尖閣諸島の領有権問題     「参考資料(1) 論文・書籍16」



尖閣諸島の史的経過と現状

沖縄テレビ報道部
 照屋  健吉


 1尖閣諸島の歴史的経緯

 尖閣諸島とは
 まず、尖閣諸島の場所と位置を確認しておこう。
尖閣諸島は、沖縄縣の先島諸島とよばれる宮古諸島、八重山諸島の北側に位置してい
る。
地図で見るように、沖縄本島と中国の間の東シナ海は、三八〇カイリしかない。その真ん
中には日中中間線という観念上の線が引かれている。この中間線の東側が日本が主張
している排他的経済水域である。しかし、その中間線の東(日本側)には、一〇〇〇bか
ら二〇〇〇bの沖縄トラフとよばれる深い海があり、中国は、そこまでの大陸棚の領有
権を主張している。東シナ海の境界をめぐって日本と中国では見解が異なっている。
 そうしたなかにあって、尖閣諸島は、石垣島から一七〇`b、台湾の基隆から一九〇
`b離れた海域に、魚釣島、久場島=黄尾嶼、南小島、北小島、大正島=赤尾嶼と呼
ばれる五つの島と、三つの岩礁から成っている。
 そもそも、ここは、日本人の古賀辰四郎という人が開発したことによって知られ、現在で
は、埼玉県にお住まいのK氏一俗が所有(国有地の大正島を除く)しているのである。
 そして、そのうちの久場島とアメリカ軍に施設として提供しており、名目上は、射爆場と
いうことになっているが、実際は使われていないというのが実情である。

 尖閣問題を解くキーワード
 尖閣諸島問題に入る前に、私はキーワードを挙げてみたいと思う。それは、「AAO」で
ある。
「A」はアホウドリ、つまり、アルバトロスのAである。これが、実の「A」尖閣諸島を開発す
る端緒となったのである。次の「A」は、アメリカで、アメリカの沖縄当時時代における、不
用意な対応が、今日の尖閣問題の要因を作ったといえる。
 最後の「O」は、申すまでもなく、オイルの「O」である。根本的には、この地域にオイル
(海底油田)があるといわれたことが、今日の問題に至っているといえる。

