尖閣諸島の領有権問題


尖閣諸島開拓時代の人々 (2)


黒岩 恒
宮島 幹之助
伊澤 弥喜多
古賀 花子
古賀 善次
奈良原 繁
尾瀧延太郎








黒岩 恒









「尖閣研究」より
沖縄の2大巨人・岩崎翁の薫陶と黒岩校長の遺風を受ける


 黒岩氏は沖縄の自然界の学問的開拓と称されている。高知県に生まれ、34歳の時沖
縄師範学校教諭で赴任、以後28年間沖縄に住んで、動植物、地学、農林学研究など多
岐にわたり研究し、「地学雑誌」「動物学雑誌」「植物学雑誌」に40点余の研究論文を発
表している。尖閣列島調査及び命名者としても知られている。

のち国頭郡組合立農学校(沖縄県立農林学校の前身)の創設に伴い初代校長として実
学重視の校風に育て上げ、日本三大甲種農学校の一つとして全国に同校の名をとどろ
かした。


宮島幹之助
黄尾島波止場01-2・宮島幹之助撮影・黄尾嶼1・地学雑誌・645頁・第12輯143巻2・明
治33年11月.jpg



















新崎盛暉著「沖縄現代史への証言(下)」沖縄タイムス社・1982年、113頁〜142頁
                                  
 寄留商人の妻として  
                    古賀花子さんに聞

(仮目次)
−管理人より−        
原文に目次はありませんが、調べやすいように仮に目次を
作りました。本文の小題の横の数字はこれも管理人が仮に
つけたものです。脱字・誤字は管理者の責任です。     


(1)  看護婦修業 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・113
(2)  沖縄行のいきさつ ・・・・・・・・・・・・・・114
(3)  ひどかった病院施設  ・・・・・・・・・・・116
(4)  呑気な患者と困ったことば   ・・・・・・117
(5)  当時の看護婦の待遇 ・・・・・・・・・・・119
(6)  結婚のため再び沖縄へ ・・・・・・・・・121
(7)  当時の西町 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・124
(8)  古賀商店と取り扱い商品 ・・・・・・・・125
(9)  尖閣列島と古賀辰四郎 ・・・・・・・・・127
(10) 寄留商人の社会と古賀善次 ・・・・・129
(11) 戦争と古仁屋への慰問 ・・・・・・・・・131
(12) 十・十空襲――首里へ避難 ・・・・・133
(13) 戦争中の生活 ・・・・・・・・・・・・・・・・135
(14) 信州へ疎開 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・137
(15) 戦後・沖縄へ引き揚げ ・・・・・・・・・139
(16) 尖閣列島の処分 ・・・・・・・・・・・・・・141





(1)□ 看護婦修業

 ――『新沖純文学』四十二号が、ヤマトの女性から見た沖縄というのを特集することに
なっておりまして、今回はそれと関連する方ということで古賀さんをお訪ねしました。古賀
さんは例の尖閤列島″問題で昨今話題に上ったりすることも多いわけですが、きょう
はその間題というより、戦前、本土から来られた女性として沖縄がどう見えたのかという
ことや、また当時のいわゆる寄留商人の生活などについてのお話をおうかがいしたいと
思います。
 さて、古賀さんは長野県でお生まれになったそうですが…。
 古賀 はい。

 ――お生まれになられたのは何年ですか。
 古賀 明治三十一年です。

 ――すると現在は……
 古賀 八十二歳です。

 ――で、長野でお生まれになって、東京に出て勉強をされて……。
 古賀 勉強なんていうもんじゃないんです。私の父がとてもひどい喘息で、痰が喉にから
んで大変だったんです。ちょうどその頃、今のアドレナリンという薬がはじめてアメリカに出
まして、町の三人のお医者さんが羽の先にその薬をつけて喉に塗りましたら、すぐ止まっ
て、半年して発作が起こったときは〇・三の皮下注射をして、ようやく治まる状態だったん
です。その後は発作の起こるたびに注射しなければ治まらない。先生の留守のときは、
看護婦さんが来て下さる……。そういう体験がありました。それを見て大変に感心しまし
てね、それでどうしても看護婦になろうと決心したわけです。

 ――その頃、お父さんのお仕事は何をされていたんですか。
 古賀 父は警察の方におりました。父は明治の初め、金沢師範第一回の卒業生なんで
すが、そのとき同級生が三十七名いて、そのうち七名しか卒業できなかったそうなんです
が、そのうちの一人だったんです。

 ――すると初めから長野ではないわけですね。
 古賀 ええそうです。駐在させられたところが信州の山の中の飯山というところだったわ
けです。

 ――そうしますと、古賀さんのお生まれたのはそこで……
 古賀 はい、飯山です。

 ――旧姓は何とおっしゃるんですか。
 古賀 八田です。

 ――お父さんは師範を出られて警察官というのは、随分畑違い……
 古賀 そうですね。畑違いですね。それで父は、私のことも師範に入れるつもりだったら
しいんですが、看護婦さんがいろいろするところを見ていましたので、断然、看護婦になろ
うと思ったわけです。
 で、ちょうど飯山中学に加藤先生という剣道の先生をされてる人がいたんですが、その
人のおじさんに当る東大の近藤外科の教授・近藤兼繁博士が、東京の駿河台下に私立
病院を開いておられたので、その先生の紹介でそこに勤めたんです。でも私立じゃ、やっ
ぱりそんなに勉強できませんでしたので、翌年、東大病院看護婦養成所に受験して、移
ったわけです。

 ――その当時、若い娘さんを東京に出すということで、親御さんなんかに反対はなかっ
たですか。
 古賀 おじさんという人を信用しきっていましたから。

 ――はじめは私立病院にいたわけですね。
 古賀 ええ、そうです。駿河台下、今、馬術クラブかなんかになっているところです。

 ――おいくつのとき、上京されたわけですか。
 古賀 今の数え方からいくと、十五歳ですね。高等小学校を出てすぐです。当時は、高
等科を出ると師範か高等女学校の三年に入りましたね。そういうところ出るには長野市
まで出ないとなりませんでした。




(2)□ 沖縄行のいきさつ

  ――東大病院には何年いらしたんですか。
 古賀 看護婦養成所は三年で卒業して、そのあと二年の義務年限があったんですが、
その義務年限がまだ残っているときに、ひどい腎臓病を患って、途中で辞めたんです。そ
の時、私は青山内科(明治天皇の主治医をされていた方)に勤めていましてね、同じ東大
に入沢内科というのがあって、その助教授に呉建という心臓病の大家がいたんです。
で、青山先生がその人に向かって、「おまえは病人の心臓はかり見ていても仕方がな
い。今度はひとつ、おれんとこの秘蔵っ子を貸すから、健康な人の心臓を撮ってみたら」
ということで撮ってもらったんです。そしたら、これが普通の人の一倍半ぐらいも肥大して
いたんです。「きみは医者のいない所で働いているみたいじゃないか」と怒られまして、す
ぐ入院を申しつけられました。そのあと長野の実家へ帰って養生して、再び上京して、もう
一度診てもらったところ、もうすっかりよくなっているというんです。で、近藤先生の病院へ
勤めないかと言われるもんですから、いや私はまだ義務年限が残っていますからと言う
と、改めて入り直すのは面鈎だから、もういいよ、ということで、近藤先生のところに二年
ばかりいました。そのあとまた病気になって休んで、また二年婦長として勤め、病気にな
って静養しているときに、当時、沖縄県立病院の院長をされていた橋本(のちの戸村)隆
敏先生が、春の学会で東京にお見えになられて、で、ぜひ一年でいいから沖縄に乗てく
れないかと言われましてね……

 ――すると、県立病院長とは以前からお知り合いだったんですか。
 古賀 ええ、ええ。近藤外科勤務は同じ時期でした。ちょうど私が大正五年六月の卒業
で、橋本先生は同じ年の九月―当時、大学は九月卒業でしたから――に卒業されてい
るんです。医者と看護婦という違いはあっても、同じ病院にいた、いわば同級生ですから
ね。で、新兵同士といいますかね、お互いに知ってたんです。台湾の医専の外科の先生
をされていた本名先生も同期ですよ。

 ――じや、それまでは、沖縄のことは、ぜんぜんといっていいくらい知らないわけでしょ
う。
 古賀 ええ、そうです。

 ――ご両親なんかは沖縄に行くことをどんなふうに見られていたんですか。
 古賀 それがね、当時、ハワイに日本病院というのがあったそうですね。そこの内科・外
科・婦人科の院長が私より三つほど後輩で、春の学会に見えられたときに、総婦長として
私に来てくれないかという話があったんです。沖縄の話とあい前後してですね。それで母
親に話したんですが、「ハワイは外国だ、沖縄はまだ日本の内だから、まあ沖縄ならいい
だろう」ということで、沖縄行きはわけなく許してくれたんです。「もしおまえがハワイに行っ
てしまって、私にもしものことがあっても帰ってこれなかったら、どうする」ということで、ハ
ワイ行きはどうしても許してくれませんでした。

