尖閣諸島の領有権問題

黄尾島



記事名: 黄尾島
著 者: 宮嶋幹之助
雑誌名: 地學雑誌
巻 数: 第十二輯−第百四十三巻
頁 数: 647頁13行〜538頁21行
發行年: 明治三十三年十一月
發行元: 東京地學協會




  黄尾島

  理學士 宮島幹之助
      目次
       緒言
      第一章 探?沿革
      第二章 地理及地質
      第三章 氣象
      第四章 植物
      第五章 動物
       結尾





      緒言
本邦の海圖を播けば、沖縄群島の北方、洋中に、一列の小群嶼あり相連りて一の弧形
を呈するを見る。曩に黒岩氏尖閣到島の名を以て、本誌に於て世に紹介せられたるもの
乃ち是なり。各嶼は是れ蒼海の小粒にして、中やや大にして人の居住し得可きものは、
魚釣(和平山)黄尾の二島とす。此二島は從來無人の島にして、現時沖縄縣廳の管轄の
下にあり。沖縄縣下那覇區住古賀辰四郎氏夙に、これ等無人島の絶海中に棄てられ、
世人の顧るものなく、自然の賓庫空しく?され、天産の利世にあらはれさるを患ひ、公に
乞ふて借區し、専ら其拓殖に力めらる。本年五月同氏其借區地たる無人島へ向け、特に
大坂商(船)會社?船・永康丸を派遣せり。予は同氏の委囑により同島を探?視察する事と
なり、黒岩恒氏と共にし、五月三日を以て那覇港を出發せり。途、石垣(石垣島)
648頁




649頁
船浮(西表島)兩處に寄港し、五月十日の朝黄尾島に着したり。黒岩氏は地質並に植物
調査の目的を以て、各島嶼に渡航せられ、予は専ら水禽類棲息の?を視察せんが爲め、
黄尾島に留りたり。?船航海の都合により、滞島僅かに七日、五月十八日の夕陽と共に
同島と袂別し、二十日那覇に歸港せり。尖閣列島中魚釣島並に尖閣諸嶼の記事は、黒
岩氏已に本誌第百二十二巻及び第百二十三巻とに掲けらる。予も亦今回探?の慨略を
去九月十一日の東京地學協會例會に於て述へ、其筆記は載せて本誌前號にあり。然れ
とも未た盡さヾる處あるを以て、重複を省みず、茲に黄尾島に就て記することとなりせり。
讀者これを諒せよ。 


    第一章 探?沿革

黄尾島は魚釣島(和平山)と共に、琉球より清國福州に至るの道に當るを以て、夙に沖縄
人の間に知られたり。而して黒岩氏の報告中に見へし如く、魚釣島は「ヨコン」と稱せら
れ、黄尾島は「コバ」(久塲胡馬)島の名にて呼ばれたり。然るに近年に及び、彼我の呼稱
を轉し、黄尾島を「ヨコン」魚釣島を「コバ」島となすに至れり。其名稱轉換の理由詳ならざ
れとも、「コバ」島なる名稱は、黄尾島に蒲葵(ビロー、沖縄人は之を「コバ」と云ふ)多きに
よりしものなる可ければ、舊稱をとりて魚釣嶋を「ヨコン」黄尾島を「コバ」嶋となし置く方
至當なる可し。而して海圖上に記されあるChiausu は乃ち此黄尾嶼なり。
前記の如く黄尾島の世に如られしは早かりしも、未た正確なる踏査報告あるを知らす。
縄縣人・美里間切詰山方筆者大城永保なる者、廢藩置縣前清國渡航の際に目
撃せし實況を記し、明治
649頁