 尖閣開発の端緒、アホウドリ
アホウドリ=アルバトロスについては、まず、土佐の漁師、ジョン万次郎の話しから始め
たい。
 江戸時代末期に、土佐の漁師、中浜村の万次郎らが、出漁中に舵が壊れて標流し、伊
豆諸島の鳥島に漂着した。彼等はそこで海鳥を食べながら、数か月過ごして、アメリカの
捕鯨船のホイットフィ-ルド船長に助けられるのである。彼は仲間と別れてアメリカ本土に
行き、高等教育を受け、維新直前の日本の沖縄(琉球)経由で帰国した。見出されて勝
海舟も威臨丸の道案内と通訳を務め、際し有的に開成学校(東大)教授に出世する話は
有名である。帰国した万次郎が、一八六一年に小笠原に調査に行ったときに八丈島の
人で、玉置半右衛門という人と出会うのである。万次郎はかつて漂着した鳥島にアホウド
リが大量に生息し、其の羽毛が西洋で価値が高いことを教えたという。
 玉置はこの話をもとに後年、鳥島の開発を始め、捕獲したアホウドリの羽毛で巨万の富
を築くのである。一八八八(明治二一)年ころから一五年ほどに渡って、鳥島のアホウドリ
の羽毛を採取し、全国の長者番付にのるぐらいにお金を儲けたという。鳥島の事業は後
に火山の爆發で壊滅する。
 この成功物語を、尖閣諸島の開拓者となった福岡出身の古賀辰四郎が聞き込んだよう
だ。進取の気性にとんだ古賀辰四郎は、明治一二年の琉球半を廃して沖縄県となる廃
藩置県を機に名覇に来て、古賀商会を設立した。いうまでもなく廃藩置県は一八七一(明
治四)年であるが、琉球国を名乗っていた沖縄が県になるのは八年遅れであった。
 彼は当初、ヤコウガイとかタカセガイ、ヒロセガイなどの貝を収集して、神戸の外国商館
に売っていた。そして、石垣島にも支店を設け、一八八四(明治一七)年になると、人を遣
って無人島の尖閣諸島の探検に乗り出した。そのときも、貝やサンゴなどがどうなってい
るのかが関心の中心であったが、結果として、そこにアホウドリが大量に生息していると
の報告を受けることになる。
 古賀は一八九四(明治二七)年、日清戦争がはじまった年に、開発許可の申請を沖縄
縣知事に出したが、この時は時期尚早として却下されている。翌年、古賀が自ら尖閣諸
島を探検しその結果を直接内務大臣と農商務大臣に報告し、ここを開拓させてほしいと
訴えることになる。結局、彼は一八九六(明治二九)年に国から三〇年間の無償貸与を
受け、その翌年、明治三〇年から、具体的な開拓に着手する。一見順風満帆なとうに見
えるが、彼の経歴をひもとくと実はおおくの競争者があったことが書いてある。したがっ
て、最も情報をもっていた古賀が、最終的には勝ち残り、政府から開発の許可を得る事
ができたということである。
 では、古賀は尖閣諸島で何をしたか。
 最初に行ったことは、やはり、無数にいたアホ-ドリの羽毛を操るのが中心であった。ち
なみに、後に、「尖閣諸島」という鳥の名称をつけることなる黒岩久という人が「琉球新
報」に書いたレポートによると、アホウトリが無数に住んでいるので、一人で一日に三〇
〇羽を捕るのは極めて容易であった。アホウドリは、体長がニ米を超えて行動が緩慢で、
坂を滑走しながら飛び立つため、棒を持っていってぽんぽんと頭をたたけば簡単に捕れ
たという。それがアホウドリの名の由来だといわれている。
「一人で一日に二一円五〇銭の実入りがあり驚くべき利潤である」というようなことを書い
ている。古賀は、尖閣諸島で、アホウドリノ羽毛を採取して、神戸の商館に売り、莫大な
利益を得た。最盛期の明治三二年には三〇万羽以上のアホウドリを捕獲し、四万二五
〇〇円の収入を得たとの記憶がある。古賀は後に尖閣消灯の久場島の農場開発に乗り
出し、開拓民を送るが、人が島にネコなどを持ち込んだおかげで、乱獲と相まってアホウ
ドリが次第に減少することになる。
 次に古賀が目をつけたのは近海に豊富に回遊するカツオやサンゴの採取だった。彼は
後に、藍綬ホ章を授与されたが、地元紙の「琉球新報」はそのときののレポートで、尖閣
諸島にについて、「ああこれ古賀氏の王国ならんか」という記事を出している。この尖閣
諸島の事業は息子の善次に引きすがれるが,次第に事業は振るわなくなり戦後は無人島
となっている。

