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尖閣諸島の領有権問題


尖閣諸島開拓時代の人々 (1)




古賀 辰四郎 古賀辰四郎と大阪古賀商店
黒岩 恒 尖閣列島探検記事
尖閣列島探検記事(承前)
宮島 幹之助 沖縄県下無人島探検談
黄尾島
黄尾島(承前)@
黄尾島(承前)A
黄尾島(承前)B
伊澤 弥喜多
古賀 善次 尖閣諸島は私の所有地≠ナす
古賀 花子 寄留商人の妻として
奈良原 繁
尾瀧延太郎














『南島史学』第35号 南島史学会 1990年

古賀辰四郎と大阪古賀商店  (※1)

  望 月 雅 彦

    はじめに

 古賀辰四郎は明治十二年(一八七九)二月廃藩置県直前に沖縄に来島し、以後大正
七年(一九一八)死亡するまで、沖縄において、海産物の海外輸出・尖閣列島(※2)ほか
の無人島の開拓・万国博覧会等への積極的参加と多方面に活躍した人物であり明治四
十二年(一九〇九)藍綬褒章を下賜されている為、明治十二年(一八七九)前後より沖縄
に来島した他府県人の中でも比較的ポピュラーな存在であるにもかかわらず古賀辰四
郎の全体像を探求する試みはなされていないように思われる。

 一九七〇年代に海底油田に起因した尖閣列島の領有権論争がなされ、古賀辰四郎の
明治期の開拓が取り上げられるが、議論の性格上その内容は実効的支配の根拠として
であり、古賀辰四郎という人間についての考察ではないのである。

 この小論では古賀辰四郎の全体像を探求する試みとして@古賀辰四郎の生涯を区分
し彼の活動を概説することA沖縄来島以後の事業の推移を、従来、見落されてきた大阪
古賀商店との連携という視点で論述していきたい。


 一、古賀辰四郎の生涯

 古賀辰四郎の生涯を概観し区分すると左のようになる。
  (一) 出生より幼少年時代
  (二) 大阪在留の時代
  (三) 那覇寄留の時代
  (四) 尖閣列島開拓の時代
  (五) 藍綬褒章以後の時代
次に各時代につき順次概説していく。



  (一) 出生より幼少時代
 この時代は福岡県在住の時代である。古賀辰四郎は安政三年(一八五六)一月十八
日、平民・古賀門次郎の三男として福岡県上妻(こうずま)郡山内村(※3)(現在の八女市
字山内)に生まれた。

 私見では後述のように、長男国太郎・次男与助・三男辰四郎弟光蔵と尾滝家に嫁した
姉又は妹がおり五人もしくはそれ以上の兄弟であると考える。幼少年時代の古賀辰四郎
をうかがい知る資料は現在までの所、見出せない。従来の古賀辰四郎に関する記述で
は「福岡県八女郡に生まれ、家は代々中農であり、沖縄へは八女茶を商いに来た(※
4)。」とされているが、八女郡は誤りであり家代々の中農という点も疑問である。又辰四
郎は出生地に地縁の薄い人間であると考えられる。根拠は@現在の八女市宇山内の近
在の寺院に古賀門次郎・辰四郎の名では墓碑が確認できなかったこと(※5)。A古賀家
の跡を継ぐべき門次郎の長男国太郎が上阪し大阪古賀商店を経営し、大阪で物故して
いると思われる点である。代々中農であればその土地に執着したと思われる。


  (二)大阪在留の時代
 前述したように古賀辰四郎の初期の活動について、八女より直接沖縄へお茶を商いに
行ったというような記述のされかたが多く、大阪在留の時代にふれたものはないが、@
明治二十八年四月十九日(※6)、古賀辰四郎は大阪市西区より本籍を沖縄県那覇区字
西九十六番地(※7)に移転している。

  大阪市西区西長堀北通五丁目八番屋敷(※8)は辰四郎の兄弟の国太郎・与助が経営
していた大阪古賀商店の所在地である。Aまた戸籍によると辰四郎妻トメ(※9)の実家が
京都であり、京阪地方で辰四郎で活動していた時に知り合ったものと思われる。

 福岡より何年頃、大阪に来たかは不明であるが、沖縄に渡る明治十二年(一八七九)
二月以前に京阪方面で商業活動もしくは勉学に就いており、その時の知織、体験が以後
の辰四郎の生涯に決定的な影響を与えたと考えられ注目すべきである。


  (三)那覇寄留の時代
 この時代は明治十二年(一八七九)二月より、那覇に本籍を移転する明治二十八年
(一八九五)四月までの約十六年間を指す『古賀辰四郎へ藍綬褒章下賜の件』(以下、
『藍綬褒章資料』と略)を見ると次の記述がある。


  「福岡県出生ノ者二有之始メテ沖縄県下ニ来リ海産物ノ採集捕獲ノ業二従事シタル ハ明治十二年二月ニシテ時恰モ琉球藩ヲ廃シ沖縄県ヲ置キタル年ニ属セリ是ヨリ先本 人ハ沖縄各群島ニハ必スヤ幾多有用ノ海産物ノ蔵畜アルヘキヲ想ヒ興業ノ意ヲ決シテ 本島ニ来航スルニ至レリ其着スルヤ自ラ沿岸ヲ巡視シ漁夫ヲ傭ヒテ海中ヲ探ラシメタル ニ果シテ産物ノ豊富タルヲ認メ茲ニ初メテ本業ニ従事スルノ端緒ヲ開ケリ当時本島二 於ケル一般ノ民度尚未タ幼稚ニシテ就中経済思想発達セス是等天産物ヲ利用スルノ 念殆ンドナク僅ニ自給自足ヲ以テ満足セルノ状態ニ在リシガ故ニ海中ノ産物ヲ採集ス ルモノナキノミナラス彼ノ工業用トシテ高価ノ販路ヲ有スル貝類則チ夜光貝、高瀬貝、 広瀬貝等ノ如キ莫大ノ貝殻ハ唯其肉ヲ食シタルノミニテ之ヲ放棄シ聯カモ愛惜スル所 ナキ有様ナリキ本人ハ先ヅ是等ノ状態ヲ目撃シテ慨歎シ本島ノ海産物ヲ採収シ之ヲ利 用シテ国家ノ福利ヲ増シ県民ノ経済ラ進メサルヘカラストナシ爾来三拾年間ノ星霜ヲ此 ノ目的ノ為ニ消費シ其間幾多ノ辛酸ヲ嘗メ艱苦卜闘ヒ経営ノ多クヲ尽シ以テ本県人民 ニ海産業ノ有利ナリヲ知ラシメ兼ネテ県下ノ無人島タル尖閣列島ノ経営及ビ沖ノ神島ニ 於ケル事業ノ基礎ヲ作ルコトヲ得タリ」
  「明治十二年五月那覇ニ本店ヲ構へテ附近ノ人民ヲ誘導シ是等無数ノ貝殻類ヲ購 入スルコトニ着手セリ之レ本人ガ薄資ヲ以テ孤身奮闘能ク今日ノ成功ヲ贏チ得タル事 業経営ノ第一歩ナリトス」
  「本人ハ是等ノ貝殻カ先ツ外国商館向ノ適当品ナルヲ見込ミ之ヲ神戸港ノ外商ニ齎 ラシ協商スル所アリ此等ノ貝類年々三四拾万斤ヲ売込ミ其売上代金ヲ以テ海産物ノ開 拓事業ヲ進捗セシムルノ資ニ供シタリ」