 ――当時、東京から沖縄へは? 鹿児島まで汽車で、二日ぐらいかかったんですか。
 古賀 まあ、そんなものでしょうかね。

 ――鹿児島からは船で……
 古賀 船で二晩、三日めの朝に着くんです、夕方に出て。だからハワイの方が結局は早
いみたいなもんですけどね(笑)。



(3)□ ひどかった病院施設

 ――それで、沖縄へ来られたわけですが、来てみてどうでした?
 古賀 それが、あまりにもイメージと違ってましてね。で、来たその日に、「もう私、明日
の船で帰ります」といって、部屋に閉じ寵っていました。気分が悪いからといって。
 なにしろ、寄宿舎だって、もうぜんぜん豚小屋みたいで、畳もひどい。それに便所なんか
も便器に縁がなくて、恐くって汚なくってとても入れやしない。台所もひどいもんだったし、
寄宿舎っていうのも民家を借りているんです。下に四畳半が二部星と八畳が二室、上に
八畳が二部屋あるだけで……。そんなところに住んだことがなかったもんで、ともかくびっ
くりしましてね。
 で、初日に庶務部長が迎えに来られたんですが、いったん挨拶に行ったらもうダメだ、
と思ってね、で部屋に寵っていたんです。そしたら次の日、庶務部長と院長が見えられま
して、一年でいいから、それに知事も知っていることだから、ぜひ頼むと言われるんです。
 当時は和田知事でしたよ。ちょうど船でこちらに来るとき、船がなかなか出ませんでね、
鹿児島で和田知事と同じ宿屋だったので、いっしょになって話をしたりして知っていたん
です。だもんだから、「知事もいることだし、君、やってくれないか」。まあ、そういうもんで
すから、翌日病院に出てみたんです。出てみましたらですね、病室がまたひどいんです。
なおさらのこと……。汚なくて汚なくてどうしようもない。廊下にもベットを並べて……。こと
ばもよくわかりませんでしたしね。

 ――当時、県立病院にはどんな科が?
 古賀 私が行ったときには、内科・外科・婦人科・耳鼻科眼下・小児科なんかが、みんな
開業されていましてね、新しく見えられた部長方は言葉が違うんで、だいぶお困りのよう
でした。

 ――医者は何名ぐらいでした。
 古賀 内科・外科・婦人科・耳鼻科・眼科・小児科の部長さん、それにレントゲン。その
他に医員がいました。外科に二人、内科に一人、婦人科に一人……

 ――すると、総勢で二十人ぐらい?
 古賀 二十人はいませんでした。十数人ぐらいですね。

 ――当時、沖縄出身の医者の割合いはどれくらいでした。
 古賀 そうですね……医員はぜんぶそうだったですよ。部長では婦人科の饒平名(長
田)紀秀さん、眼科部長の下茂門英信さんなんかがいました。

 ――看護婦さんは何人ぐらい?
 古賀 看護婦十五人、県費生五人。それに赤十字の生徒を五人、預かっていました。

  ――赤十字といいますと……
 古賀 ええ、県に赤十字の支部がありました。

 ――すると、その赤十字の看護婦養成所があって、そこが県立病院に委託して、看護
婦を養成していたことになるわけですか。
 古賀 ええ、ええ、そうです。

 ――じや、実数は、見習いを含めて二十五、六名ということですか。
 古賀 ええ。で、赤十字は三年が年限で、一期五人でした。三年経ちますと、・東京の本
社へ、一人か二人は行っちゃいました。

 ――で、古賀さんは婦長さんとして来られたわけですね。
 古賀 ええ、私は婦長でしたが。

  ――それはいくつぐらいのとき?
 古賀 数え二十四、おそ生れだから二十三蔵ですね。

  ――すると大正のおわりごろですか。
 古賀 大正の……大震災の前の年(大正十一年)でした。

 ――看護婦さんは、古賀さんより年下ですか、みんな。
 古賀 いや、私より年上の人もいましたよ。

 ――全員寄宿舎に?
 古賀 私より年上で結婚している人は通いでした。三人ぐらいいましたかね。そういう人
たちは、勤務が四時までだったら四時にきちんと帰っちゃうんです。赤十字出られた方は
時間なんかきちんとしていましてね、四時になると「時間が来ましたから」といって、仕事
の途中でも帰っちゃうんです。私みたいに私立病院にいて、夜中でも患者が気になれば
一生懸命やるという習慣がついていて、大きな手術やなんかのときは、たとえば婦人科
で二つぐらい手術が重なれは、どうしても六時頃になりますよね。それでそれが終わると
いったんは寄宿舎に戻るんですが、戻っても気になれは、又病室へ戻って、夜中でもな
んでも、面倒みてたんですがね。
  ――あの当時、看護婦で、東京あたりから沖縄にやって来たというのは、初めての例
ですか。
 古賀 私の前に、大阪の赤十字から来ていた人がいたそうです。





(4)□ 呑気な患者と困ったことば

 ――患者さんはどういう人が来ていましたか。
 古賀 来た頃は、市内の患者はごっそり、開業医についていきましたので、ほとんど田
舎の人や離島出身の患者さんが多かったですね。当時の患者さんは、入院するとき頭に
カゴを載せて、それに衣類やら七輪なんかを入れて持ってきていましたね。それでベット
は木製で、下が戸棚になっていましたが、部屋で平気で七輪なんか燃すもんですから、
ダメだというと、その七輪を下の戸棚の中へ入れて隠して煙を立てていたりするんです。
なんていうか、ともかく田舎の人は呑気でしてね。
 たとえば、子供がジフテリアで咽を切開して入院していたんですが、その部屋から煙が
立っているんです。それで部屋に入ってみますと、七輪が見えないんでおかしいなあと思
ってたら、ベットの下の戸棚に隠してやってるんですよ。で、「この部屋で煙立てないよう
に、炊事場でしなさいよ」と注意するんですが、そういっても、もう煙でね。そんなときは怒
鳴りつけてやりましたよ、「こっちは助けてやろうと思って一生懸命しているのに、自分の
子供を何と思ってるのよ!」と言って……。ともかく夜中まで眼が離せませんでしたよ。

 ――たとえば、東京の病院なんかと比べていちばん違うのは、どういうところでした。患
者の衛生観念みたいなものは……
 古賀 私が東京でいた病院は、特別恵まれていましたからね。特等室がいくつもあっ
て、それを一人で二つ借りたり、看護婦を特別に三人ほど雇って三交代で使っているよう
な、まあ、田舎の金満家、多額納税者、それに華族の方やなんかが多かったから……

 ――ところで、当時は健康保険も何もない時代だから、田舎の人だといっても病浣に入
れるというのはある程度生活水準の高い人たちが……
 古賀 いえ、健康保険はありませんでしたが、たとえば、困っている人には生活保護み
たいな制度があって、役所に届けて手続きすると医療費が免除される制度がありまし
た。そういうことが出来るのは、一つの病院で三人ぐらいでしたが……。私もこんな経験
がありました。
 その患者さんは、腸閉塞の手遅れで腐った部分を切ってつないで、やっと命を助けた人
なんですが、一週間ぐらい入院して、まだ抜糸もしていないのに退院すると言いだすんで
す。それで「せっかく助かったのに、どうして」と聞くと、お金が続かないというんですよ。そ
れだったら、いいから、いいから。そういう制度があるから役所から書類一枚もらってくれ
ば、あとは私がみんな手続きして差し上げるから心配しないでと言ったんです。そしたら、
「そんなことしたら村の人に顔向けができない」って言うんですよ。つまり自分の家に傷が
付いちゃうと……。家柄をすごく気にするというんですかね。
 それで仕方がないんで、じゃ、きょうであなたは退院したということで手続きをしておいて
あげるから、明日まで待って抜糸して、もう一日様子を見て、明後日に退院しなさいって
……それで退院したんですが、それでも私心配だから、一週間したら必ずもう一度来なさ
いよと言ったんですがね……
 さっき話したジフテリアの子供にしてもそうですが、親が呑気というんですか、こちらが
一生懸命しているのに、という気持ちでしたね。

  ――来たときはことばはどうだったんですか。
 古賀 よくわかりませんでしたが、一つ一つのことばはわかりましたからね。それに一つ
一つの単語を並べると通じましたし。

 ――だいたい聞けるようになったのはどれぐらい経ってから……。
 古賀 一と月もすると聞くのは那覇出身の看護婦さんよりは私の方が……田舎のこと
ばでも、宮古、八重山のことばでも聞けましたよ。いろんなところから来ますからね。ま
あ、年の功ですかね、私の方がよくわかりました。ただ言えないだけでね。

 ――二、三年経つと一段と使えるように。
 古賀 えっ(笑)。でも、続きませんよ。接続詞がうまく使えないですよ。それにこっちの
人は敬語と普通の使い方が大変に違いますでしょう。それで、たとえば、新しく入って来
た田舎出の看護婦さんに「ウー」という敬語を使ったことがあるんです。すると、それを見
てた患者さんのお母さんが、なんであんなに若いのに敬語を使うのかといって、しかられ
たこともありましたよ。ずいぶんことばには区別がありましたね。





(5) □ 当時の看護婦の待遇

 ――さっき、廊下にもベットを出してといっていましたが、患者はあふれるぐらいいたわ
けですか(※)。
 古賀 ええ、一年ぐらい経ってからそうなりました。それまでは開業医にいたのが入って
きましたが。それで県会でも問題になりましてね、開業医から患者を奪ってる。性質上、
県病院と開業医は違ってるはずだといって。

 ――患者がふえたのはどういう事情からですか。
 古賀 まあ、だんだん那覇の人も来るようになりましたしね。池畑さん(※)なんかが来
られてからは、その周りの方も見えられましたし。

    ※池畑盛之助・不二男 盛之助は鹿児島県出身、明治
    十五年に寄留。大正四年那覇運送合資会社を組織、旅
    館経営。息子不二男は明治三十一年生

 ――池畑というのは回遭店をしていた?
 古賀 ええ、そうです。といっても、そのころの病院はいまみたいな大はやりではなかっ
たですよ。半日も待たされるなんて考えられませんでしたもの(笑)。

     ※ちなみに、大正十三年の『県勢要覧』によれば、県
     立病院の規模は次のとおりである。

病床数 
入院患者
延 人 員
外来患者
大正 9
六五
七二九
二三、一三二
七、〇五二
   10
六五
七〇九
一九、三〇〇
 五、八四六
   11
九〇
六六三
一五、二九六
五、四四五
   12
九〇
九三〇
一八,一八一
五、六六二
   13
九〇
九九三
二五,六一八
六、二二四