 領土編入のいきさつ 
ここで領土編入の経緯について触れよう。
 一八八五(明治一八)年、無主の島々に国標を建てることについて内命を受けていた沖
縄縣令の西村捨三が、山県有朋に対し「尖閣諸島は、清国に所属の証左は少しも見え
ない」と言う報告書を提出した。県令の報告をもとに日本の領土にするかどうかという議
論が政府内でもち上がったが、井上外務卿は、「清国の感情を害する可能性があるので
やめよう」と主張し、このときはそれが通ってしまった。五年後の一八九〇年、沖縄縣知
事から内務大臣あてに、もう一度、今度は、「八重山郡に所属させたい」と言う上申書が
提出された。
 なぜそうしたかというと、そのころになると、羽毛の価値が高いとの情報があったとみ
え、尖閣諸島に無断で渡る人たちが増加した。これらの無謀な人々の取り締まりの必要
から、沖縄縣から八重山郡に帰属させたいということになった。
 「日本が帝国主義的侵略のもとに、この島を領有した」という説をなすものがあるが、そ
うではなくて、無人島であるため、むしろ漁民とか、あるいは、そこの天然資源を目標に、
民間人が島に入って、それを開拓したといy歴史的経過を日本政府が追認したということ
になる。
 沖縄縣知事からの再度の要請に対し、一八九五(明治二八)年、閣議決定で沖縄縣の
八重山郡への所属決定をみたわけである。閣議決定の前に、紆余曲折があったが、漁
業の取り締まりを要するということが理由であった。
ただ其の年は、日清戦争(清国側では甲午戦)の最中であり、ドサクサにまぎれて領土
偏入をしたとの批判を後に受ける事になる。
 日本に偏入した後で、古賀辰四郎に当初三〇年の期限での借地権を与え、後には有
償で払い下げることになる。古賀氏が事業を展開していた当時のエピソ-ドを一つ付け加
えておこう。
 一九一九(大正八)年、魚釣島に中国福建省の難破船が標着し、漁民三一人が救助さ
れた。其のとき彼等の救助にあたったことで、長崎の中華民国領事から、感謝状が贈ら
れている。其の感謝状に[日本帝国沖縄縣八重山郡尖閣列島内和洋島において]という
表現がある。これが、「中華民国が、日本の領有を認めた正式の文書である」というよう
に主張されることがあるので、このことには注目しておきたい。ちなみに和洋島とは尖閣
諸島のなかで最も面積の大きい魚釣島の別称である。
 尖閣諸島そのものは、昭和に入ると、古賀家の経済活動も次第に振るわなくなってき
て、昭和初期には、三人の管理人を置いて、月給一五円を払いながら、細々と経営して
いるという状態になった。
 一九三九(昭和一四)年には、農林省が、ここに鳥糞が大量存在することに目をつけ
て、肥料を採取するための調査団を派遣した。当時は、もうアホウドリ葉ほとんどいない
が、無数の海鳥がいたことがフィルム映像や報告書に記録されている。昭和一八年に、
ここに気象台を造ろうということで、海軍兵士に守られて中央気象台の調査が行われる。
当時のこの地域は台湾への飛行ルートであったが、非常に気象条件が悪い場所という
ことで、気象台開設が必用視されたようだ。最終的には建設は可能で補給のために「小
さな滑走路を造る必用がある」と言う報告書が出された。しかし、其の場合は、施設を守
るために大砲なども備え重武装をしなければならないということになり、このプランは中止
となった。昭和一八年といえば、この地域は、アメリカの潜水艦が跳梁する危険は場所で
あり、とても実現出来なかったろうと思われる。






  2 沖縄のアメリカ軍駐留と尖閣諸島

 駐留アメリカ軍の政策転換
 戦後は、沖縄の占領の結果、尖閣諸島はアメリカの統治下に入る。沖縄本島では日本
軍は壊滅していたが、宮古島や石垣島などの先島地区には、無傷の日本軍が一個師団
と三個旅団、それに海軍部隊が残っていた。これを先島集団郡というのであうが、その再
考司令官である納見敏郎中将が、一九四五年九月七日、現在のアメリカ嘉手納基地の
中で署名した幸福の文書により、沖縄は組織的な戦闘状態が終わる。その降伏の範囲
の中に、尖閣諸島が入っている。ちなみに、納見中将は宮古島の師団本部で後に自決し
ている。先島を含めて沖縄に展開した、第三二軍の守備範囲が、そっくりそのままアメリ
カ軍に渡されたのである。これはアメリカの沖縄支配の領域に尖閣諸島が入っていたこ
とを示している。このことに異論をはさむものはなく、八重山郡に所属する尖閣諸島は当
然のこととして、アメリカの支配地域になるのである。現地のアメリカ民生府の公文書や
地図にも常に尖閣諸島が登場している。
 アメリカ軍による尖閣政策に関しては、三つの時期に分けることができる。一つは、この
ように自明の、当たり前のこととして、この地域をアメリカ軍が受け取ったこと、人が住ん
でいる、いないに関係なく、行政区画としては入っており、アメリカのあらゆる関係文書に
も、八重山郡として尖閣諸島が入っている。公文書が、かなりの数残っているので、それ
自体は間違いない。
 二期目として、突然、アメリカ軍の尖閣諸当に対する政策が、非常に積極的になる時期
があり、それは近海に埋蔵されるとみられた石油との関連においてである。
 三期目としては、今度は、無関係を装いほとんど知らないふりをするという時期である。