 これら『藍綬褒章資料』からの引用文で次のことが明らかである。(一)古賀辰四郎は沖
縄には必ず多種類の有用な海産物が豊富にあるものと来島以前に確信していたこと。
(二)来島すると直ちに辰四郎自ら漁夫を傭い沿岸の潜水調査を開始していること。

 この二点によりお茶を商に来て偶然に注目したのではないことは明らかである。(三)夜
光貝、高瀬貝、広瀬貝等の貝は沖縄では当時、貝肉を食料とし貝殻は放棄されていたこ
と。(四)辰四郎はその貝殻類が工業用として海外輸出するのに適当であると見込むだけ
の知識を有していたこと。(五)明治十二年(一八七九)五月、那覇に古賀商店の本店を置
いたこと。(六)貝殻類を地元民を誘導しその採収にあたると共に神戸外商(外国商人)と
協商し貝殻類の海外輸出を来島後の最初の事業としたこと。(七)貝殻の海外輸出の利
益を海産物の開拓の資金に充当していたこと。

 これら初期の事業、夜光貝殻の海外輸出について考察してみたい。『大日本外国貿易
年表』(大蔵省編纂・明治十五年より明治三十一年)(※10)を見ると、海外輸出品目とし
て夜光貝殻が現われるのは明治十六年からであり、海外輸出品目より消えるのは明治
三十一年である。よって本格的に夜光貝殻の海外輸出されていた期間は、明治十六年
より明治三十年の間の十五年間となる。(表(一)夜光貝殻海外輸出推移表、表(二)明治
十七年夜光貝殻国別輸出表、参照)

 ここで問題となるのは『大日本外国貿易年表』における夜光貝穀の輸出数値が、すべ
て古賀辰四郎(那覇古賀商店)と後述する大阪古賀商店によるものかどうかという点で
あるが、次の二つの理由により初期の段階では、ほぼ古賀辰四郎と大阪古賀商店が夜
光貝殻の輸出を独占していたと考える。(一)夜光貝の産出地は奄美以南十〜二十fmsで
あり、主産地を沖縄と限定できること。(二)(※11)前出したように、古賀辰四郎が来島する
までは、それらの貝穀が廃棄されていたという事実である。また八重山古賀支店の記述
を引用すると

  「其ノ後是等ノ貝類ハ次第ニ好況ヲ以テ外商間ニ迎へラレ大ニ販路ヲ拡大シ得ルノ 見込確定シタルヲ以テ明治十五年二月県下ノ最遠隔離島ノ一タル八重山石垣島ニ支 店ヲ設置シ島民ノ漁業ヲ勧奨シ傍ラ本業タル貝類其他海産物ノ輸出ニ努力シ大ニ啓発 スル所アリシニ県民中漸ク斯業ノ有利ナルヲ覚エルモノアリテ直接外商ニ販売ヲ契約 スルモノモ顕ハルルニ至レリ」

 那覇古賀商店・八重山古賀支店ではこれら『藍綬褒章資料』に見えるように、主業務を
夜光貝殻等の貝殻採収(買い入れ)とし、次第に鯣(するめ、※ルビは管理者)・鼈甲(べ
っこう、※ルビは管理者)・鱶鰭(ふかひれ、※ルビは管理者)・海参(いりこ=ほしなま
こ、※ルビ説明は管理者)等の水産物の加工製造の業務を付加していったのである。勿
論、明治十七年(一八八四)以降、尖閣列島に年々労働者を派遣し信天翁等の鳥毛採
収を行なって来たのであるが、この時代の鳥毛採集量を明示するものは現在までの所
見い出せない。

 那覇寄留の時代では、夜光貝殻等と加工、製造された水産物を大阪古賀商店へ送り
だし大阪古賀商店ではそれらの産物を外商を経由して海外輸出し利益を那覇古賀商店
に還流し、古賀辰四郎はそれを資金として水産物の調査開拓、大東島、尖閣列島ほか
の無人島の探険を行なっていたのである。


 (四)尖閣列島開拓の時代
 この時代は明治二十八年(一八九五)、古賀辰四郎が沖縄県に本籍を移転してより、
藍綬褒章が下賜される明治四十二年(一九〇九)までの約十四年間を指す。明治二十
八年(一八九五)四月十九日付で前述の大阪市西区より沖縄県那覇区字西九十六番地
に移転した。この事実は、那覇寄留の時代にピリオドを打ち、一生涯を沖縄県における
事業、すなわち尖閣列島開拓経営を中心とした沖縄県の海陸産物の開発、品質の向上
に捧げようという決意の表われと考えられる。『藍綬褒章資料』によると、

  「本人ハ先ヅ無人島探検及ヒ其ノ経営ガ尋常ナル準備ノ下ニ行ハルヘキニアラサ ルヲ知リ其初志ヲ確実ニ貫徹センガ為ニハ永住的経営ヲ為スノ必要ヲ認メ明治二十八 年四月本籍ヲ此ノ地ニ移シ専心斯業ニ従事スルコトトセリ」

とある。

 本籍移転の時点では、まだ尖閣列島開拓の認可はおりていない。明治二十七、八年の
戦役(日清戦争)が日本側勝利に終り、明治二十八年(一八九五)四月十七日の下関条
約日清講和条約及び付属議定書調印の直後に本籍を移転したという事実は非常に興
味深い点である。

 『藍綬褒章資料』には尖閣列島開拓認可にいたる経過は次のように記されている。
 
 「明治二十七年同嶋開拓ノ認可ヲ本県ニ出願シタリ然ルニ当時全島ノ所属ガ帝国ノ モノナルヤ不確定ナリトノ理由ヲ以テ却下セシニツキ更ニ本人ハ内務農商務両大臣ニ 宛テ願書ヲ提出セリ而シテ傍ラ上京シテ視察ノ実況ヲ親シク具陳シ開拓ノ認可ヲ懇願 セシモ尚ホ許可ヲ与へラルルニ至ラサリシガ時偶々明治二十七、八年戦役ハ終局ヲ告 ゲ皇国大捷ノ結果トシテ台湾島ハ帝国ノ版図ニ帰シ尖閣列島亦我ガ所属タルコト明治 二十九年勅令第十三号ヲ以テ公布アリタルニヨリ直チニ重ネテ同島開拓ノ認可ヲ本県 ニ出願シ同年九月之ガ認可ヲ与へ茲ニ漸ク本人ガ同島ニ対スル多年ノ宿志ヲ遂クル コトヲ得タリ」

 とある。

 日清戦争の勝敗の帰趨によって、尖間列島開拓の認可が受けられるものと事前に察
知していたとも考えられる。明治二十九年(一八九六)九月、尖閣列島開拓の認可を受
け本格的に開拓に着手することになる。尖閣列島開拓は古賀辰四郎個人の事業でほな
く、古賀ファミリーの事業であるすなわち、古賀国太郎・与助(辰四郎の兄)・辰四郎・弟
光蔵そして尾滝延太郎(辰四郎の甥)の共同事業である。