 ――いつ頃まで県立病院に勤められましたか。
 古賀 それがね、一度私、帰ろうと思ったことがあるんですが、チフスに罹りましてね。
 といいますのは、当時は日曜日も午前中は仕事をしていたんですが、そのあと善興堂
病院の饒平名紀秀先生が泊のサチヒジャーですか、そこへ行こうと誘ってくれたんです。
それで私、どうもここ十日間気分が悪いし、遠慮しますと言ったんです。そしたら気分直し
にちょうどいいじゃないかというんで行ったんですがね。帰ってきて熱を計ってみたら、四
〇度七分もあったんです。それで入院しなきゃだめだとやっているうちに気を失ってしまっ
て……そのとき脳症を起こしたんです。世の中、わかったりわからなかったりという日が
続いて、二ヵ月ほどして、はっきり気がついてみると、院長も副院長も代わっていまして
ね。
 で、その新しい院長も、ことばやなんかがよくわからないもんで、またいてくれないかと
いうもんで、いたんですがね。その頃に謡曲の友だちができていたんです。もしその謡曲
の友だちがいなかったら、もう帰っていたでしょうね。それで、五代日の院長に代わったと
きに、県の衛生課長にお願いして、まあ、仕方がないだろうということで、辞めたわけで
す。

 ――それはいつ頃ですか。
古賀 昭和二年でした。
――すると、七年間で院長が四代も代わったわけですね(※)。

    ※『官員録』によれば、大正九年〜昭和三年までの県
    立沖縄病院長はつぎのとおりである。
    橋本隆敏 (大正九〜大正十一年)
    ―――― (大正十二年は不明)
    渡辺 毅 (大正十三〜十五年)
    山森吉治 (昭和二年)
    青田圭策 (昭和三年

 古賀 ええ、当時は任期はせいぜい一、二年でしたね。副
院長がなったりして。

 ――本土から来られて、七年も看護婦をされるというのは、めずらしい……
 古賀 ええ、まあ、そういうことですかね。

 ――七年間いたあいだに何まか帰省されたことは?
 古賀 三年めに一度、信州へ帰りました。

 ――当時の看護婦の待遇はどうでしたか。さっき寄宿舎の話が出ましたが……
 古賀 さっきお話ししましたけど、ハワイやなんかからも話があったんですがね、結局、
沖縄に来たんですが、あとになって考えると、いちばん貧乏クジを引いたみたいですね
(笑)。月給もいちはん安いしね。私、東京の頃は月給六十五円もらっていたんです。そ
れに一流の方が患者さんで見えられるわけですから、今日は築地の精養軒に連れてい
ってあげようかとか、今日は芝居の切符が入ったから二、三枚あげようとか……また自
分で見たいものがあれは自分で見にいくとか、けっこういい生活ができたんです。
 ところが、沖縄は同じ六十五円でも、食事も被服もみんな自分持ちでしょう。東京では
食事や被服やふとんやなんか、みんな病院の方が用意してくれるのが当り前でしたか
ら。こっちへ来たら全部自分持ち……それで、みんなに聞いてみたんですよ。そしたら商
業学校や水産学校の先生だって、それぐらいの月給で一家を養っているんだから、看護
婦でそんなに出すのはとんでもない話だ、というぐらいのものでね。最後は七十五円でし
た。

 ――食事は外食で?
 古賀 いや、自分でしてもいいし、外食をしてもいいし…。

 ――じや、寄宿舎は寝るとこだけだというようなものですか。
 古賀 寝るとこだし、そこで自炊することもできたわけです。ですけど、東京ではふとん
から毛布から全部ついているでしょう、部畳も一部屋ついていますしね。なんていってい
いかしら……とにかく、こっちの寄宿舎にはびっくりしました。

 ――病院に勤めている間に旅行なんかはされましたか。遠
足かなにかで。
 古賀 遠足はありました。燈台とか佐敷、与那原、セーフ
ァー御嶽、勝連城城趾、それに読谷城趾にも行きました。

 ――読谷城趾には鉄道で嘉手納まで行って……
 古賀 えぇ、それから馬車があってね。瀬長島へ行くときはいつも馬車でした。

 ――県立病院では往診とかはなかったんですか。
 古賀 いや、ありましたよ。

 ――そういうときは看護婦さんも付いて行って……
 古賀 それはあまりなかったですね。

 ――当時の看護婦の社会的地位といいますか、それはどういうふうに見られていたん
ですか。
 古賀 さあ、どうですかね。なかには、いい所の家へ嫁に行った人で、看護婦だったこと
を隠していらっしゃる方もいましたよ。



(6) □ 結婚のため再び沖縄へ

 ――最初の七年間のあいだで、病院での生活以外に何が印象に残っていますか。
 古賀 さっきいった謡曲、唄ですね。それを習っていなかったら、私、そんなに長くいな
かったんでしょうね。謡曲の先生は十文字屋さんといって、京都で修業されて、そこの先
生方と同じぐらい実力のある方でした。それを習う前までは、当時、沖縄には映画館が二
つありましてね、それが変わるたんびに、見に行ってましたよ。

 ――――謡曲を習っているのはどういう人たちですか。
 古賀 十文字屋さんというのは、中西惣吉さんといって呉服屋さん、習っているのは、私
の近辺では、慶田さん、並州さん、それから米次という漆器屋さん、それに平尾さんなん
かですね。慶田さんは酒・醤油の問屋、並川さんは金物問屋でした。その頃の写真があ
りますよ(※)。

    ※中西惣吉 明治十二年、京都生まれ。大正元年来県。
    観世流謡曲の大家。

    ※慶田覚大郎 慶応三年鹿児島市生れ。明治十二年那
    覇に寄留。酒類および醤油販売、米穀・砂糖・カン詰
    委託販売。

    ※並川亀治郎(襲名) 明治三十二年、那覇生れ。先
    代亀次郎は奈良県出身、明治三十二年の創業。金物、
    洋灰、鉄材セメント商。

    ※米次商店 「漆器商米次商店は開業以来既に二十有
    余年、県下同業者中泉も古き歴史を有し、…百余人の
    職工を使用し、一ヶ月約三千二百円を県外に輸出し居
    れり」(『沖絶県人事録】大正五年)

    ※平尾喜三郎 明治六年奈良市生れ。父喜八とともに
    明治十七年来県。内外雑貨商のかたわら、大正四年三
    共帽子商会(アダン葉帽子製造販売)を組織。貴族院
    議員。那覇商工会議所会頭。平尾商店は県内屈指の大
    商店として有名。『沖縄の百年・人物編】参照。

 ――(写真を見て)この中には沖縄の人も何人かいますか。
 古賀 そう、何人かいましたけどねえ、この中には佐久川さんといって製糖会社の工場
長をされていた人が写っていますね。

 ――バックはどこですか。
 古賀 波之上宮です。いまは神社ですが、昔はちょうど今の神社の前に人が集まる場
所がありますが、そこに拝殿がありましてね、その前で写したんです。毎年、爵曲の仲間
で奉納していましたから。

  ――で、一度東京に戻られて……
 古賀 ええ、東京へ戻って新しい病院に勤めたんです。前に東京にいたとき同じ病院に
いた医者が開業していまして…その医者も私が最初こちらに来たときの県病院の院長さ
んなんかと同級でした。で、そこで働いてくれないかというもんだから、四年ばかり勤めま
した。

 ――もう一度、沖縄へ来られるきっかけは結婚されるということで?
 古賀 ええ、そうです。沖縄にいらした牧師さんで、日本基督教会の植村正久(※)さん
のお弟子さんがいまして、その人が結核で入院されて東京に来ておられて、その人から
話があったもんで‥‥‥

 ――なんとおっしゃる方ですか。
 古賀 芹沢浩(※)牧師です。この方は、東京神学社に在学中のときに、植村さんがどう
してもこの人でなけれはならないということで、沖縄へ伝道にいらした方でしたが……

    ※植村正久一八五七−一九二五 プロテスタント教
    会牧師。富士見町教会設立。のち東京神学社を創立し、
    日本基督教会の牧師を教育養成。『旧約聖書』・讃美
    歌歌詩の翻訳によって明治文学史上にも名をとどめる。
    一九二三(大正十二)年に来島し、特別伝道を行なう。
    その時の模様は【沖縄キリスト教史料』(一九七二年)
    参照。
    ※芹沢 浩 静岡県生れ。一九二二 (大正十一)年初
    夏に沖縄赴任。一九三三(昭和八)年没。『沖縄キリ
    スト教史料』(一九七二年)を参照。

  ――じや、古賀さんもキリスト教には関心をもたれていたわけですか。
 古賀 ちょうど寄宿舎にそういうのに関心を持ってた看護婦さんがいまして、芹沢先生
の特別伝道があるからというんで、いっしょに出席してみたんです。で、その詰を聞いて
敬服しましてね。当時は今みたいな立派な教会ではなくて、民家を借りたもので、県庁の
内務部長なんかも椅子には座られないで、石垣にもたれて開いていました。

 ――芹沢牧師とはこっちにいるときからご存知だったんですか。
 古賀 ええ、奥さんが信州の方で同郷でしたし、知っていましたから。

 ――じや、最初沖絶にいらしたときからご存知で、それで東京でまたお会いになった?
 古賀 はい、そうなんです。退院して見えられましてね。で、古賀善次(※)をどうかと言
うもんですから。