自明のこととしていた時期
群島政府組織法とか、アメリカの布令、布告(アメリカ軍が公布する法令)は、その適用
の範囲を、緯度、経度で示しているが、それにはすべて、尖閣諸島が含まれている。
 アメリカ軍が作った他国の原本が琉球大学の地理学教室に残され、複写が沖縄縣立
図書館に保管されている。一九五一年に作られたもの、つまり、サンフランシスコ講和条
約以前のものだが、「尖閣群島、沖縄縣八重山郡」とか「沖縄県」という。日本と分離され
ていないもの前の表記になっている。国際法の建前から日本に所属する体裁をとったも
のと推測される。

 一九五五年三月、第三清徳丸と言う沖縄の漁船が、尖閣海域で中華民国の旗を掲げ
たジャンク(船)から銃撃を受けて、三人が志望すると言う事件が起った。
 その時、アメリカ民生府は、「最終的には、適当な外交機関を通じて、本件を取り上げ、
其の責任を明らかにし、行方不明の漁師の行方を追及し、犯人を罰し、今後かかる事件
が起らないよう、保障せしめるよう要請した」という文書による通告を琉球政府にたして
出している。是は後に沖那覇県がまとめた復帰前の行政文書の中に残っている。
 
 其の年には、アメリカは久場島=奇尾島嶼ヲ海空軍の射撃場2し、翌年には、大正島を
海軍の砲撃場に指定し結果として警備区域に入れることになる。
 ちなみに、久場島は国有地の大正島とちがい、古賀家のものだったので、借地量が支
払われることになった。初期の頃は五七〇〇jぐらいが払われて、最後にはCIAに対す
る報告などに見ると、一万一一〇四j払われている。レートが三六〇円当時であり、年
間約四〇〇円が支払われたことになる。

 アメリカが積極的に尖閣諸島政策を進める時期
 其の後次第に、この地域に石油があるようだ、ということが少しずつ知られるようになっ
たらしい。実際に、戦前、日本海軍が、この地域を非常に関心を持って調べていたという
資料もある。一九六六年になると、沖縄在住の大見者恒寿という人物が尖閣諸島の鉱
業権を流球政府に申請して、権利を取得している。
 一九六七年には突然、アメリカのガルフ、エッソ、カルテックスとい三社の石油会社とカ
イザー(セメント会社)が、沖縄精油所の建設申請をする。
 一九六八年になると、今度は、台湾人が、尖閣諸島の南小島で難破船を解体している
という情報が入った。これに対してアメリカ民政府の渉外局次長が警察官五人とともに現
地の調査を実施し、不法入域で台湾人に退去命令を出している。アメリカが積極的にイニ
シアチブをとってなされているわけである。そして、定期的にアメリカ軍が上空から偵察を
を行うこと、もう一つはここに警告標識を建てることになる。その警告文は、日本文、英
文、中国文で書かれたもので、無許可での入域を処罰との内容になっている。標識はアメ
リカが提案して、アメリカの費用で尖閣諸島の各島に設置された。
 この年には国連アジア極東経済会(ECAFE)がアメリカの探査船で海域の調査を行い、
石油、天然ガスの埋蔵を公表していた。おそらく背景には、石油が出るということが分っ
たので、メジヤーなどの後押しのもとに積極的な対応をとったものと推測される。