 明治二十九年(一八九六)には伊沢矢喜太(※12)を雇い入れ、尖閣列島の本格的開拓
に備えた伊沢矢喜太は古賀辰四郎と同時期か、それ以前、尖閣列島に注目し開拓を志
していた者である。「沖縄県庁が出雲丸を雇ひ入れ吏員を之に搭乗せしめ実地に探検(マ
マ)したることありたるより、伊沢某なるもの私かに之れが経営を試みんとして奔走に勉め
たることなきにあらずと雖ども、然かも其奔走は強ちに効を奏せざりし(※13)」

 伊沢矢喜太が古賀辰四郎より劣っていたために、尖閣列島開拓に成功を得られず、雇
い入れられたのではなく、辰四郎のようにファミリーの支援体制がなかったために、個人
での開拓を断念せざるを得なかったのであろう。換言するならば尖閣列島開拓は個人の
事業としては手に余るものであることを、伊沢が証明していると言える。尖閣列島渡航の
経験もある伊沢の参加はそれ以後の列島開拓に大きな力となったものと思われる。

 尾滝延太郎(辰四郎の甥)も明治三十年前後より辰四郎のもとで尖閣列島開拓に協力
していたのである。「其後、明治二十九年に至り古賀辰四郎氏前記伊沢を雇入れ、付す
るに糸満漁夫十数名を以て同島に派遣し(中略)翌三十一年には大阪商船会社汽船須
磨丸を特に黄尾嶼へ寄航せしめ移住労働者二十八名を送れり、同氏の甥、尾滝延太郎
氏又渡島し、専ら該島の計画に力めたり、尖閣列島のやや精細なる地図あるは氏力多
に居る(※14)」

 古賀辰四郎の尖閣列島開拓は当時の沖縄に在留していた人々の目にどのように写っ
たのか『藍綬褒章資料』より引用してみたい。
 
 「県民ノ一部ニハ本人ガ今回ノ計画ヲ以テ軽躁無謀ノ業ナリト非難詆笑シ或ハ悪言ヲ 流布スルモノサへ現ハルルニ至り」

 とある。

 当初、成功を危まれていた尖閣列島の開拓も幾多の困難を克服し、年々成果を見るに
至るのである。この時代における尖閣列島開拓以外の事業について、特筆すべきものを
上げると次のようになる。(一)明治三十二年(一八九九)十一月、奈良原沖縄県知事に
随行して南清各方面及び香港等に於ける海産物の状況を視察する(※15)。この南清貿
易調査の視察旅行は古賀辰四郎が計画したと思われる節がある。「不馴の土地の失策
話位の土産の頂上、知事一行及古賀氏を本役者と見立問の者に出さる我らが当然の職
務として(※16)」

 古賀辰四郎自身にとっては、自からがあつかっている海産物を、南清方面へ直輸出す
る方法を確立するためであったと思われる。(二)明治三十七年(一九〇四 )七月、辰四
郎は広運株式会社取締役に選出され就任することとなる(※17)。広運株式会社は尚家
資本の海運会社であり、辰四郎は沖縄の海運業界にも影響力を持つこととなる。(三)明
治三十八年(一九〇五)七月、沖縄興業株式会社監査役(※18)に就任す。沖縄興業株
式会社は貯蔵食品、砂糖の製造販売を目的とする会社である。

 これまでの沖縄県における古賀辰四郎の事業に対し、明治四十二年(一九〇九)、褒
章条例第一条に拠って藍綬章が下賜される。『藍綬褒章資料』によると

 「一般水産業ノ進歩ニ資シ漁民ヲ稗補スル事尠カラス洵ニ公衆ノ利益ヲ興シ成績著 明ナリトス」(傍点、引用者)

 とある。


  (五)藍綬褒章以後の時代
 この時代は藍綬褒章の下賜より大正七年(一九一八)、辰四郎が死亡するまでの期間
をさす。これまでの古賀辰四郎の事業は一貫して、沖縄の産物を大阪古賀商店を通じ海
外(一部は県外)へ輸出するというパターンであったが、沖縄県内での消費を目的とした
もの、沖縄県民の生活と密着した商品を取り扱い始める。その一つは砂糖であり、もう一
つは甘蔗専用の肥料である。明治四十三年三月二日付『琉球新報』の砂糖相場欄に古
賀商店の記載が有る。(記事@参照)同年六月十五日付『沖縄毎日新聞』に掲載の古賀
商店広告に「甘蔗専用肥料、星印肥料特約販売店」とある。

 この変化は重要である。この頃より辰四郎は尖閑列島経営の先行に不安を持ちはじめ
た為に、従来のパターンの一部修正し始めたと思われる。尖閣列島の主たる事業であっ
た、信天翁の鳥毛の採集は、明治三十三年の時点で信天翁の数は大幅に減じている
(※19)。乱獲と猫害により鳥毛の採集事業は中止のやむなきに至り、「アジサシ」「カツオ
ドリ(ミズナギドリ)」の剥製鳥・鳥油・鳥肉肥料の事業は、明治四四十三年の狩猟法(※
20)に、保護鳥獣の種類が大巾に増加され、その中に絶対的保護鳥獣として名前がある
ので、それ以後にはこれらの事業は継続しえなくなったと推定できる。明治四十三年(一
九一〇)三月二十二日、沖縄永産組合創立総会において、古賀辰四郎評議員となる(※
21)。明治四十四年(一九一一)一月二十八日付『琉球新報』紙上に沖縄肥料株式会社
監査役として古賀辰四郎の名前がある。沖縄肥料株式会社は肥料の販売と貸付を目的
として明治三十五年(一九〇二)三月に設立された会社である(※22)。大正期にはいる
と、御木本幸吉と共同して真珠養殖事業を県内で始めるが、どの程度、辰四郎が関与し
ていたかは不明である。

 古賀辰四郎と御木本幸吉の関係は、御木本幸吉の伝記(※23)によると、明治二十年
(一八八七)、琉球泡盛を古賀辰四郎と結んで、名古屋に特約店をもうけ販売していた
が、内地と同じく税がかかるようになり、採算が取れなくなってやめたと記されている。大
正七年(一九一八)八月、古賀辰四郎は死亡した。なお古賀辰四郎の死亡年月日につい
て、沖縄タイムス社『沖縄大百科辞典』の「古賀辰四郎」の項目では一九一八年(大正
七)八月十五日、死亡とあるが、大正七年は確定できるが、月日までは確定できない。八
月十五日以前という可能性も充分に考えられる。その理由は次のようである。大正七年
八月十五日当時の現在する新聞資料(マイクロ化されたものも含む)で一般閲覧可能な
ものは『先嶋新聞』(喜舎場永c氏所蔵)のみであるが、(沖縄県内発行の新聞に限定)
その『先嶋新聞』大正七年八月十五日号には欠損があり、その欠損部分が古賀辰四郎
の訃報の可能性が高い。しかし八月十五日号に訃報が掲載されていたとしても、『先嶋
新聞』は日刊ではなく月三回、五の日発行であるから、八月十五日死亡とは限らないの
である。古賀辰四郎の死亡年月日は大正七年八月五日より八月十五日の間と推定され
る。