    ※古賀善次 辰四郎長男、明治二十六年生。那覇無尽
    株式会社監査役、那覇鰹節商同業組合、沖縄県体育協
    会の評議員など。一九七八年三月死去。

 ――古賀さんとは以前からお知り合いでしたか。
 古賀 はい、顔は知っていました。でも何をしている人かはわかりませんでした。

 ――謡曲かなにかの仲間というわけでは?
 古賀 いや、そうじやなくて……古賀も謡曲を習ったことがあったらしいんですが、それ
はまだ付き合う前のことでして。

 ――善次さんはいろいろスポーツやなんかでも活躍されたようですが……
 古賀 さあ、それはどうですかね。古賀は大倉高商(現在の東京経済大学)にいるとき、
肺尖カタルに罹ったそうで、あまり丈夫ではありませんでしたし。若い頃のことはよくわか
りませんが。





(7)□ 当時の西町

 ――で、こちらに来られてお二人で、古賀商店をやられるわけですが、主たるお仕事は
陸海産物間屋、それに海陸保険会社代理店ということですか。
 古賀 そうです。それで私が来たとき、母といっしょでしたが、いきなり来てみますと、店
には何もないんですね。で、母が何をしている店か聞くんです。それで私もよくわからない
と言ったもんだから、母は「どうして知らないところに来たのか、おまえは前にも沖縄にい
たから、何もかも知っているのかと思って自分は信用して何も聞かなかったのに」と、ひ
どく驚いていました。今の人から見れは考えられないことでしょうけど、そんなものでした
よ。ああいう所は、船が入ると全部積んでいってしまって倉庫が空っぽになりますから
ね。そういうところへ、いきなり来たものですから……

 ――お店には古賀さんは立たれなかったんですか。
 古賀 ええ、うちはその主義にしました。私はお店には関係しませんでした。

 ――他の商店なんかもそうだったんですか。
 古賀 いや、他の所は奥さんも店に出ていましたよ。

 ――当時、店はどこにあったんですか。
 古賀 ここ、今のこの場所にありました。

 ――すると、この辺り(西町)は、当時、いわゆる寄留商人≠スちが多かったんです
か。
 古賀 そうですね。道は今ほどは広くはなくて……みんな道に沿って並んでいましたね。
こっちの事務所になっているところが昔は青野さんのお宅のあったところ、道のところに
木村さんや浅田さん(※)なんかがいました。

 ――すると、いわゆる寄留商人″ばかりということに…
 古賀 そうですね。新嘉喜さんなんかは昔からの人です。宮里さんも大きなお家でした。

    ※古野島吉(襲名) 明治三十三年生。先代は福岡県出身、明治三十年に寄留。
米穀肥料商。
   ※浅田五一郎(明治三十七年生)昇二郎(同三十九年生)兄弟。大阪市出身。漆器
および陶器製造販売
   ※新嘉喜倫篤 明治二十五年、那覇市生まれ。県立一中、早稲田大学卒。新星堂
書店経営。那覇市会議員。

 ――東町あたりには沖穐の人の店が……
 古賀 東町も寄留商人が多かったですよ。新元さんのお店もありました。ともかく戦後
大きくなったところが多いですね。

 ――沖縄の方ではどんな人がいました?
 古賀 フジホテルの隣りのタクシー会社、あの隣りに新嘉喜倫篤さんのお家がありまし
たね。何百年続いているかしれませんが、なんでも戦争で焼ける前は、二四〇年前に建
ったものだと言ってました。艶のよくでた、何ともいえないチャーギ(填)造りの立沢な家で
したね。

 ――古賀さんのお家は、この辺りでは大きい方でしたか。
 古賀 いや普通ですね。中馬さん(※)のとこなんか大きかったですね。

    ※中馬政次郎 明治七年生。明治十八年に兄藤太郎と
    ともに那覇に寄留。難貨商(米穀・石油・機械油・素
    麺・大豆・昆布など)

 ――坪数はどれくらいあったんですか。
 古賀 ここですか。ここは敷地が二六〇坪、建て坪が一五〇坪ぐらいでしたね。

 ――それは蔵やなんかも含めて?
 古賀 ええ、そうです。

 ――蔵はいくつあったんですか。
 古賀 三つありました。それに鰹節の乾し場がありました。
 ――乾すのはこっちでやってたんですか。
 古賀 いや、たまに乾かすのが不十分なときなどに、ときどき使っていたんです。

 ――一五〇坪といえば、かなり大きいですよね。そうしますと、もともと西町にはお金持
ちが多かった?
 古賀 さあ、どうなんでしょうかね。

 ――まあ、沖縄の庶民の暮らしぶりから見たら……
 古賀 そうですね。大きな屋敷といいますか、大きな門構えで、商店ではない家というの
は、泉崎に多かったですね。古いうちで、入口に門があって、また中にも門があるという
ような立沢なお屋敷はね。とにかく、こちらのお座敷といったら、もう昔のは十六畳ぐらい
もありますからね。私なんかは、何かあれば六畳と八畳間をつないで使っておりました
が、昔段は襖で仕切っていました。ところがそういうお家は、十六畳の間のうしろに控え
の間もあって、広々としていましたね。

 ――−商人以外の地元の人たちで、大きい屋敷を構えている人というのは、何をされて
いたんですか。
 古賀 みなさん、貸家さんをしたり、質屋さんをしたり…。新嘉喜さんは、新星堂という本
屋をされていましたが。





(8)□ 古賀商店と取り扱い商品

 ――古賀さんのところの商品は、主に内地に出荷していたんですか。
 古賀 そうです。

 ――すると、沖縄の小売店に出すということは余りなくて、鰹節などを本土へ送り出すと
いう‥…・
 古賀 そうそう。鰹節や夜光貝。夜光貝といえは、平泉の中尊寺ですか、あそこの建物
にも夜光貝が使われているということですね。それで向うから「京都大学の方で聞いたら
古賀商店にあるはずだといっていたので、取り寄せてほしい」という依頼が来たんです。
十五年はど前ですかね。で、そのころは私の所ではやってませんでしたので、もと私の店
にいた南海商会の日高さんに連絡して、なんかいいのを五百個ほど送ったそうですよ。

 ――結婚された頃は、先代の辰四郎さんは健在でしたか。
    ※古賀辰四郎 安政三年、福岡県生。明治十二年那覇
    に開店。同二十八年尖閣列島を探険、同二十九年開拓
    認可、翌年より移民を送りこみ、鳥毛採集、漁業、鰹
    節製造などの事業を開始、大正三年、八重山で真珠養
    殖事業開始。『県史別巻・近代史辞典』『沖縄の首年
    人物編」参照。
 古賀 亡くなられた翌年に結婚しました。

 ――すると、辰四郎さんのことは、いろいろお聞きになりました?
 古賀 ええ。辰四郎さんは、ロンドンやニューヨークの博覧会なんかにもいろんなものを
出品してはもらった賞状など、たくさんありましたよ。残しておけはよかったんですが、そ
んなものみんな空襲で燃してしまって……
 それに先代は、本土だけじゃなく、中国にも知事なんかといっしょに出掛けて、中華料
理に使う……イリコみたいなものね、それを取引きしていたようだし、貝ボタンやなんかは
インドやドイツにも輸出していたようですよ。私はお店のことはよくわかりませんけど…
…。

 ――それは直接那覇から?
 古賀 いえ、大阪の店からアメリカやなんかに送ってました。

 ――じや、古賀商店の本店は那覇にあって……
 古賀 そうです。

 ――大阪は支店ということで?
 古賀 いや支店というより、辰四郎のお兄さんが大阪の店にいましてね。そこへ送り付
けていました。そのお兄さんという人は、上等の鰹節なんかが入ると、東郷元帥に贈り届
けたりしていたそうですよ。すると執事の名前でお礼状が来たそうなんです。でもほんとう
は執事はいなくて、ご自分でお書きになってたらしいんです。字を比べてみたら、やっぱり
東郷元師の字だとか言っていました。

 ――大阪ではお兄さんがみて沖縄は辰四郎さんがみて……だから物を送るには大変
便利であったわけですね、窓口があって。
 古賀 そうなんですよ。もともと古賀商店の始まりは鹿児島なんですよ。それで明治十
二年の廃藩置県と同時に、辰四郎さんが沖縄に来られて事業を始められたんです。で、
そのお兄さんのお嫁さんも鹿児島のいいところの出の人でしたよ。

 ――当時、扱っていた商品は鰹節と夜光長のほかに何か…
 古賀 昆布頼、天草、貝類がいろいろあったですね。

 ――貝類といいますと、装飾用とかボタンとかに……
 古賀 そうそう。

  ――外には何に使っていました?
 古賀 塗物の中に嵌めたりして使ってましたが、主にボタンでしょうね。

 ――−海産物の外には何かなかったですか。
 古賀 八重山にゴマとか農産物、お米なんかを奨励して作らせて、それでできたものを
自分で買い取ったりしていました。それにトゥーノチン……あの赤いようなお餅ができるで
しょう、それなんかもやっていましたね。八重山のお米やゴマなんかは船から揚げると同
時に、すぐこっちの小売店の人が並んで買っていました。
 それに、お線香の材料になるタブカワですね。タブカワというのは西表で採れたんです
が、何か極細のお線香を作るには、西表産のものでないとできなかったそうです。

 ――そのお線香というのはヤマトで使うものですか。
 古賀 ええ、ヤマトの線香、細い極上のがあるでしょう、あれです。西表は国有地がほと
んどだったでしょう、それで入札がありましてね。入札して仕入れていました。
 その外にはカンテンの材料になるテングサですか、そういうのも蔵にありました。

 ――真珠なんかはやってなかったんですか。
 古賀 はい、はじめのうちは御木本幸吉さんと組んで、辰四郎さんがやっていました。限
を付けたのは辰四郎の方が先だったらしいんですがね……それで八重山に照会したり、
貝なんかを提供していたそうです。ところが、出来たものを見せてくれといっても、ぜんぜ
ん見せてくれなかったそうなんです。で、善次は、いっしょにやっている仲間だのに、出来
たものも見せないなんてことがあるかといって、手を引いたらしいですね。最初は辰四郎
がずいぶん便宜をはかってあげていたようです。