 アメリカが積極的になる時期
 メジャーの石油かいはつの同行を裏つける国務省の公文書が残されている。それによ
ると、一九六九六月六日、ガルフの探査責任者が、ロバート・バーネット東アジア担当次
長官補代理に対し、尖閣海域の鉱業権の交付を打診している。これに対して、国務省は
琉球や日本との摩擦のおそれがあること指摘して断っている。其のころになると沖縄返
還が日程に上っており、石油の可能性がある尖閣諸島海域の開発について、アメリカ側
が次第に消極的になり手を引くような動きがでてくる。これが無関心になる三期目であ
る。
 一九六九年一一月に佐藤・ニクソン会談があり、沖縄返還が三年以内ということで合
意をみるとともに、アメリカは少しずつこの地域に対する関心なくしていく。その原因の一
つは当時ベトナムで雲泥の戦争を展開していたアメリカとしては、「中国に、和平を仲介し
てもらいたい」という交渉を開始していた時期であった。一方の中国も六九年の、珍宝島
(ダマンスキー島)事件でソ連と銃火を交えるという状況が生じており、互いに、同盟とま
ではいかなけれども、お互いに手を握ったほうが得だというような状勢が出てきたのであ
る。そうすると、尖閣諸島を「日本のものだ」とアメリカが言い続けることは、アメリカにとっ
ては得にならない。アメリカはしだいに尖閣問題から離れるようになったのである。
 一九七一年九月、アメリカ国務省のマクロスキー報道官が尖閣問題は「関係当事者で
解決される事柄」と発言し、領土紛争に中立を表明した。沖縄に統治権をもっていたアメ
リカが、自国の国益を優先させるという冷厳な国際政治政策から、尖閣を犠牲にして省
みなかったと言わざるを得ない。ジャ−ナリストの舟橋洋一氏も「尖閣はアメリカの対中
接近の犠牲にされた」と断言している。









    3 中国、台湾、日本の主張

 中国の主張
 沖縄の日本復帰の日程が決るや、この石油埋蔵問題もあって、台湾、中国が相次い
で、尖閣諸島の領有を宣言するこtになる。
 一九七一年四月に台湾が、その年の一二月には中国が、おのおの領有権を主張し
た。
 まず、中国外交部声明は、尖閣諸島は「台湾の附属島嶼である」と主張する。明の時
代から清の時代にかけて、琉球が中国と朝貢貿易を行っていたときの古文書に、「赤尾
嶼癘大正島を経て琉球に至る」という表現とか「久米島から先が琉球なり」とか、そういう
古文書の記載を根拠に、中国は歴史的に尖閣を自己の領土と主張している。
 琉球王国に往復する明や清の使節は福州を窓口にしており、そのことを考えると、尖閣
諸島は福建省に所属すると主張することが自然のように見える。しかし、中国は台湾の
附属島嶼と主張している。なぜそういわざるを得なかったのか、それは、次の理由によ
る。
 中国は一九五八年に、それまで三カイリだった領海を、一二カイリにする宣言を出した。
その宣言で南沙諸島澎湖諸島、台湾などの記述はあるが、尖閣諸島について記述はな
い。あるのは台湾の附属島嶼という表現であり、主張に整合性をもたせるため、尖閣を
台湾の附属島嶼という形で主張せざるを得なくなったのであろうと思われる。
 中国は一九九二年の領海法で、釣魚台(尖閣諸島)を自国の領土と明記し、遅ればせ
ながら正式に組み入れることのなる。中国の主張の中には歴史的な経緯を無視したもの
も見られる。それは、一五六一年に明の提督、胡宗憲の著書倭寇に対する防衛ラインと
して尖閣(釣魚台)が入っているというものである。中国が尖閣は台湾の附属島嶼ト主張
していたことを想起して欲しい。
 台湾の歴史を見ると、オランダが明と争って台湾を手に入れたのは、一六ニ四年であ
る。それまでの台湾は中国人の入植は続いていたようであるが、瘴癘(しょうれい=風土
病)の地であるということで公的な機関は存在せず、いわゆる無主の地という状態にあっ
たようだ。台湾史の専門家、伊藤潔二松学舎大学教授はこの事実を「明王朝がかくも簡
単にオランダの台湾領有に同意したのは、もともと、この地を領土とみなしていなかった
からにはほかなあらないと」断じている。
 台湾が中国版図に組み入れられたのは、一六六ニ年に鄭成功がオランダの勢力を駆
逐して後のことである。したがって、中国が尖閣を台湾の附属島嶼で自国の領土と主張
できるのは、鄭成功以後であり、それよりも一世紀古い胡宗憲の時代は無理である。こ
のように中国は尖閣が本来福州に所属すると主張すれば歴史的な整合性が保たれる
が、そうすると一九五八年の領海法と矛盾する弱点を抱えている。