650頁
十八年九月に縣廳に差出したる書面中に日く
 久塲島は久米赤島より末の方凡百里を隔て、八重山島の内石垣島に接近し、大凡六
十里餘に
 位す、長さ三十一二町、巾十七八丁ある可く、山岳、植物、地形、沿岸共に、粂赤島に
同し。唯鳥糞を見
 ざるのみ。而して之に接近せしは南方凡二里とす。
と、明治十八年沖縄縣廳より無人島探?の爲め同縣雇汽船出雲丸を派遣せしことあ
り。沖縄
縣屬石澤兵吾の復命書に曰く(明治十八年十一月四日)
 十月廿九日午后二時魚釣島を謝し、久塲島に向て進航、暫くして其沿岸に接す。本島
は魚釣島
 の東北十六海里を隔てあり。先つ上陸踏査せんと欲すれとも、惜らく月は西山に落ちん
とし、
 時恰も東北の風を起し、倍すゝゝ強大ならんとす。素より港灣はなし、風は避くる事能は
ず、
 随て端艇を下すことを得ず、乍遺憾傍觀に止む。依て先つ其形?を言はんに、山は魚釣
島より
 卑けれとも、同しく巨巌大石より成立たる島にして、禽類・樹木も異なることなしと認め
られた
 り、然れとも少く小なるを以て、周圍恐らく二里に滿たざる可し。云々
同派遣船、日本郵船會社、汽船出雲丸船長・林鶴松の回航報告書中黄尾島の記
事あり。曰く
 久塲島は魚釣島の北東十六海里にあり、海中に屹立し、沿岸皆六十尺に内外し、其絶
頂は六百
 尺なり。島も魚釣島に同しく更に便船を寄すべき地なし。 右二個の島嶼は共に皆石灰
石より
 なり、暖地普通樹草の石間に茂生するも、嘗て有用の材渠なし、云々
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と、皆何れも踏査實視せるにあらず
「南島探?」(笹森儀助著)中に、明治廿六年二月廿四日鹿児島縣人永井某、松村某に雇
はれたる花本某外三名の琉球人、無人島(胡馬島)に赴きしも食糧盡き、糸滿村漁夫の
來るに遭ひ、扶けられて那覇に歸り、那覇區役所に届出てたる由を載す。然れとも花本
等の陳述より察すれば、茲に云ふ胡馬島は黄尾島の事にあらずして、魚釣島のことな
り、 
又同書には廿六年九月頃、熊本縣人・野田正なるもの魚釣、久塲島へ向け傳馬船にて
出帆せる由記しあれとも、風浪の爲め目的地に至らずして歸來し、無人島探?の實なかり
しと聞けり。現今黄尾島に移住し居る、熊本縣人・伊澤矢喜太の供述に依れば、同人は
去明治二十四年より魚釣島並びに久塲島に琉球漁夫を引つれ渡航し、海産物と島上の
信天翁とを採集せり、當時にありて航海は、單に刮舟又は傳馬船によりしに過ぎず、而し
て島には永く留ることなくして、石垣港に歸來せり、次て明治廿六年再び同島に渡航し、
歸路颶風に遭ひ清國福州に漂着し、辛くも九死の中に一命を助かりしと云ふ。 
其後明治廿九年に至り古賀辰四郎氏前記伊澤を雇入れ、付するに糸滿村漁夫十數名
を以てし同島に派遣し、尚沖縄縣廳に開拓の目的を以て無人島借區の儀を出願せり。然
れとも、當時尖閣列島の所屬未た明らかならざりしを以て、許可を得ず。引て三十年に及
び甫めて公許を得て、茲に同島に事業を創むるに至れり。翌三十一年には、大阪商船會
社?船・須磨丸を特に黄尾嶼へ寄航せ
651頁




652頁
しめ、移住勞働者廿八名を送れり。同氏の甥・尾瀧延太郎氏又渡島し、専ら該島の計畫
に力めたり。尖閣列島のやや精細なる地圖あるは、氏の力多に居る。更に卅二年には、
大坂商船會社?船・安平丸を以て勞働者二十九名を派遣し前任者と交代せしめ、本年に
至りては特に前記の雇?船・康永丸により、男子十三名と女子九名とを派遣す。目下該
島に居住する者總計三十三人ありて、今や此渺たる黄尾島上に古賀村なる一村を形造
くるに至れり。是れ實に聖代の一餘澤と言ふ可し。
  (以下嗣出)
652頁6行














黄尾島波止場(1)




黄尾島波止塲
宮島幹之助撮影
小川製

宮島幹之助撮影
黄尾嶼
地学雑誌・第12輯143巻645頁
明治33年11月








黄尾島波止場(2)






黄尾島波止場(3)






















黄尾嶋西南側古賀村の人家(1)



「黄尾嶋西南側古賀村ノ人家」
宮島幹之助撮影
黄尾嶼
地学雑誌・第12輯143巻645頁
明治33年11月




黄尾嶋西南側古賀村の人家(2)






黄尾嶋西南側古賀村の人家(3)




















黄尾島波止場上涯下01



黄尾島波止塲上涯下
小屋ノ側ニ白ク見ユルハ日章旗ノ風ニ翻レルナリ
(小屋の側に白く見ゆるは日章旗の風に翻れるなり)
日章旗は風にはためいてぼけてしまっている。
当時のカメラではそれすら写せるシャッタースピードをとれなかったのだろう。
時代を感じさせる写真である。


「黄尾嶋西南側古賀村ノ人家」
宮島幹之助撮影
黄尾嶼
地学雑誌・第12輯143巻645頁
明治33年11月











黄尾島波止場上涯下02






黄尾島波止場上涯下03


























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黄尾島(承前)1