 ――八重山にも支店があったわけですね。
 古賀 ええ、ありました。八重山といいますと、戦後、古賀といっしょに行ったことがある
んですがね。あそこの川平湾の裏側にバイン畑がずっとありますでしょう。それを見て私
が「尖閣よりも八重山にはこんないい所があるんだから、目をつけておけはよかったのに
ね」と言ったらですね、古賀が「おまえ何言ってるんだ、そんなことはちゃんと考えていた」
と言うんですね。あそこはマラリアがあって戦前はそう簡単にはいかなかった、台湾から
人を呼んだりしてやったこともあるらしいですが……戦後になってアメリカがそのマラリア
を全滅してくれたから、こんなに出来るようになったんだ、と言っておりました。





(9)□ 尖閣列島と古賀辰四郎

 ――当時、尖閣列島でも工場をやっていたわけですね。
 古賀 ええ、昭和十六年までですね。その頃になると油の配給がなくなったもんだから
……。それで、石垣の登野城に、鰹節工場を建てていたんです。七〇〇坪ぐらいありまし
たかね。戦後戻ってみると、工場の機械なんか全部なくなっていて、民家なんかも建て込
んじゃって、立ち退いてもらえないものだから、結局、安くでお譲りしたんですがね。

 ――すると、燃料の油の配給がなくなって……
 古賀 配給がなくなった。魚釣島は、味噌・醤油やなんかの食料を送らないといけない
わけでしょう、働いている人たちの……。
 そうそう、それでね、向うで働いている人は、鰹なんかもいいところばかり食べるもんで
すからね、脚気になるのが出てきてね、大病でもして責任問題になったら大変だしという
ことで、組合を作ったんです。沖縄では始めて作ったんです。

 ――組合というのは、産業組合、船主たちの組合ですか。
 古賀 いえ、乗組員のですね。乗組員が組合を作って、自分たちの健康も自分たちで
気をつけるようになる。それに、みながよけいに魚を採れば、それだけ収入も多くもらえ
るという仕組ですね。食費なんかも組合にした方が経費が安くつくということで……。
 ――すると、その組合を通して古賀さんが買い取られるわけですか。
 古賀 ええ、そうです。ともかく組合の第一号だったそうですよ。

 ――それは国からの指導があってやったんですか。
 古賀 いえいえ、どこからも指導はなくて、自分で考えてやったんです、自発的に。私の
聞いたところではそういうことです。

 ――工場で働いてた人たちは、どこの出身が多かったんですか。
 古賀 はじめは大分から来ていました。後には八重山付近です。で、慶良間の松田和
三郎さん(※)が鰹節工場のことで顕彰されたりしていますが、あれは松田さんが地元の
人を使ってやったからなんで、始めたのは古賀の方が一年早いそうなんですね。ただ職
人が他県から来た人だということでね。藍綬褒章は翌年になったそうです。
 それで、思い出しましたが、辰四郎さんが亡くなられるときに「おれは考え違いをしてい
た。大東島を手離したのはおれの失敗だった」とおっしゃっていたと、善次は話をしており
ました。やっぱり拝借願いを出す前に探険するとき随分苦労されて、糸満の漁夫でも恐
れをなしてへたばるというような嵐の中を、自分が頑張ったからなんでしょうね。

    ※松田和三郎 安改元(一八五二)年座間味村生れ。
    間切長。鰹漁業開発に尽力。『沖縄の百年・人物編』
    『県史別巻・近代史辞典』参照。

 ――辰四郎さんが亡くなられたのは?
 古賀 昭和七年です。


 ――那覇本店には使用人は何人ぐらいいました。
  古賀 あんまりたくさんはいませんでした。戦争になってからはわずかで、若いのが三
人と年寄りが三人、あとは船が入って忙しいときに仲仕を三人、臨時で雇っていました。

 ――使用人は通いで?
 古賀 住込みは二人でした。

 ――主に沖縄の人ですか、使用人は?
 古賀 ええ、八重山で仕込んで来た人がいましたね。

 ――沖縄出身以外の使用人は?
 古賀 山口県から一人来ていました。その人だけですね。

 ――八重山の支店をやっていた人は?
 古賀 照屋という人です。

 ――八重山のかたですか。
 古賀 いいえ、那覇の牧志の人で、商業の頃、古賀(善次)と同級だったそうです。

 ――古賀さんは東京の大倉高商のご出身でしょう。
 古賀 古賀は一学期は那覇商業に通っていたらしいんですがね、そのときの同級生で
す。その頃、御木本さんがおれのところはみんな大倉高商出を使っている、健秀だから
そっちに行かしたら、ということで、移ったらしいんです。





(10)□ 寄留商人の社会と古賀善次

 ――当時、寄留商人の社会といいますか、食生活とか、そういうものはヤマト風で?
 古賀 うちなんか、いい方だと言っていましたよ。

 ――というのは、女中さんなんかの食事がですか。
 古賀 ええ、そうです。

 ――食事の内容やら料理の方法とかも、こっちの一般庶民とは違っていたわけです
か。
 古賀 それは少し違うけれども、そんなに違っているわけではありませんから。

  ――作るのは女中さんが?
 古賀 ええ、そうです。使用人もこっちの人ですから、食事やなんかは沖縄風のチャンプ
ルーとか、そういうものを喜びますからね。私たちとしてはそれの方がいいわけです。ま
あ、ときどきはおすしやカレー汁なんかしましたけどね。チャンプルーやなんかのときは、
ただ主人のだけは余り油っ濃くしないでくれ、というぐらいでね、同じものでしたよ。お汁
は豚か牛の入ったものの野菜汁やコンブ汁でした。

 ――女中さんとことばなんか、生活習慣の違いやなんかで苦労されたことはありません
でしたか。
 古賀 いや、ありませんでした。とてもよく働いてくれましたよ。とても従順とでもいうんで
すかね、こっちのいうことはみんな呑み込んでくれて、そのとおりにやってくれました。普
通語も上手でした。
 うちは、日曜は女中さんも休みにしていたんです。そしたら近所の商店から文句が出ま
してね。古賀さんがそんなことをすると、うちが困るというわけです。で、隔週休みにした
んです。それでも女中はたまに帰ったりしても、その日のうちに戻ってきちゃうんです。自
分の家は天井が低くて眠れやしないとか言って……

 ――お手伝は何人ぐらいいましたか。
 古賀 私が来る頃までは三人いましたそうですが、私がきてからは一人でした。

 ――女中さんは主に那覇の人?
 古賀 首里、それから西原あたりから来ていました。

 ――辰四郎さんの頃と、善次さんがやってられる頃で、お店でなにか違っていたような
ことはないですか。変化したというか。
 古賀 まあ先代はやたらに手広くやったもんだから、集金が大変でね。結局みんな貸し
になって……あの頃はほとんど掛け売りでしょう、盆と正月の二回、集金に行くんですが
ね、それがなかなか入らなくてね。古賀も面倒くさがって、いちいち貸家なんかにも集金
に行ったりするよりは、ということで、取引きするところも、小さなところは整理しちやって、
現金払いでやるようにしていました。

 ――善次さんの方は、その頃いろいろ名誉職なんかをやられていたようですが、商売
の方は先代のころほどは……
 古賀 他の人がやっていて、古賀はたまに要所要所を見ているだけでしたから。

 ――すると番頭みたいな人もいた?
 古賀 一本立ち出来る人が三人いました。

 ――資料によりますと、何か琉球新報のスポーツ記者として活躍されたということです
が、商売の方は半分は番頭にまかせて……
 古賀 記者っていったって、あなた、あまりそんなにしょっちゅう用事はありませんもの。
大した仕事をしていたわけではありませんよ(笑)。

 ――毎日出掛けられなかった?
 古賀 無給ですからね。月給でももらっていれはそうもいきませんが。何かがあれは出
掛けて行くようなものでね。

 ――すると、まあ趣味みたいなもので、楽しんでやっておられた……
 古賀 そうですよ。

 ――記事はよく番いていたんですか。
 古賀 それはもう、ずいぶん。

 ――運動部記者になられるきっかけは何でした。
 古賀 古賀はビンポンが好きで。上手でもなかったんですがね、沖縄でピンポンしよう
にもルールを知っている人がいない、それにテニスもそうだったらしいですね。それで当
間重剛さんやなんかといっしょに、そういうものをしていたようです。
 ビンポンといえは、日本語で卓球というでしょう。あの卓球ということばは、古賀が最初
に使ったらしいんです。というのは、記者をしているとき、割り付けの関係でね、ピンポン
じゃ字が入り切らなくなって、それで卓球ということばを新報の記事で使った、それが東
京へ行って広がったと言ってました。東京の協会へ照会したら、古賀の方が六年早く使
っていたというんでね。

 ――ベルリン・オリンピックにも取材に行かれたそうですが。
 古賀 ええ、ちょっと家をあけるからというもんですから、九州あたりにでも行くのかと思
っていたら、ベルリンだったんですね。当時はシベリア鉄道で行ったそうです。それだって
自費ですよ。

 ――すると、まあ古賀さんは、一代めはあちこち開拓して歩いて、善次さんの代には名
誉職なんかが増えてきて、その間、記者は趣味でやってる……そういう感じですかね。
 古賀 まあ、そういうことでしょうね。古賀が残したメモ帳があるんですが、それを読んで
いますと、親爺は開拓してあっちこっち歩き廻っているが、ばくはからだが丈夫でないか
ら、ユースホステルをリュックを背負って渡り歩いているようなもんだ(笑)。しかし、もしか
らだが丈夫であったら、その素質はあるだろうから、あっちこっち開拓して歩いていたか
もしれない、なんて書いてありますね。