 台湾の主張
 次に、台湾はどうかというと、一九七一年四月に、台湾が外交部声明というのを出し
た。その中で、第一に、琉球を日本に返還すること自体に反対である。第二に、尖閣諸島
は、地理的に、地質構造、歴史的に台湾に所属すると主張した。その根拠は、やはり中
国と同様に福州から出た朝貢貿易、あるいは、冊封使船のルートなどを記述した。古文
書の記述をもとにしていたものである。
 しかし、最近になって、台湾は主張をかなり変えている。一つは、尖閣諸島の主権は、
台湾が持っているが、まず漁民の権益を優先して平和的に解決する事。北京とは妥協し
ない、というものである。これは台湾が、一九九七年に出した新しい尖閣に対する見解で
ある。
 
 日本の主張
 日本の外務省は一九七二(昭和四七)年「尖閣諸島について」と題する三六ページの
小冊子を発刊して、諸島に対する詳細な主張を展開している。このなかで、尖閣諸島の
問題はECAFE(国連アジア極東経済委員会)が石油埋蔵の可能性を指摘して急に発生
した問題で、元来領有権の問題は存在しないとの立場を維持している。政府は所属が未
確定の島々を明治二八年に閣議決定し「先占による行為」で領土編入したものである。
其以来、古賀家の経済活動、戦後のアメリカによる沖縄と一体の領土管轄権の継承など
が平穏に行われてきたというものである。また、中国の地図や台湾の教科書が日本領と
して扱っている事実を指摘している。

 其の他の有力な主張
 台湾の有力者(林金茎元駐日代表)あ主張する領有の根拠の一つに、清朝廷の西太
后が、一八九三年に詔を發して「尖閣諸島から扶桑という薬効顕著な薬草を採取した盛
宣懐と言う人物に感謝して尖閣諸島を与えた」文書が存在するというものである。それは
日本がこの地域を日本領にする閣議決定の二年前のことであり、「清朝の領有意志の
表明が先だ」というものである。この西太后の文書なるものは、尖閣諸島の領有権問題
で中国、台湾サイドの人が好んで主張するが、こともあろうに中国の権威ある研究者が
偽物であると断定している。呉天頴の「甲午戦前釣魚列嶼帰属考」はその分書の形式な
どから、偽物であると断定している。
 この本は北京の外交出版社が出版し、愛知学院大学の水野明教授が監訳しているも
ので、一九九六年一二月の北京市第四回哲学社会科学優秀成果一等賞を受与された
権威ある研究書である。偽の文書である理由として呉は、詔諭の材質、文体、玉爾、作
文の慣例など慎重に比較し、清朝の公文書とは異なっていると断定している。