  二、古賀辰四郎と大阪古賀商店

 尖閣列島開拓を含む来島後の沖縄における古賀辰四郎の一連の事業は、辰四郎一
人の事業ではなく大阪古賀商店との緊密な連携によるものである。現在までの調査研究
では大阪古賀商店との関連において古賀辰四郎をとらえ論じたものを見出すことが出来
なかった。しかし大阪の辰四郎の兄の存在を示すものはある。次に引用する二点であ
る。(一)『琉球新報』明治三十三年十月一日付の寄留商人案内の記事によると「古賀辰
次郎氏は大分県の人にして実兄与助氏は大阪にあり商業は主に海産物なるを以て久し
き以前より糸満人を雇ひ無人島付近に於て漁猟をなさしめ且つ開墾事業を企ち居れり古
賀商店の支配人は尾滝円太郎氏にして同氏は此程商業視察の為め古賀辰次郎氏と支
部へ渡航し同地に於て英語研究の必要を感じ目下京都に於いて勉強中なりと云う(※
24)」とある。(二)新崎盛暉編『沖縄現代史への証言』下、沖縄タイムズ社一九八二年発
行、所載の辰四郎の長男善次の妻花子の証言である。

 古賀花子の証言の一部を引用してみたい。

 古賀 いえ、大阪の店からアメリカやなんかに送って
いま
    した。
 ―― じゃ、古賀商店の本店は那覇にあって
 古賀 そうです。
 ―― 大阪は支店ということで?
 古賀 いや支店というより、辰四郎のお兄さんが大
阪の店
    にいましてね。そこへ送り付けていました。その

    兄さんという人は、上等の鰹節なんかが入る
と、東
    郷元帥に贈り届けたりしたそうですよ。すると執

    の名前でお礼状来たそうなんです。でもほんと
は執
    事はいなくて、ご自分でお書きになっていたらし

    んです。字を比べてみたら、やっぱり東郷元帥
の字
    だとか言っていました。
 ―― 大阪ではお兄さんがみて沖縄は辰四郎さんが
みて・・・
    だから物を送るには大変便利であったわけです
ね。
  窓口があって(傍点、引用者)


 前出の『琉球新報』寄留商人案内では明治三十三年十月一日、当時大阪には実兄与
助がおり、那覇古賀商店には尾滝延太郎が支配人をしていたことがわかるが、実兄与
助が大阪のどこにいたのか、尾滝延太郎が辰四郎の甥であるかどうかは不明である。古
賀花子の証言では、大阪に辰四郎の兄の店があり、その店より海外輸出をしていたこと
が解るが、兄の名前も、大阪の店(大阪古賀商店)の所在も知ることはできないのであ
る。

 古賀与助の実在については、明治三十六年(一九〇三)第五回内国勧業博覧会(※25)
において古賀辰四郎は海産物を出品し受賞するが、大阪より貝釦を出品、受賞者の中
に古賀与助の名前があり、その住所は、古賀辰四郎の大阪における本籍と同一である。
そのことにより大阪古賀商店の所在と前出『琉球新報』寄留商人案内の「実兄与助」と
記載されていることにより辰四郎の二人の兄のうちの一人であることが確認できるので
ある。

 さらに大阪古賀商店を遡って調査していくと古賀国太郎という名前が出現する。大阪古
賀商店・古賀国太郎・与助の名称は次の資料により見出すことができる。年代順に列記
すると左記のようになる。

 @明治二十六年七月二十一日『大阪経済雑誌』大阪経済雑誌社(東大明治文庫所
蔵)
 A明治二十八年『The TRADE DIRECTORY of KWANSAI』bySHINYEI −SHA、
 B明治二十九年、同右
 C明治三十四年十二月『大阪商工人名録』府立大阪商品陳列所
 D明治三十五年十月『大阪人士商工銘鑑』大阪五二会館銘鑑発行所
 E明治三十八年四日『大阪商工人名録』府立大阪商品陳列所、
 F明治四十年三月同右
 G大正十年十二月『大阪営業別電話番号簿』十字屋出版部、
 (A〜G、国立国会図書館所蔵)
 H大正十年『大阪商工名鑑』大阪市役所商工課編
 I同大正十二年版、J同大正十三年版、O同大正十五年版、
 (H〜Q、大阪府立中之島図書館蔵)

 まず古賀国太郎の存在について、@の『大阪経済雑誌』(明治二十六年)では営業主
は古賀国太郎であり荷受問屋である。(広告@を参照)それがA、Bの『The TRADE 
DIRECTORY of the KWANSAI』では貝穀専門の貿易商を衣替えしている事実である。
(広告Aを参照)これは明確に古賀辰四郎(那覇古賀商店)と大阪古賀商店との連携を
示すものである。又明治二十六年には大阪市西区立売堀南通五丁目十二番屋敷にあ
った所在地が明治二十八年までには、大阪市西区西表堀北通五丁目八番屋敷に移転
している点は非常に興味深い。この地区は玉造橋北詰と呼ばれ、広運会社(尚家資本
の海運会社)の大阪出張所があり尚家の大阪における拠点の一つであった。

 尚家と古賀辰四郎の関係は、このころ明治二十年代にはすでにあったものと思われる
(※マ→。)前述したように、後に古賀辰四郎は広運会社取締役に就任し沖縄の海運業に
影響力をもつようになる。

 明治三十年代にはいると、古賀国太郎の名前に変わって、大阪古賀商店の営業主とし
て古賀与助が登場する。この時期、何らかの事情により与助が大阪古賀商店を受け継
いだであろうと推定することことができる。
 そして、それらの経緯により古賀国太郎は古賀門次郎の長男、すなわち辰四郎にとっ
て長兄であり、与助は次兄であると考えるのである。

 前出した資料AよりKまでの大阪古賀商店の営業品目(表B大阪古賀商店、営業品
目一覧表、参照)を見ても解るように、大阪古賀商店は古賀辰四郎(那覇古賀商店)の
事業と不可分である。大阪古賀商店はKの資料によれば大正未年頃まで商業活動を行
なっていたことがわかる。

 次に那覇古賀商店と古賀支店(八重山)とについて述べる。明治十二年五月に古賀辰
四郎は郵覇に本店を置いた。この記述から連想すると家印(商標)のついた暖簾が下
り、小僧たちが立ち働き、店頭には商品が山と積まれていると考えがちであるが、初期
の那覇古賀商店・古賀支店(八重山)共、現地駐在事務所のようなものであったと思わ
れる。

 古賀辰四郎自身が古賀商店という名称を『琉球新報』の広告で使用し初めるのは、明
治三十九年(一九〇六)からである。それ以前にも古賀辰四郎は「無人島出稼人募集」
の広告を『琉球新報』に掲載するが、その際は古賀辰四郎個人としてであり「拙宅」という
表現も散見する。那覇古賀商店が実質的に商店としての体裁が整ったのも、明治三十
九年頃からである。八重山(石垣島大川)の古賀支店も明治十五年二月に置かれるが、
暖簾すら出していない。その事実は次の記述から間接的に証明することができる。