 ――当時の寄留商人の社会と、沖絶の一般の人たちとの付き合いは、どうでした。あま
りなかった?
 古賀 そうですね、辰四郎お父様は尚順男爵などとは相当お近くて、別荘の集まりなど
には善次も幼いころから連れてゆかれたようです。

 ――寄留商人の子どもたちが、沖縄の人と結婚するとかいうものも、ほとんどなかった
んですか。
 古賀 そうですね。あるにはありましたけれど、まあそれは恋愛でお互いが好き同士で
というような例外的な場合で、普通は本土の人同士で結婚するのがほとんどだったので
はないでしょうか。

 ――寄留商人の二代め同士の結婚とかは?
 古賀 ええ、それはありましたよ。

 ――ご婦人方の社交界みたいなものはなかったんですか。
 古賀 愛国婦人会、国防婦人会、キリスト教婦人会、女子警防団などなかなかお付き合
いは多うございました。こちらの女子青年団をつれて古仁尾に慰問に行ったこともありま
した。

 ――こちらの方との交際は?
 古賀 そうですねえ……新嘉喜さんとか、当間さんとか、金城さんとか、そういう方とは
お付き合いしていましたよ。要するに古賀は寄留商人とはよく付き合っていましたけれど
も、ほんとうに腹を割って話し合える友だちというのは、そういう沖縄の友だちだった、そ
ういっていましたね。

 ――金城さんといいますと?
 古賀 ほら、いま一番の踊りの先生……真境名佳子さんのお父さん。

 ――よくお知り合いだった当間重剛さんなんかは、戦前那覇市長をされたりしています
が、県議会とか選挙とか、そういうものに対してはどうだったんですか。
 古賀 当間さんとはよく知り合っていましたが、選挙とかそういうものはやりませんでし
た。





(11)□ 戦争と古仁屋への慰問

 ――さっき古仁屋に慰問に行かれたといっていましたが、それはどういうことなんです
か。
 古賀 それはね、ちょうどこちらに、鹿児島から台湾までの間を受け持っておられる海
軍の部隊長さんが、港にお見えになったことがあるんです。そのとき、女子青年団なんか
を連れて接待したことがあるんです。そしたら古仁屋の方に、二六〇〇名ばかりの兵隊
がいて、みんなホームシックを起こして、慰問に来てくれるのを欲しているから、ということ
をお聞きしたもんですから。

 ――それは町内の女子青年団ですか。
 古賀 はい。

 ――で、慰問団というのは、ほとんど寄留商人の方の……
 古賀 私たちのところはそうでしたね。

 ――少しは沖縄出身の人もいた?
 古賀 ええ、いました。琉舞は上之蔵のお医者さんの娘の又吉政子さん。それで、兵隊
さんを講堂に全部集めてやりました。お琴があり、頼り……琉球舞踊あり、日本舞踊あ
り、それに空手があり、そういうものをいちいろやりました。

 ――それはどういう所で習ったんですか。
 古賀 みんなが集まってね。

 ――みんなが集まる場所というのは?
 古賀 私のうちでやりました。

 ――琉球舞踊やなんかも?
 古賀 きょうは琉球舞踊というときは、それを教えているところでやって、で、全部が集ま
ってやるときは私の家に集まりました。

 ――空手なんかは道場で?
 古賀 ええ、空手はあの有名な松山御殿の娘さんで、空手道場へ通っていました。

 ――女の人たちですか?
 古賀 ええ、そうです。よくやってましたよ、女の人も。

 ――当時、琉球舞踊を教えたりしている人はたくさんいたんですか。
 古賀 よくわかりませんが今ほど多くありませんでした。日本舞踊は風月の先生……琉
舞は、新垣松含さんの娘さんの比嘉澄子さん 今、泊にいらっしゃる――あの方が教え
ていました。
 ともかく、いろんなことをやりましたんで、向うではとっても喜んでもらいました。古仁屋
に一晩泊って、次の日は山の中の観音様のあるところ、それに各離島にも行きました。
離島はいろいろ不便で、兵隊さんもかわいそうだからというんで……。とにかくひじょうに
喜んでもらいました。お船も部隊長さんの黄色の毛布の備えられたハシケを出して下さ
いました。

 ――疎開されたのはいつ頃ですか。
 古賀 焼け出されて、いる所がなくなっちゃったから。

 ――というと、十・十空襲?
 古賀 ええ、そうそう十・十空襲。

 ――すると、焼ける前までは?
 古賀 焼ける前まではここにいましたよ。古賀は町内会長なもんだから、町内の世話を
みなきゃならないし、私は警防団の救護班長、ぜんぜん疎開はしませんでした。いちばん
おかしかったのは、周りがみんな疎開しているもんですから「疎開しないのはうちだけよ」
という話をしたんです。そしたら古賀が「したけりゃしたらいいじゃないか、国家に奉任して
いるならそれでいいじゃないか」……そんなふうでしたね。

 ――町内会長は、いちはん最後に疎開されるわけですか。
 古賀 ええ、まあそうですけど……。それで「おれがいちばん癪にさわることがある」と
古賀が言うんです。それは戦争も終わりの頃、ちょっと戦況があやしくなったもんですか
らね、各町内会長の集まりがあったとき、その会議で、ベルリンの空襲はこうだった、そ
の詳しい報告はわからないけれど、随分ひどいもののようだから、こんどの空襲は市民
のバケツ送水ぐらいじゃ間に合わないと思う、避難訓練をしたらどうか、と言ったらしいん
です。そうしたら「非国民!」と他の町内会長に言われた。「そんな非国民の考えがある
か」と。バケツ訓練は十分にしてありますが、しかしそんなもんはとても今の空襲には間
に合わない……。ちょうどその会議の前々日だかに、パリの空襲、ベルリソの空襲が伝
わってきたときなんです。「家を守るよりも、むしろ命を守った方がいいじゃないか、避難
訓練をやったらどうか」と言ったら、けなされちゃったものだから、帰ってきて、一生懸命、
私を口説いていましたよ。結局、あの十・十空襲の日は、バケツ送水ぐらいじゃ、ぜんぜ
ん間にあわなかったわけですがね。





(12)□ 十・十空襲――首里へ避難

 ――十・十空襲のときはどこにいました?
 古賀 ここです、自宅です。ちょうどそのときお手伝いは禄の飛行場に行ってましてね。
といいますのも、当時は、きょうはどこの女子青年団、あすはどこの警防団と、日ごとにそ
ういう団体が引っばり出されていたんです。お手伝いは女子警防団員として行ってたんで
す。私らなんかでも、町内会から二五〇人だったら二五〇人ずつを、それぞれの家数に
応じて割り当てられたものです。私らも角材運びや土嚢運びをして飛行場作りに招集さ
れたものです。若い連中は監視哨に行っているでしょう。

 ――監視哨といいますと?
 古賀 ほら、港の向うにあったでしょう……気象台ですか、あれを小さくしたようなもので
す。若い連中はそういう所に駆り出されていました。

 ――すると、空襲やなんかを監視する所?
 古賀 ええ、敵の船が来るかどうかとか。

 ――それはあっちこっちにあったんですか。
 古賀 あっちこっちにあったらしいですよ。うちの連中だけでも二人が駆り出されていま
したしね。いつごろ作られたものなのか、詳しいことはわかりませんが。

 ――で、十・十空襲に遭われて、どうされましたか。
 古賀 最初の空襲のとき家の防空壕にいましてね、主人は警報が鳴ると同時に、町内
のあちこちを廻って、ひととおり全部廻って帰ってきてから、推それはどうこうしていた、新
嘉喜さんの奥さんは、ふとんを頭にかぶってたよ、諸見里の奥さんはシンマイナベをかぶ
っていたよ、とか、おかしな見てきた話をしていたんです。そして、その話をしているうち
に、またドカドカドカドカでしょう。最初の空襲から次の空襲までには一時間ぐらい間があ
って、そのあとはもう十五分間隔ぐらいに、ドカドカですからね。で、最初のうちは、屋敷の
庭にあった防空壕に入っていたんですが、もうどうしょうもないんです。防空壕から、よく
見ると、家の柱がこんなにひん曲って、またすぐそのあとにドカドカですからね。それで、
旭橋、あの旭橋が燃えたら、もうみんな火の中で蒸し焼きにされるからといって、町内会
の書記が迎えに釆てくれましたので、それでリュックひとつを担いで午後二時すぎから避
難を始めたんです。そしたらですね、旭橋を渡るまで、わずか数百メートルの距離です
が、三回ぐらい空襲があって、そのたびに道端の防空壕に入っては、しばらく待ったりし
て、ようやく渡り着いたら、そこには大きな防空壕がありましてね。そこにしばらく入ってい
ました。
 そのうち、少し空襲も遠のいたので、そこを出まして、晩の八時ぐらいまでに首里にたど
り着いたんです。その時、リュック一つですが、古賀は息ぐるしいとリュックも棄てました。

 ――その時、首里はまだ焼けていなかったんですか。
 古賀 はい。ちょうど当時は那覇に鉄道がありましたね。その鉄道の内側、こちら側だ
けが焼けたんです。ちょうど安里の一高女の辺りまででした。

 ――古賀さんたちが首里に避難されるときには、近所の人たちはすでに避難していま
したか。
 古賀 ええ、朝にひどい空襲があって、そのとき出掛けたようです。私たちがいよいよ避
難しようと決心したとき、隣り近所に「皆さん、もうあぶないから出ましょう!出ましょう!」
と大声で怒鳴ったんですが、誰も出て来ないんです。もうその時にはみんな避難していた
んですね。

