調査。
(1) 関係する人物の名が多く付けられています。 奈良原岳:当時の奈良原繁沖縄県知事の氏名から。 安藤岬:沖縄師範学校安藤喜一郎校長の氏名から。 道安渓:八重山島司野村道安の氏名から。 尾瀧渓:妹婿の小滝延太郎氏から来ると思われる。 佐藤水道:永康丸の佐藤和一郎船長の氏名から。 (佐藤水道は北小島と釣魚嶼とのあいだの西よりの水道です) 永康礁:古賀辰四郎氏が尖閣諸島調査のために用いた大阪商船会社汽船永康丸の 船名。 (2) 次の二つは沖縄独特の呼び方 東岬:アガリサキ 西岬:イリサキ 古賀辰四郎の妹婿である尾滝延太郎氏が製作した図では東崎・西崎となっているが、こ こは黒岩氏による東岬・西岬をもってその名称としています。 この時代まだ釣魚嶼とか釣魚臺という名前を使用していますし、久場島は黄尾嶼(こうび しょ)、大正島は赤尾嶼(せきびしょ)という名称があり、これらは最近まで現に使用されて いました。ですが、それをもって魚釣島が中国の領土であったと証だするのは早とちりで す。土地がどの国の領土であるかを決定するのは国際法であり、国際法では18世紀末 には発見のみによる領有権の主張は不十分であるとされているのです。住民が居住し その国の経済圏に組み入れられ安定的に長期間経営されていいたら経営している国の 領土である国際司法裁判所が認めているのです。明治以前の琉球国の公文書は漢語で す。釣魚嶼や黄尾嶼、赤尾嶼という名前は単に琉球が薩摩の支配下にありつつも、薩摩 が清国に朝貢の関係を続けさせた時代の名残りなのです。開拓当時魚釣島には和平山 を含め名称は色々ありますが呼び名はいずれもユクン島で沖縄の呼び名です。尖閣諸 島全体の名称はユクンクバシマです。 1609年、島津(薩摩)は総勢3000余名を派兵し琉球を占領。以降、薩摩藩は新年には自 国への特使派遣を琉球に命じ、将軍が代わった際には「慶賀使」を派遣し、琉球国王が 代わった時には「謝恩使」を江戸へ派遣することを義務づけます。従って琉球国は実質 上日本に属していたのです。薩摩藩は琉球の支那(当時は清国)との交易による利益を 得るために支那との朝貢関係を続けさせます。支那からの使者が来た時は王との面会 を含め常に薩摩の武士が琉球国の官僚の服装をしてその監視下にあったのです。
【閑話休題】 支那が正式名称です。支那は易姓革命の国にて国名は次々に変わりま
す。明国・清国・中華民国・中華人民共和国と変わりました。これを一貫する名称が支那 であり、英語で言えばChinaです。支那が差別用語だというのは差別史観に屈した歴史 の書き換えです。差別に罪はあっても言葉に罪はありません。古来からの名称を除く罪 は比較にならぬほど大きい。今ではパソコンで「しな」と書いても「支那」とは表示されま せん。これなどは寄らば大樹の陰の日本人の大欠陥であります。目先の無事、事なかれ 主義しかなく、古今を一貫する歴史を見抜く大見識がない。これでは国際化はアメリカへ の隷属、中国への隷属、ヨーロッパへの隷属です。支那という言葉をなくしたことは自分 を失った日本の象徴なのです。 黒岩恒(くろいわひさし)氏の作成した地図。 「尖閣諸嶼」とは南小島、北小島のこと。 伊沢泊は「伊沢弥喜太」氏の氏名からくるものであろう。 (伊沢氏は明治二十四年に漁民とともに石垣島から魚釣島と久場島に渡航している) 新田の立石は黒岩氏の同僚新田義尊の氏名から。 尖閣列島畧圖 魚釣島の横に描かれた水道岩とは飛瀬のことのようだ。 (尖閣列島探検記事・承前 黒岩恒 「地学雑誌」・第12輯141巻・536頁 、明治33年09月 発行 ) 古賀辰四郎は海鳥の羽毛採取や剥製の製造をしており、南小島にも工場を設けてい た。この絵を見ると小屋が3つある。季節の工場だろうか。或いは住居を兼ねた家だろう か。家の間の丸いものは何であろう。
|