
で、わが国が清国から割譲を受けた台湾(条約上は「台湾全島及其の附属諸島嶼」とな
っています。)の中に含まれるものではない。

 また第2次大戦中、1943年(昭和18年)には、英・米・華の3主要連合国は、カイロ宣
言を発表し、その中でこれら3大同盟国の目的は、「満州、台湾及澎湖諸島ノ如キ本国
ガ中国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民国ニ返還」することにあるという方針を明ら
かにしていましたが、わが国も、1945年(昭和20年)8月15日ポツダム宣言を受諾し、
9月2日降伏文書に署名したことにより、これを方針として承認するところとなった。 カイ
ロ宣言において示された主要連合国のこのような方針は、やがてわが国と連合国との間
の平和条約の締結に当たり、実際の領土処理となってあらわれ、戦前のわが国の領土
のうち、戦後も引き続きわが国の領土として残されるものと、もはやわが国の領土でなく
なるものとが、法的に明らかにされた。

 即ち、サン・フランシスコ平和条約においては、カイロ宣言の方針に従ってわが国の領
土から最終的に切り離されることとなった台湾等の地域(第2条)と、南西諸島のように
当面米国の施政権下には置かれるが引き続きわが国の領土として認められる地域(第
3条)とが明確に区別された。

 また、サン・フランシスコ平和条約に基づく右のような領土処理は1952年8月に発効し
た日華平和条約第2条においても承認され、なお、尖閣諸島が第2次大戦後も引き続き
わが国の領土としてとどまることになったことに対しては、後で詳しく述べる通り、中国側
も従来なんら異議をとなえなかった。

 このように尖閣諸島を含む南西諸島は講和後も引き続きわが国の領土として認めら
れ、サン・フランシスコ平和条約第3条に基づき20年間にわたり米国の施政の下に置か
れてきましたが、昭和46年6月17日に署名されたいわゆる沖縄返還協定により、昭和
47年5月15日をもってこれらの地域の施政権がわが国に返還された。(同協定によっ
て施政権が返還された地域は、その合意された議事録において緯度、経度で示されてい
て、尖閣諸島がこれに含まれていることは明白である。)

 以上の事実は、わが国の領土としての尖閣諸島の地位をきわめて明瞭に物語っている
といえる。

(2)中国の対応

 中国側が尖閣諸島を自国の領土と考えていなかったことは、サン・フランシスコ平和条
約第3条に基づいて米国の施政の下に置かれた地域に同諸島が含まれている事実(昭
和28年12月25日の米国民政府布告第27号により緯度、経度で示されている。)に対
して、従来なんら異議をとなえなかったことからも明らかである。のみならず、先に述べま
したように、中国側は、東シナ海大陸棚の石油資源の存在が注目されるようになった昭
和45年(1970年)以後初めて、同諸島の領有権を問題にしはじめたにすぎないのであ
る。

 げんに、台湾の国防研究院と中国地学研究所が出版した「世界地図集第1冊東亜諸
国」(1965年10月初版)、および中華民国の国定教科書「国民中学地理科教科書第4
冊」(1970年1月初版)(第2図)においては、尖閣諸島は「尖閣群島」というわが国の領
土であることを前提とする呼称の下に明らかにわが国の領土として扱われている。

 (これら地図集および教科書は、昨年に入ってから中華民国政府により回収され、尖閣
諸島を中華民国の領土とし、「釣魚台列嶼」という中国語の島嶼名を冠した改訂版(第3
図)が出版されている。)


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中国の事前通報による東シナ海海洋調査活動