 喜舎場永c『新訂増補、八重山歴史』によると「当時浜崎商店で印象深いのは、綿製
布に■の商標のある「暖簾(ノレン)」を軒下につるしてあった事である。これが八重山に
於ける「のれん」の始めである。」(四一五ページ)とある。浜崎商店は明治十八年、古賀
支店の近く大川の海岸端に開店された。なお古賀支店(八重山)には附近の離島よ島民
が海産を売捌きに来ていたとの調査報告(※26)もある。

 再び古賀花子の証言を引用すると
 ―― で、こちらに来られてお二人で、古賀商店を
やられ
    るわけですが、主たるお仕事は陸海産物問
屋それに
    海陸保険会社代理店ということですか。
 古賀 そうです。それで私が来たとき母といっしょ
でした
    が、いきなり来てみますと、店には何もないん
です
    ね。で、母が何をしている店か聞くんです。そ
れで
    私もよくわからないと言ったもんだから、母は
「ど
    うして知らないところに来たのか、おまえは前
にも
    沖縄にいたから、何もかも知っているのかと
思って
    自分は信用して何も聞かなかったのに」と、
ひどく
    驚いていました。今の人から見れば考えられ
ないこ
    とでしょうけど、そんなものでしたよ。ああゆう

    は船が入ると全部積んでいってしまって倉庫
が空っ
    ぽになりますからね。そういうところへ、いき
なり
    来たものですから……
 ―― お店には古賀さんは立たなかったですか。
 古賀 ええ、うちはその主義にしました。(傍点、引
用者)

 再度、取り上げたのは大正八年(花子が嫁入りした年、古賀辰四郎死亡の翌年)当時
の那覇古賀商店の状況を明らかにしたかった為である。花子は証言の中で嫁入りに来
たが那覇古賀商店には何も(商品)なかった。又船が入ると全部積んでいってしまって倉
庫が空っぽになると言っている。集荷した沖縄の物産を全部船積みしてしまう。そして大
阪古賀商店へ送る。大阪古賀商店との関連で前述したように古賀辰四郎死亡後もその
パターンは基本的には変わっていないのである。


 結 語

 前半は古賀辰四郎の生涯のラフ・スケッチである。古賀辰四郎は近代沖縄において多
方面の事業に関係し活躍している。この小論で取り上げられなかったものも多い。又、裏
付けが取れなかったものについては論及しなかったものもある。

 後半は古賀辰四郎の明治十二年来島以後の事業は、大阪古賀商店との密接な連携
の上で成立したものであることを論考した。重要な点は、古賀商店(大阪・那覇・八重山)
を総体としてとらえた場合、古賀辰四郎は沖縄県の産物を採収・加工改良して大阪古賀
商店へ送り出す役割を担っていた。すなわち商品開発・仕入部門の責任者的位置にあ
る那覇古賀商店のみでは商行為は完結しない。大阪古賀商店は販売部門であり、古賀
商店総体で商行為の主体であったと考える。その場合、古賀辰四郎はいわゆる寄留商
人(※27)(他府県より来島して、収奪したヨソ者)ではなく、沖縄県の水産業(加工業を含
む)等の先駆者であると考える。

 明治二十八年、本籍を沖縄県に移転してからの古賀辰四郎は沖縄県人として万国博
覧会(※28)・内国勧業博覧会、共進会等に水産加工物を積極的に参加・出品し続けるの
である。(論末古賀辰四郎年譜参照)古賀辰四郎は明治四十二年藍綬褒章を下賜され
る。沖縄県においては松田和三郎(※29)に次ぐものであるが、藍綬褒章(当時)下賜の
理由には大別をすると二つある(※30)。一つは「公同の事務」に勤勉した者、いま一つは
「公衆の利益」を興した者が下賜の対象となるのである。前者は公職にあるものが公務
を精励したという意味であり松田和三郎はそれに該当し、後者は民間人がその地域の
民衆の利益を興した場合に下賜され、古賀辰四郎はそれに該当するのである。

 沖縄県の水産及び加工が、従来の自給的なものから近代的な産業として自立するに
至る刺激を、古賀辰四郎が身をもって実践することにより、沖縄県民に与えたと考えるの
である。
 




 〔謝辞〕
 私の古賀辰四郎研究に当初より暖い御指導を賜わりました和田久徳先生、貴重なる
御教示を賜わりました喜舎場一隆先生、八重山の歴史家牧野清先生に深く感謝いたし
ます。貴重な資料の閲覧を心よく許可して下さった財団法人沖縄協会・法政大学沖縄文
化研究所、又大阪古賀商店の資料は大阪府立中ノ島図書館郷土資料室、大阪市西区
役所区民室広聴広報係の皆様に御協力をいただきましたことを明記し感謝いたします。





 〔注〕

 (1) 古賀商店は那覇と大阪にあり、混同をさける為、便宜上、大阪古賀商店・那覇古
賀商店という表現を用いた。なお八重山には古賀支店があった。
   古賀国太郎以後の大阪古賀商店について、西六連合振興町会編『西六(さいろく)い
まむかし』昭和六十一年五月一日発行では「もう一軒の海陸物産貿易で貝釦原料を明
治十二年から扱う古賀商店は古賀国太郎の没後、義雄に引き継がれる間は義雄の母モ
トが取扱高の多いこの老舗を支えた。」とある。

 (2) 尖閣列島は八重山群島の北西約一七五キロ、台湾の北東約一九五キロにあり、
東経一二三度二十八分から一二四度三十四分、北緯二十五度四十四分から二十五度
五十六分の間に点在する八個の島嶼である。開拓の対象となったのは、魚釣島、久場
島と南北小島である。『沖縄県史』別巻、沖縄近代史辞典、古賀辰四郎の項(二五二ペ
ージ)では、古賀辰四郎が尖閣列島の発見者とされているが、誤まりである。古賀辰四
郎が沖縄へ来島する以前、冊封使録にも記され、八重山では古くからイーグンクバ島と
呼ばれた既知の島嶼であった。

(3) 国立公文書館所蔵、明治四十二公文雑纂内閣四巻四』(配架番号二A―十三―一
一〇八)「古賀辰四郎へ藍綬褒章下賜の件」原本添附の戸籍謄本による。

(4) 『沖縄県史』別巻、沖縄近代史辞典、「古賀辰四郎」の項目(二五二ページ)

(5) 事前調査として郵便にて古賀門次郎、辰四郎の墓碑の存否を新勝寺、光明寺、真
如寺、に問い合せたが、いずれも否であった。各寺院共、八女市宇山内の所在である。

(6)(7)(8)(9)は(3)に同じ

(10) 国立国会図書館所蔵本を使用、欠損年次については、大蔵省の大蔵文庫所蔵本
により補う。

(11) 吉良哲明『原色日本貝類図鑑』保育社、昭和六十年発行

(12) 伊沢に関しては、高橋庄五郎『尖閣列島ノート』青年出版社、一九七九年十月十
五日発行に詳記されている。同著では」伊沢矢喜太ではなく弥喜太であるとしているが、
明確な資料の提示がないので、拙論では矢喜太を採用した。