 ――そういう人たちも首里に?
 古賀 みなさん、田舎やなんかに知り合いがいましたから、そっちの方へ行ったんでしょ
う。

 ――で、古賀さんたちは首里に行って……
 古賀 はい、首里の末吉というところに行きました。そこの岩陰みたいなところに大きな
防空濠があって、そこへ入れてもらったんです。もういっぱいで、入り切らないぐらい集ま
っていましたけどね。そこでしばらくいると、夜の十二時ぐらいだったか、警防団の人が来
ましてね、で、「敵が上陸するかも知れんから、みなさん、北の方へ向かって行って避難し
て下さい」と言うんですね。そしたら、みんなお出になられたんです。そこに居残ったの
は、古賀と私と、それに尚琳男爵、そのお供かなんかの人と、私どもに宿を貸して下すっ
た新垣信一枚師の奥さま、たったそれだけでした。あとはもうみんな出ていったんです。
主人が「おれはもう歩く元気もない――喘息でしたからね――、ここでやられたらやられ
たでいいよ、自分でするだけのことはしたから、おれは動かんよ」といって、じっとしてい
ました。
 そうしているうちに、首里には、ちょうど以前から知っていたその新垣牧師さんの家族が
いたもんですから、そこに行きました。牧師さんは八重山に行っていて、奥さんと子供さん
だけだったんですから。そこには、武部隊の戦車部隊長もおりました。





(13)□ 戦争中の生活

 ――もうその頃には、だんだん商売もしにくくなっていたんじゃないですか。
 古賀 はい。それはもう……品物が入らないし、海上も危険ですしね。で、なかには、ど
こそこは荷物をいくついくつ、あっちは二五〇個ぐらい運んだとか、お宅はどうなんです
か、という人もいましたよ。よく人のもの調べてる暇があるなあと思いますがね(笑)。
 私のとこの蔵はもともとそんな大きなものじゃなかったんです。五間に八間の二階造り
の蔵でね。そこにいろいろなものを入れておりました。輸出用の荷物が主でしたが。

 ――お米なんかはどうだったんですか。
 古賀 お米はどうか知りませんが、ゴマやテングサ、それにタブカワなどが入っていまし
た。

 ――貝類やなんかも?
 古賀 貝類はもう外に出しっぱなしにしていましたね。

 ――その蔵だけは焼け残ったんですか。
  古賀 ええ、そのいちはん大きい蔵だけは残りました。隣り近所でも焼け残ったのは、
うちのその蔵と、木村さん(※)と池畑さんのとこと三つだけで、あとは、みなさん立派な蔵
を持ってらっしやいましたが、窓が開いていた、どこが開いていたとかで、火が中へ入っ
て、みんな焼けちゃったんですね。

    ※木村栄左衛門・義雄親子 栄左衛門は福岡県出身、
    文久二年生。明治二十一年に来県、大正四年那覇運送
    合資会社創立。義雄は明治二十二年鹿児島生れ。沖縄
    近海汽船株式会社専務、沖縄製永株式会社専務などの
    要職歴任。米穀肥料商。

 ――土蔵だったんですか。
 古賀 土蔵です。ですが、下の方は鹿児島産の石で固めて、上の方は粟石を使ってま
したがね。ところが屋板は普通のこっちの屋根なもんだから、おそらく火が入っていると
思ったんですが、運よく残りました。
 ――普通の屋根というと赤瓦の?
 古賀 ええ。それにちょうど空襲のとき、私は二階に上がりましてね、開いている窓をし
っかり閉め、兵隊さん用に使っていたふとん一組と蚊帳一つを放り込んでおいたんです
よ。それであとあとまで助かりました。本土へ疎開するときにも持って行きました。輸出用
の品物は誰かが輸出して大阪港には着いていたそうですが、私どもには一銭も入りませ
んでした。

 ――兵隊が民家に泊ったりしだすのはいつ頃からですか。
 古賀 あのね、商工会議所が暁部隊に接収されたとき、商工会議所としてはどこかに
事務所を代わりに見つけなくてはいけない、会議やなんかで多勢集まれるところでなきゃ
ということでね。うちの二階を貸せということになったんです。ですから、十・十空襲の一、
二年ぐらい前かしらね。

 ――ずっと二階は商工会議所が使ってらしたんですか。
 古賀 いえ、人が集まるときだけでね。平生は事務員だけです。それに金庫なんか置い
てありました。空襲後は何か開けっぱなしになったままでしたが (笑)。

 ――じや、古賀さんの所には兵隊はいなかったんですか。さっき首里の牧師さんのお
宅に戦車部隊長がいたとおっしゃってたんですが、そういうことはなかった?
 古賀 ええ、そういう形でならうちにもいましたよ。部隊としてはいませんでしたが。海上
保安庁みたいな所の部隊長――大尉ぐらいですがね――。その部隊は商船会社の二階
にいましたが、部隊長はうちで寝泊まりしていました。

 ――そういう人は、まあお客様扱いで‥…・
 古賀 ええ、まあそうですね。その人は、キスカでやられて、またこっちでもやられるの
か、なんて言ってましたけど……

 ――それは何か割り当てみたいに配置されるんですか。
 古賀 ええ、うちはそうでした。

  ――大きな家には割り当てがあったわけですね。
 古賀 ええ、ええ。中馬さん、古野さん、新嘉喜さんとか……大きい所で三人、小さい所
で一、二人ぐらいだったんでしょうか。
 それとね、たとえばあした船が出るというんで兵隊さんが招集されて港に来たんだけれ
ど、海上の具合が悪くて船が出ないというときには、この近辺の家に割り当てがありまし
てね。たぶん畳数に応じてだと思いますが、兵隊の面倒を見ていました。一度などの私の
所に七十人の割り当てがあったんです。七十人と言われてもね、お茶腕(茶碗)も私のと
こにはせいぜい五十人分ぐらいしかないし、困っちゃうなあと思ってね…まあ、実際には
割り当てられたのは十八人ぐらいでした。十八人といったってねえ、その人たちは五晩も
泊って六日後の朝に出ていかれたんですが……。まあ、その人たちは何日もかかって、
ようやく鹿児島に着くことができたそうなんですが、うちに泊まった兵隊さんのなかには途
中でやられてしまった人たちもおりました。

 ――その兵隊さんは徴兵で?
 古賀 ええ。だからいい加減年輩の人も多かったですよ。
みんな地方から出てきた人でしてね。なかには、無事帰って
来られて、わざわざお礼に見えられた方もいました。

 ――そうすると、戦争中は、常にそういうことで駆り出されていたんですか。
 古賀 あっちこっちから兵隊が送り込まれてきたときですね。そういうときは、ご飯作り
やなにかでね。たとえば、一俵のお米を一度に炊いたりね……料理の仕方や盛り付けも
手際よく早くできるように随分工夫をしましたよ。で、そういうのに取り出されるのは、たい
ていは女中がいて子供のいない人に眼がつけられてね、向うの方でちゃんと名簿なんか
に付けられていてね。たとえば私に電話がかかってきたら、私から誰と誰に連絡をしろ、
で、そこからまた、誰と誰に連絡しろ、というふうにして、みんなが一度にいっしょに集まら
ないように、せいぜい二、三人のグループで、三々五々、港に集まるんです。で、港の空
いた蔵の中へナベやカマやお米などを運び込んでね……まあ、話の外でしたよ。
 ――ご婦人方は、主にそういうことをされていたわけですか。
 古賀 私は救急班長も六年間していました。なかには踊りやなんかの慰問専門のグル
ープもあったらしいですが……





(14)□ 信州へ疎開

 ――で、さきほど首里の牧師さんのお宅に避難されたとい
うことですが、その後はどうなさったんですか。
 古賀 それがね、牧師さんのお宅にいた武部隊の戦車部隊長が、私たちがそこへ行っ
て間もないうちに、こう言われるんです。「あした疎開船が出るから、当然疎開なされるで
しよう」。すると主人が「いや、ぼくは父の代からこの土地でお世話になっているから、疎
開する気持ちは毛頭ありません。家内も救護放としてお役に立てますし、どこにいてもお
手伝いはできますから」と言ったんです。そしたら、その部隊長が「バカも休み休み言って
下さい」と、怒鳴られるんですよ。
 で、「どうしてですか」と聞き返したら、「今の戦争は女や年寄りに手伝ってもらってでき
る、そんな生やさしい戦争だと感違いしないで下さい。それだけのお気持があったら、あ
んた方二人が疎開したら二人分の口が兵隊にまわる。だから口減らしのためだけでも疎
開すべきだ」と言うんですね。
 主人は「失礼だ。そんなふうに取るなら、何で手伝うものか!」と言ってね、それで疎開
したんです。今になって考えると、この部隊長は命の恩人だと思います。

  ――それは十月の何日でした。
 古賀 十月十七日だったと思いますが、二年ほど前からお親しくしていたカモメの艦長
が使者をよこされて、今度は疎開なすったほうがよいでしょう、ということで、そのお船で
疎開しました。

  ――部隊長は以前からご存知でした?
 古賀 古仁屋に慰問に行ったときから海軍の方とは親しくなっていましたから。みなさん
が港へ交代で見えられるでしょう。そのたびに私たち、迎えに出ていたんです。女子青年
団のメンバーを呼んでは、お給事を手伝ってもらって、踊ったり三味線をしたり、一晩楽し
くしてお帰りになっていました。そのなかのお一人で、下士官をされていた人が、ちょうど
空襲で焼けぼっくいで首里の疎開先を書いといたんですが、それを見て、探し探し首里に
来られたんです。
 で、いよいよ疎開というんで、ここの港に来たんですが、砂糖やなんかたくさん積んであ
ったのが焼けてしまってね、一面に砂糖が溶け出して、歩くとべトべト、脚がそのなかに
埋まるんです。それで船に乗りました。船の中で、あんなに砂糖があったらなあ……と思
いましたよ。