    4最近の島をめぐる動き
 
 尖閣をめぐる紛争
沖縄の日本復帰後の尖閣は、一九七七年に、北小島と南小島が古賀善次氏から埼玉
県のK氏一族に売却された。したがって現在は、このK氏一族が尖閣諸島の、五つの島
のうち、国有地の大正島=赤尾嶼を除く四つの島を所有している。
 ところが、一九七八年に事件が起こった(第一次尖閣事件)。中国の漁船がここに大結
集して、警備の海上保安庁の巡視船に機関銃で威嚇したのである。日中平和有効条約
に反対する人々がやったとか、いろいろ説はあるが、この事件の真相はいまだ解明され
ていない。この一九七八年の日中平和友好条約には、右翼の日本青年社が反発して魚
釣島に東大を建てるという事件に惹起し、又これに台湾が反撥し、一二年後の一九九〇
年に聖火リレーに名を借りて領海を侵犯する事件が発生する反作用を呼んだ(第二次尖
閣事件)。
 其の後、一九九六年七月に、日本は東シナ海に排他的経済水域を宣言し、また日本青
年社が、魚釣島についで北小島に新しく燈台を建てることになる。それに対して香港、台
湾などの人たちが抗議行動を繰り返し、最終的には一人が亡くなり、一人が大けがが、
あるいは、一部の人たちが魚釣島に上陸して、旗を振り回すなどの事件に発展した(第
三次尖閣事件)。

 尖閣問題発生の原因
尖閣問題がなぜ発生するかというと、やはり、この地域が国境のいちばん端にあるという
ことが一つ、つまり国際的にお互いに主張し合える場所、理由が立ちそうな場所にあると
いうことが、最大原因である。また、尖閣諸島が中国の大陸棚上に位置することも見逃
せない。
 中国の古文書には尖閣諸島、つまり赤尾嶼、黄尾嶼、釣魚台という形で出てくるけれど
も、中国人がこの島に上陸して、足を踏み入れたという記録hは、一回も出てこない。この
あたりが中国にとって、非常に弱点になろうかと思われる。西大后の文書も偽物と断定さ
れてpり、中国人は遭難や不法上陸以外は公的には一か一回も上陸したことはない土
地であるということになるからである。
 こうして、最初に述べたとおり、この地域が開発されるに至った初期の動機は無数に生
息し、羽毛が経済価値を有したアホウドリである。この問題を今日の国際紛争にすること
を防げなかったのは地域の支配権を握っていたアメリカの不誠実である。そして根本原
因は、海域に埋蔵されるとみられる石油=オイルであるというように、結論づけることがで
きるのではなかろうか。

 日本政府の対応
 アメリカの対応のまずさを指摘したが、日本政府にも大いに責任があるといえる。
 かって国会議員が、あの島に上陸したとき、橋本竜太郎首相は「その氏、島の所有者に
断りもなしに上陸するのは、いかがなものか」といった。中国の批判に配慮したものが、
日本の島に日本人が上陸して、中国がどんなに批判しようと、そのようなことはまったく
受け付ける必要がないのではないか。国を代表する総理大臣や日本政府の腰がひけて
いるというところに問題がある。それから海底資源の調査にしても、日本が主張している
中間線の中で、日本の調査申請を、日本政府は許可していない。一方で、その地域で中
国船は調査をしている。ちなみに、いま、尖閣諸島に上陸しようと思ったら、どういう手続
が必要かというと、一つは所有者のK氏許可を得る。そのうえで、文書で海上保安庁に許
可を申請する。海上保安庁は、まず内閣の了解が要る、国土交通省にも一言断る必要
があるといい、非常に面倒な手続が必要である。
 また、船で行く場合、船舶安全法により、二〇カイリを超えて行くには外洋を航行できる
装備の船が必要で、費用の面から困難である。漁船で行けば業務外を理由に船長が取
調べを受けることになる。へリコプターで行こうと思えば、可能ではあるが、地主の許可
は勿論、どこに着陸するか、などと事前に面倒な手続が必要である。
 現在、保安庁は、尖閣諸島でどういうことをしているかといえば、当時、ここに巡視船を
派遣して、領海侵犯などに備えている。日本のプレゼンスはあるおいってよいだろう。ま
た、日本人漁民が、この地域で操業している。日本青年社が建てた二つの燈台のうち、
北小島の新しいほうは台風で倒れたが、魚釣島のほうは稼動しているようだ。
 そのほか、魚釣島の大きな岩に、日の丸のレリーフがあり、これは、どこからでも確認
できる。魚釣島には古賀氏が住居の風除けとして作った立派な石垣が存在していて、過
去にここで経済活動が行われていた事を雄弁に示している。ただ、石垣が崩れつつある
との情報もあり、何らかの保護措置がなされてもいいのではないだろうか。
 