(13) 『石垣市史』資料編近代四、新聞集成(三五七ページ)上段

(14) 宮嶋幹之助『地学雑誌』第十二輯第一四四巻、「黄尾島」、明治三十三年。

(15) 『藍綬褒章資料』履歴書

(16) 『琉球新報』明治三十二年十二月一日付

(17) 『藍綬褒章資料』履歴書、古賀辰四郎は明治三十七年、広運株式会社取締役就
任以後、大正五年、沖縄広運株式会社が買収されるまで継続して、尚家資本の海運会
社に関係し、沖縄の海運業界に影響力を持つわけであるが、尚家資本の海運会社につ
いては、『沖縄県史』別巻、沖縄近代史辞典、「沖縄広運株式会社」の項目(一一八ペー
ジ)、『那覇市史』通史編第二巻「第七章、第三節広運会社と沖縄銀行」(一八五ページ)
に記述されているが、両者共、誤まりがある。
   『沖縄県史』では「再び航路同盟が復活したため、広運会社は経営不振に悩まされ
つづけた。一九一二年(大正元)一一月には社名を沖縄広運株式会社と変更し」(傍点、
引用者)とあるが沖縄広運株式会社は大正元年に新規に設立された法人である。前身
の広運株式会社は清算結了と共に法人格を失なっている。単に社名を変更したのでは
ない。
   『那覇市史』では「一八八七(明治二十)ごろ尚家資本をバックに沖縄広運株式会社
を設立した。」「一九一六(大正五)広運会社もついに持株、事業いっさいを大阪商船に
譲渡した」とあるが、明治二十年ごろ設立されたのは広運会社であり沖縄広運株式会社
ではない。また、大正五年に大阪商船株式会社に譲渡されたのは沖縄広運株式会社で
ある。
   尚家資本及び関連の海運会社の史的経過について誤解があるので、簡略にその
経過を記してみたい。
   明治年十九年に尚家東京御邸で海運会社設立の協議がなされ、(『琉球新報』大正
六年九月二十四日二十二面「二十五年前の海運界」知花朝章氏談参照)翌二十年ごろ
より広運会社として活動を始める。明治三十二年には商法が施行され同年八月二十六
日にその商法に拠って八月二十八日に、広運株式会社として設立される。(『琉球新報』
明治三十九年一月一日」本県会社一覧」参照)そして広運株式会社は大正二年二月に
清算結了し法人格を失う。(『琉球新報』大正二年三月六日、広運株式会社清算結了広
告参照)。沖縄広運株式会社は広運株式会社の資産を買収するかたちで大正元年に設
立されるのである。(『琉球新報』大正二年四月二十六日、広運株式会社第一期営業報
告貸借対照表参照)
   広運会社、広運株式会社、沖縄広運株式会社共に尚家関連の海運会社であるが
明確に分ける必要がある。

(18) 『藍綬褒章資料』履歴書

(19) 宮嶋幹之助『地学雑誌』第十二輯第一四二巻、「沖縄県下無人嶋探険談」明治三
十二年

(20) 林野庁『鳥獣行政のあゆみ』昭和四十四年発行

(21) 『糸満市史』新聞集成(二四四ページ)

(22) 『琉球新報』明治三十九年一月一日付「本県会社一覧」

(23) 乙竹岩造『伝記御木本幸吉』講談社、昭和二十五年五月二十五日発行

(24) 『沖縄県史』第十六巻、新聞集成政治経済(二二九ページ)寄留商人案内(三)、傍
点を付した部分は、古賀辰次郎は古賀辰四郎の、大分県は福岡県の、尾滝円太郎は尾
滝延太郎の誤まりである。

(25) 『第五回内国勧業博覧会 受賞名鑑全』発行所受賞名鑑出版部によると大阪府
の部(四一八ページ)に貝釦各種、同(西区)長堀北通、古賀與助が、沖縄県の部(六二
三、六二四、六二八ページ)に鱶鰭(ふかひれ)・海参(いりこ=ほしなまこ)・真珠・貝穀各種、海
人草(かいにんそう=回虫駆除薬)、那覇区字西、古賀辰四郎の名前がある。
        (※ 青色文字のルビ説明は管理者)

(26) 沖縄県教育委員会文化課監修『沖縄の民俗資料』第一集、昭和四十九年十月一
日発行(三三二ページ)

(27) 『沖縄県史』別巻、沖縄近代史辞典「寄留商人」の項目(二一二ぺージ)では、寄
留商人を出身地別に鹿児島系、大阪系そして中間系と分け、古賀辰四郎を中間系として
いるが、寄留商人を出身地別に分けることはあまり意味がない。寄留商人を分ける場
合、内地のどこと結んで、どのような商業活動をしていたのかが重要であると考える。勿
論、出身地=内地と結んでいた場所、が多いと考えられるが、出身地が明確な寄留商人
は少ない。例を上げると中馬辰次郎の場合、明治期の代表的寄留商人とされているが、
にもかかわらず、出身地が不詳である。鹿児島汽船会社等に関係していたため、『沖縄
県史』では鹿児島とされているが、出身地が鹿児島でない可能性も考えられ、矛盾が生
ずる。

(28) 代表としてパリ万国博覧会の例を上げると、古賀辰四郎出品の真珠に対し、河北
道介『パリ万国博覧会・第五三類審査報告』では、「一、古賀氏ノ真珠、欧州ニテハ金剛
石ニ次グ高価ノモノナレドモ鯨髭卜同ジク欧州沿海国の出品ニ完全無欠ノ五分玉以上ノ
モノアルト、其出品ノ多類ナルトニ依リ是亦人目ヲヒク能ハザリキ」とある。欧州沿海国産
の真珠には及ばなかったが世界的水準の海産物を出品したことが銅メダルを受賞した 
事実で解る。   a Monsiour Tatsushiro koga a Naha 賞状には那覇の古賀辰四郎と記
されている。沖縄県人として、この万国博覧会に出品し受賞したのは古賀辰四郎一人で
ある。

(29) 『紅・緑・藍綬褒章名鑑』によると松田和三郎の藍褒褒章の下賜の主旨は次のと
おりである。
  「明治三十六年九月二十九日授与(四六六号)、資性剛直身ヲ技スル勤倹夙ニ郷党
ノ景慕スル所トナリ明治十二年以来公職ニ歴補シ尋テ間切長卜為リ積年ノ弊風ヲ矯正
シ甘藷ノ栽培砂糖ノ製造及ヒ鰹魚ノ浦獲ノ製法ヲ創始シ以テ島民ヲ啓誘シヌ蘇鉄ノ濫伐
ヲ憂ヒ之レカ栽植ヲ奨励シ以テ凶荒ニ偏ヘ其他学校基本金ノ増殖ヲ計ル等鞅掌多年諸
務整理民情安輯ス洵ニ公同ノ事務ニ勤勉シ労効顕著ナリトス」とある。(傍点引用者)

(30) 褒章条例第一条、藍綬褒章(明治二十七年一月四日〜昭和三十年改正以前)
「右学術技芸上ノ発明改良著述、教育衛生慈善防疫ノ事業、学校病院ノ建設、道路河渠
提防橋梁ノ修築、田野ノ墾開、森林ノ栽培、水産ノ繁殖、農商工業ノ発達ニ関シ公衆ノ利
益ヲ興シ成績著明ナル者叉ハ公同ノ事務ニ勤勉シ労効顕著ナル者賜フモノトス」(傍点
引用者)







古賀辰四郎年譜

※ 青色文字は管理人が加筆したもの
(安政三年)
一八五六 一月十八日、福岡県上妻(こうづま)郡山内村平民、古賀門次郎三男に生まれ
る。

(明治10年)
一八七七 二月、西南戦争起る。

(明治12年)
一八七九 二月、辰四郎、沖縄へ来島。
       四月、琉球藩を廃し沖縄県とす。
       五月、那覇に本店を置く。

(明治13年)
一八八〇 二月、八重山に海産物視察を為す。この年、大阪古賀商店設立?