 ――船は一般の疎開船ではないんですね。
 古賀 疎開船を四艘で警備していて、その四艘のうちの一つでした。艦長は謡曲のお
友だちでした。

  ――じや、他には疎開者は乗っていなかった?
 古賀 他には西の町内会の事務員と、それに艇長をやっていた人が乗っていました。
その人は四月十八日の東京空襲のとき哨戒艇の艇長をしていて、かろうじて助かったん
だと言っていました。

 ――寄留商人の人たちは、だいたいいつ頃から疎開をしていましたか。
 古賀 寄留商人は家族の方が疎開していましたね。

 ――いつ頃ですか。
 古賀 だいたい空襲の一年ぐらい前ごろからですかね。それで、寄留商人の方は二、三
人、たとえば番頭と息子、子女と母親というふうに、誰かが死んでも誰かが生き残れるよ
うに、上手に割り振りして疎開させていました。

 ――じや、十・十空襲のあとには、もうほとんどの人が疎開をしていたわけですね。
 古賀 だいたいそうですね。みなさん鹿児島、熊本、宮崎、大分に行かれたんではない
ですか。

 ――で、古賀さんの疎開先は?
 古賀 私は須坂、その頃はまだ上高井郡井上村幸高といってましたが、すぐ須坂市に
なりましてね。長野布から南へ三里ばかりのところでした。そこでも古賀は、小学校なん
かに引っばられて、野球やなんかの指導をしていましたよ。





(15)□ 戦後・沖縄へ引き揚げ

 ――沖縄に引き揚げて来られるのは、かなり経ってから?
 古賀 十八年、経っていましたよ。
――その十八年間は、やはり看護婦をされて……
 古賀 はい。こちらに帰る前の十年間は、そうしていました。
 はじめの七年は信州にいて民生委員やお花の指導員、それから大阪に八ヵ月ほどい
ました。大阪には昔、古賀の父が面倒を見ていた人の甥がいて、その人が呼んでくれた
もんですから。大阪府下の吹田という所だったんですが、行ってみますと、荷物を運ぶの
に付いて歩くのが古賀の仕事でしてね、そういうのは古賀にはぜんぜん向いていないこ
とは、私はよく知っていましたから。それで、これくらいの生活なら私にまかせて下さい、
私が働いて、あなたはどこへでも遊んで歩けるようにしてあげるから、ということでね、そ
れで東京へ出て、看護婦を勤めたんです。「月給ここに入れておきますよ」というと、古賀
は好きな時に使って、まあ自由にやっていました。古賀にも女房に養なってもらってると
いう気持ちはなかったはずです。

 ――その頃、沖縄の情報は入ってきたわけですか。
 古賀 ええ、まあ、たまにですけどね。古賀は、沖縄には米軍がいるのに、なんで敵の
いるところに行けるか、なんて言ったりしていましたけどね。

 ――すると、その間には一回も沖縄を見に来られることはなかったんですか。
 古賀 ええ、ありませんでした。

 ――全財産はこっちに置いたままですね。
 古賀 全財産ていったって、商売しているわけじゃないから、ただ土地だけですね。八
重山の支店も二九〇坪ほど残っていたんですがね、向うにいた支店長が社長になって店
を始めていてね。

 ――すると、海産物問屋か何かを?
 古賀 ええ、やってました。うちの店も使い、蔵も使い、そのまんま……。そっちが本店
で、那覇にはまた南海商会というのがあって、それが支店としてやってたんです。で、とも
かく地料として、月々三千円ほどですか」送っていましたがね……その話が出たときに、
私が「あんた、少し言ったらどうなの」と言ったら、古賀は「まああれも苦労してやり出した
んだから、やらしておけはいいじゃないか」というふうでね……。文句を言いませんでし
た。結局、安くでお貸ししたんですがね。ところが、私たちがこっちへ帰ってきたら、間もな
く本店の方も支店の方も死んじゃったんですよ。

 ――さきほど、沖縄には米軍がいるから帰らないとおっしゃっていましたが、戻って来よ
うと決心されたキッカケは?
 古賀 向うにいる間に、今が稼ぎ時だなんて言って来られる方が見えたりしたこともあ
ったんですが、直接のキッカケは当間重剛さんなんかが、いつまでぐずぐずしているん
だ、もう帰れよ、自分の土地も戻ってくるし、アメリカも、君が思ってる、そんなもんじゃな
いよ、とにかく一度帰って来て付き合ってみたまえ、と。そして野球と庭球の大会に招待し
て下さったんです。昭和三十七年に……
 で、その翌年にこっちに帰ってきました。帰ってきて、あっちこっちの外人さんともお付き
合いしてみて、古賀が「アメリカは思っていたより、みんなとても親切だ」と言うんです。キ
ャラウェーさんとは、まあ会議やなんかでご招待のあったときに付き合う程度でしたが、ワ
ーナーさんとはよく付き合っていて、感じのいい人だなあと言っておりましたね。

 ――引き揚げて来られてから、古賀さんは何をされていたんですか。
 古賀 それがね、古賀はロータリーの会員に推薦されたんですが、会員になるには何
か仕事がなきゃいけないというんで、さっき話に出た昔うちの番頭だった人のしている店
の取締役というのを、名前だけもらってやってました。
 ――すると、こちらへ来られてからは、古賀さんは悠々自適といいますか、名誉職をさ
れて……
 古賀 ロータリーの書記をやらされてね。それで、ずっとまじめにやっていましたよ。他
に用事がないんだから……。自分の好きなことをやったんだから、まあまあだと思ってい
るんです。

 ――土地はどうなっていました。区画整理も済んでいて…
 古賀 ええ、区画整理されて、そして車置き場になっていたんです。うちの土地の一部で
車置き場をやっていた人は、安謝かどこかに引っ越されたらしいんですが、行かれると
き、長いこと拝借しましたと、お礼の一言もなく、出て行かれました。

 ――じや、無断借用していた?
 古賀 ええ、まあ無断借用です。で、いちばん向うにいた人は、やっぱり車置き場してい
たんですが、自分たちの借りていた分は、地料を払ってらっしゃいました。

 ――そうしますと、帰ってきたときは、こちらにはいらっ しゃらなかったんですか。
 古賀 ええ、帰って来てからは十年ぐらい借家をしてました。国場ビルの隣りのちょっと
空地のあろ所に……。十坪ぐらいでしたかね。八畳一間と四畳半と三塁の家でした。小さ
い家だったんですが、あそこは交通に便利ですからね、譲ってくれと頼んだんですけど、
どうしてもダメだと言うもんで……。で、もう年だしね、いつなんどき倒れるかもわからんの
に、私、借家から葬式を出すのは嫌よ、と言ったんです。そしたら、じや作るかというん
で、この家を作ったんです。





(16)□ 尖閣列島の処分

 ――黄尾嶼は米軍の演習場になっていますね。あれは最初から、まだ本土におられる
ときから、軍用地料は入っていたんですか。
 古賀 あれはね、初めはぜんぜん入らなかった。それで、古賀の友人に三井物産の砂
糖部の頭をやっている人がおりました。その人に頼んで書類を書いてもらって申請したん
ですよ。そしたら、すぐにその月から出ました。驚くはど早かったですよ。

 ――尖閣を処分されようと思ったのは?
 古賀 あれはね、栗原さんが、私どもがまだ国場ビル隣りにいる頃、二度ほどお頼みに
来られたんですが、古賀はそっけない返事をして「売らない」としか言わなかったそうで
す。そしたら、その後、三年ほどしてから、何度も見えられましてね。で、あんまり言うもん
だから、南小島と北小島、あれはいま何かしようと思っても何も出来ない島だけど、それ
でもよかったら、その二つはお譲りしましょうと言ったんです。
そしたら、結構です、その代わり、魚釣島をお売りになるときの証文代わりに頂いておくと
いうわけなんです。で、その二つはお売りしたんです。そしたら、一昨年の八月、十月にも
見えられた。そのときは主人の具合が悪かったんで、そのままだったんですが、去年の
二月にもまた見えられたんです。そのとき古賀は、はっきりは言わなかったんですが、そ
れだけおっしゃられるんなら、まあ、へんなことにお使いになられないんだったら……とい
うような意味のことを言ったんです。
 そのあと三月五日に古賀は亡くなりましてね。で、亡くなったあと四月にまた来られたん
で、まあ、古賀もああ言っていたし、私もいつなんどきお参りするかわからないし、古賀の
言うところを含んで下されば、ということでお譲りしたんです。

 ――何に使うということはお聞きになりましたか。
 古賀 純枠の金儲けというか、人に転売するようなことは絶対にしないということでし
た。まあ、あの頃から石油の話はすでに出ていましたしね、石油が出ることは確かなんで
すから。それはどういうふうになるかはわかりませんけれど…。
  あの方は山やなんかもたくさん持っておられて、由緒のある家柄の方だそうですから、
何か新しい自分の好きなものを…やりたいんじゃないでしょうか。よくわかりませんけれど
ね。

 ――これまでをふりかえってみて、現在、沖縄をどういうふうにお感じになっていらっしゃ
いますか。
 古賀 第二の故郷……というより、ここが私にとっての故郷ですね。
  ――それでは、きょうは長時間、どうもありがとうございました。



 〔後記〕

 寄留商人は、沖縄社会にとってみれはいわばヨソ者である。それだけに、この人たちが
沖縄社会に与えた影響は決して小さくないにもかかわらず、彼らの果した役割を具体的
に明らかにするような作業はまだあまり進んではいないように思われる。まして、彼らの
構成する社会の内側からこれを見るというようなものはほとんどない。
 この章は、冒頭の設問の部分でも述べたように、『新沖縄文学』の特集との関連で企画
された聞き書きではあるが、古賀さんの話は、期せずして寄留商人の社会とその周辺の
ありようを浮かびあがらせてくれることになったと思う。










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尖閣諸島開拓時代の人々 (3)