 国境確定の歴史
歴史をひもとくと、台湾、或いは中国にとって、非常に有利な状況というなが過去に二回
あった。
最初は一八七九(明治一二)年に琉球藩を廃して沖縄県をつくつたが、そのとき、所謂既
得権益だる琉球の一部の士族たちが、反撥した。そして北京に駆け込み、琉球の独立を
清国政府も主張してほしいような申し出をした。その結果、明治政府も、中国からかなり
きつい抗議を受け、何らかの妥協が必要であるということで、先島地域、つまり宮古、石
垣の地域を領土とまではいかないというけれども、清国の管轄下、勢力権の中に含め
て、沖縄本島から北を日本に、というような妥協案を出してことがある。これを分島改約
案という。この日清の外交交渉は、大統領職を引退してアジアを旅行していたアメリカの
グランド卿の調停などもあった。日本は交易上の最恵国待遇を条件に先島地域の主権
の放棄を決断していた。この妥協案は最終的には、外交当局だけの話合いで終わった
が、このときもし、清国がオーケーと言えば、先島地域は尖閣諸島を含むわけだから、今
日の尖閣問題は起こらなかった可能性が高い。
次に、一九四三年のカイロ会談で、アメリカのルーズべルトと蒋介石が会談したときであ
る。蒋介石は、戦後回復すべき領土として、満州と台湾と琉球を挙げていた。それに配慮
して、ルーズべルトが、蒋介石に。琉球を欲するのかと念を入れたのに対し、蒋介石は明
確な返答をしなかった。もしそのとき「イエス」と一言いえば、沖縄は台湾の附属地となり
現在の尖閣諸島問題は、おそらくなかったに違いない。中国あるいは台湾は歴史的に二
回のチャンスをみすみす逃がしたことになる。
最後に台湾の李登輝前総統の言葉を引用する。「主権を主張するには占領し有効に統
治しなければならない。だから、尖閣列島は中国のものであるということはおかしい話な
のです」(二〇〇〇年一〇月号の中央公論に掲載)。
付記
 李登輝前総統は、尖閣領有権の問題について、最近になってさらに踏み込んで發言し
ているので引用する。
「尖閣諸島の領土は沖縄に所属しており、結局日本の領土でる。中国がいくら領土権を
主張しても証拠がない。国際法にみて何に依拠するのかが明確でない。国際法的な根
拠『中国の領土権』があって、第二に『兵隊が駐屯した事実』がないと領土権をうんぬん
する資格がない」(沖縄タイムス二〇〇ニ年九月ニ四日掲載)。
 李発言は、軍隊の駐留を領土権主張の根拠の要素に挙げており、日中あるいは、日台
関係の変化によっては出兵の危険性を孕んでいるともいえる。杞憂でることを願うだけ
だ。
  ■用語説明 
※4【李登輝】 台湾人。前総統。一九二三年台北生まれ。京都大学入学。農業経済学
が専門で、コーネル大学博士。八八年一月、本省人(台湾うまれの人)として初の総統に
就任。日本語に堪能。



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中国のシーパワーに包囲される日本