(明治14年)
一八八一 九月二十九日付、福岡県上妻郡山内村平民古賀門次郎三男分家。

(明治15年)
一八八二 二月、八重山石垣島に支店を置く。

(明治16年)
一八八三 夜光貝の本格海外輸出始まる。

(明治17年)
一八八四 この年、初めて尖閣列島に人を派遣し探険せしめ、以来、年々労働者を
       派遣し海産物の採収を行う。

(明治20年)
一八八七 十二月二十六日付、京都府上京区福屋町、後藤外次姓よりトメを入籍す。
       この年、御木本幸吉と結んで琉球泡盛を名古屋に特約店をもうけて販売を
       始める。

(明治22年)
一八八九 二月、大日本帝国憲法発布。

(明治24年)
一八九一 十一月、大東島開拓を出願す。

(明治25年)
一八九二 二月、大東島開拓の心得書、命令書が下附される。
       三月、大束島探険を行う。

(明治26年)
一八九三 四月十九日、長男善次誕生。
       九月十五日、『琉球新報』創刊。

(明治27年)
一八九四 十二月、大束島開拓を断念し、出願を取り消す。
       この年、県に尖閣列島の開拓認可を請願するも、同島の所属が未定なりとの
       理由で却下された。この年の前後、大阪古賀商店、西区西長堀北通五丁目
       八番に移転す。

(明治28年)
一八九五 四月十七日、下関条約、日清講和条約および付属議定書調印。
       四月十九日、辰四郎本籍を大阪市西区より沖縄県那覇区字西九十六番地へ
移す。
       七月、第四回内国勧業博覧会、真珠、貝殻類、鱶鰭(ふかひれ、※ルビは管理者)
       海参(なまこ、※ルビは管理者)を出品、有効三等賞を受ける。
       この年、辰四郎自ら、尖閣列島探険を行う。更に尖閣列島開拓認可を内務、
農商務、
       両大臣宛に出願し傍ら、上京して視察の状況を具陳し許可を懇願すれども許
可を与えられず。

(明治29年)
一八九六 七月二十六日、長女志津誕生。
       九月、尖閣列島開拓認可を受ける。

(明治30年)
一八九七 二月、遠洋漁業改良船を大阪商船株式会社へ依頼し二艘を建造し遠洋漁業

       従事良好なる結果を得る。
       三月、連合共進会(長崎市)に海参を出品し二等褒章を受く。
       三月、初めて八重山より出稼ぎ移民三十五名を尖閣列島へ送る。
       十一月、第二回水産博覧会(神戸)に鼈甲(べっこう、)、鮫皮(さめかわ)
       海人草(かいにんそう)、貝類、真珠、鱶鰭(ふかひれ)、海参(いりこ=ほしなまこ)
         を出品し、有効一等、三等並びに褒状を受ける。   
          (※、青色のルビは管理者がつけたもの)

(明治31年)
一八九八 五月、辰四郎、自から移民五十名を引率し、島内に滞留する。 
       八月二十七日、長女志津死亡。この年、大阪商船株式会社と協商し同社所
有、
       汽船須磨丸(一六〇余t)を借入し尖閣列島に寄港せしめ、以来、汽船を持っ

       交通の便を謀る。

(明治32年)
一八九九 三月、連合共進会(鹿児島市)鱶鰭を出品し三等褒状を受ける。
       六月、商法施行。
       八月、広運株式会社設立。
       十月、沖純糖商同業組合登記完了。
       十一月、奈良原県知事に随行して南清各方面及香港に於ける海産物の状況

       視察(甥、尾滝延太郎同行)。

(明治33年)
一九〇〇 正月、古賀辰四郎、尾滝延太郎と共に在香港。
       三月、上京し東京帝国大学教授、箕作博士に面談す。
       五月、宮嶋幹之助、黒岩恒ら尖閣列島へ調査探険。
       同月、難破船備前丸救助(尖閣列島・釣魚島事務所)
       この年、パリ万国博覧会に真珠、貝殻類、海参を出品、銅メダルを受ける。

(明治34年)
一九〇一 正月、古賀辰四郎在京。
       五月、汽船仁寿丸(四六〇t)を借入し尖閣列島へ(沖縄県技師・熊倉工学士
同行)
       十月、汽船球陽丸沈没す。

(明治35年)
一九〇二 五月刳舟(※くりぶね※)難破漂着救助(尖閣列島・久場島事務所)

(明治36年)
一九〇三 十月二十二日、妻トメと協議離婚この年、辰四上京して製鳥の職人を十数名
得る。
       この年、第五回内国勧業博覧会、出品、受賞せり、出品真珠二点、
       皇太子殿下御買い上になる。又人類館事件起る。

(明治37年)
一九〇四 七月、広運株式会社取締役に当選就任す。
       この年、「アイサシ(アジサシ)」、「カワヲドリ(カツオドリ)」其他雑禽を剥製
       または羽毛として初めて、横浜、神戸の外商に売り込む。
       この年、米国セントルイス万国博覧会へ海産物を出品、金メダル一個、銅メダ
ル二個を受ける。

(明治38年)
一九〇五 一月、沖ノ神島借用認可を得る。
       七月、沖縄興業株式会社監査役に当選就任す。
       八月二十六日、岩手県二戸郡鳥海村大字西法寺十三番戸、播摩伊之松、長
女むらと再婚
       十二月、沖縄糖商同業組合評議員に当選就任す。
       この年初めて内地において鰹船三隻を建造し同列島へ、鰹節製造人
       数十名を宮崎県下より雇入れ、其業(鰹節製造)につかしめた。

(明治39年)
一九〇六 二月、『琉球新報』に無人島、出稼人及び事務員の募集広告が掲載さる
       (古賀商店という名称を自から用いる。)。
       三月、沖ノ神島開拓に着手する。
       七月、沖ノ神島へ球陽丸を特派す。
       十一月、台湾総督府の所有船三浦丸(一四五t)および附属試験場より
       樟苗三万本木を購入、三浦丸は辰島丸と改称す。
       十二月、辰島丸を木村運送店に客荷の取扱いを委任す。
       この年、更に鰹船五隻を新造す。

(明治40年)
一九〇七 三月、福岡鉱山監督署に尖閣列島における採掘出願書を提出。
       八月、大阪商船株式会社、内航部を新設。
       八月十九日付で採掘許可を得る。
       八月、沖ノ神島に汽船辰島丸を派遣。
       この年、関西九州一府十九県連合水産共進会(長崎)に尖閣列島及び県下

       於ける製造物を出品し一等賞牌一個、二等賞牌二個を受ける。又
       皇太子殿下買上げに対し功労銀杯を受く。

(明治41年)
一九〇八 二月、上京し農学博士恒藤規隆に商議し尖閣列島の鉱石の検査を依頼す。
       四月、島尻水産学校卒業生一名を同校教諭岩井某に尖閣列島への渡島を
依頼す。
       五月、恒藤博士、列島を探険す。同時に宮城、福島二県より七歳十一歳の貧

       十一名を丁年迄の契約にて雇入れ渡島せしむ。
       九月二十五日、広運株式会社の大阪沖縄間の航路を大阪商船株式会社内
航部にて代弁す。

(明治42年)
一九〇九 十一月二十二日、古賀辰四郎に藍綬褒章下賜さる。
       十二月三十一日、風月楼において県有力者、百数名を集め祝宴を催す。

(明治43年)
一九一〇 三月二日、『琉球新報』、砂糖相場欄に古賀商店の記載あり。
       三月二十二日、沖縄水産組合創立総会にて評議員となる。
       三月二十日、『琉球新報』に無人島(「ヨロン」)久場島)行
       四月三日球陽丸にて出発の記載有り。
       四月二十五日、『琉球新報』に尖閣列島(無人島)出稼人募集広告が掲載さ
れる。
       (辰四郎自身が初めて尖閣列島という名称を使用して広告したものである。)
       六月十六日、『沖縄毎日新開』に百合根買入広告、甘庶専用肥料、星印肥料
特約販売店
       及び出稼人募集広告が掲載される。
       七月中旬、この頃、辰島丸を改称三浦丸という名称が汽船発着広告に現わ
れる。
       十月十一日、古賀辰四郎所有船、三浦丸沈没す。
       十月二十七日、『琉球新報』に競売広告(沈没船三浦丸の船体)掲載される。
       この年、第十三回九州沖縄に県連合共進会(福岡)に海産物を出品。

(明治44年)
一九一一 一月、沖縄肥料株式会社、第九期営業報告に古賀辰四郎、監査役として記
載有り。
       二月十日、実弟光蔵八重山にて病死。
       四月二十五日、尚昌英国留学送別の園遊会に発起人として名前有り。

(明治45年・7月30日より大正元年)
一九一二 一月、沖縄肥料株式会社、第十期営業報告に監査役として記載有り。
       十二月、沖縄広運株式会社設立。 

(大正2年)
一九一三 二月、広運株式会社清算結了。
       四月、沖縄広運株式会社、第一期営業報告に取締役として、古賀辰四郎の
記載有り。

(大正3年)
一九一四 三月、大正博覧会に天然真珠を出品し銅牌を受ける。
       五月、沖縄広運株式会社、第三期営業報告に取締役として辰四郎の記載有
り。

(大正5年)
一九一六 一月二十九日、沖縄肥料株式会社 辰四郎、監査役を重任す。
     二月十日、大阪商船株式会社、内航部廃止。
     三月、沖縄広運株式会社、大阪商船株式会社に買収される。

(大正6年)
一九一七 五月二日、那覇区西本町大火。

(大正7年)
一九一八 一月、沖縄肥料株式会社、第十六期営業報告に辰四郎、監査役として記載
有り。
       四月十五日、古賀支店では峰岸支配人の監督下で栄螺の貝殻で釦を製造し
ていた。
       八月、古賀辰四郎死亡。

 この年譜は、『藍綬褒章資料』・『琉球新報』・『沖縄毎日新聞』を参考にして独自に作成
した。





   表@ 夜光貝殻海外輸出推移表
数 量 (斤)
価 格 (yen)
明治16年
119,518
 2,684円40銭
  〃17〃
181,120
6,785円20銭
 〃18〃
357,188
 14,63円40銭
 〃19〃
271,347
12,950円40銭
 〃20〃
 184,798
 8,753円08銭
 〃21〃
243,782
 12,414円00銭
 〃22〃
 283,328
 20,235円25銭
 〃23〃
 207,651
 14,571円42銭
 〃24〃
 127,953
12,860円03銭
 〃25〃
 151,093
 12,528円24銭
 〃26〃
 54,053
 6,805円92銭
 〃27〃
97,705
10,191円64銭
 〃28〃
 17,867
 2,272円60銭
 〃29〃
 25,863
3,039円50銭
 〃30〃
21,531
3,080円81銭
(この表は『大日本外国貿易年表』を参考に作成した。)




  表A 明治17年,夜光貝殻国別輸出表
数 量(斤)
価 格(yen)
UNITED
STATES
104,534
3,476円80銭
FRANCE
22,135
855 円80銭
CHINA
6,978
217 円00銭
GREAT
BRITAIN
34,237
1,518円60銭
GERMANY
13,236
717円00銭
(この表は『大日本外国貿易年表』を参考に作成した。)
  −以上19頁−




  大阪古賀商店 営業品目一覧表

資料番号 
年月日 
 所 在 地
営業主名
営業品目及び営業形態 
@、明治二十六年七
月※1 
西区立売堀南通五丁目十二
番屋敷 
古賀国太郎
荷受問屋 
A、明治二十八年※2 西区長堀北通五丁目
古賀国太郎
各種貝類貿易商  
DEALLER IN ALL KiNDS OF 
SHELLS, YAKOCHO AWABI, 
TAKASE,ETC 
B、明治二十九年   同右 同右
C、明治三十四年十
二月
西区西長堀北通五丁目
古賀与助
真珠貝商
D、明治三十五年十
月 
西区西長堀北通五丁目八、玉
造橋北詰
 (電話西二四 二)
古賀与助 
海陸物産問屋兼貿易商
E、明治三十八年四
(西二四二) 
西区西長堀北通五丁目
古賀与助
真珠商 
F、明治四十年、十二
同右  同右 
G、大正十年三月 電話新町二四二 
古賀与助  
貝釦原料、髄甲、琉球物産商 
H、大正十年  西・西長堀北通五、話二四二 ※3、振大七六五
古賀与助
高瀬貝、広瀬貝、玉貝、黒蝶貝、 夜光貝、福貝、渋貝(亀白黒)、其 他雑貝、海人草、鼈甲、(以上主 トシテ沖縄産ノモノ)卸小、代理、 仲立 
I、大正十二年 同右 玉貝、高瀬貝、広瀬貝、蝶貝、夜 光貝、法螺貝、渋貝、福貝、海人 草、卸代理 
J、大正十三年 同右 貝穀、高瀬貝、広瀬貝、玉貝、蝶 貝、夜光貝、法螺貝、渋貝、福 貝、海人草、卸
K、大正十  同右 海産物、貝殻、高瀬貝、広瀬貝、 蝶月、夜光貝、玉貝、法螺貝、渋 貝、福貝、海人草、仲立・卸  
※1※2は広告@とA参照
※3は電話番号、新町二四二の略
※4は振替口座番の略記であると思われる。
  −以上20頁−



















































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